神様が愛する人に準備してくれたもの

1コリ 2:9

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」

あなたの好きな聖書箇所は何でしょうか。多くの人は第一コリント2章9節が好きだと答えるかもしれません。その聖書箇所をもって作曲された賛美もたくさんあります。私がニュークリスチャンの頃、それをよく聞き、「素晴らしいな」と思って、神様は偉大な方と実感していました。素晴らしいと思いませんか。神様は愛する人のためになんて素敵なことを準備してくれたのでしょうか。神様は偉大で完全に良いお方なので、私たちのために備えてくれたことは必ず最高なものと確信しています。

ところが、その聖書箇所には問題があります。決して聖書箇所自体が間違っているわけではなく、多くの信者は9節ばかりを引用し、その前後の箇所で言っていることを注意していないからです。もちろん、このブログでは第一コリント2章全体、そして、第一コリントの背景について全ては語り切れません。2章だけでも大切なことがたくさんあり、それについて本を書くこともできると思います。しかし、今回は9節をもってあることを気づいてほしいと思います。

第一コリント2章7,8節によると、隠された奥義や神の知恵などが語られてます。正直にいうと、多くの人はそれを理解しないため、その部分を無視してしまっているのだと思います。しかし、今回は9節をさらに深く理解するために第一コリント2章全体を読むことを強くお薦めします。

1コリ 2:7-8

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

その聖書箇所に出てくる「支配者」は悪魔と悪霊のことを指しています。もし、彼らがイエスキリストの死と復活の結果を知っていれば、イエスキリストを十字架にかけていなかったはずです。なぜなら、主イエスのいけにえのおかげで、今イエスキリストだけでなく、生まれ変わりを通してイエスキリストを信じる人も同じ聖霊を宿るようになり、聖霊の宿る宮になったからです。

要するに、悪魔は以前イエスキリストだけと立ち向かおうとしていましたが、今はキリストにあって数えきれない程の多くの生まれ変わった人たちと立ち向かわなければならなくなったということです。サタンはどれほど後悔しているでしょう。

使徒パウロが言った「隠された奥義」というのは教会のことです。誰もキリストの体である教会が現れることを予想していませんでした。旧約聖書の中で、教会のことについてのはっきりした預言もありませんでした。預言者たちにとっても奥義でした。神様はわざと誰にも自分があらかじめ定めたものを教えていませんでした。それは誰も神様の計画を妨害することがないためでした。神様はご自身と同じ性質を持ち、聖霊が宿る新しい人間を造ったということです。表面的に見ると、クリスチャンはこの世の人たちと変わりがないように見えますが、内面的に見れば大きな変化が起こりました。その人たちの性質が変わっただけではなく、イエスキリストと同様に聖霊の力も宿るようになりました。

では、今、とても深くて啓示のあることをお教えしたいと思います。9節の次に10節が来ることを知っていましたか。別にあなたをからかっているつもりはありませんが、多くのクリスチャンは9節ばかりに焦点を当て、感情的になり、その次に来る10節が見えなくなっています。

1コリ 2:10

神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

ゆっくり読みましたか。9節に語られている、神様が私たちのために準備してくれたことは、聖霊によって私たちに啓示されたと10節に書いてあります。「啓示された」が過去形であることに注意してほしいです。つまり、これから啓示されるのではなく、御霊によって既に啓示されたとパウロは教えています。これは本当に素晴らしいことだと思います。様々な人はまだ啓示されると思っていますが、私たちには実際に悟らせています。なぜそれは大切なのかというと、私たちは聖霊の交わりを通して神様を深く知ることができるのに、9節ばかりに焦点を当てているばかり、10節に教えられている神様との深い関係を無視してしまっています。”御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです”。私たちは御霊によって神様の奥義を啓示されています。

もし第一コリント2章10節から読めばどれほど深くて強い交わりを私たちは神様とできるかが分かるでしょう。

1コリ 2:11-12

いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。

神様が教会のために準備してくださったことは言葉で表現できない程素晴らしいので、それらを楽しまないと非常にもったいないです。残念なことに、多くのクリスチャンは神から準備されたものは天国に行く時、楽しめると思ってしまい、この地上では神様の計画を知ることができない、また、聖霊によって導かれることは難しいとかを考えています。しかしながら、第一コリント2章を読むと、聖霊を受け、生まれ変わった私たちは今、神様が私たちのために備えてくださったことを知ることができ、それらを持つこともできるとパウロが訴えています。

また、パウロは三つの人の種類について教えました。

1.生まれながらの人(Iコリ2:14)

2.御霊を受けた人 (Iコリ2:15)

3.キリストにある幼子 (Iコリ3:1)

簡単に言うと、一番目の種類の人だけがイエスキリストを受けていないので、神様の知恵と隠された奥義を知ることができません。ところが、後の2つの人はイエスキリストを受け、生まれ変わった人たちのことですが、違いが一つあります。それは、

キリストにある幼子というのは、御霊を受け、御霊によって神様の深みを知ることができることを意識しておらず、この世の人のように生きようとしているので、霊的に成長していない人のことです。なので、結局、霊においてではなく、肉体において生活しています。

最後にもう一度言いたいのは、第一コリント9節だけを読んでソコで止めないでくださいということです。10節などもあるので、読み続けてください。そこに神様があなたに準備してくれているものはあなたが考えているよりはるかに超えていて、この地上で楽しめることを書いてあります。

しかし、それらは何なのか理解するために、御霊と交わる必要があります。御霊によって私たちは神様のみこころや深みを探ることができ、私たちの人生の目的を完全に成し遂げることができます。なので、御霊との交わりは不可欠なもので、それを大切にしなければなりません。