私が教えるのが好きなテーマのひとつにチームワークがあります。それは非常に重要なテーマではありますが、「ひとり」の力、そして個人の努力の意義を決して忘れてはなりません。 エドワード・エヴァレット・ヘイルはこう言いました。 「私はたった一人ですが、私は一人です。私はすべてをすることはできないが、何かをすることはできる。そして、私はすべてをすることができないからこそ、私にできる何かをすることを拒まない。」 世界とそのニーズがいかに大きいかを目の当たりにし、自分の潜在的な影響力は微々たるものだと感じたことがあるかもしれません。あるいは、大きな影響力を持つ人々を見て、自分がしている貢献は無意味だと感じたことがあるかもしれません。 このことは、よく語られる、潮の引いた夜明けの浜辺を歩く老人の話を思い出させます。浜辺には無数のヒトデが打ち上げられており、彼はそれを踏まないように慎重に歩いていました。歩いていると、小さな男の子がヒトデを拾って海に返しているところに出会いました。彼は少年に何をしているのかと尋ねると、少年は「このままでは日が昇るにつれて死んでしまう」と答えました。老人はこの浜辺には何千匹ものヒトデがいるのにあなたの努力にどれほどの違いがあるの?と少し皮肉っぽく聞いたところ、少年は「この一つに違いがあるんだ」と答えながら、それを波に投げました。 イエスはルカ15章で、失われた一枚の硬貨、失われた一匹の羊、そして一人の道行きの悪い息子について語られたとき、同じことを述べておられました。イエスは、それぞれの話に起こったすべての喜びについて話されました。人は大きなプロジェクトや大きな試みは好きですが、小さいことを始めることや簡単な一歩を踏み出すことを恐れてはいけません。 マザー・テレサはこのように言いました 「100人を養うことができないなら、たった1人を養いなさい。私たち自身は、自分たちのしていることは大海の一滴にすぎないと思っています。しかし、その一滴がないために、海は小さくなってしまうのです」 もし1滴の意味を疑うことがあれば、以下のことを考えてみてほしいです。 ・テントの中の蚊一匹・1本の虫歯・ずれたタイヤ・靴の中に入ったひとつの小石・指に刺さったとげ・スープに入った1本の髪の毛・音程が外れている1本の弦1つは重要です。 また、ひとつはポジティブにも働きます。・優しい一言・「ありがとう」の一言・一杯の冷たい水・褒めるときの背中のひと叩き・ひとつの寛大な行動・友人への1件の電話や1通のメール・ひとつの救いの手 私たちはイエスの群衆との物語が大好きですが、社会的な領域を超えた人々との一対一の出会いも忘れてはなりません。文化的で尊敬を集めるニコデモと会話を交わし、井戸で社会的に排除された女性にも親切に話しました。私たちは大衆の中での主の奇跡を評価しますが、主が「これらの小さな者のひとりに一杯の冷たい水でも与える者は……決してその報いを失うことはない」と言われたことを決して忘れてはならない。 私たちは大衆の中での彼の奇跡を評価するが、彼が「この小さい者たちのひとりに、水一杯でも与える者は……決してその報いに漏れることはありません」(マタイ10:42 )と言ったことを決して忘れてはなりません。 あなたは重要です。あなたがすることも重要です。あなたが励ます人々は重要です。C.S.ルイスの言葉を思い出してほしいと思います。 「普通の人間なんていない。あなたはただの人間と話したことがない。」 今日、あなたが接するすべての人と同じように、あなたにも無限の価値とメリットがあります。何かひとつでもしてください。一言はなしてください。違いを起こしてください。
誰の言葉を信じますか
みなさんは、日々どんな言葉を聞きながら生きていますか? テレビや新聞では私たちをびっくりさせること、恐れを持つようなことをたくさん言います。それによって多くの人が不安の中に生きています。 わたしの職場は学校なのでいつも多くの人と接触します。職員室では、いつもあの病気が流行ってるとか、〇〇クラスでコロナが出た!インフルが出た!とかそのような話ばかりです。いつも「自分もいつかそうなるかもしれない。どうしよう」と話しています。その話がわたしに振られるといつもわたしは「大丈夫です!わたしは守られてます。どんな病気もわたしに触れることができません」と答えます。 その答えを聞くといつもびっくりされるか、感心されます。このブログを読んでいる方がクリスチャンかどうかわかりません。もし、あなたがクリスチャンであれば、すべての病はイエスキリストがすでに持ち去ってくれたことを再確認する必要があります。 私はこの聖書箇所が大好きです。 コロサイ 2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。 他のバージョンでは次のように書かれています。 コロサイ2:15 こうして神は、罪を犯したあなたがたを責め立てるサタンの力をくじかれました。そして、十字架の上でのキリストの勝利を公然と示されたのです。この十字架によって、罪はすべて取り除かれました。 この聖書箇所がどれだけ力強いものかわかりますでしょうか。 イエスがサタンを打ち負かして勝利を得ました。イエスが勝ち取った勝利には罪や病気、束縛からの勝利がありました。 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除しました。これは、イエスが悪魔が握っていた特権を完全に取り戻したという意味です。 そして、その後、捕虜として凱旋の行列に加えられました。この凱旋とはパレードのことです。イエスキリストは悪魔に打ち勝ち、勝利のパレードを行いました。 そのパレードで、捕虜(負けたもの)は完全に服を脱がされ、最大級の辱めを受けました。 パウロはこの聖書箇所を通して、イエスが悪魔に何をしたかを見せました。 イエスは悪魔の服を剥ぎ取り、武器を取り上げて、ありのままをさらけ出しました。それは、悪はもう無力であることを公に見せつけるためでした。 オリンピックやワールドカップなどのスポーツを想像してみてください。 グループのスポーツには、必ず試合に出て戦っている選手と、外で応援している選手がいます。そのチームが優勝して勝利を祝うのは、戦った選手だけでなく、外で応援し出られなかった選手も一緒にお祝いします。また国中も「私たちの国が優勝した!!!」とお祝いします。メダルを渡されるときに、国歌が流れ国旗が揚げられるのは、国全体が優勝したからです。 イエスがもたらした勝利も同じです。イエスが勝ち取ってくれた勝利は、神の子どもである私たちの勝利でもあります。なので、聖書では私たちを圧倒的な勝利者と呼んでいます。 […]
優柔不断な人はどこにも行かない
最近、教会で今の世代の気になる点をいくつか説教で分かち合っています。もちろん、私の目的は人を責めているわけではありません。むしろ、今の世代はどこでうまくいっていないのをみことばの時点から探っていくことにより、私たちが反省し、聖書の原則どおりに行き、神様に喜ばせる人生を送ることができるからです。 まず、私たちが理解しなければならないのは、信仰なしで神様を喜ばすことができないということです。 へブル 11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。 つまり、信仰は、クリスチャンのライフスタイルということです。そして、信仰に歩む人は、神様に信頼する人であり、当然、超自然的な現れをも信じる人です。なので、信仰のライフスタイルとして、多くの場合、私たちは、何も見えなく、また、何も起きていないように感じるかもしれませんが、私たちが信じていることが必ず、実現される確信を持つでしょう。 私たちは、自然の目で神様を見ることができませんが、心の中で神様が存在していることを確信することはできます。同じように、神様のみことばに書いてある全ての約束に対しても、同じ信仰をもち、神様が約束してくださったことを全て守ってくださる確信を持つことができます。 また、私たちは与えられた信仰で、救いを得るだけではなく、人生で必要としていること、また、望んでいることを手に入れることができます。要するに、私が行うどのようなことでも、信仰によるものでなければならないということです。さらに、もし、私たちが行うことが信仰によるものではない場合、それは罪とされると聖書に書かれています。 ローマ 14:23 信仰から出ていないことは、みな罪です。 しかし、自身の信仰を放つには、一つ重要なポイントがあります。信仰は適当なものではありません。何でもいいわけではありません。自身の信仰が十分に働くにははっきりした目的地が必要です。たとえば、マルコ5章24節以降には12年の間で長血でわずらっていた女性の話が記録されています。その女性ははっきり何を望んでいるか言葉で表していました。 マルコ 5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と言っていたからである。 原本を確認すれば、その女性はそれを一回だけ言ったのではないことに気付きます。むしろ、常に自分にそれを口で言っていたのを聖書に記されています。ここで注目してほしいのは、その女性は何を望んでいたかがはっきりしていたことです。そして、その目的地に自身の信仰を放ちました。体の症状がどうであろうと、悪化していようとも、その女性の信仰は変わらず、自分の癒しを獲得しました。 たまに、クリスチャンの祈りを聞くときに、彼らはこう祈っているのを聞きます。「主よ。全ての人類が救われるように祈ります」。もちろん、その信徒は、最善な動機で祈っていると思いますが、その祈りは聖書的ではなく、信仰による祈りではありません。まず、救いに関して、神様は既に全人類の救いを、イエスの十字架によってはぎ取ってくださいました。次に、人が救われるように、私たちが福音を伝える必要があることです。いくら祈っていても、福音を伝えなければ、救いを受ける信仰は人の心に生じしません(参照:ローマ10:13以降)しかし、私たちは、自分の周りの特定した人のためにとりなし祈りすることができます。 もっと分かりやすくするために、こう考えたいと思います。あなたは神様に携帯電話を祈り求めるとします。しかし、現在、携帯には様々な種類があります。もし、あなたは自分が望んでいる携帯を特定しないまま祈り、どの携帯がきても満足するでしょうか。あいにく、多くのクリスチャンの祈りが聞かれないのは、彼らは幅広く祈りますが、正直に考えたら、彼らが祈っている課題が現実となるとは信じていません。また、彼らはいつも自分の祈りの目的を変更したりし、自分の祈りが聞かれるかどうか測定することができません。しかし、本当の信仰は必ず自分が求めたことが現実となることを信じ、状況によって動揺や変わることがありません。 ヤコブ 1:5-8 […]
Someone we can trust and rejoice
One of these days I found out that a very loved person in my life would receive a gift that […]
イエスは父に願った
あなたは、イエスがすでにあなたのために祈ったことがあると知っていますか? 聖書のヨハネ17:21以降には、イエスが父に祈り求めていると書かれています。 つまり、イエスは神に強くお願いしています。「彼らが皆ひとつとなるためです。父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世があなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。私は、あなたが私に与えてくださった栄光を彼らに与えました。それは、私たちがひとつであるように、彼らもひとつとなるためです。」 この祈りにおいて、イエスは世界の救い、つまり、彼がメシアであり、私たちの救い主であることの認識を、キリストの体としての私たちの行動にかけています。 これは、キリスト自身からのお願いでありながら、残念なことに、教会によって無視されていることが多いのです。私は、キリストの体の一部である者たちが、裏で他の人たちの悪口を言ったり、時には公然と批判したりしているのを目にしています。分裂やスキャンダルがあまりにも一般的になり、もはや驚きですらなくなっています。 私たちは、聖書がすでに警告しているように、終わりの日には、ますます多くの人々が悪に満ち、サタンの影響を受ける時代に生きていることを知っています。感情や欲望に支配され、肉的な生活を送るようになるのです。しかし、私たちに対する主なる神の期待はそれではありません。1テモテ2:3にはこう書かれています。 1テモテ2:3 「これは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、すべての人が救われ、真理を十分に知るに至ることを望んでおられるのです。」 この聖句を通して、すでに救われた者たちが、真理の十分な知識に至ることが神の御心であることを理解します。ヘブル書の5章と6章では、聖書は私たちに正義の言葉の中でますます成長するよう励ましています。 ゴシップや誰かの悪口について指摘されたとき、多くの人は「ただのコメントだった」と言い、その人の名誉を傷つける意図はなかったと弁解します。私たちの創設者であるバッド牧師はよくこう言いました。「牛が飛ぶことは信じられても、信者が嘘をついたとは信じられません」と。新しい創造物として、兄弟姉妹よ、信者が意図的に誰かを誹謗するためにコメントをすることはめったにありません。しかし、だからこそ、何を話すか、誰に話すかに注意を払うべきなのです。 箴言19:2には「知識なしに熱心であるのは良くない。また、足早に事をなす者は過ちを犯す。」と書かれています。また、箴言18:13「聞く前に答えるのは愚かであり、恥である。」とあります。 最近、インスタグラムで見た動画を通して思索することに導かれました。ある人が英語で「聖霊は異言で祈ることを助けてくれるけど、英語で謝罪することは助けてくれないの?」と言っていました。新しい創造物として、私たちには助け主がいます。 信者が、キリストにある兄弟姉妹や失われた者たちと愛を持って歩むことが、死者をよみがえらせることと同じくらい超自然的なことだと理解するようになれば、私たちの行動は変わります。 これを忘れないでください。神はロバに愛の中を歩むように命じませんでした。ロバは聖霊の力を体験しました。しかし、神はご自分の子どもたちに、愛の中、すなわち霊の実の中を歩むようにと命じました。
Principles We Follow as Family of Christ
In John 1:12, the Bible says that those who receive Jesus Christ as the Savior and the Lord of their […]
The new birth is instant, but spiritual growth is not
The greatest miracle in the world today is when a person is born again. In an instant, their spirit is […]
神の臨在
私達クリスチャンは一つの重要な事に対しておろそかになってしまう時があります。それは神様の命が私達の内側に住んでいることです。 旧約聖書では人間が罪を犯したことによって人間は神様との交わりがなくなりました。そして、神様の臨在の中で生活することがなくなりました。しかし、神様は常に人の間に現れたかったのです。神様の臨在は箱の中にあった時もありました。 1サムエル 7:1-2: “キルヤテ‧エアリムの人々は来て、丘の中腹にあるアビナダブの家に神の箱を運び込みました。そして、アビナダブの子エルアザルに管理を任せました。その箱は二十年間、そこに置かれたままでした。その間、イスラエルの全家は主に見放されたような悲しみの中にありました。” 2サムエル 6:11: “こうして主の箱は、三か月間オベデ‧エドムの家に置かれました。主は彼の家を祝福しました。” 契約の箱、神様の臨在がある箱は色々な場所に置かれていました。そしてその約束の箱は20年間アビナダブという男性の家に置かれていました。そのあと約束の箱は3ヶ月間オベデエドムという男性の家に移動しました。この違う2人の家に置かれましたが、約束の箱が来た後の影響は違いました。 アビナダブの家に20年間も置かれていましたがイスラエルの全家は悲しみにいたと先ほどの聖書箇所で見ることができます。もう1の家であるオベデエドムの家には3ヶ月間置かれていましたが神様は彼の人生を祝福したと聖書で言っています。なぜでしょうか? その違いは主の箱、契約の箱に対して敬いがあったか、またはそうではなかったかです。オベデエドムは朝起きて、このようにしてたでしょう。主の臨在です。主の臨在がここにあります。私の家に主の箱があるなんて、なんと光栄なことか!その喜びがありました。尊敬していたんです。敬いがありました。そしてその理解を持っていたのでそれが影響をもたらしたのです。 祝福されていきました。もしアビナダブも彼のように主の臨在を敬意を払っていたならアビナダブは20年間もの間祝福を受けていたでしょう。皆さんはアビナダブかオベデエドムどちらですか? ガラテヤ 2:20: “私はキリストと共に十字架につけられました。もはや、私自身が生きているのではありません。キリストが、私のうちに生きておられるのです。私のためにご自身をささげてくださった神の御子を信じた結果、今、私のうちにはほんとうのいのちが与えられています。” キリストは私達の内に生きておられます!それは感情で知るのではなく信仰によって受け取ってください。主の臨在が働いている場所では敬意を示す必要があります。教会での礼拝に対しても敬意を示すことが大事です。ただのクリスチャンの集まりの時間だし、皆でワイワイできたらそれで満足は間違いです。一緒に集まり、イエスを礼拝する時、その場所には神様の栄光が現れます。 アビナダブの家とオベデ・エドムの家は何が違ったのでしょうか?主の箱がオベド・エドムの家に到着すると、彼は神の臨在を尊重しました。どの家庭でも、私たちは主を第一に考える必要があることを理解する必要があります。私たちは時々、私たちの人生に神の臨在がないかのように行動してしまうことがあります。多くの人は特定の礼拝での神の動きを見逃していますが、各集会を大切にすることが大事です。 アビナダブの家の人々は、神の臨在の箱に何の尊重もありませんでした。約束の箱があって当たり前のように生活していました。そして、オベデエドムの家に主の箱が置いてあった期間は3ヶ月でした。その後ダビデ王が約束の箱を取りに来たときに、オベデエドムは言いました。この契約の箱、臨在の箱は王様のものです。どうぞ持ち帰ってください。しかし彼はその主の箱の臨在の虜になっていました。その主の臨在なしでは生きてはいられなくなったのです。なので主の箱はエルサレムに持っていかれたので、彼はエルサレムに引っ越しました。 そして彼は主の箱が置かれている建物の門の見張り役としてそこにいました。そして他の機会では約束の箱の近くで演奏をするチャンスがあったので、オベデエドムは主の箱の前で演奏しました。彼は主の臨在の近くに居たかったんです。旧約の契約では主の臨在に触れるためには、主の存在の近くに行くためには、主の箱に行く必要がありました。しかし今は違います。新契約は主の臨在が私たちの中に住むようになったのです。 エペソ […]
癒しは神様の意志
たまに、 「神様は病気を通して彼に試練を与えてます」と言う人に出会います。 でも真実は、私たちの父は良い方で、悪いことはいっさい神様から来ません。 私たちの神様は癒しは神で、癒しは神様の意志です! つまり、病気は神様から来るものではありません。 出エジプト記 15:26 わたしはあなたをいやす主である。 イエス様は人々を癒すことによってこれを証明してくれました、イエス様は父の御心しか行わなかった。 イエス様のところに行った人は誰も病気のままでいた人は一人もいません、みんな癒されました。 イザヤ書 53:4-5 初めは病気は存在しませんでした。病気はアダムの罪によって生じました。しかし、私たちは罪から救われるために贖いを受け、イエス様はわれわれの病を背負い、われわれの悲しみと共になりました。その受けた傷によって、われわれは癒されたのです。 病気はサタンの束縛です。 (ルカ 13:16) そしてイエス様はすでに私たちを解放してくださっているので、私たちはその権利を獲得しています。 癒しはすべてのクリスチャンに与えられる救いの権利です。 私たちは信仰を通して受け取ります! ギリシャ語で「救い」を意味する言葉はSOZOであり、救い、癒し、解放を意味します! […]
古いレッテルをはがす
あなたは自分のことをどうみていますか?そして、あなたは他の人にどう見られていると感じていますか?多くの人は、人からの評価を気にしすぎたり、レッテルを貼られているような感じがしたりします。または、反対に「あの人は、いつもこうだから。」「いつもああなんだよね。」と言ってレッテルを貼ってしまっているかもしれません。 レッテルを貼るとは辞書を見ると、『ある人物などに対して一方的・断定的に評価をつける。』という意味があります。なので、これは人が勝手にした判断です。小さい頃から「他の兄弟はできるのに、あんたはダメだね」とか「みんなわかってるのに、なんであなただけわからないの?」とレッテルを貼られてきたかもしれません。数えきれないほどあると思います。 先程もいいましたが、これは他の人がしたあなたに対しての勝手な評価であって、本当のあなたではありません。もしかしたら、レッテルが貼られ過ぎてて、あなたは本当の自分が見えなくなっているかもしれません。本当のあなたは、外側に貼り付けられたものでも、飾り付けられたものでもありません。あなたの中身です。 ヨハネ 3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 私たちがイエスキリストを信じるとき、私たちはもうさばかれないんです。イエスによって、きれいにされ、全てが変えられもう明らかにされました。 また、聖書ではマタイ 7:1さばいてはいけません。さばかれないためです。ともいっています。 なので、私たちはレッテルを貼られる必要もなければ、レッテルを貼ってもいけないんです。 2コリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 キリストと共にいることを決断するとき、今まで貼られ続けてきたレッテルが全てはがされます。そして、本当の自分を生きることができます。 聖書で、本当のあなたは、1ペテロ 2:9: しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。と言っています。 これが新しくされたあなたの現実です。 あなたの周りにはあなたにレッテルを貼りたがる人たち、あなたがどうあるべきかを勝手に決めたがる人たちがいます。「あなたはこの大学にいくべきよ!」「この人と結婚すべき」「この道に進むべきだよ!」といろいろ言ってくるかもしれません。 でも、忘れないで欲しいのは、あなたに本当の価値をつけるのは、周りでもあなたでもありません。神様です。そして、神様が与えてくださった聖霊様があなたを導きます。 […]