When we accept Christ, we open ourselves to be filled with God’s power and guidance. 2 Corinthians 5:17 says that […]
信仰を生きる
こんにちは!今日は信仰について私の経験を交えて少し話したいと思います。 信仰とは何?って思っているかもしれません。 信仰とは、『信』信じる 『仰』口に出して言う まさに、信じていることを口に出して言うことです。なので、ただ頭の中で考えるのではなくて、口で言わないと信仰は始まらないんです。 また、信仰は私たちの思いや、考えをはるかに超えているからです。 イザヤ書55:8-9 「わたしの計画はあなたがたの考える計画とは違い、 わたしの思いはあなたがたの思いと同じではない。 天が地より高いように、 わたしの道はあなたがたの道より高く、 わたしの思いはあなたがたの思いより高い。」 ここで言う「わたしの計画」とは、神様の計画です。たまに私たちクリスチャンが信じていることを他の友達や、家族に言うと「何言ってんの?」「その話はすじが通ってないね」とか言われるかもしれません。それもそのはずです。なぜなら、神様の計画や思いは私たちの思いより高いからです。不思議に思われるかもしれませんが、それは真実です。人が物事を行う方法は、神様のやり方とは違うんです。 私は、夫と3年あまりブラジルに住んだことがあります。出張や旅行で行ったわけではなく、神様に「ブラジルで私の言葉を学びなさい」と言われ、行きました。結婚3ヶ月で、貯金も全然ありませんでした。最初の家賃を払うのも一苦労だったのに、どうなるか心配が頭によぎりました。しかし、私たちは「神様は備えのある神様です。私たちに不足は一切ありません。」といつも宣言していました。銀行にはもちろん、財布の中には何もありませんでした。 ある時、神様はこう言われました。「冷蔵庫を掃除して、冷蔵庫を見ながら、食べ物の名前を呼んで買い物をしなさい。」これを読んでいるあなたは「は?」と思ったと思います。私もその時は思いました。(笑) 言われた通り、掃除をして、ピカピカの冷蔵庫に向かって夫と食べ物の名前を呼びました。「肉よこい!果物あれ!」隣に住んでいた人は不思議そうに私たちを見て何をしているか聞きました。私たちは「買い物しているんだよー」と笑いながら言いました。その人は、多分「頭狂ってるわー」と思ったでしょう。しかし、私たちは、神様の言うことの信仰を置き、自分の口で言いました。もちろん冷蔵庫は空っぽでしたが、言い続けました。 それを終えて10分後、ある友人が大きな箱を2つ抱えて家に来ました。その中には私たちが呼んだ食べ物が入っていました。ピカピカの冷蔵庫が食べ物でいっぱいになりました。 どうしてこのことが起きたのでしょうか。私たちが助けを求めて電話したわけではありません。私たちが信じていることを口に出した時、信仰が働いたのです。周りの人からは変だと思われても、神様の思いは超越しています。 そして信仰を持って話す時、それはその通りになります。 マルコによる福音書 11:22-24 […]
What is so amazing about the grace of God part 2
I will start by saying something that might shock you: It is impossible for man to live a life without […]
クリスチャンの性格って何?
最近、私は多くのクリスチャンに対して懸念していることがあります。信者として私たちはこの世と合わせてはいけないと聖書から教えられていますが、結局、私たちはこの世の人たちと同じような行動を取っているのではないかと、私は考えています。特に自分と違う性格の人と接する時、私たちは神様の愛を表すことができているのか、それとも愛の不足を正当化し、そういう人たちを避けているのかを一緒に考えたいです。 この世の人は神様の愛を知らないので、自分の性格と違う人だと、その人とかかわることを避けるのは普通ですが、クリスチャンの間ではどうでしょうか。 まず、正しくて聖い性格というのは存在しているでしょうか。クリスチャンの間でよく勘違いされているのは、おとなしくていつも丁寧な言葉を言う人はとても謙虚な人に見えることです。しかし本当にそうなのでしょうか。しつこく質問して申し訳ないのですが、一緒に聖書をもって考えたいと思うので改めて聞きたいと思います。理想的な性格というのはあるでしょうか。聖書的でしょうか。それを聞いている理由は、教会の中で理想な性格の人が求められていて、その理想に合わない人は肉的と決め付けられることがあると思い始めたからです。理想な性格の条件は誰によって決められるでしょうか。 自分が苦手な性格の人を避けるのは、健全ではないと思いますし、聖書で教える愛と違います。確かに違う人と関わると面倒なことがあります。それに相手とぶつかり合うことは不可避です。なので、聖書を見ると、神様はわざと性格が異なる人をそれぞれ造ったのではないかと思います。 箴 27:17 鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。 その聖書箇所を見るとわかるように、友だちは欠かせないものです。相手とかかわることによって成長ができ、自分の弱さが現れ、どこを改善するべきか分かります。良い刀のように、人間関係をもって自分の性格も研がれるということです。例えば、調理人はいい料理を作るためによく自分のナイフを研いでいます。それはよく研がれたナイフの方が効率よく料理を作ることができるからです。同じように神様も私たちが御国のために素晴らしい結果をもたらすために、私たちに人間関係を与えてくださいました。しかし、与えてくださった人はいつも私たちと同じ考え方や性格を持つ人だとは限られません。むしろ、自分にない能力を発展させるために、おそらく自分と違う能力を持つ人をあなたの人生に置かれるでしょう。最初はとても不快ですが、本当に成長したいなら受け入れるしかありません。 現在、パンデミックに直面している教会はとても素敵な働きをしていると思います。様々な方法で信者がみことばで養われるようにインターネットや技術を利用しオンライン活動しています。私の教会もそうしています。ところが、クリスチャンはいつもステイホームで、他の信者といっさいかかわらないことは懸念されることです。まず、人間は誰かと交流するために造られました。それから、成長するには、兄弟姉妹との交わりが大切です。しかしながら、パンデミックが起きる前も、他の人とかかわりたくないと、教会を避けていたクリスチャンもいました。それはとても危険な決断です。なぜなら、聖書にそれを裏付ける教えもないし、遠ざける羊は羊飼いから守られていないからです。 イエスキリスト自身は私たちの性格の模範です。しかし、イエスキリストさえ自分と同じ考え、行動をする人たちを選ぶどころか、全く異なる性格の人たちを集め、自分自身の弟子にしました。声が小さく、丁寧な言葉を使う人が最も霊的な人格だと勘違いしてはいけません。選ばれた12人の弟子たちを見ると、おそらく私であったら、イエスキリストは本当に自分の使徒を正しく選んだのかと疑っていたと思います。ペテロを見れば分かりますが、ペテロが一番行動力があった人にもかかわらず、言うことは極端的で愚かな場合が多かったです。多分弟子たちの中で最も感情を表した人だと考えられます。そして、クリスチャンがよく感動するヨハネはもっと酷かったと思いませんか。みことばを受け入れていない村の人たちに天から火を下し村を焼き滅びるように願っていました。しかも、弟子たちの間で、誰が一番偉いとかの話がいつも争論の原因になったりして、イエスキリストは12人の弟子たちを選んだ時に、何を考えていたのかと思われませんか。では、どうして教会の中で私たちは自分と違う性格を持つ人と認めないのですか。もしかして私たちの性格は彼らより清くて偉いものですか。 新約聖書の英雄である使徒パウロの性格も興味深いです。使徒の働きや手紙などを読むと、パウロと一緒に歩むことは簡単ではなかったことが分かるでしょう。挑戦があるばかりだけでなく、パウロの性格そのものは対応しやすいものではなかったと思います。リーダーとしていつも何でもはっきり言い、行動を求め期待する性格だったし、誰よりも努力していたので、パウロの隣にいるとどういう気持ちだったのだろうかと想像します。 聖書に出てくるのはみな人間です。神様はそれぞれ異なる性格で造り、神の目的を果たすために任命しました。それは私たちが兄弟姉妹と一緒にいるときは一人よりも強いからです。みなそれぞれが異なる能力を持ち、教会の徳を高めます。私は私と違う人を受け入れるのは神様が私を受け入れたように相手を愛することだと思います。もし、ただ相手は私と違ってその人を愛さないなら神様を愛していないことと同じです。 1ヨハ 4:20 もし、「私は神を愛しています」と言いながら、兄弟であるクリスチャンを憎み続ける人がいれば、その人はうそつきです。目の前の兄弟を愛せない人が、どうして、見たこともない神を愛せるでしょう。 わざと神様が異なる性格を造ったことを確信しています。その人たちとかかわることによって自分自身が成長するだけでなく、自分のまだ未熟な能力を発展させ、人生の目的を果たすことができます。一人より多くの人と一緒になった方がもっと遠くへ行き、効果的な働きができ、影響を与えます。苦手な性格の人を避けているなら、自分に神の祝福が現れることを阻んでいる可能性が高いです。神様が私たちにくださった出会いを受け止めていきましょう。
Pentecost Changed Everything
Shortly before Pentecost Sunday, a pastor friend texted me and asked my thoughts on how the original disciples had been […]
ペンテコステは全てのことを変えた
ペンテコステの日曜日の少し前に、牧師の友人が私にテキストメッセージが送れられてきて、使徒行伝の第二章で弟子たちに起こったことで彼らがどのように変わったかについて私の考えを尋ねました。つまり、聖霊に満たされるという重大な出来事の前後で、彼らはどうだったかという質問でした。 私がすぐに考えたのは、元の12人の中で最も衝動的で率直であるペテロのことでした。彼はいつも自分の意見を述べた最初の人であり、ボートから降りてイエスと一緒に水の中を歩こうとした最初の人でした。イエスが捕らえられた夜、彼が主と知り合いであることを3回否定したとき、彼の人間の強さの限界がわかります。聖書に記載されていることは、ペテロの強さと感情の深さを明らかにしています。 マタイ26:74-75 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。 75ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。 ルカの記述では、ペテロが3回目に否定した時のまさにその瞬間に起こったことの重要な詳細を言い足しています。 ルカの福音書 22:61-62 「その瞬間、イエスはふり向き、ペテロを見つめました。ペテロは、はっと我に返りました。「明日の朝、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言うでしょう」と言われたイエスのことばを思い出したのです。 ペテロは外へ走り出て、泣きくずれました。 私たちの多くは、イエスがどのようにペテロを美しく回復させ、主の羊を養うという召しを再確認したかという話をよく知っています(ヨハネ21:15-19)。そして、ペンテコステの日に、ペテロはグループの代表者として立ち上がり、イエス・キリストの死、埋葬、そして復活を大胆に宣言しました。その日、三千人の魂がその言葉を受け取り、神の家族に連れて来られました。ペテロの人生に違いをもたらしたのは、聖霊が彼に臨んだ後に彼が力を受けたとだという事を理解することができます。(使徒1:8) しかし、ペンテコステにはさらに多くの事がある ペテロに変化をもたらしたことが重要だったのと同じくらい、弟子たちの「ペンテコステの前」と「ペンテコステの後」の全体的なイメージは、はるかに変わりました。聖霊の力はペンテコステの日に来たのではなく、個々の説教者が力をもって説教できるようにするためでした!それは、はるかに大きなイメージがあり、それはすべての信者を含みます。 ペンテコステ以前は、弟子たちは団結することに本当に苦労していました。弟子たちはしばしば、身勝手で自己主張が強かったからです。 3つの異なる機会に、イエスが弟子たちを注意しなければならなかったのは、彼らのうちで誰が最高かを言い争っており、そのうちの1人が最後の晩餐で起こったからです。復活の直後、ヨハネは自分がペテロよりも足が速いことを指摘し、ペテロよりも先に墓に到着しました。(ヨハネの福音書20:3-8) ペンテコステ以前は、弟子たちは肉欲的なエネルギーを持っており、しばしば間違ったように使われていました。 ペテロはゲッセマネの園で男の耳を切り落としました。 ヤコブとヨハネは彼らを迎えてくれなかった村に火をつけたいと思いました。また、 彼らはイエスを見たいと思っていた幼い子供たちから逃げようとしました。そしてヨハネは他の誰かがイエスの名前を使って人々を傷ついた人に仕えるために使わないように要求しました。なぜならその個人は彼のグループの一部ではなかったからです。 これらの表現はすべて肉欲的であり、イエスはそれらを注意して正しました。 […]
本当の自分を知る事
クリスチャンの中には救いを頭だけで理解し、そこでストップしてしまっている人がいます。神様が計画している道を知らずに、また果たしてほしいことを知らないままクリスチャン人生を生きている人達が多いです。 もっと神様が私達に行ってくれたことを知る必要性があります。 神の御心を知らないため、多くのクリスチャンは苦しみ、病気、貧困の人生を過ごしています。 神様の御言葉の聖書箇所はこのように書かれています。 ホセア4:6 わたしの民は知識がないために滅ぼされる。あなたは知識を捨てたゆえに、わたしもあなたを捨てて、わたしの祭司としない。あなたはあなたの神の律法を忘れたゆえに、わたしもまたあなたの子らを忘れる。 聖書の原点を一緒に見てみましょう。 神様はこの世界を造った人です。私達一人一人を造りました。 神様は私達を造ったとき、彼の命を私達に与えました。私達は神の命があります。 私達は神様に似せて造られたので、神様は私達の天のお父さんです。 神様には性質があり、私達が造られたときに、神様と同じの性質を私達に与えました。なので、神様のDNAを持って造られました。 神様は人を造った後に、人に任務を与えました。それはこの地の管理を託すことでした。 創世記2:15 神は、人をエデンの園の番人にし、その管理を任せました。 神様は人を祝福し、園にあるすべての果物を与えました。しかし、たった1つだけ人に掟を与えました。 その掟は聖書箇所に書かれています。 創世記 2:16-17 ただし、一つだけきびしい注意がありました。「園の果物はどれでも食べてよい。だが、『良心の木』の実だけは絶対に食べてはいけない。それを食べると、正しいことと間違ったこと、良いことと悪いことについて、自分勝手な判断を下すようになるからだ。それを食べたら、あなたは必ず死ぬ。」 多くの人は、なぜ神様は良心の木を園の中に置いたのかと疑問があると思います。 […]
働け!余裕がないから
初めて日本に来た時、私の目を引いたことがあります。それは、ある夜、寮を出て少し散歩していると、あるビルの前にスペースがあり、そこで一人の男子がダンスの練習を一生懸命していたことです。初めて日本の冬を体験した私は、とても寒い夜だったにもかかわらず、あの大学生が一生懸命、何のためにかは分からないが、ダンスの練習している姿を見て、「やはり日本は武士道の国だ」と勝手に思いました。笑われると思いますが、私の母国では、寒いのに外でダンスのために努力する人を、おそらく見ることがないと思います。なので、あの光景が目に焼き付き、日本人は実に働き者だと実感しました。 教会の中でも自発的な人がいます。その人を優秀だと思います。本当は、受動的な人より、積極的な人が成長し、様々なことを達成できます。しかし、受動的な人は、神様を待ち望んでいることを常に主張し、何もせずに永遠に待ってしまい、結局、何も実現しない傾向が高いと思います。その一方で、積極的な人は教会の成長にかなり貢献します。そういう人はたくさん奉仕し、様々なグループに参加し、教会に素晴らしい影響を与えます。ところが、教会の奉仕は素晴らしくても、夢中になると奉仕の肝心な点を忘れ、それから離れてしまう可能性もあります。 牧師などといった五つの奉仕職の中で奉仕している人でも、自分の務めのみに焦点を当て、初心忘るべからず努力しているつもりでも、結局、毎日のやるべき事で忙しくなり神様との関係すらきちんと保てなくなると考えられます。さらに、自分の奉仕の重要さを主張し、説教などのためによく聖書を勉強したり他の人のためによく祈ったりしますが、神様との関係が最善するどころか、悪化してしまうこともあります。残念なことに、その理由で離婚する牧師などもいます。なぜかというと、彼らはプロフェッショナルな牧師になってしまい、神様に求められている息子としての関係を忘れてしまったからです。 イエスキリストが弟子たちを召した例を考えてみると、まず「召し」という言葉を聞いて頭に浮かぶのは、おそらく弟子たちがイエスの名で群衆を癒したり、悪霊を追い出したりすることだと思います。しかしながら、イエスキリストが弟子たちに一番最初に願っていたことは何か分かりますか。 マコ 3:14-15 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 弟子たちの最も大事な務めはイエスキリストの身近にいることでした。私たちはミニストリーのプロフェショナルになるために召されたのではありません。むしろ、まずイエスキリストと親しい関係を持つためです。聖書は誰かに語るためばかりに読まれるのではなく、神様のみこころ、そして、神様自身を知るために読まれるべきです。祈ることは、奉仕のためにもっと油注ぎを求めるものではなく、神様を愛しているからこそ神様との時間を費やすものです。 よく教会の中でポテンシャルのある人が見ますが、彼らは活動にばかり目を向けているため、奉仕がなくなると自分のアイデンティティがなくなるようです。なので、何をするか混乱してしまい、極端な場合には教会を離れることもあります。他の人は、福音のためにやっていることですが、働きすぎて常に疲れてばかりで二度と教会に行きたくなくなります。それらは全て残念なことです。 イエスキリスト自身はそういう場面で注意したことがあります。 ルカ 10:38-42 エルサレムへの旅の途中で、イエスはある村に立ち寄られました。マルタという女が、喜んで一行を家に迎えました。マルタにはマリヤという妹がいました。マリヤはイエスのそばに座り込んで、その話にじっと聞き入っていました。一方マルタはというと、てんてこ舞いの忙しさで、「どんなおもてなしをしようかしら。あれがいいかしら、それとも……」と、気が落ち着きません。とうとう彼女は、イエスのところへ来て、文句を言いました。「先生。私が目が回るほど忙しい思いをしているのに、妹ときたら、何もしないで座っているだけなんです。少しは手伝いをするように、おっしゃってください。」しかし主は、マルタに言われました。「マルタ。あなたは、あまりにも多くのことに気を遣いすぎているようです。でも、どうしても必要なことはただ一つだけです。マリヤはそれを見つけたのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 時に、私は礼拝でメッセージしている時、あるいは、個人的に誰かに相談している時に、マルタのように落ち着かない人と会います。こちらは一生懸命、聖書をもって神様のみこころを表そうとしていますが、相手は奉仕や活動のことで頭が忙しく、神様の声を聞く余裕がありません。しかしながら、神様は一番望んでいるのは、その人と交わることです。私たちが理解しなければならないのは、教会もミニストリーも全て神様のものなので、私たちはただ協力者として働いているだけです。私たちのアイデンティティは神様のためにする活動や奉仕になく、私たちのアイデンティティは神様の子供ということです。 最後に、奉仕などをそっちのけにして良いとは言っていません。もちろん、その活動はキリストの体に大切なことです。しかし、神様が語る時に、100%その語った場にいてください。体はそこにおり、心は次の仕事ばかりに向けてはなりません。弟子たちのように、まずイエスキリストの身近にいてください。それから、心を尽くして奉仕してください。私たちは主の御前で落ち着くことを学ぶ必要があります。仕事と神様との関係のバランスをよく取ることによって健全で成長ができるからです。
妬みはどこから来るのか
「妬み」という漢字は「女へん」に「石」と書きます。これを見るときに私は「えっ?」って少しなるのですが、もしかしたらこの漢字を考えたのは男の人かもしれません。(笑) 冗談はさておき、今日は妬みや嫉妬について聖書はどういっているか、少し学んでいきたいと思います。 聖書で書かれている人物が皆、素晴らしく、優秀で妬みや争いがなかったかというと、決してそうではありません。聖書でもバチバチした妬みや嫉妬はありました。 では、「妬み」とは何なのでしょうか。人は知らないうちに妬んでいて、それが何かを深く考えることをしていないと思います。 「妬み」という感情は、自分と誰かを比較する事から起こり、「あの人はできるのに、自分はできない」、「あの人は持っているけど自分は持っていない」「あの人はしてもらっているのに自分はしてもらえない」このように、他人と比較することによって、妬みの感情がわいてきます。 まず、妬みとは「他の人の成功などを自分の事の様に喜べない心」です。聖書では他の人が成功したとき、ローマ12:15 「だれかが幸せで喜んでいる時には、いっしょに喜んであげなさい。悲しんでいる人がいたら、いっしょに悲しんであげなさい。」と言っています。残念ながら、時に人は一緒に喜ぶより、一緒に悲しむことの方が簡単なことがあります。一緒に喜ぶ時、自分の事の様に喜ぶとき、本当の愛がそこにあります。「あの人は成功しているのに、私は何で?」と思うとき、「いっしょに喜ぶことの出来ない心」になってしまっています。 また、妬みは憧れや尊敬とは全く違うものです。憧れや尊敬は相手の素晴らしさを認め、称賛することです。「自分もあの人のように頑張らないと」と思わせる心です。しかし妬みは「その物自体を欲しがるばかりでなく、相手がそれを持っていなければいいのにと思う心」です。なので、その人を困らせるために奪ったり、壊したりします。人間関係の拗れによる殺人事件が多いのもそのせいです。 ある人達は「愛してるから妬んでしまう」や「愛情の一部」などと言いますが、上で言った妬みは決して愛情表現ではなく、自信や信頼が欠けることによるものです。「私は無力なのか」「必要とされていないのか」そういった不安に駆られる時、自分を見て欲しいが為に妬んで注意を引こうとします。 例えば、子供がいて1人の間は親からの愛情をたっぷりもらいますが、弟か妹ができて、両親がその子の世話で忙しくなると、上の子は急に甘え出したり、自分も見て欲しいから注意をひこうとします。それは「兄弟ができたから自分はもう可愛がってもらえないんじゃないか」という不安から来るものです。 聖書にも妬みの例があります。サウル王の話です。サウルがかわいがっていたダビデは次々と戦争で大勝利を収め、ある時、戦場から帰って来た時、民はサウルとダビデを褒め称えて迎えます。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と。 この言葉を聞いた時、今までの愛やすごいと思っていた気持ちが一瞬にして妬みに変わってしまいました。「その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった」と聖書に書かれています。これがきっかけとなり、やがてサウルはダビデに対して殺意を抱き、実際に殺そうとします。 それは、サウルが劣等感を持ち始めたことや、今まで自分を信頼していた民はダビデを信じて、ダビデに取られてしまうのではないかという証拠のない勝手な不安から来るものでした。 どうでしょうか。サウルとダビデの状況に陥った時、どんな行動やどんな気持ちを持つでしょうか。しかし、聖書は私たちの人生のマニュアル本なので、どのように打ち勝っていくか、どうすればいいか教えてくれます。 では、何が正しい妬みの解決方法でしょうか。聖書は何と言っていますか。このコリント13章では「愛は人を妬みません」と語り掛けています。神から来る本当の愛があるならば、人は次第に妬まなくなります。神から来る愛は、見返りのない偽りのない愛で、いつも相手にベストを求め、与える愛です。反対に、人間の愛は限界があり、もっと欲しい、与えて欲しいという吸い取る愛です。 神様の愛こそが妬みを克服するのです。愛の支配は、妬みの侵入を護ります。神様の愛を受け取り、その愛で人を愛そうとすることが、妬みに対しての最高のバリアです。 神様の愛は海の水のようにかれることがありません。そこから必要な愛を受け取りましょう。
What is so amazing about the Grace of God?
There is a famous Christian hymn, written by John Newton, called “Amazing Grace”. In the beginning, it says: “Amazing grace […]