皆さんは、人生の中で「なぜこんなことが起きるのだろう」と悩んだことはありますか?若い頃に抱いていた「将来の夢」や「希望」が、現実の困難や裏切りによって打ち砕かれたように感じたことはないでしょうか。 今日の聖書の箇所には、まさにそのような壮絶な人生を歩んだ人物が登場します。 アブラハム、イサク、ヤコブの祝福を受け継いだ、ヨセフです。ヨセフは少年時代、特別な夢を見ました。しかし、彼の現実は夢とは正反対の方向へ向かいます。兄弟たちに裏切られて奴隷として売られ、さらには無実の罪で監獄に入れられました。 しかし、神様は彼を囚人のままで終わらせませんでした。神様はヨセフに「夢を解き明かす(解釈する)力」を与え、やがて彼はエジプトの総理大臣となり、多くの人々を飢饉から救うことになります。今日は、このヨセフの「夢の解き明かし」の物語から、「暗闇の中で神の目的を見出す5つの鍵」について考えていきまいです。 ①神様は「どん底の場所」でも共にいてくださる。 ヨセフの人生は、波乱万丈でした。波乱万丈の人生とは予想がつかない苦労や大成功を繰り返す生き方です.。父親に愛されていた少年が、兄弟の嫉妬によって穴に投げ込まれ、エジプトへ売られました。ポティファルの家で信頼を得たと思ったら、濡れ衣を着せられて監獄へ送られました。ヨセフはポティファルの妻と寝ることを拒否したため、彼女はヨセフの服を自分の手に持っていたことを理由に彼を嫌がらせで訴えた。そのためヨセフは不当に投獄され、すべてが失われたかに見えた。 私たちはときどき、状況が悪化の一途を辿り、何も変わらず、変化も繁栄もないように思える。しかし、周囲の状況に注意を払うと、落胆し、五感に導かれてしまう。人生の「どん底」です。 しかし、創世記39章21節にはこう書かれています。 「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施された。」 私たちの人生でも、突然のリストラ、病気、人間関係の破綻など、暗い「監獄」のような場所に落ちることがあります。 例えば、長年勤めた会社から突然解雇され、「自分の人生は終わった」と感じるような状況です。 しかし、聖書は教えています。あなたがどのような暗闇にいても、神様の存在と恵みはそこにあるのです。神様はあなたを捨てていません。 ②与えられた場所で「目の前の人」に誠実に仕える ヨセフは監獄の中で、「なぜ自分がこんな目に…」と愚痴を言って過ごすこともできました。大好きだったお父さんお母さんからとても愛されてたのに、何でよりによってこの僕がこんな目にあわないといけないの!? 創世記40:1-7: “それから、エジプトの王に対する反逆罪が発覚した。それは、王の給仕長か料理長にかかわるものであった。王は給仕長と料理長に対して激怒し、親衛隊長の家にある牢獄、つまりヨセフが入れられている牢獄に、彼らを監禁した。親衛隊長は、ヨセフに彼らの世話をするように命じたので、ヨセフは彼らに付き添った。こうして、彼らはその牢獄で幾日間かを過した。さて、牢獄につながれていたエジプトの王の給仕長と料理長は、二人とも同じ夜、それぞれ意味ありげな夢を見た。朝ヨセフが彼らの所に来てみると、彼らは元気が無かった。そこで、ヨセフは主人の家に自分と一緒に監禁されている二人に尋ねた。「どうしてお二人共、今日は顔色が悪いのですか。」” しかし、彼は違いました。 監獄の中でも誠実に働き、看守長から信頼され、他の囚人たちの世話を任されました。ある日、エジプトの王の給仕長と調理長が投獄されてきます。彼らは不思議な夢を見て顔を曇らせていました。ヨセフは彼らの変化に気づき、「今日はどうしてそんなに暗い顔をしているのですか」と声をかけました。 自分の問題で一杯一杯のとき、私たちは他人に優しくすることが難しくなります。 例えば、自分自身が職場で厳しい評価を受けて落ち込んでいる時に、隣の同僚が困っていたらどうでしょう?無視したくなるかもしれません。 […]
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思い煩うのをやめよう!
私たちは毎日の中で、知らないうちにたくさんのことを思い煩っています。これからどうなるんだろう、うまくいかなかったらどうしよう、あの人は私のことをどう思っているんだろう。気づけば、まだ起きていないことを心配して、心がいっぱいになってしまうことがあります。でも聖書は、はっきりとこう語っています。 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6) 思い煩いとは、聖書で「思い煩い」と訳されている言葉は、ギリシャ語でメリムナ。 この言葉には、ただ「心配する」以上の意味があります。心がいくつにも分かれてしまう状態という意味があります。気持ちがバラバラになる一つのことに集中できない。あれもこれも気になって落ち着かない。心が引き裂かれているような状態です。 身近な例で考えると、たとえば仕事のことを考えながら、同時に人間関係のことも気になり、さらに将来の不安も重なってくると、頭も心もいっぱいになってしまいますよね。これがまさに「メリムナ」の状態です。思い煩いは何も解決しないです。 イエス様もこう言われました。 (マタイ6:27)「あなたがたのうちだれが、思い煩ったからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。」 つまり、どれだけ心配しても、状況は変わらないということです。身近な例で考えると、たとえば夜、電気を消して寝るときに、部屋の中に何かあるような気がして怖くなることがありますよね。でも電気をつけると、何もなかったと分かります。思い煩いもこれと同じです。暗い中で考えるとどんどん不安が大きくなりますが、「光(真理)」の中で見ると、実際はそこまでではないことも多いのです。 神様にゆだねるという選択がクリスチャンにはあります。聖書にはこう書いてあります。 (第Iペテロ5:7)「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 ここで大切なのは、「ゆだねる」という行動です。 ただ「心配しないようにしよう」と我慢するのでなく、祈る、神様に話す。そしてその思い煩いを手放すことです。思い煩いを手放すとは、重たい荷物をずっと持っていると、だんだん疲れてきますよね。でも、その荷物を誰かが「持つよ」と言ってくれたらどうでしょうか。渡せばいいのに、なぜか握り続けてしまうことがあります。思い煩いも同じです。神様が「任せていいよ」と言っているのに、自分で持ち続けてしまう。これが私たちの姿です。 ではどうすればいいのでしょうか?とてもシンプルです。 自分が思い煩いに気づいたらそのまま神様に話すことです。この思い煩いをあなたに委ねますと、そして、感謝を選ぶことです。たとえば「まだ分からないけど、守ってくださることを感謝します」「最善に導いてくださることを信じます」思い煩いは、私達の成長を妨げてしまいます。でも私たちは、すべてを知っておられる神様にゆだねることができます。思い煩いをやめるとは、何も考えないことではなく、信頼して手放すことです。 最後にもう一度この言葉を。 「何も思い煩わないで…あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」(ピリピ4:6) 不安を見るのではなく、今まで導いてくださった神を見ましょう!あなたが抱えているその思いも、今日、少し神様に渡してみてください。心が、少し軽くなりますよ。
一致の力
あなたはグループの一致には力があると知っていますか? 神さまは人間をお作りになった時にこのように言いました。 創世記 1:28: “神は人間を祝福して言われました。「地に増え広がり、大地を治めよ。あなたがたは、魚と鳥とすべての動物の主人なのだ。” 彼が人間に言ったことは地に増え広がること、大地を治めることでした。しかし人間は神様の掟を守っていましたが、やがて過ちを犯してしまいました。人間は堕落してしまったのです。その時から人間は神様の完璧なビジョンを失ってしまいました。もしあなたが神様との関係が全く無い時、神様からのインスピレーションを受けなくなるようになります。 アダムは神様からの影響を失いました。罪を犯し、神様から離れてしまいました。 最初の人間アダムは神様が与えた掟を忘れ、神様が計画しなかった人生を生き始めるようになったのです。神様が人間に与えた掟とは地に増え広がり、大地を治めることでした。もし私達が神様から来ていないアイデアを計画すると、問題が発生します。1番祝福なこととは、自分にある神様の計画に従い、それを生きることです! 聖書ではある民が増え広がることをしないで、一緒になり天まで届く塔を建てようと計画が書いてあります。当時その民は同じ言葉を語り、自分達の偉大さをこの地に示そうとしたのです。 その聖書箇所を見てみましょう。 創世記 11:1-7 “さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」” ここで神様は永遠に機能する原則を確立しています。同じ言葉を話すことにより起こる力を示しているのです。6節ではこの民は同じ言葉を使っていたこと、そして一致していたことが書かれています。この民は互いに会話をする時理解していました。それは同じ言語を持っていたからです。同じ言語のコミュニケーションとは、相手が話すことを理解でき、私が話していることを相手は理解ができることです。 […]
あなたの日を作り出してください
神様の御心は私達の人生の全ての面で助言を与えることです。 詩篇 32:8 “主はこう言われます。わたしはあなたを教え、最善の人生へと導こう。助言を与えて、一歩一歩を見守ろう。” 神様はすでにあなたに与えものをあなたがそれを使うことができるように、それを楽しむ事ができるように導きを与えます。勝利は既にあなたの中にあります。 もう私達の中に勝利があるなら何が必要ですか?それは、神様の助言が必要です。私達の中にあるものをどのように使う事ができるかを学ぶ必要があります。私達が知らないといけないのは、神様の助言はもう確実に良いもので、勝利の助言だということです。 第1コリント 2:9,10,12 9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 10神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 12ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。 この9節で書いてある神の備えてくださったものは何でしょうか?私達は神の御霊を受けました。神様があなたの将来に用意されているものはもうあなたのものです。私達はそのものをどのように活用すればいいのかを学ぶ必要があります。イエスは私達の勝利です。 聖霊があなたの中に宿るようになったとき、彼が持ってるすべてのものはあなたの中にあります。 ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。” 私達はイエスキリストを受け入れる時新しくされました。内側が変わりました。そして私達は中の変化を外に出す必要があります。それは私達の口を通して表すことができます。御言葉を語る時に自分の将来のために宣言していることを意味しています。なのであなたの1日をあなた自身の言葉で作り出すことができます。 神様の見本を見てみましょう。 創世記 1:3-4 […]
肉ではなく霊によって歩む
聖書では私たちがイエスを信じて、口で告白した時に私達は救われて、私達の霊は新しくされました。と書かれています 2コリ 5:17 “だれでもクリスチャンになると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではありません。新しい人生が始まったのです。 私たちの本当の自分は霊です。霊的なものです。私達には考えがあり、感情があり、この体に宿っています。私達の霊は救われていますが、私の体はまだ救われていません。常に魂と体を神様の御言葉によって一新される必要があります。 ローマ 12:2 “この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。” どれだけ熱心なクリスチャンであったとしても誘惑がくるかもしれません。しかし私達は罪の奴隷ではなくなりました。今は義の奴隷となりました。 ローマ6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。 私たちはもう罪に支配されることはありません。それは律法にいるのではなく、恵みにいるからです。 イエスを受け入れた時に私たちは暗闇の支配から、神様の愛のみ国に救い出されました。もし罪が支配しているなら、その許可を与えているためです。 残念ながら多くのクリスチャンの中でも、悪い考えや、悪い感情でいっぱいで居続けますが、その理由はその考えや思いに許可を与えているからです。私達は今は罪の下にいるのではなく、神様の命の中にいます。 私たちの霊が私達を支配しています。 ローマ6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。 しかし、この世の中に影響があります。 一つの声があります。その声にフォーカスし続けていると、神様の御心から離れてしまいます。人間関係がうまくいっていないのかもしれません。家庭内の問題、嫁と姑の関係、仕事場の人との関係、上司、同僚、教会の中でもありえることです。気難しい人がいたり、気が合わない、そういう感情は本当の自分からはきません。しかし聖書ではこのように言っています。 […]
神の臨在
私達クリスチャンは一つの重要な事に対しておろそかになってしまう時があります。それは神様の命が私達の内側に住んでいることです。 旧約聖書では人間が罪を犯したことによって人間は神様との交わりがなくなりました。そして、神様の臨在の中で生活することがなくなりました。しかし、神様は常に人の間に現れたかったのです。神様の臨在は箱の中にあった時もありました。 1サムエル 7:1-2: “キルヤテ‧エアリムの人々は来て、丘の中腹にあるアビナダブの家に神の箱を運び込みました。そして、アビナダブの子エルアザルに管理を任せました。その箱は二十年間、そこに置かれたままでした。その間、イスラエルの全家は主に見放されたような悲しみの中にありました。” 2サムエル 6:11: “こうして主の箱は、三か月間オベデ‧エドムの家に置かれました。主は彼の家を祝福しました。” 契約の箱、神様の臨在がある箱は色々な場所に置かれていました。そしてその約束の箱は20年間アビナダブという男性の家に置かれていました。そのあと約束の箱は3ヶ月間オベデエドムという男性の家に移動しました。この違う2人の家に置かれましたが、約束の箱が来た後の影響は違いました。 アビナダブの家に20年間も置かれていましたがイスラエルの全家は悲しみにいたと先ほどの聖書箇所で見ることができます。もう1の家であるオベデエドムの家には3ヶ月間置かれていましたが神様は彼の人生を祝福したと聖書で言っています。なぜでしょうか? その違いは主の箱、契約の箱に対して敬いがあったか、またはそうではなかったかです。オベデエドムは朝起きて、このようにしてたでしょう。主の臨在です。主の臨在がここにあります。私の家に主の箱があるなんて、なんと光栄なことか!その喜びがありました。尊敬していたんです。敬いがありました。そしてその理解を持っていたのでそれが影響をもたらしたのです。 祝福されていきました。もしアビナダブも彼のように主の臨在を敬意を払っていたならアビナダブは20年間もの間祝福を受けていたでしょう。皆さんはアビナダブかオベデエドムどちらですか? ガラテヤ 2:20: “私はキリストと共に十字架につけられました。もはや、私自身が生きているのではありません。キリストが、私のうちに生きておられるのです。私のためにご自身をささげてくださった神の御子を信じた結果、今、私のうちにはほんとうのいのちが与えられています。” キリストは私達の内に生きておられます!それは感情で知るのではなく信仰によって受け取ってください。主の臨在が働いている場所では敬意を示す必要があります。教会での礼拝に対しても敬意を示すことが大事です。ただのクリスチャンの集まりの時間だし、皆でワイワイできたらそれで満足は間違いです。一緒に集まり、イエスを礼拝する時、その場所には神様の栄光が現れます。 アビナダブの家とオベデ・エドムの家は何が違ったのでしょうか?主の箱がオベド・エドムの家に到着すると、彼は神の臨在を尊重しました。どの家庭でも、私たちは主を第一に考える必要があることを理解する必要があります。私たちは時々、私たちの人生に神の臨在がないかのように行動してしまうことがあります。多くの人は特定の礼拝での神の動きを見逃していますが、各集会を大切にすることが大事です。 アビナダブの家の人々は、神の臨在の箱に何の尊重もありませんでした。約束の箱があって当たり前のように生活していました。そして、オベデエドムの家に主の箱が置いてあった期間は3ヶ月でした。その後ダビデ王が約束の箱を取りに来たときに、オベデエドムは言いました。この契約の箱、臨在の箱は王様のものです。どうぞ持ち帰ってください。しかし彼はその主の箱の臨在の虜になっていました。その主の臨在なしでは生きてはいられなくなったのです。なので主の箱はエルサレムに持っていかれたので、彼はエルサレムに引っ越しました。 そして彼は主の箱が置かれている建物の門の見張り役としてそこにいました。そして他の機会では約束の箱の近くで演奏をするチャンスがあったので、オベデエドムは主の箱の前で演奏しました。彼は主の臨在の近くに居たかったんです。旧約の契約では主の臨在に触れるためには、主の存在の近くに行くためには、主の箱に行く必要がありました。しかし今は違います。新契約は主の臨在が私たちの中に住むようになったのです。 エペソ […]
信仰x疑い
私たちは告白した以上のものを受け取ることはありません。信仰は告白によって成長しますが、それを超えることはありません。 正しいことを告白することは、御言葉によって新たにされた心から来る正しい考えの結果です。疑いは信仰の最大の敵で、ギリシャ語には「疑い」と訳されている言葉があります。 Diakrinoです。それは信仰が不足していること。疑いと恐れは一緒になって私たちの信仰を奪います。 聖書のペテロは水の上を歩きました。イエスは群衆にパンと魚の奇跡を起こしたあと、弟子たちに船で向こう岸に行かせました。 マタイ14:28-34 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ、助けてください」と言った。31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。34 彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。 ペテロが風の方を見て、その状況をフォーカスした時に恐れ、疑いを生じさせたことを見ることができます。 恐れと疑いはセットであり、信仰を盗みます。そして疑いは不信仰を生みます。 また、1人の人が自分の息子のために祈ってほしいと弟子たちに頼みましたが弟子たちは直すことが出来ませんでした。そこでその人はイエスの助けを求めました。 マタイ17:18-20 そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ。私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでもあなたがたにできないことはありません。 マタイ […]
私達の舌を制御する重要性
乾燥な時期になるとよく山火事が発生することがあります。その火事はおそらくゆっくりと小さい火から発生しましたが、短時間のうちに全体に広がり、広い面積を焼き尽くします。私たちの口から出る言葉は、隣人や自分自身を生き返らせることも殺すこともあるのに、私たちはそれに気づいていないことが多いのです。 ヤコブ3:5-6 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。 私たちは自分の言葉をコントロールすることの重要性を毎日心に留めておく必要があります。私たちの口は人々を祝福するために使われなければなりません。 癒し、救い、そして神さまの愛の宣言の源として使われなければなりません。私たちの言葉を通して、夢は殺されるのではなく、復活する必要があります。以下の聖句を通して、舌を守ると決心した人は心も守ることがわかります。 詩篇37:30-31 正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない 箴言18:21 死と生は舌に支配される。/どちらかを愛して、人はその実を食べる。 多くの場合、私達自身に対して、また他の人に対してこのように言ってませんか? そしてその言ったことが悪い影響を与えていることに気づかない時があります。うまくいかないよ!私が結婚?無理無理!あの病気は治らないよ! 私達が忘れているのは、私達が話す言葉は霊的な世界に種を蒔いていることです。 あなたの人生の中で何回このようなことを言われたことがありますか?あなたの将来が心配だよ!馬鹿だな!この出来損ない!もしかしたらあなたの心の中で、思い出の中で、その言われたことに対する傷だったり、悲しさがあったかもしれませんが、もうあなたイエスによって救われて神様の愛があなたの中に入って、あなたはイエスによって癒しを受け取りました。 それは精神的な癒やし、体の癒し、全部です! 問題の根本を認識する必要性があります。 私たちの舌の問題は心にあります。 ルカ 6:43-45 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。 良い木から悪い実は出てこないです。愛によって歩んでいないのなら愛を与えることはできないです。心が憎しみでいっぱいなら赦しに歩むことはできません。 […]
あなたは幸せですか?
あなたにとって幸せとは何ですか? ある人はお金持ちになることによって幸せであると思っている人もいますが、聖書ではこのように書かれています。 マタイの福音書 6:19-21 財産を、この地上にたくわえてはいけません。地上では、損なわれたり、盗まれたりするからです。 財産は天にたくわえなさい。そこでは価値を失うこともないし、盗まれる心配もありません。 あなたの財産が天にあるなら、あなたの心もまた天にあるのです。 お金を貯金することがいけないとは言っていませんが、ここでイエスが強調しているのは、財産に焦点を当てるのではなくて、天に財産を蓄えなさいと言っていることです。そうすれば私達はこの世のお金に心を奪われるのではなく、心を天に置くことができます。 この世の全ての物質的な物は過ぎ去ると聖書は言っています。お金の幸せは一時的なものなのです。お金が無くなれば幸せがなくなるのは、真の幸せではありません。では、どのようにして私達は幸せな人生を送ることができるのでしょうか? 申命記 6:1-2 これはあなたがたの神、主があなたがたに教えよと命じられた命令と、定めと、おきてであって、あなたがたは渡って行って獲る地で、これを行わなければならない。 これはあなたが子や孫と共に、あなたの生きながらえる日の間、つねにあなたの神、主を恐れて、わたしが命じるもろもろの定めと、命令とを守らせるため、またあなたが長く命を保つことのできるためである。 この一節はなんと豊かなことでしょう! 神様は、私が神様の教えを実践し、この現在の人生の旅路で神様の御言葉の原則に従っている場合、私、私の子供、孫は、神様のみが私たちに提供できる幸せと善を味わうことを保証しています! 聖書的には、幸せはすべての人のためのものであり、今のためのものです。 他の聖書箇所でも書かれています。 詩篇 34:11-13 […]
聖書は私達の人生の取扱説明書です。
私は何回か取扱説明書を読まないで家具を組み立てようとしたことがあります。しかし思うようにうまくいきませんでした。 取扱説明書にはその家具がどのように設計されていて、組み立てるかが書かれています。もし取扱説明書がなければどうだったでしょうか?取扱説明書にはその商品の良さ、必要性、様々トラブルについても書かれてます。 聖書は私たちの人生の取扱説明書です。新しく生まれ変わったクリスチャンは全てを理解しているわけではありません。そのために神様は聖書を私たちに与えてくださいました。私たちが日常生活の中で大きな決断やほんの小さな決断でさえも御言葉を通して私たちを導きます。 詩篇 119:105 あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。 多くの人は聖書は神様が人にこれをしてはいけない法律が山程あるといいますがそれは違います。 聖書は私達の性質、ポテンシャルを知ることができ、私達を創造した人が与えてくれたマニュアルです。創造主である神様は私たちにとって何が良くて何が悪いかを知っています。 そして、私たちが知らず知らずのうちに惑わされて生きてしまわないように、彼は私たちに御言葉を残してくれました。聖書が私たちに提案していることとは違う生き方をするのは愚かなことです。 ヨシュア記1;8にはこのように書かれています。 ヨシュア記 1:8 人々に、律法をいつも思い出させなさい。まずあなたが、昼も夜も律法を忘れず、それを完全に守るよう心がけなさい。模範を示し、どんなことも律法どおりきちんと行わなければならない。成功するもしないも、すべてその一点にかかっている。 私達がこの世で成功する方法は神様の言葉を受け入れそれを実行することです。 私達は神様によって造られました。 神様が与えてくださったマニュアルを読んで、行うことによって私達は正しいことを行い、人生も楽しくなり、この人生で成功することができます。