ヤコ 5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。 クリスチャンにとって祈りというのは、非常に重要なことで、日常生活で欠かせないものです。なので祈らないクリスチャンはおそらくクリスチャンではないと言っても過言ではないと考えられます。もちろん、祈りは話題が広いので、祈りについて一つの記事で全て説明しませんし、そもそもできません。しかし、最近よく私の注目を引いたのは誰かのために祈ることです。誰かのために祈るというよりも、祈ってもらいたいという祈りの依頼です。実際に宣教師として誰かのために祈る経験は数え切れません。 まず、そのために私たちが理解しなければならないのは、祈りが一つのタイプだけでなく、様々であり、それぞれ異なる目的を果たすために、存在しており、祈り方も異なります。エペソ6:18がそれをさらに明らかにします。 エペ 6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 次に、クリスチャンがイエスキリストを受け入れることによってこの地上で支配する権威が、イエスキリストを通して与えられたことを認識するべきです。全てのクリスチャンが祈る権威、力をもっている証明できる聖書箇所が多くありますが、ここではマルコ16:15-18だけを引用します。 マコ 16:15-18 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」 ところが、祈りで全てが解決するわけではありません。それを言って、私は祈りの効果をけなそうとしているわけではありません。しかしながら、多くのクリスチャンが祈りの使い方を間違え、祈りを効果的にできていません。例えば、もしあなたが祈る時に、その動機が悪いことなら、もちろんそれは叶えられない祈りです。 ヤコ 4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 また、最近一つ気になっています。いつも誰かに「私のために祈ってください!」と頼むクリスチャンです。なぜいつも誰かに祈ってほしいのでしょうか。なぜ自分で祈らないのでしょうか。多くの場合、祈りを依頼するクリスチャンが自分の祈りに対して確信がないので、牧師や成熟したクリスチャンに依頼するのではないかと思います。また、ただ消極的で、自分で祈る慣習をもっていないためか、自分の祈りが聞かれないと勝手に思い、祈る役割を誰かに任せてしまいます。しかしながら、ここで最も明らかにしたいのは、全てのクリスチャンが祈る資格を持っていることです。牧師や、教師だけでなく、イエスキリストを受け入れた人たちは、みな同じ祈る力を持っています。 先ほど読んだように、義人の祈りが働くと、大きな力があります。では、ここでとても深い啓示を教えて差し上げましょう!イエスキリストを受け入れた人がみな信仰によって義人とされました。なので、あなた自身にもあなたが祈る度に、大きな力が働きます。 それから、祈りの依頼が来る時に、興味深いと思うのは、その人が苦しんでいるので依頼してくるでしょう。しかし、聖書箇所が一番最初に勧めるのは、その人自身が祈ることです。 ヤコ […]
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2つのタイプの人
ヨハネ3:5,6 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 イエスキリストは天の御国にアクセスできるように、秘訣を教えてくださいました。それは生まれ変わるということです。 「生まれ変わり」という言葉を初めて聞くと、どういうことなのか、様々なことを考えると思います。 イエスキリストと話していた宗教家のニコデモさえも、「生まれ変わり」が何のことなのかはっきり分かりませんでした。 しかし、イエスキリストの説明を通して大切な啓示を掴むことができます。 その啓示とは肉によって生まれた人と御霊によって生まれた人の2つのタイプの人がいることでした。その二つの違いを理解することで、聖書の解釈だけではなく、私たちの人生様式にも変化をもたらします。 まず、肉によって生まれた人は、永遠の命を得ていない、自然の人のことを指しています。別に、ある宗教に属しているからと言って、永遠の命を持っているわけではありません。それは肉によって生まれる人は普通の人で、霊的なことが理解ができないからです。 Iコリント2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 また、肉によって生まれた人は自分の視覚が行く範囲まで、または、自分の持っている知識の限りまで、生きようとしています。もし、あることが自分の知識の範囲を超える場合はそれを信じないようにします。だからといって、全てを理解しているわけではありません。ただ、そういう人は感覚によって生きるのです。なので、自分が肉体上で体験したことであり、感覚で確かめることができれば、信じることにしています。 しかし、御霊によって生まれた人は神様の命をもち、霊によって生きます。なので、霊的な人は霊的なことを理解することができます。 Iコリント2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。 ニコデモは宗教家だったにもかかわらず、霊的なことを理解することができませんでした。それは自分がまだ御霊によって生まれていなかったためです。 ヨハネ3:4,9-10 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」…ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。 同じように、現在も教会の中で、教会に通っているが、まだ御霊によって生まれ変わっていない人がいます。例えば、自分は、牧師の息子なので、生まれてからいつも教会に通い、教会で育てられたが、心からイエス様を主として告白していないため、まだ御霊によって生まれ変わっていない人もいます。その人達は、教会の活動に参加して、また、教会の人たちのように、クリスチャンらしい話し方をしても、霊的なことは深く理解できないし、神様と真の関係を持っていないのです。牧師の息子であり、教会で育てられたため、御霊によって生まれたと勘違いし、だまされています。 御霊によって生まれた人と肉によって生まれた人との生活様式の大きな違いは信仰です。肉によって生まれた人は、上に挙げたように、感覚によって生きるのです。しかし、御霊によって生まれた人は信仰によって生きるのです。 IIコリント5:7 […]
神様が愛する人に準備してくれたもの
1コリ 2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 あなたの好きな聖書箇所は何でしょうか。多くの人は第一コリント2章9節が好きだと答えるかもしれません。その聖書箇所をもって作曲された賛美もたくさんあります。私がニュークリスチャンの頃、それをよく聞き、「素晴らしいな」と思って、神様は偉大な方と実感していました。素晴らしいと思いませんか。神様は愛する人のためになんて素敵なことを準備してくれたのでしょうか。神様は偉大で完全に良いお方なので、私たちのために備えてくれたことは必ず最高なものと確信しています。 ところが、その聖書箇所には問題があります。決して聖書箇所自体が間違っているわけではなく、多くの信者は9節ばかりを引用し、その前後の箇所で言っていることを注意していないからです。もちろん、このブログでは第一コリント2章全体、そして、第一コリントの背景について全ては語り切れません。2章だけでも大切なことがたくさんあり、それについて本を書くこともできると思います。しかし、今回は9節をもってあることを気づいてほしいと思います。 第一コリント2章7,8節によると、隠された奥義や神の知恵などが語られてます。正直にいうと、多くの人はそれを理解しないため、その部分を無視してしまっているのだと思います。しかし、今回は9節をさらに深く理解するために第一コリント2章全体を読むことを強くお薦めします。 1コリ 2:7-8 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 その聖書箇所に出てくる「支配者」は悪魔と悪霊のことを指しています。もし、彼らがイエスキリストの死と復活の結果を知っていれば、イエスキリストを十字架にかけていなかったはずです。なぜなら、主イエスのいけにえのおかげで、今イエスキリストだけでなく、生まれ変わりを通してイエスキリストを信じる人も同じ聖霊を宿るようになり、聖霊の宿る宮になったからです。 要するに、悪魔は以前イエスキリストだけと立ち向かおうとしていましたが、今はキリストにあって数えきれない程の多くの生まれ変わった人たちと立ち向かわなければならなくなったということです。サタンはどれほど後悔しているでしょう。 使徒パウロが言った「隠された奥義」というのは教会のことです。誰もキリストの体である教会が現れることを予想していませんでした。旧約聖書の中で、教会のことについてのはっきりした預言もありませんでした。預言者たちにとっても奥義でした。神様はわざと誰にも自分があらかじめ定めたものを教えていませんでした。それは誰も神様の計画を妨害することがないためでした。神様はご自身と同じ性質を持ち、聖霊が宿る新しい人間を造ったということです。表面的に見ると、クリスチャンはこの世の人たちと変わりがないように見えますが、内面的に見れば大きな変化が起こりました。その人たちの性質が変わっただけではなく、イエスキリストと同様に聖霊の力も宿るようになりました。 では、今、とても深くて啓示のあることをお教えしたいと思います。9節の次に10節が来ることを知っていましたか。別にあなたをからかっているつもりはありませんが、多くのクリスチャンは9節ばかりに焦点を当て、感情的になり、その次に来る10節が見えなくなっています。 1コリ 2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 ゆっくり読みましたか。9節に語られている、神様が私たちのために準備してくれたことは、聖霊によって私たちに啓示されたと10節に書いてあります。「啓示された」が過去形であることに注意してほしいです。つまり、これから啓示されるのではなく、御霊によって既に啓示されたとパウロは教えています。これは本当に素晴らしいことだと思います。様々な人はまだ啓示されると思っていますが、私たちには実際に悟らせています。なぜそれは大切なのかというと、私たちは聖霊の交わりを通して神様を深く知ることができるのに、9節ばかりに焦点を当てているばかり、10節に教えられている神様との深い関係を無視してしまっています。”御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです”。私たちは御霊によって神様の奥義を啓示されています。 もし第一コリント2章10節から読めばどれほど深くて強い交わりを私たちは神様とできるかが分かるでしょう。 1コリ 2:11-12 […]
クリスチャンの性格って何?
最近、私は多くのクリスチャンに対して懸念していることがあります。信者として私たちはこの世と合わせてはいけないと聖書から教えられていますが、結局、私たちはこの世の人たちと同じような行動を取っているのではないかと、私は考えています。特に自分と違う性格の人と接する時、私たちは神様の愛を表すことができているのか、それとも愛の不足を正当化し、そういう人たちを避けているのかを一緒に考えたいです。 この世の人は神様の愛を知らないので、自分の性格と違う人だと、その人とかかわることを避けるのは普通ですが、クリスチャンの間ではどうでしょうか。 まず、正しくて聖い性格というのは存在しているでしょうか。クリスチャンの間でよく勘違いされているのは、おとなしくていつも丁寧な言葉を言う人はとても謙虚な人に見えることです。しかし本当にそうなのでしょうか。しつこく質問して申し訳ないのですが、一緒に聖書をもって考えたいと思うので改めて聞きたいと思います。理想的な性格というのはあるでしょうか。聖書的でしょうか。それを聞いている理由は、教会の中で理想な性格の人が求められていて、その理想に合わない人は肉的と決め付けられることがあると思い始めたからです。理想な性格の条件は誰によって決められるでしょうか。 自分が苦手な性格の人を避けるのは、健全ではないと思いますし、聖書で教える愛と違います。確かに違う人と関わると面倒なことがあります。それに相手とぶつかり合うことは不可避です。なので、聖書を見ると、神様はわざと性格が異なる人をそれぞれ造ったのではないかと思います。 箴 27:17 鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。 その聖書箇所を見るとわかるように、友だちは欠かせないものです。相手とかかわることによって成長ができ、自分の弱さが現れ、どこを改善するべきか分かります。良い刀のように、人間関係をもって自分の性格も研がれるということです。例えば、調理人はいい料理を作るためによく自分のナイフを研いでいます。それはよく研がれたナイフの方が効率よく料理を作ることができるからです。同じように神様も私たちが御国のために素晴らしい結果をもたらすために、私たちに人間関係を与えてくださいました。しかし、与えてくださった人はいつも私たちと同じ考え方や性格を持つ人だとは限られません。むしろ、自分にない能力を発展させるために、おそらく自分と違う能力を持つ人をあなたの人生に置かれるでしょう。最初はとても不快ですが、本当に成長したいなら受け入れるしかありません。 現在、パンデミックに直面している教会はとても素敵な働きをしていると思います。様々な方法で信者がみことばで養われるようにインターネットや技術を利用しオンライン活動しています。私の教会もそうしています。ところが、クリスチャンはいつもステイホームで、他の信者といっさいかかわらないことは懸念されることです。まず、人間は誰かと交流するために造られました。それから、成長するには、兄弟姉妹との交わりが大切です。しかしながら、パンデミックが起きる前も、他の人とかかわりたくないと、教会を避けていたクリスチャンもいました。それはとても危険な決断です。なぜなら、聖書にそれを裏付ける教えもないし、遠ざける羊は羊飼いから守られていないからです。 イエスキリスト自身は私たちの性格の模範です。しかし、イエスキリストさえ自分と同じ考え、行動をする人たちを選ぶどころか、全く異なる性格の人たちを集め、自分自身の弟子にしました。声が小さく、丁寧な言葉を使う人が最も霊的な人格だと勘違いしてはいけません。選ばれた12人の弟子たちを見ると、おそらく私であったら、イエスキリストは本当に自分の使徒を正しく選んだのかと疑っていたと思います。ペテロを見れば分かりますが、ペテロが一番行動力があった人にもかかわらず、言うことは極端的で愚かな場合が多かったです。多分弟子たちの中で最も感情を表した人だと考えられます。そして、クリスチャンがよく感動するヨハネはもっと酷かったと思いませんか。みことばを受け入れていない村の人たちに天から火を下し村を焼き滅びるように願っていました。しかも、弟子たちの間で、誰が一番偉いとかの話がいつも争論の原因になったりして、イエスキリストは12人の弟子たちを選んだ時に、何を考えていたのかと思われませんか。では、どうして教会の中で私たちは自分と違う性格を持つ人と認めないのですか。もしかして私たちの性格は彼らより清くて偉いものですか。 新約聖書の英雄である使徒パウロの性格も興味深いです。使徒の働きや手紙などを読むと、パウロと一緒に歩むことは簡単ではなかったことが分かるでしょう。挑戦があるばかりだけでなく、パウロの性格そのものは対応しやすいものではなかったと思います。リーダーとしていつも何でもはっきり言い、行動を求め期待する性格だったし、誰よりも努力していたので、パウロの隣にいるとどういう気持ちだったのだろうかと想像します。 聖書に出てくるのはみな人間です。神様はそれぞれ異なる性格で造り、神の目的を果たすために任命しました。それは私たちが兄弟姉妹と一緒にいるときは一人よりも強いからです。みなそれぞれが異なる能力を持ち、教会の徳を高めます。私は私と違う人を受け入れるのは神様が私を受け入れたように相手を愛することだと思います。もし、ただ相手は私と違ってその人を愛さないなら神様を愛していないことと同じです。 1ヨハ 4:20 もし、「私は神を愛しています」と言いながら、兄弟であるクリスチャンを憎み続ける人がいれば、その人はうそつきです。目の前の兄弟を愛せない人が、どうして、見たこともない神を愛せるでしょう。 わざと神様が異なる性格を造ったことを確信しています。その人たちとかかわることによって自分自身が成長するだけでなく、自分のまだ未熟な能力を発展させ、人生の目的を果たすことができます。一人より多くの人と一緒になった方がもっと遠くへ行き、効果的な働きができ、影響を与えます。苦手な性格の人を避けているなら、自分に神の祝福が現れることを阻んでいる可能性が高いです。神様が私たちにくださった出会いを受け止めていきましょう。
働け!余裕がないから
初めて日本に来た時、私の目を引いたことがあります。それは、ある夜、寮を出て少し散歩していると、あるビルの前にスペースがあり、そこで一人の男子がダンスの練習を一生懸命していたことです。初めて日本の冬を体験した私は、とても寒い夜だったにもかかわらず、あの大学生が一生懸命、何のためにかは分からないが、ダンスの練習している姿を見て、「やはり日本は武士道の国だ」と勝手に思いました。笑われると思いますが、私の母国では、寒いのに外でダンスのために努力する人を、おそらく見ることがないと思います。なので、あの光景が目に焼き付き、日本人は実に働き者だと実感しました。 教会の中でも自発的な人がいます。その人を優秀だと思います。本当は、受動的な人より、積極的な人が成長し、様々なことを達成できます。しかし、受動的な人は、神様を待ち望んでいることを常に主張し、何もせずに永遠に待ってしまい、結局、何も実現しない傾向が高いと思います。その一方で、積極的な人は教会の成長にかなり貢献します。そういう人はたくさん奉仕し、様々なグループに参加し、教会に素晴らしい影響を与えます。ところが、教会の奉仕は素晴らしくても、夢中になると奉仕の肝心な点を忘れ、それから離れてしまう可能性もあります。 牧師などといった五つの奉仕職の中で奉仕している人でも、自分の務めのみに焦点を当て、初心忘るべからず努力しているつもりでも、結局、毎日のやるべき事で忙しくなり神様との関係すらきちんと保てなくなると考えられます。さらに、自分の奉仕の重要さを主張し、説教などのためによく聖書を勉強したり他の人のためによく祈ったりしますが、神様との関係が最善するどころか、悪化してしまうこともあります。残念なことに、その理由で離婚する牧師などもいます。なぜかというと、彼らはプロフェッショナルな牧師になってしまい、神様に求められている息子としての関係を忘れてしまったからです。 イエスキリストが弟子たちを召した例を考えてみると、まず「召し」という言葉を聞いて頭に浮かぶのは、おそらく弟子たちがイエスの名で群衆を癒したり、悪霊を追い出したりすることだと思います。しかしながら、イエスキリストが弟子たちに一番最初に願っていたことは何か分かりますか。 マコ 3:14-15 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 弟子たちの最も大事な務めはイエスキリストの身近にいることでした。私たちはミニストリーのプロフェショナルになるために召されたのではありません。むしろ、まずイエスキリストと親しい関係を持つためです。聖書は誰かに語るためばかりに読まれるのではなく、神様のみこころ、そして、神様自身を知るために読まれるべきです。祈ることは、奉仕のためにもっと油注ぎを求めるものではなく、神様を愛しているからこそ神様との時間を費やすものです。 よく教会の中でポテンシャルのある人が見ますが、彼らは活動にばかり目を向けているため、奉仕がなくなると自分のアイデンティティがなくなるようです。なので、何をするか混乱してしまい、極端な場合には教会を離れることもあります。他の人は、福音のためにやっていることですが、働きすぎて常に疲れてばかりで二度と教会に行きたくなくなります。それらは全て残念なことです。 イエスキリスト自身はそういう場面で注意したことがあります。 ルカ 10:38-42 エルサレムへの旅の途中で、イエスはある村に立ち寄られました。マルタという女が、喜んで一行を家に迎えました。マルタにはマリヤという妹がいました。マリヤはイエスのそばに座り込んで、その話にじっと聞き入っていました。一方マルタはというと、てんてこ舞いの忙しさで、「どんなおもてなしをしようかしら。あれがいいかしら、それとも……」と、気が落ち着きません。とうとう彼女は、イエスのところへ来て、文句を言いました。「先生。私が目が回るほど忙しい思いをしているのに、妹ときたら、何もしないで座っているだけなんです。少しは手伝いをするように、おっしゃってください。」しかし主は、マルタに言われました。「マルタ。あなたは、あまりにも多くのことに気を遣いすぎているようです。でも、どうしても必要なことはただ一つだけです。マリヤはそれを見つけたのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 時に、私は礼拝でメッセージしている時、あるいは、個人的に誰かに相談している時に、マルタのように落ち着かない人と会います。こちらは一生懸命、聖書をもって神様のみこころを表そうとしていますが、相手は奉仕や活動のことで頭が忙しく、神様の声を聞く余裕がありません。しかしながら、神様は一番望んでいるのは、その人と交わることです。私たちが理解しなければならないのは、教会もミニストリーも全て神様のものなので、私たちはただ協力者として働いているだけです。私たちのアイデンティティは神様のためにする活動や奉仕になく、私たちのアイデンティティは神様の子供ということです。 最後に、奉仕などをそっちのけにして良いとは言っていません。もちろん、その活動はキリストの体に大切なことです。しかし、神様が語る時に、100%その語った場にいてください。体はそこにおり、心は次の仕事ばかりに向けてはなりません。弟子たちのように、まずイエスキリストの身近にいてください。それから、心を尽くして奉仕してください。私たちは主の御前で落ち着くことを学ぶ必要があります。仕事と神様との関係のバランスをよく取ることによって健全で成長ができるからです。
教会なんて行く必要がある?
教会なんて行く必要はないと思うあなたへ そもそも教会は何でしょうか。教会はヨーロッパ風で、十字架で飾られており、固いイメージを持つ建物でしょうか。または、毎週日曜日に讃美歌を歌い、説教を聞く場所でしょうか。しかし、教会というのはイエスキリストの復活の後、弟子たちに聖霊が注がれた時に、生まれたキリストの体なのです。そのことは、エペソ1章を見れば分かりますが、キリストは全てに勝る権威を持つようになった上で、その権威を教会に与えたと書いてあります。なので、教会はイエスキリストの体であり、イエス様はその体の頭です。 御霊を受け入れ、神の家族に生まれ変わった私たちは、今、キリストと繋がっています。なので、本当の教会は場所や建物ではなく、私たちのことです。私たちは神様を宿っているわけです。 教会はキリストの体として示され、それは一般的にクリスチャン全体のことを指していますが、地域教会も存在することを認識しなければなりません。認識されないと、多くのクリスチャンが勘違いしているように、私自身が教会だと主張し、教会に行く必要なんてないと思い込んでしまうからです。残念ながら、彼らは自分の内に聖霊が宿っているので牧師などの説教を聞かなくても神様の声を自分で聞こえると正当化し、教会に行かなくなります。 しかし、そこにサタンのわながあります。地域教会の存在は、エペソの教会やガラテヤの教会、ピリピの教会などといった新約聖書の各手紙に見られます。その上、イエス様自身は、黙示録2章と3章をもって、地域教会の存在を認めています。そればかりか、そこで各地域教会の牧師の存在も認められています。それを理解すると、地域教会への神様の計画と分かります。では、なぜあるクリスチャンは教会に行かなくて良いと主張するのでしょうか。 地域教会に属さないクリスチャンの理由は何でしょうか。 イエス様を受け入れたクリスチャンは、神様のみこころである聖書に従うべきだからと理解しています。なお、私たちの信仰がみことばに置かれる必要がありますが、地域教会を拒絶する人は、何を根拠としてそういう決断をするでしょうか。どの聖書箇所が「教会に行かなくて良い」ということを裏付けられますか。信仰が伴わない行動は神様に対して罪です(ローマ14:23)また、信仰の行動になるには、それが聖書に基づかなければなりません。あいにく、教会に行かないと決めた多くの人は、聖書にない訳をつけて行動を取っています。もしかしたら、自分が敏感で傷つきやすいので人間関係がうまく行かない理由で、教会を避けるようになったかもしれません。あるいは、プライドが高くて、牧師やリーダーに正されたくないため、教会に行かないことにしたかもしれません。しかし、それらは教会の必要性を否定する理由になるでしょうか。 それにしても、教会が必要ではないと主張する人は、自分自身のことだけを求めていると言っても過ちではないと思います。多くの地域教会を開拓した使徒パウロは、教会における奉仕の話するとき、このことを指摘します。 ピリ 2:19-21 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。 使徒パウロはいつもたくさんの人と開拓していたものの、テモテだけが頼れる人で、パウロと同じ心でした。もし現代の牧師たちの心を聞くなら、おそらく多くの人はテモテのような奉仕者を願っているでしょう。真に教会のことを心配し、教会のために何かをする奉仕者を求めているのではないかと思います。いつでも頼れ、務めや牧師を見捨てない奉仕者です。 さて、使徒パウロと一緒に働いていた他の人々はどうなったでしょうか。気の毒ですが、彼らは自分の牧師でありリーダーであるパウロを捨てて自分自身のことを求め始めました。それを見ると、パウロはどれほど孤独感を持ったのかを考えさせられます。そして、リーダーとして、パウロは少し厳しかったので、パウロの指導に服従したくない人もいたかもしれません。または、迫害を体験し、天から託された務めを諦めた人がいたこともありえます。 他には、ただ単に疲れた、飽きた人々もいたと考えられます。理由がどうであっても、彼らはテモテのように使徒パウロの忠実な奉仕者として思い出される特権を失いました。 自立したい!教会なんかいらないと主張する人は危険な目に合う可能性が高いと、私は思います。別に脅かすつもりはないですが、彼らは聖書に完全に逆らっているので、危険だと思います。特に近年、インターネットの普及で、自分の好きな説教を聞き、自分の未熟な部分を痛感させる説教を避けることもできるため、危険だと思います。使徒パウロはテモテに、終わりの時にそういうことが起きると注意しました。 2テモ 4:2-4 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。 現在は、まさにそうではないかと思います。多くの人は教会を避け、インターネットで自分に都合の良い、自分の意見に合う説教ばかりを聞き、好きな教師を寄せ集め、真理に背いているのではないかと考えられます。彼らは、神様の恵みばかりについて聞くのを好みますが、自分の未熟さを痛感させるような教えは聞こうとしません。また、自分は愛されているよ、祝福されているよ、何もしなくていいよ、ありのまま神様はあなたを受け入れるよなどばかりを聞き、自分自身を変える必要がないと思い込んでいます。神様はいつも優しいので、あなたが罪の奴隷のように罪を犯していても、誰にも福音を伝える努力しなくても良い、それでも神様はまだあなたを愛していますよと言いますが、それは、自分をごまかしていることにすぎません。 私は別に誰もけなすつもりはないです。むしろ、一人でも多く救いたいと思っています。また、別に私の教会に来なさいとも言っているわけでもありません。あなたは、聖霊に導かれ、聖書を真に語られる、また、聖霊の働きを大事にする教会を選ぶことが必要です。しかし、もうお気づきかもしれませんが、私たちが生きている時代は残酷です。「自分が可哀そうなのでしょうがないから」などの教えは神様からきません。だからこそ、私たちは、誠実で真理を教える牧師が必要です。時が良くても悪くても、戒め、真実を語り、聖書を教える霊的なお父さんが必要です。 […]
危機から機会へ
私は、以前の記事で危機が来た時、私たちは機会を生み出すことができるという話をしていました。前回言ったように、危機が来るのは不可避です。しかしながら、挫折して絶望するより危機から機会を生み出す方が良いと思います。 残念ながら、多くの人は特に、自分の仕事のことを心配し、どのように請求書や、家賃などを払うかを恐れてたまりません。ただ嘆いてばかりでは、状況に何の変化ももたらしません。それより、危機を乗り越える方法に焦点を当てる方がもっと効果的です。 あなたは危機の中をポジティブな考え方で通ると決断するとき、成功の道に近づいていると言っても良いでしょう。危機からいくつかの利益を見ることもできます。 まず、危機はあなたを考えさせます。あなたは今まで快適な場所にいて、自分の人生に不都合なことがなく、安定していましたが、はたして自分の人生の目的を果たすことができていたでしょうか。 次に、危機は自分の持っている能力を磨き、改善するチャンスを与えます。さらに、古い考え方を新しい考え方に改善するチャンスも与えます。 また、危機の中で本当のリーダーシップが現れます。多くの人は自分の快適な場所から取り出され、今までの生活のパターンも壊されることで、自分の中にある眠っていた賜物を呼び起こされます。 危機は新しい生活様式を生きる機会を与えます。よく考えてみると、危機からあなたの人生の目的を果たす機会が生み出されます。もしかしたら、あなたは今まで平凡な人生を送り、現在の仕事に慣れ、満足をしていると自分に偽りを言っていたかもしれません。危機は神様から与えられたものではないと確信していますが、危機から学べることも多いと思います。また、それは自分が成長する機会です。 ヤコ 1:2-3 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上ない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 逆境に直面するとあなたの頭も体も心も解決する方法に対して敏感になり、危機はあなたのビジョンの情熱に火をつけます。そして、厳しい挑戦の中であなたの心は普通より鋭くなります。なので、次のことを考えてほしいです。周りの人は、あなたが克服し、勝つと言うことをあてにするのではなく、あなたが、すでに生き抜き、克服したことに信頼を置くのです。危機を通った後は、あなたは今より強くなります。 あなたの人生に起こるものは全て一時的なもので、永遠には留まりません。現在の状況も過ぎ去ります。それで、厳しい時からこそ、自分の考えのパターンを変えるチャンスです。古い考え方は解決を生み出しません。今まで通りに生きていればあなたはその状況に飲み込まれます。しかも、あなたの仕事は危機に覆われている社会に必要とされないかもしれません。なので、あなたは仕事に希望を置いてはいけません。あなたの仕事は、人から与えられ、あなたはその仕事をすることによって報酬が支給されます。また、あなたが仕事で得た能力は今、必要とされないかもれません。しかし、神様があなたに与えた働きはあなたの人生の最後まで必要とされます。 聖書には退職について書かれていません。仕事であれば時期が来れば退職しますが、聖書で教えるあなたの働きはあなたが果たすまで終わりません。つまり、聖書に書かれている人たちは自分の働きが終わった時に、この地上を去って天国に行きました。イエスキリストの人生をはじめ、パウロやペテロなど、他の弟子たちも同じでした。彼らは自分の人生の目的を果たし、終わった時、退職したのではなく、天国に連れて行かれました。 私が言いたいのは、おそらくあなたは、今まで仕事に頼り、ひとまず安定した生活をしていたでしょう。しかし、そこに危機がやってきて、状況が全て自分の手に負えなくなったと思っているでしょうが、神様はその状況に少しも震えていません。むしろ、神様はあなたに託した賜物が働くならあなたが全て状況を乗り越えることを知っています。それは神様があなたを創った時、あなたが直面する状況やあなたが持っている賜物、能力などを知っており、キリストにあってあなたを圧倒的な勝利者にしたからです。 最後にこれを思い巡らせてほしいと思います。あなたの仕事とあなたの働きは違うものです。もちろん、仕事は大事だと思います。イエスキリストさえ大工の仕事をしていた期間がありましたが、人生の最後まで召された働きをしました。また、このことも理解すべきだと思います。それは、仕事をすることで給料が出ますが、あなたの働きは繁栄をもたらしますことです。危機は快適ではないけれど、あなたが創作力を持つようになる機会を与えます。また、それよりも、あなたが本当の人生の目的を探し求めることを促します。それは、あなたの仕事が必要とされなくなったとしても、神様から与えられた働きはあなたの人生の目的でいつも必要とされるからです。 起き上がって!神様の御国のために働いていきましょう!
危機の機会
働く」ということを聞くと、あまり良いイメージを持たない傾向が高いと思います。一般的に、「働く」ことは面倒くさいと思われ、職場のことを考えれば、鳥肌がたつ人もいるでしょう。しかし、仕事がどれほど大変であっても、毎月の家賃などを支払うために、しなければなりません。また、特に危機の時に仕事がなくなると、さらに苦しくなるので、無職より仕事があるだけましです。 危機と言えば、多くの危機は仕事と直接関連があると思います。よく考えると、多くの人は仕事を通じて自分の価値を決めつける傾向があり、生きるために仕事をします。仕事が好きでもそうでなくても、関係がありません。とにかく仕事をしなければならないと思っています。しかし仕事がないと、絶望的になります。金銭的に困り、家族が崩壊し、平安を失い、何もうまくいかなくなります。 ところが、危機は不可避です。自分の損失を嘆いても、あなたの状況に何の変化をもたらさないし、逆にさらに酷い状態になる可能性が高いです。なぜなら、重要なのはあなたがどういう目で危機を見ているかということだからです。あなたの見方によってあなたが成功するか否か決まります。 「危機」の言葉をよく見ると、その熟語の終わりは「機会」の言葉の始まりと考えられます。つまり、危機を終わりにしたいなら、まず危機から機会を作ることが重要なのです。 危機を乗り越える方法に深く入る前に、「働く」ことについてもう少し考えたいです。多くの人は働くことに対して悪いイメージを持っているのは、自分の人生の目的が明らかではないからです。なので、面倒くさいと思いがちです。 自分の人生の目的を理解するためには、その創造主のことを知る必要があります。なぜかというと、私たちを造った神様は、ある目的を持って私たちを造ったはずだからです。例えにするとしたら、誰かある電気製品を作る時、利用者が適切に使えるように、製品と共に説明書も送ります。私たちも自分の人生の説明書である聖書を持っています。なので、聖書が私たちについて何を書いているのか見てみましょう。 創 1:26-28 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 人間は神様と同じ性質を持って造られた被造物です。しかしながら、それだけでなく、この世を支配するために造られ、ある使命も任されました。それは、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」簡単に言えば、それは私たちの人生の目的です。別の言葉を使って言うと、神様は私たちを働くために造られました。私たちは自分の使命を果たすと達成感もでき、全てを意味します。 次に、もう一つの重要な点は、あなたの仕事とあなたの働きには違いがあることです。それらは同じことではありません。あなたが午前9時に会社に入り、午後6時に会社を出て、毎月給料を受け取り、仕事に人生をかけ、65歳以上になったら退職するのは、あなたの仕事です。しかし、それはあなたの働きではありません。なぜなら、あなたの働きはあなたの人生の目的と繋がっているからです。 神様はあなたが働くために、あなたを造りました。なので、働くことによって自分の人生の目的を果たすことができるのです。あなたが働くことで充実した人生を送ることができる上に、あなたの周り、この世の人たち、また、神様の国も祝福されます。 仕事をすることで様々な経験を得ることができ、スキルも身につけられます。また、仕事もあなたの働きを貢献することがあります。しかし、仕事がなくてもあなたから働きがなくなることはありません。それは、働きはあなたの内にあるからです。要するに、仕事がなくてもあなたは働くことができます。それで、どのような危機に直面してもあなたは栄える機会を生み出すことができます。あなたはそのために造られたからです。そしてあなたが働くことによって、神様の祝福が放たれます。仕事をすることによってあなたは支給を受け取りますが、働くことによって神様があなたに繁栄をもたらします。 今回のブログは前半だけです。今度改めてこの課題について一緒に考えたいので、見逃さないでください。
コロナに負けるな
全世界は今、非常に大変な状況に直面しています。テレビをつけるとコロナに関するニュースばかり放送しています。今のイタリアやスペインの状況を見る度に心が痛みます。結局、頭が恐ろしいニュースでいっぱいになり、自分も伝染病に移ってしまうのではないかと恐れてしまいます。 そんな状況を見るとき、昔、イスラエルの民に起こった話を思い出しました。それは、十の災いという実話です。当時、エジプトで奴隷とされたイスラエルの民は神様の選ばれた国で、自由にされる直前、エジプトの不従順のせいで、十の災いにあいました。神様はエジプトのパロに神様の民であるイスラエル人を自由にしなさいという命令を出しました。十の災いはなんて恐ろしい体験だったでしょう。しかし、イスラエルは神の選ばれた民なので、神様に守られ、災いに影響されませんでした。しかし、このような状況下にいたので、恐ろしい光景を生で見ていました。 最後の災いとして、神様はイスラエルの民にある指示を与えました。この時代、いけにえの習慣は普通だったので、子羊の血を取り、「その血を家々の戸口の両わきの柱とかもいに塗る。血は、その家で食べる子羊のものを使うこと。」(出エジプト12:7‐リビングバイブル)それから、家で家族全員が子羊を焼いて食べました。その夜はとても怖い夜で、家族全員が自粛をし、恐れに囲まれていた状態だったが、まだ見えない自由を宣言しました。 家の両わきの柱と、かもいに血が塗られた家は、その夜神様に守られましたが、血が塗られていなかった家々には死が入り、その家族たちの長男を殺しました。その後で、やっと当時エジプトを収めたパロが悔い改め、神様の民を奴隷制度から解放し自由にさせました。 これは、ユダヤ教の中で過越し祭として知られており、神様が自分の民を守って解放されたという記念日です。 今月、過越祭がお祝いされますが、現在、過越祭はさらに深い意味を持たれていると思います。ちなみに過越祭は現在、イースターとしてよく知られています。西洋の方では、よくお祝いされていますが、日本ではほとんど知られていない祭りです。 先程のお話に出てきた、羊の血は、神様との契約と意味があり、子羊の血を塗られた家にいる家族は、「私たちは神様の者です」と宣言していることになり、彼らが神様を信じて信頼していたことの証です。神様はそれを見て、彼らが信頼し、全てをささげているので、神様は自分の民を守って解放しました。 それを理解するとき、過越しの意味をさらに深く理解できると思います。イエスキリストがユダヤ人であり、ちょうど過越祭の時に、十字架につけられました。聖書にはこのように書かれています。 1コリ 5:7 私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。 要するに、イエスキリストが十字架で死んだのは私たちのためです。 これを聞いて、「えっ!?これらの話は、最初に挙げた今日のニュースやコロナと何の関係があるの?」と疑問に思うかもしれませんが、私にとって全てが関連していると思います。恐ろしいことが起こっている今だからこそ、あなたに励ましたいです。あなたの信仰を奪われてはいけません! イエスキリストの血を自分の心に塗っている人たちは全員救われます。今年の過越祭、つまり、イースターは4月12日にお祝いされます。イスラエルの民のように、私たちも大変な状況の中にいますが、先程の話を思い出してください、自分の家を羊の血を塗った人たちは、家族全員が守られ、無事食事をしていました。 なので、神様と契約を持っている人、すなわち、神の羊であるイエスキリストを受け入れた人たちは、守られています。聖書にある全ての守りの約束は私たちにも当てはまるのです。安心してください。もうすぐイースターが来ます。私たちの神の子羊であるイエスキリストは自分の民を迎えに来ます。 もしあなたがまだ、自分の心に神の子羊の血を塗っていなくて、これからは神様との関係を持っていきたいと思うなら、今、自分の口でこの簡単な祈りをすれば、イエス様はあなたと食事することができます。イエスキリストはそう約束したからです。 一緒に祈りましょう。 イエス様、 あなたは、神様の民を救うために来た神の羊であること信じます。 私の心に入ってきてください。 私の主と救い主となってください。 […]
怠け者のクリスチャン
私たちは、クリスチャンとして、信仰に生きるために召されました。 ロマ 1:16-17 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 「福音は神の力」と、読むと心が踊り、楽しくてたまりません。しかも、それは、日本人であってもなくても、あなたが福音を信じるなら、神様のみことばの力を体験することができます。もちろん、救いだけでなく、日常生活で、信仰によって神の力を燃え立たせることができます。聖書では「福音のうちには神様の義が啓示されている」と書かれています。それは、あなたが信仰を実行しながら霊的に成長して進んで行くからです。 信仰なしでは、私たちは神様を喜ばせることすらできません(へブ11:6)。信仰は私たちのライフスタイルなので、聖書では「義人は信仰によって生きる」と4回も堅く提示されています。(ハバ2:4;ロマ1:17;ガラ3:11;へブ10:38) では、どうすれば信仰によって生きられるのかという疑問が出てくるかもしれません。その答えを、簡単に言うと、ロマ1:16が教えている通り、福音を信じれば良いのです。つまり、神様のみことばを信じれば信仰によって生きることになります。 しかし、残念ながら、多くのクリスチャンは信仰によって歩んでいるどころか、ほとんどが肉体的に歩んでいます。 要するに、この世の人のように普通に生きていて、自分は霊的な者だという認識さえもしていません。責めるような表現に聞こえるかもしれませんが、私はそのようなクリスチャンを「怠け者のクリスチャン」と呼びます。なぜそう呼ぶかというと、彼らは信仰を実行する努力したくないからです。 イエスキリストの弟子たちも同じように、たまに怠け者のような態度をとったのでイエスキリストに強く叱られました。 マルコ 4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 この話の背景をさらに詳しく理解するために、マコ4:35から5:1まで読むことを勧めますが、今回はある部分だけを深く分析したいと思います。 主イエスは、聖霊様に動かされ、弟子たちに「船で向こう岸に渡ろう」と指示を与えました。しかしながら、主イエスが群衆にたくさんのみことばを教えていたため、途中で疲れて船尾で寝てしまいました。 すると、急に天気が悪くなり、恐ろしい嵐や、大波が起きたため、弟子たちは死にそうだと思って絶望していました。彼らは主イエスを起こすと、主イエスは激しい大雨に強く命じて天気を落ち着かせました。その後、上に挙げたように、弟子たちを叱りました。 その場面から、私たちが理解できるのは、主イエスは、弟子たちがあの激しい状況下で、何かしらの態度をとることを期待していましたが、その期待が満たされなかったことです。 なので、主イエスは不満に思い、弟子たちに「信仰がないのは、どうしたことです」とはっきり話しました。 弟子たちはいつも主イエスの教えを受けて、模範であるイエスの姿勢や振る舞いを見ていたので、信仰が使えるはずなのに、信仰の行動をとらなかったのです。 むしろ、弟子たちは、厚かましく、主イエスがなんとかしてくださるはずだと考えて、主イエスに責められるほど、怠けていました。 […]