詩篇37:5 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。」 日々の生活の中で何かを決断する時、つい自分の事を中心に考え、神様の事を後ろにしてしまうことはありませんか? 今回は私がクリスチャンになったばかりの頃の証をしたいと思います。 その頃私がいた会社での仕事は、プロパンガスを使っている家のドアを叩いて、半ば強引に自社のプロパンガスに替えさせる営業でした。入社時から35万円の給料がもらえますが、月に15件のノルマを達成しないと退職に追い込まれるような所でした。毎日朝6時に家を出て、夜中の12時に家に着く毎日でした。 同じ時期、私と妻は長野県にあるブラジル人中心の教会に通っていました。その頃の私は礼拝での献金や1/10献金、教会への協力金について同意しませんでした。毎週の神奈川県から長野県の行き帰りの経費は安くはなく、いつも経済的な心配ばかりしていました。妻は私とは正反対で、礼拝の時は私の分まで献金をする程、神様に心が開かれていました。そんな時、1/10献金を勧められましたが、「35万円の給料の1/10は3万5千円、それだけあれば色々買える。教会に献金するのはもったいない。」と心固くしていました。 会社に入社して1ヶ月目、話術がないこともあって、結局3件ぐらいしか契約が取れず、このままでは辞めないといけない状況になりました。そこで私は神様に解決を求め、そして自分の方からも神様に捧げる事を始めようと思い立ち、1/10献金をその月から始めました。 献金してから1,2週間後の休日、家にいるとふと「1人で営業に出てみようか。」と思い、車で出かけ、何となく止まった所で訪問営業しました。するとなんと、すぐに契約が取れました。その後、その周りや、私が回る所どこでも契約が次々と取れるようになりました。結果、2ヶ月目は15件以上の契約が取れ、会社の中でトップの成績になりました。決して話術があった訳ではなかったので、会社の先輩も私に「やはりあなたには神様がいるね。」と言いました。私は日々の必要は自分の力によってではなく、全て神様から来ているとその時はっきり理解し、それからは進んで礼拝の献金、1/10献金をするようになりました。 ところが3か月目から会社がもっと業績が上がる為に、日曜日にまで営業に出るように言われました。それでは教会に全く行けなくなるので、私は会社を辞める決心をしました。上司は引き止めましたが、迷いませんでした。 実際、無職になりましたが、その時は不思議と平安がありました。神様が別のよい仕事をあたえてくださると信じて疑いませんでした。土日は教会に行けて、平日の夜も教会の奉仕が出来る良い条件の仕事を神様に祈り願い、しばらくして条件通りの仕事が与えられました。 その仕事をしながら生活は支えられ、教会の奉仕も今まで以上に出来るようになりました。 それだけでなく、職場では沢山の日本人がイエス様を受けました。ハレルヤ! マタイ6:33 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」 私と同じ事を皆さんもやるように言っているのではありません。皆さん1人1人には色んな生活の状況があります。ただ私達が忘れてはいけないのは、神様は私達の心の優先順位をいつも見ておられる事です。あなたの人生の中でどんな時も神様を、そして神の国の事を1番にする態度を神様は望んでおられます。そしてまず第一に求め、信じるべきは自分の力ではなく神様の御言葉です!聖書の御言葉に全ての解決があります。その御言葉への信仰に固く立って下さい。御言葉を信じきり、従って下さい。そうすればあなたの人生に素晴らしい事を見ることが出来ます。イエス様を受け入れたあなたの人生の繁栄はキリストの名によってもう保証されているんです! 1ペテロ5:6 「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい、神は、ちょうど良い時にあなたがたを高く上げてくださいます。あなた方の思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 あなたの心の優先順位はどうですか?神様が1番になっていますか?
Do not look at yourself
When I arrived in Japan, Jefter was already doing missions here. I came to add to his mission. Later, Satsuki […]
あなたの日を作り出してください
神様の御心は私達の人生の全ての面で助言を与えることです。 詩篇 32:8 “主はこう言われます。わたしはあなたを教え、最善の人生へと導こう。助言を与えて、一歩一歩を見守ろう。” 神様はすでにあなたに与えものをあなたがそれを使うことができるように、それを楽しむ事ができるように導きを与えます。勝利は既にあなたの中にあります。 もう私達の中に勝利があるなら何が必要ですか?それは、神様の助言が必要です。私達の中にあるものをどのように使う事ができるかを学ぶ必要があります。私達が知らないといけないのは、神様の助言はもう確実に良いもので、勝利の助言だということです。 第1コリント 2:9,10,12 9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 10神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 12ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。 この9節で書いてある神の備えてくださったものは何でしょうか?私達は神の御霊を受けました。神様があなたの将来に用意されているものはもうあなたのものです。私達はそのものをどのように活用すればいいのかを学ぶ必要があります。イエスは私達の勝利です。 聖霊があなたの中に宿るようになったとき、彼が持ってるすべてのものはあなたの中にあります。 ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。” 私達はイエスキリストを受け入れる時新しくされました。内側が変わりました。そして私達は中の変化を外に出す必要があります。それは私達の口を通して表すことができます。御言葉を語る時に自分の将来のために宣言していることを意味しています。なのであなたの1日をあなた自身の言葉で作り出すことができます。 神様の見本を見てみましょう。 創世記 1:3-4 […]
聖書からの子育て
皆さんがいつも読んでいる聖書は私たちのマニュアル本です。また、聖霊様は私たちを導いてくれます。それは、人生のどの領域においてもそうです。もちろん、子育てに関してもインスピレーションを与えてくれます。 今日は、聖書から私たちがどのように子育てし、子供を教育していくべきかをいくつかのポイントで学んでいきましょう。 ➀ 御言葉の中で子育てをする 時々、子育てを重いものとして見てしまうことがあります。実際に、子育ては簡単ではありません。責任もあります。しかし、私たちが御言葉に頼り、捧げることによって考え方は変わってきます。 教育は負担ではなく、神聖なものです。まず、子供は神様が与えてくださった宝です。私達は、その宝を守り、育てる使命があります。育つたびに天のお父さんである神様は喜んでいます。子供を生んで育てるのは神様の計画です。なので、私たちは迷ったときに、御言葉に戻り、その光の中で教育すべきです。 詩篇127:3-5 3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。 ② 神様とつながることを教える 箴言22:6 若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。 私たち親には、子供たちが神様の道にいるべきことを教えなければなりません。しかし、それは、教会の子供たちの先生の責任ではなく、親自身が教えなければなりません。もちろん教会は手伝いますが、子供は教会より家で過ごす時間の方が、はるかに多いです。なので、親がやるべきことです。 ある人たちは、「そんなに小さい子に、聖書を教えても何の意味もないし、わからないでしょ?」といいます。しかし、子供はすべてを見てわかっています。 私の3歳と1歳の子どもたちも、朝起きたら1日のためにお祈りする。毎日聖書を読む。日曜日は教会に行く日というのがわかっています。また、保育園の行きかえり、家でも常に賛美をしています。神様を1番にするということを、小さいころから教えるべきです。 また、子供たちが見ているアニメや音楽から影響されないように注意をしてみて、必要があれば正す必要があります。 ③ 自分を人と比べない これは、特に女性の方に伝えたいです。完璧な母親になろうとすると、挫折することがあります。今では、SNSをみると完璧に見えるお母さんをたくさん見ることができます。しかし、あなたは、その人とは違います。その人の子どもはあなたとは違います。 […]
幻滅と失望を超えて
リサと私が8月(2024年)にオーストラリアにいたとき、太平洋南東部のクリスチャンからある話を聞きました。何年か前、あるクリスチャングループがあるビーチで祝賀会を行おうとしたが、信仰に基づいて許可が下りなかったという。その代わりに、彼らは山の上の別の、あまり好ましくない会場に集まらなければならないと言われました。 彼らはがっかりしましたが、山に登りました。その時、その海岸や周りの地域にいた何千人もの人々が、押し寄せてきた津波によって命を落とすことになるとは、彼らは知る由もありませんでした。山の中にいたため、クリスチャンたちの命は助かりました。彼らの短期的な失望は、それよりもはるかに大きな祝福に変わりました。 もっと身近なところでは、先日のヨーロッパ旅行の直前、リサと私はノースカロライナ州ローリーでミッチ&スーザン・ホートン牧師のイベントで話をしていました。(2024年9月27~29日)教会の計画と準備としては、このイベントを教会とは別の場所で行うために、アッシュビルのホテルの予約を確保しようとしていましたが、何度も努力しましたが、希望のホテルから必要な情報を得ることはできませんでした。 その結果、その教会はローリーの教会で集会を開催することを決定しました。しかし、もし計画通り、イベントがアッシュビルで開催されていたら、ハリケーン「ヘリーン」がその地域に壊滅的な打撃を与えたとき、私たちはそこにいたでしょう。ひどい被害を受けたすべての住民のことを考えると、私たちの心は確かに痛みますが、私たちは感謝しています。 聖書で語る 幻滅している人を助けようとしたことがあるでしょうか?物事がうまくいかなかったり、計画どおりにいかなかったりして、苛立ったり失望したりしている人を見たことがあるでしょう。もしかしたら、私たち自身も経験したことがあるかもしれません。聖書で、幻滅と向き合った人といえば、私は洗礼者ヨハネのことを思い出します。投獄されていた彼は、イエスが行っていた素晴らしい奇跡について聞き始めました。他の人たちは奇跡を受けていたようですが、彼は受けていませんでした。 次の箇所がどれほど痛烈であるかを考えてみましょう: マタイ11:2-6 2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、 3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」 4 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。 5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病人は清められ、耳の聞こえない人は聞く。 6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」 ヨハネの頭の中でいったい何が起こっていたのかは推測するしかありませんが、もしかしたら、このように考えるかもしれません。「ちょっと待って!他の人たちはイエスに助けてもらっているのに、なぜ自分は助けてもらえないのだろう?」彼は牢獄に座っていました。彼は、捕らわれ人を解放するキリストを世に紹介しましたが、彼自身は捕らわれ人になってしまいました。彼は、自分の置かれた状況にもかかわらず、神を無条件に信頼しなければなりませんでした。 イエスが彼らの期待に応えなかったとき、多くの弟子たちは幻滅しました。ヨハネによる福音書6章には、イエスのある教えに対して多くの人々が否定的な反応を示したことが記されています。イエスの言葉は彼らを挑発し、苛立たせ、失望させました。彼らは結局、不平を言い、自分たちの間で言い争いました。その結果、「弟子たちのうちの多くの者が離れ去っていき、もはやイエスと共に歩かなかった」(ヨハネ6:66)しかし、十二弟子の態度が違っていたことを神に感謝しましょう。「主よ、私たちがだれの所に行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばをもっておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68-69)イエスがバプテスマのヨハネに関連して言われたことを覚えているでしょうか。「わたしのゆえに怒らない者は幸いである」(マタイ11:6)。 […]
Moving Beyond Disillusionment and Disappointment
When Lisa and I were in Australia in August (2024), a story was related to us by a believer from […]
ギターを学んだきっかけ
私がクリスチャンになったのは、15歳の時です。その時まであまり音楽に興味がなく、普通の人のように音楽を聞いていただけです。しかし、初めて、ある教会の集会に出た時、そこで賛美リードをしていた男性がギターを弾きながら賛美を歌っているのに、注目をひかれました。彼が歌っていた時、会場の雰囲気が変わり、そこでの神様の臨在はとても強かったです。あれはただ音楽を通してかもし出された空気ではなく、神様の油注ぎによって現れた深い賛美の空気でした。 まだ、私は生まれ変わったばかりだったので、キリスト教界のことを詳しく知らず、あの歌手はクリスチャンの間で有名だったことすらも知りませんでした。後で、彼のCDアルバムを購入し、音楽を聞いたら、私もいつか彼のようにギターを弾きながら歌いたいと単純に願い始めました。 私たちは強い願望がある時、それはすぐ現実になるように様々な方法で努力するとおもいます。私もそうでした。父にギターを買ってくれるよう頼み、優しい父はギターとさらに、賛美の歌とコードを教えるクリスチャンの雑誌も一緒に買ってくれました。まだYoutubeがなかった時代に、あの雑誌を見ながら、最初のコードを独学に学び始めました。 あの歌手のようにギターを弾いて歌いたかったので、自分でできることの最善を尽くしてみました。ギターの先生に習ったことはありませんが、エレキギターを弾いていた友達から色々教わりました。私は何度も練習を重ね、賛美チームに協力できるレベルまでになりました。幸いに、私が当時属していた教会には、音楽に詳しい人が多く、賛美のギターと歌に関しても様々なことを教えてもらいました。 ついに、ある日、中高生の礼拝の賛美チームのリーダーになることを頼まれました。今日は皆さんと、その教会の賛美チームのリーダーの方々から私が学んだ大事な点をいくつか分かち合いたいと思います。それは賛美を指導する人だけに当てはまるのではなく、全てのクリスチャンがその知識によって祝福されると思います。 まず1つめは、いつも自分の近くに楽器を置くことです。それは、賛美をリードする人は常に自分の楽器を学ぶ必要があるからです。プロの賛美のリーダーであれ、自分がどれほど楽器が上手であれ、常に新たなことが学べるからです。そして、卓越したレベルになるためには、練習を頻繁に行わなければなりません。なので、楽器を大切にし、いつも近くに置いておくことが大事です。なぜなら、練習しない人は上達しない 2つめは、賛美チームのリーダーは何よりもまず、礼拝者だということです。 多くの賛美チームに関わっている人は、音楽や楽器ばかりに集中してしまいます。しかし、神を崇めることは、神に賛美を歌うことばかりでなく、日々みことばを実行することです。なので、主を礼拝することは、教会にいるときにだけ皆の前で演奏することではなく、誰も見ていない日常でどのようにみことばによって生きているかということです。 3つめは、前回のトピックに関連していますが、賛美リーダーは礼拝者だからこそ、一人でいる時、楽器や歌を練習するだけでなく、与えられた賜物を用いて神様に賛美を捧げることも大事だということです。ダビデが家族の羊を世話していた時、いつも神様に詩篇を作曲し神様を賛美していました。それはとても重要な点だと思います。残念ながら、多くの賛美者は皆の前で演奏するのに慣れてはいますが、神様に一人で賛美することができません。しかしながら、真の礼拝者とは隠れた部屋で主と親密な時間を持つことを一番大切にする人のことです。 4つめ、私が通っていた教会に成熟したクリスチャンが多く、彼らに教えてもらった貴重なことは、賛美リーダーは聖書の教理を大事にしなければならないということです。あいにく、多くの演奏者はあまり聖書の学びをしないというイメージがあります。彼らは楽器のことばかりを気に掛け、感動的な雰囲気を与える賛美を選びますが、時により、その選んだ賛美は教理的に乏しい、あるいは、完全に聖書的ではなく、不信仰なことしか書かれていないということもあります。 なので、賛美チームのリーダーは聖書の勉強もしっかりし、感動的な雰囲気を与えるよりも、信仰で満たされた雰囲気を作るのに努力しなければなりません。 信仰の雰囲気を作るために、みことばを歌う賛美、つまり、御言葉に基づき、会衆の信仰と期待を沸かさせる賛美を導く必要があります。そのために、賛美リーダーはみことばに何が書かれているのかを知る必要があります。 最後5つめは、バンドで練習することです。バンドの練習不足により、簡単に避けられる様々なミスが起こってしまいます。歌詞やコードなどを間違え、バンドの連携も生まれず、賛美の質も低下してしまいます。なので、団結力の強い、油注がれた賛美を捧げるようになるためには、一緒に祈り、一緒にたくさん練習する時間が不可欠です。 賛美チームの良いリーダーになるためには、他にも重要な点が多くありますが、私はこれら5つが重要だと思います。また、それは賛美チームに関わっている人だけでなく、一般の信徒や、聖職者にも実行できるものだと思います。一般の信徒は楽器を持っていないかもしれませんが、演奏者がいつも近くに楽器を置いておくように、いつも自分の近くに聖書を置いておかなければならず、そうすることで常にみことばを読み、思い巡らすことができるでしょう。 他に重要な点があるでしょうか。あれば、ぜひコメントしてください。
It is not always about you
I do not know about you, but, for me, this is a kind of phrase that we listen to a […]
肉ではなく霊によって歩む
聖書では私たちがイエスを信じて、口で告白した時に私達は救われて、私達の霊は新しくされました。と書かれています 2コリ 5:17 “だれでもクリスチャンになると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではありません。新しい人生が始まったのです。 私たちの本当の自分は霊です。霊的なものです。私達には考えがあり、感情があり、この体に宿っています。私達の霊は救われていますが、私の体はまだ救われていません。常に魂と体を神様の御言葉によって一新される必要があります。 ローマ 12:2 “この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。” どれだけ熱心なクリスチャンであったとしても誘惑がくるかもしれません。しかし私達は罪の奴隷ではなくなりました。今は義の奴隷となりました。 ローマ6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。 私たちはもう罪に支配されることはありません。それは律法にいるのではなく、恵みにいるからです。 イエスを受け入れた時に私たちは暗闇の支配から、神様の愛のみ国に救い出されました。もし罪が支配しているなら、その許可を与えているためです。 残念ながら多くのクリスチャンの中でも、悪い考えや、悪い感情でいっぱいで居続けますが、その理由はその考えや思いに許可を与えているからです。私達は今は罪の下にいるのではなく、神様の命の中にいます。 私たちの霊が私達を支配しています。 ローマ6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。 しかし、この世の中に影響があります。 一つの声があります。その声にフォーカスし続けていると、神様の御心から離れてしまいます。人間関係がうまくいっていないのかもしれません。家庭内の問題、嫁と姑の関係、仕事場の人との関係、上司、同僚、教会の中でもありえることです。気難しい人がいたり、気が合わない、そういう感情は本当の自分からはきません。しかし聖書ではこのように言っています。 […]
The Significance of One
One of my favorite subjects to teach is teamwork, and while that is a tremendously important topic, we should never […]