1ペテロ 2:4-6
主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」
1ペテロ 2:9-10
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。
ペテロは私たちがキリストにあってのアイデンティティを話しています。
イエスは私たちに救いと贖いをもたらしてくれました。イエスを受け入れる前は霊的に死んでた存在でしたが、救われました。それは、私たちが何かいいことをしたのではなく、神様から来るものです。
私たちは恵みによって救われました。
恵とは、私たちが受けるに値しなかったものが、無償で与えられるものです。
罪人は生きるに値しないものでした。なぜなら、聖書では、罪の報酬は死だと言っているからです。(ローマ6:23)
しかし、神様はその状態を見て救い、永遠の命を与えてくれました。それは恵です。
その恵みは私たちのところにきて、救ってくれただけでなく、私たちが神に呼ばれた人生を生きるための条件をあたえてくれました。
先程の聖書箇所で、ペテロは私たちは聖なる国民と言っていいます。
「聖なる」という言葉は旧約聖書のヘブライ語で カドシュです。
あるもののために取り分けられる。2つのものには併用できない。あるもの専用に取り分けられ、守られる。という意味があります。
また、新約聖書のギリシャ語では、アギオスです。とても大いなるもの、とても聖なるもの、光り輝くので隠すことはできないという意味があります。
旧約聖書では、幕屋のために聖なるものが分けられました。私たちが今いる、新約聖書では、輝くもの、隠れてはいけない光です。
なので、神様は大いなるもので、聖なるものなので、私たちの人生の中でそれを隠してはいけない。とパウロは言っています。
「神聖さ」は私たちのアイデンティティーです。それは、私たちを通して光輝きます。
今日は、ここで、聖書にでてくるダニエルが、どのように神聖さによって歩んでいたかをみたいと思います。
ダニエルは、旧約聖書に出てくる人で、預言者エゼキエルと同じ時代、バビロン捕囚の時代に生きていました。バビロンに連れてこられ、大変な時代に生きていました。
その時代の王は宦官のリーダーに捕虜として連れてきたイスラエル人の中から、王族か貴族の若者を何人か連れてきて、王に仕える訓練をすると言いました。
ダニエル 1:3-5
王は宦官の長アシュペナズに命じて、イスラエル人の中から、王族か貴族を数人選んで連れて来させた。 その少年たちは、身に何の欠陥もなく、容姿は美しく、あらゆる知恵に秀で、知識に富み、思慮深く、王の宮廷に仕えるにふさわしい者であり、また、カルデヤ人の文学とことばとを教えるにふさわしい者であった。 王は、王の食べるごちそうと王の飲むぶどう酒から、毎日の分を彼らに割り当て、三年間、彼らを養育することにし、そのあとで彼らが王に仕えるようにした。
彼らは、捕囚でした。その時代、捕囚は連れてこられて、反乱をするか、仕方がなくその場所のやり方生き方に従うかのどちらかの選択肢しかありませんでした。
しかし、その中でダニエルは、
ダニエル 1:6-7
彼らのうちには、ユダ部族のダニエル、ハナヌヤ、ミシャエル、アザルヤがいた。 宦官の長は彼らにほかの名をつけ、ダニエルにはベルテシャツァル、ハナヌヤにはシャデラク、ミシャエルにはメシャク、アザルヤにはアベデ・ネゴと名をつけた。
ダニエルと他の若者は選ばれ、王に仕えることができるように、王が食べるもの、飲むものと同じものが与えられると言う条件が与えられました。
もしかしたら、ある人は自分は捕囚としてバビロンにいる。みんなが苦しんでいる中で、自分は王の近くにいることに選ばれた。VIP席で王と同じものを食べたり飲んだりできる資格が与えられたのは、なんていいことなんだ。と思うかもしれません。
しかし、ダニエルは違いました。彼はこのような決断をした。
ダニエル 1:8
ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。
ダニエルは偶像礼拝がされている場所にいることを知っていました。
しかし、ダニエルには、神様の教えの全てを手放して、「神様が送ったのだから」と、ここにあるものを自分の中に取り入れるという選択肢を選ぶこともできました。
それでもダニエルは自分の身を汚さないことを選択しました。
ダニエルは、全てを捨てることをせず、自分が持っている神様の力を信じました。
宦官が反対する中、ダニエルは、10日間水と野菜だけで過ごし、その後に彼に判断してもらうようつたえました。
ダニエル 1:15
十日の終わりになると、彼らの顔色は、王の食べるごちそうを食べているどの少年よりも良く、からだも肥えていた。
10日後、ダニエルたちは、体が弱まるどころか、かえって元気になっていました。
神聖さに歩むことを決断するとき、それは、決して私たちにダメージを与えません。
残念ながらあなたを神様の道からそれるように誘惑するものはだんだん増えています。
スマホとかSNSで簡単に見たり、手に入れたりできます。
しかし、そのようなものは、あなたの心を完全に満たすことはできません。
あなたの心を満たすことができるのは、唯一、神様の存在のみです。
ダニエルは自分の源がわかっていたので、一時的な思いや、誘惑に自分を売ることをしませんでした。そういうものには価値がないことをわかっていました。
あなたが、イエスキリストに属して、神様の神聖なる子供だということを忘れないで下さい。
周りに流されてはいけません。
教会にいるときは簡単ですが、外にいて、自分は少数派になるとき、それでも自分の神聖さである、アイデンティティーを守り続けられるかが重要です。
周りの圧力が怖いから、みんなと違うのが嫌だからと、あなたが持っている神の力を手放さないでください。
1ペテロ 1:14-16
従順な子どもとなり、以前あなたがたが無知であったときのさまざまな欲望に従わず、 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない」と書いてあるからです。
時々、過去に犯した罪に縛られて苦しめられてる人がいます。しかし、そのような人に神様は「愛してるよ」と言ってくれています。
神様があなたを正すのは愛してるからです。
聖霊様が送ってくれたのは、この世には困難があるが、勇敢さを私たちが持てるためです。
ヨハネ 16:33
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」
私たちがクリスチャンとして生活しているなかで、人々は疑いをかけてきます。
人々はどれだけ疑ってもいいですが、唯一、疑っていけないのは私たちだけです。
自分のアイデンティティーを疑わないでください。
あなたの人生で、神様の光を輝やかせてください。