猛烈な暑さで、喉がカラカラに渇いていると想像してみてください。誰かが近づいてきて、次のようなことを伝えてくれたら助かるでしょうか? 水は雨として雲から降り、小川、湖、海を形成する液体であり、すべての生物の主要な構成要素です純粋なときは無味無臭で、非常にわずかに圧縮性の水素H2Oの液体酸化物であり、厚い層で青みがかって見え、0°Cで凍結し、100°Cで沸騰し、4°Cで最大密度と高い比熱を持ち、水素イオンと水酸基イオンにわずかに電離し、電気の伝導性が低く、良い溶媒です。 それは素晴らしい定義で、技術的には非常に正しいですが、あなたの渇きを満たすためには何の役にも立たないでしょう。私は用語の正確さには大賛成です。多くの場合、正確な表現は不可欠であり絶対に必要です。しかし、他の状況では、単に良い定義以上のものが必要です。時には経験も必要です。聖書は人生を豊かにするあらゆる情報を提供していますが、詩篇34編8節には「主がいつくしみ深いことを味わい、見よ」とあります。 有名なジャズミュージシャンのデューク・エリントンは、リズムの定義を尋ねられたことがあるそうで、彼は「それがわかっていれば、定義は必要ありません。しかし、あなたがそれを持っていない場合は、定義は助けにはなりません」と答えました。同様に、トーマス・ケンピスは、専門的な知識を超えたものが必要であることを認めた上で「もしあなたが謙虚さを欠いていて、それによって三位一体を怒らせるならば、三位一体について深く議論することができても、あなたにとって何の意味がありますか?」と述べています。 最近、「偉大なるイエス」を書きながら、イエスと父と聖霊との関係について考えていたとき、聖書は三位一体の専門的な定義を決して与えていませんが、聖書は父と子と聖霊が私たちの贖いのために調和して働くことについて何十もの記述をしていることに気づきました。同様に、イエスは聖霊について専門的な定義は述べていませんでしたが、彼はその働きと作用について多くの記述をしました。例えば: それは、信者の心から流れ出る生ける水の川のようです(ヨハネ7:38) それは、信じる者の中に住んでおられます(ヨハネ14:17) それは、教え、思い起こさせます(ヨハネ14:26) それは、証ししてくださいます(ヨハネ15:26) それは、確信させてくださいます(ヨハネ16:8) それは、導いてくださいます(ヨハネ16:13) それは、語ってくださいます(ヨハネ16:13-15) 神様に感謝します。聖霊はこれらのことをすべてやってくれます。彼がやってくれるからこそ、私たちの人生に働いておられるのを感じる特権があるのです。チャールズ・スポルジョンは、私たちの中での聖霊の働きを次のように表現しています。 このように、私たちは神の霊が私たちの心で働いているのを感じ、神が人の霊に及ぼす力を知っており、頻繁に、意識的に、個人的に接触することによって神を知っています…私たちは聖霊がいることを知っています。なぜなら、私たちは神が私たちの霊に働いているのを感じているからです。 レナード・レイヴンヒルは、「神の経験を持つ人は、議論をする人に決して翻弄されない」と書いています。考えてみてください。神のいつくしみと聖霊の力を体験したとき、理論や哲学的な立場を持っているだけの人には感銘を受けることはありません。そう、私は聖書を信じていますが、私はまた、神の御手が私の人生に触れていることを経験したことも知っています。そして、誰も私を説得させることはできません。 私のミニストリーを通して、様々な時期に人々が来て、神の臨在を感じられない、または特定の霊的な経験や季節の時と比べて神の臨在を感じられないという懸念を表明してきました。私は常に、事実を第一に、信仰を第二に、感情を第三に置くように人々に勧めてきました。私は、感情を追求したり、感情を自分の霊性のリトマス試験紙にすることを勧めたことはありません。あなたが神を「感じる」かどうかにかかわらず、神はあなたと共におられます。神の言葉は私たちの基礎であり、支えですが、私たちはその時に神の保証と存在を感じることに感謝します。 定義は私たちの理解を深めるものであり、それは良いことですが、説明はつながりと経験を促進するものです。聖霊の教義を正しく理解することは良いことですが、私たちは人生の中で聖霊の働きを感じる特権を持っています。例えば、パウロは「私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともにあかししてくださいます.」と書いています (ローマ8:16) 私たちは聖霊から、私たちが神の子どもであるという確信を得ています。彼は私たちにとって現実の存在なのです。 私は単なる感覚や、聖書の文脈から外れた経験について話しているのではなく […]
心を守る
箴言4章23節 油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。 心はあなたの価値観が存在するあなたの内なる人間の部分であり、あなたの思考、感情の源であり、そこから言葉や行動が生み出されます。 マタイによる福音書15章18節 しかし、口から出ていくものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。 心に気をつけてください。それはあなたの人生を汚す可能性のある言葉を生み出すからです。神様が語るのはあなたの心の中であり、命は心から発せられます。神様は私たちの心を素晴らしいことに備えたいと願っておられます。 神様が私たちに私たちの心を分析するよう求められるのは、神様が私たちの人生の物事をスピードアップし、私たちを新たな栄光のレベルに連れて行き、新しい季節に連れて行きたいと望んでいるからです。 悪魔は私たちの心に興味を持っています。 箴言23 章 26節 我が子よ、あなたの心を私に与え、あなたの目を私の道に注げ。 で神様は私たちに心を神様に捧げるよう勧めています。 心はあなたの人生を規定するものです。心が平和であれば、人生も平和になります。心には命のポンぺがあるため、主はそれを守るよう私たちに勧めておられます。私たちがその源を守るなら、神にあって素晴らしいものを享受できるでしょう。 享受とは、受け取って自分のものにすることです。 私たちが神様から何を享受できるかは、私たちの心から湧き出るものによって決まります。 マタイによる福音書5章8節 心の清い人たちは、幸いである、彼らは神を見るであろう。 私たちは自分の生活、家族、経済状況、人間関係において神様を見る必要がありますが、神様を見る方法は心を清く保つことです。 攻撃、恨み、憎しみ、許しのなさから守られます。 […]
なぜ祈る必要があるのか?祈らないとだめ?
「なぜ祈る必要があるのか?祈らないとだめ?」それらの質問を答えるために、様々な角度で答えることができると思いますが、この記事で私が一番焦点を当てたいのは、あなたが祈らないとものすごい力を無駄にしていることです。それで、なぜ祈らないでいることができるでしょうか。 あいにく私がクリスチャンになって気付いたのは、多くの信徒が祈りのことをあまり大切に思っていないことです。もちろん、彼らは「祈りが大事だ」と出張しますが、実際にそれを行動に移さないがために、結局何も意味がなくなってしまっています。しかし、祈らないことは、自分の力と知識以上の問題を解決できる、とても力強い武器を持っていても、それを使わないのと同じようなものです。 祈りというのは、神様と交流する方法です。祈りで私たちは神様に向かって必要していることを求められますし、また、神様の導きも受け取れます。しかし、それ以上に、私たちはこの世に大きな変化をもたらすこともできることをご存知ですか。 また、祈りを通して私たちはこの世界に気候に対しても影響を与えることを知っていますか。それに、事実、人があなたのとりなしの祈りによって救われたり癒されたりすることもあると知っていたでしょうか。 ヤコブ 5:17-18 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。 エリヤは私たちと同じ人間であったが、祈った時に天気を変えるほども力が溢れていました。一回だけではなく、二回もそれを起こしました。確かにエリヤの話を読めば、彼はどれほど素晴らしい預言者だったのかが分かると思います。 事実、彼は顕著な奇跡をたくさん行いました。しかし、エリヤは私たちと同じ人間だけでなく、私たちより劣った契約の下でも力強い奇跡が起こせました。ましてや、優れた契約の下にいる私たちはイエスの名による祈りでどれほど素晴らしいことができるでしょうか。 さらに、エリヤは、神の超自然的な力によってバールの偽預言者たちを多く殺したにもかかわらず、彼が迫害された時に、恐れを肌で感じて、一人の女性から逃げました。しかし、それでも、聖書は、エリヤの人間性にも関係なく、彼が義人であることを強調しており、義人であるために自分の祈りはとても効果的であることを説いています。 また、私が気付いたのは、多くの信徒が自分自身の祈りを信じていないことです。牧師や霊的だ思える兄弟姉妹の祈りであれば、神様に聞かれると信じますが、自分の祈りは聞かれるに値としないものだと思ってしまっています。 自分の人間性を見て、また、自分がクリスチャンとして全ての条件を満たしていないと思っているので、自分の祈りは弱く、天まで届かないと思い込みます。しかし、それは悪魔の嘘です!悪魔は、クリスチャンの祈りがどれほど強いのかを知っているので、クリスチャンが祈らないように、多くの方法でクリスチャンを騙そうとしています。 さらに、もう一つの種類の祈らない信徒がいます。それは怠惰で祈らないクリスチャンです。 残念ながら、そういうクリスチャンは肉体的であり、いつも子供の段階におり、あまり霊的に成長せず、神様から与えられた召命もあまり前進しません。いつも他人に頼り、自分の責任なのに、他人になすりつけます。 残念なことですが、その信徒は自分の立場に堅く立たないため、悪魔がやってきて、人が救われませんし、癒されません。別に牧師や兄弟姉妹に祈りのリクエストするのが悪いわけではありませんが、私たちもまず自分で立ち向かう必要があると聖書で教えています。 ヤコブ 5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。 上の聖書箇所によく注意してください。「その人は祈りなさい」と書いてあります。牧師や霊的成長した兄弟姉妹ではなく、苦しんでいる人こそが祈らなければならないとはっきり指示を与えています。 神様は怠惰に答えません。主は信仰に答えます! […]
助け主
私たちがイエスキリストを主と救い主として受け入れた時、素晴らしい存在が私たちの内に宿りました。 それが聖霊様です。 皆さんはこれがどれだけ素晴らしいことなのか理解できますか?私たちの心と生活に神の恵み、力、導きをもたらす存在です。 私たちの「内」というのは、私たちの「霊」のことです。 「我々の形に、我々に似せて人を造ろう」と神様がご自分の形に人を創造したと記されています。なので神様が霊であるなら、人間も霊です。 人間が神の形に造られていて、神は霊でもあるから、人間も霊として存在しています。神様に似せて創造された霊的存在なのです。 第二コリント人への手紙 6章16節 「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」 私たちは聖霊の住まいです。聖霊は私たちの霊の中に宿るように来られました。 パウロとペテロがキリストのからだの中で使徒として特別に召されたように、聖霊はこの世で特定の働きをするために、父なる神から特別な「召命」を受けました。 ヨハネの福音書14章26節 「しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」 ヨハネの福音書14章16節 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」 この二つの聖書箇所ではイエスキリストが弟子たちに自分はもうすぐいなくなると言われた後に私たちの助け主が来るということを伝えています。 聖霊は私たちの助け主です。助け主はギリシャ語で、parakletos (パラクリートス)と言います。この単語は“他の者の側に呼ばれた者”という意味になります。神である聖霊が、“側に召された”お方です。 聖霊は人格のあるお方でキリストを受け入れた全ての人のうちに宿っておられ、私たちにみことばを教えて、真理に導いて下さいます。聖霊の導きは航海士が船を目的地に導く様子に例えることができます。 航海中、船は途中、荒波や嵐に遭遇しますが、航海士は常に海図や潮の流れ、星の位置を頼りに航路を定め、船を安全な港へと導きます。 この航海士のように、聖霊も私たちが人生の旅で直面するあらゆる困難や試練に対して、神の御心に基づいて最適な道を示し、私たちを支え、導きます。神が私たちに望まれる使命を完遂するために、必要なときに必要な助けを提供してくださいます。 […]
変化のプレッシャーに立ち向かう
4月といえば、学校では新年度が始まります。保育園では、新しい園児たちが入園し、慣らし保育が始まります。今まで笑い声に満ちていた保育園に泣き声が響き渡るようになります。 それを見ていると、この子達は、今までお家で大好きなママとパパと過ごしていたのに心地の良い生活だったのが変化し、自分たちのコンフォートゾーンから出なきゃいけない、違う環境、違う生活リズム、知らない人たちと関わらなきゃいけなくなるという場面に立ち向かっているということです。大人も変わりはありません。園児だけではなく、先生達も変化のプレッシャーに立ち向かわないといけないんです。いろんな試行錯誤しながら、どのようにして、その子を泣きやめさせるのか、慣れさせるのか、保護者の対応やその他の業務なども考えながら過ごします。 では、その時私たちが新しい環境に対するプレッシャーを感じたり、経験をしている場合は何をしていますか?ヨハネの福音書16章33節によれば、私たちはこの世にいるだけであらゆる方面からプレッシャーを受ける。プレッシャーに立ち向かえないと感じたとき、私たちにはどんな手段があるのだろうか?困難の中で忍耐できない自分に気づいたとき、私たちにはどんな手段があるのだろうか? 霊による祈り(手段その1) ローマ8:26 同じように、御霊も私たちの弱さを助けてくださいます。私たちは、何を祈るべきかを知らないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、私たちのために執り成してくださるからです」 この聖句にある「弱さ」という言葉は、必要なことに対する自分の弱さ、無力さ、力のなさを指しています。あなたは一人ではない!結果を出すことができないと思った時は、異言で祈ることによって聖霊の助けを受けることになります。聖霊は、私たちとの協力なしに一人で取り次いでくださるのではなく、チームワークなの!聖霊は、私たちが正しい方法で、正しいことのために祈るのを助けてくださる御方です。 聖霊は私たちと共に、私たちの弱さに応え、私たちが力を発揮できないときに支えてくださる。これが、異言の祈りが重要な理由のひとつである。 全てのことが働かせて益となることを信じる(手段その2) ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。 私たちが祈るとき、物事が私たちの益となるように働き始める。神に愛されていることを知り、神の完全な御心を祈るとき、あなたの状況は神の御心と一致する。祈りによって、すべてのことがあなたの益となるように共に働くのです。 つまり、あなたは神の祝福を受けるにふさわしいということです。あなたはふさわしくないと感じるかもしれないが、あなたがどう感じるかは関係ないのです。 イエスによって、私たちは神の祝福を受けるにふさわしい者となったのだ。他人に自分を正当化する必要はない。神はすでにあなたを義と認め、神の祝福があなたに属すると決定されたのですから! 神があなたの味方であることを知る。(手段その3) ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 プレッシャーの中で、私たちは何と言おう?弱さ、無力さ、力のなさのただ中で、私たちは何と言えばいいのか?パウロは、自分が何を言うかによって、自分が何を得るかが決まることを知っていた。何を言うかによって、あなたの心と体が受ける反応が決まる。プレッシャーの中で何を言うかによって、私たちの進む方向が決まります。 神が私たちの味方であることを悟る必要がある!パウロは32節でこう続けている。“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。”。 もしあなたがプレッシャーにさらされているなら、その代価はすでにあなたのために支払われていることを知ってほしい。癒しの顕現、仕事内の環境の変化、備えの顕現、それが何であれ、神はそれを自由に与えてくださる。神はすでにすべてのものを与えてくださっている!あなたがすべきことは、受け入れ、そして受け取ることだけなのです。 イエスがあなたのためにとりなしていることを知る(手段その4) […]
Decide to grow in faith
Romans 15:13 says: “May the God of hope fill you with all joy and peace as you trust in him, […]
信仰x疑い
私たちは告白した以上のものを受け取ることはありません。信仰は告白によって成長しますが、それを超えることはありません。 正しいことを告白することは、御言葉によって新たにされた心から来る正しい考えの結果です。疑いは信仰の最大の敵で、ギリシャ語には「疑い」と訳されている言葉があります。 Diakrinoです。それは信仰が不足していること。疑いと恐れは一緒になって私たちの信仰を奪います。 聖書のペテロは水の上を歩きました。イエスは群衆にパンと魚の奇跡を起こしたあと、弟子たちに船で向こう岸に行かせました。 マタイ14:28-34 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ、助けてください」と言った。31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。34 彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。 ペテロが風の方を見て、その状況をフォーカスした時に恐れ、疑いを生じさせたことを見ることができます。 恐れと疑いはセットであり、信仰を盗みます。そして疑いは不信仰を生みます。 また、1人の人が自分の息子のために祈ってほしいと弟子たちに頼みましたが弟子たちは直すことが出来ませんでした。そこでその人はイエスの助けを求めました。 マタイ17:18-20 そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ。私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでもあなたがたにできないことはありません。 マタイ […]
私たちのアイデンティティー
1ペテロ 2:4-6 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」 1ペテロ 2:9-10 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。 ペテロは私たちがキリストにあってのアイデンティティを話しています。 イエスは私たちに救いと贖いをもたらしてくれました。イエスを受け入れる前は霊的に死んでた存在でしたが、救われました。それは、私たちが何かいいことをしたのではなく、神様から来るものです。 私たちは恵みによって救われました。 恵とは、私たちが受けるに値しなかったものが、無償で与えられるものです。 罪人は生きるに値しないものでした。なぜなら、聖書では、罪の報酬は死だと言っているからです。(ローマ6:23) しかし、神様はその状態を見て救い、永遠の命を与えてくれました。それは恵です。 その恵みは私たちのところにきて、救ってくれただけでなく、私たちが神に呼ばれた人生を生きるための条件をあたえてくれました。 先程の聖書箇所で、ペテロは私たちは聖なる国民と言っていいます。 「聖なる」という言葉は旧約聖書のヘブライ語で カドシュです。 あるもののために取り分けられる。2つのものには併用できない。あるもの専用に取り分けられ、守られる。という意味があります。 また、新約聖書のギリシャ語では、アギオスです。とても大いなるもの、とても聖なるもの、光り輝くので隠すことはできないという意味があります。 旧約聖書では、幕屋のために聖なるものが分けられました。私たちが今いる、新約聖書では、輝くもの、隠れてはいけない光です。 […]
彼が死んだとき、悲しんだ者は誰もいなかった
「彼が死んだとき、悲しんだ者は誰もいなかった。」ユダの第5代王であるエホラムの言葉です。 第2歴代誌21:20 彼は三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王であった。彼は人々に愛されることなく世を去った。人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には納めなかった。 これほどの悪名を得るには何が必要でしょうか?はじめに、彼は自分の地位を確立するとすぐ、兄弟たちや他の認められた指導者たちを皆殺してしまいました。彼の妻はアハブとイゼベルの娘の1人であり、彼は偶像崇拝と異教の聖堂を推し進めていました。彼の死後、王家の墓地に埋葬される栄誉は与えられませんでした。メッセージ訳では、上の聖句の一部をこのように訳しています 彼が死んだとき、涙は流されなかった。 30年ほど前、ある葬儀社に面会に行ったことがあります。教会にいた少し年配の男性が亡くなり、その未亡人が私にこのように言いました。「私が感情を表に出したり、涙を流したりしなくても、驚かないでください。夫は教会ではとても友好的でしたが、家ではとても気難しく、一緒に暮らすには不愉快な人でした。今、私が感じているのは、彼がいなくなって、もう我慢しなくていいんだという安堵感だけです」 その言葉を聞いたとき、私はとても胸が締め付けられる思いがしました。その人は生涯を全うしたのに、亡くなったときにそのような感想を述べられるのは、どんなに悲しいことかと思いました。 他者に祝福を与えるような人生を送っている人は、そうはなりません。箴言10:7正しい者の呼び名はほめたたえられ、悪者の名は朽ち果てる。 良い人生とはどのようなものでしょうか これとは対照的に、使徒に記されている神々しい女性がいました。彼女は王族でも、社会的な基準で高貴な地位にあった形跡もありませんでした。しかし、彼女が亡くなったとき、人々は彼女を愛し、深く悼みました。人々は、善良で親切な女性の喪失を感じていました。 ルカは、「この女は、多くの良いわざと施しをしていた。」(使徒9:36)とドルカスのことを語っています。彼女が死んで、神がペテロを使って死からよみがえらせた話は覚えていると思いますが、彼女の人生に影響を受けた人々が彼女をどのように思っていたかを忘れてはなりません。 使徒9:39 やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。” ここで注目すべき重要なことは、 私たちの影響力は、最終的には地位や肩書きによって決まるのではなく、私たちの人格と行動によって決まることです。エホラム王は、より大きな地位と潜在的な影響力を持っていたかもしれませんが、それをうまく使うことができませんでした。彼はその地位を公のため、他の人々のために使うことができたはずであったのに、そうはしませんでした。おそらく周りの注目を引きたいという自己顕示欲と自己利益のために、持っていた可能性を浪費し、無駄にしてしまっていました。 一方、ドルカは、何のポテンシャルもなかったように見えますが、彼女のシンプルで寛大な行為によって、もっともっと増やしていきました。 彼女の内面には大きな愛があり、それを表現する方法をいつも見つけていました。エホラムは全財産を持っているように見えましたが、亡くなった時には軽蔑されました。ドルカスはほとんど何も持っていないように見えましたが、祝福され、名誉を受け、尊敬されました。エホラムは(地上の基準では)多くを持っていましたが、ドルカスはもっと与えました。つまり、神の恵みにより、ドルカスは偉大な影響力を持つことができました。 影響する者になるには、まず影響されなければなりません。 神の方程式を持って、パウロは聞きました。 第1コリント […]
No One Was Sorry When He Died
“No one was sorry when he died.” That is a tough statement to hear, but it was made of Judah’s […]