私は山梨県に住んでいた時、ある姉妹が私と同じ教会に通っていましたが、その姉妹にはとても興味深い習慣がありました。同じ日曜日に少なくとも二つの違う教会に行く習慣でした。最初、問題はないだろうと思いました。それは、私たちがみなキリストにあって神様の家族ですし、兄弟姉妹が交わりを持つことに何も悪いことがないと思ったからです。しかし、時間が経つと、その姉妹は教会の皆との関係が気まずくなり、牧師は結局、姉妹と話をし、実際にどの教会に通うのかを尋ねたところ、その姉妹は、「自分がキリストの体の一員なので、教会は一つ」と答え、さらに、「どの教会に行っても大丈夫でしょう」と牧師に言い返しました。 確かにその姉妹が言ったことには間違いがないように聞こえますが、私は聖書の教えに合わないと思いました。また、問題は、多くのクリスチャンがその姉妹と同じ思考を持っていることにも気付きました。そして、特に未熟なクリスチャンにはそこに罠があります。 私はまだ若いクリスチャンであった時に、多くの教会に訪問する習慣がありました。別にそれは悪いことだと今も思っていませんが、ある時期、私は二つの教会に同時に通うようになったこともありました。一つは地域教会として、日曜日に通っていましたが、若い人たちと交流するために、また別の教会に通い始めました。 その過去の習慣に関して、現在の理解で意見を出すとしたら、私から確かめられることは一つです。それは私がその当時まだ霊的に未熟だったことです。さらに、あの段階では私を模範として扱うことができなかったと思います。 結論からいうと、クリスチャンが様々な教会に行きたいと思っている理由はいくつかあります。 まず、自分自身が教会に対して責任を持ちたくないことです。 一つの教会に通うとなると、その教会に忠実に奉仕したり、指導者に報告したりする必要があることに気づき、それらを避けるために、距離を置き、同時に他の教会に通うようにし、好きなところだけを楽しんで、何も責任感を抱かないようにしています。 要するに、子供の段階に留まっていたいということです。 しかし、福音書を少しでも読んでいるなら、そういう態度は神様にどれだけ好まないのかが分かります(参考:マタイ25章14~30節)なぜなら、神様が望んでいるのは、全ての信者が成長し、キリストの体に貢献ができるようになることだからです。つまり、私たちが実を結ぶことです(参考:ヨハネ15章1〜8節)しかしながら、同時に様々な教会に通う人は奉仕することが面倒だと思い、実を結ばない道を選んでいます。 また、もう一つの問題は牧師に服従することです。 様々な教会に通っているクリスチャンの多くは、服従に関する悩みがあります。確かに服従することは挑戦的ですが、神様の御心です。また、神様の命令は重荷ではないと聖書に書いてあるので、(第一ヨハネ5章3,4節)まず、全ての信者が理解しなければならないのは、牧師がキリストによって立てられた聖職者であり、その牧師の年代や性格や国籍や教育などに関係なく、イエスキリストに遣わされた人であれば、その牧師に服従することはイエスキリストに服従すると同じだということです。 ヨハネ 13:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。 なので、牧師に反抗することは神様に反抗することなので、気を付ける必要があります。そして、神様は、牧師も人間なので、完璧ではなく、失敗する者だと分かっていますが、それでもあなたの牧師は神様に選ばれた者であり、あなたが通っている教会に責任があります。 へブル 13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。 牧師に正され、教えを受けることは良いことです。しかし、肉体的な習慣を捨てたくない人は矯正を軽蔑し、それを拒むでしょう。なのでパウロはそういう人について警戒しなさいと命じました。 最後に、山梨県の姉妹の発言に関して、どこが正しくないのを一緒に考えたいです。 […]
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主の家に行こう!
私は、イエスキリストを受け入れた時にPaul Wilburという歌手の賛美をよく聞いていました。当時私は高校生であり、毎週日曜日に教会に行く時にUp To Jerusalemという賛美を家族で歌いました。その賛美は詩篇122章に基づいて作曲された賛美です。その詩篇はこう言っています。 詩篇 122:1 人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。 父が教会に行くことを楽しみにし、この賛美を歌っている姿が、私の記憶にまだはっきりあります。なぜなら、私たちにとって教会に行くことは楽しいことだからです。教会に行き、兄弟姉妹と賛美を歌い、メッセージの時に、みことばに完全に集中し、霊的に養われ、礼拝が終わったら、良いレスランで食事することにとても満足を感じられました。そして、礼拝後に少し兄弟姉妹と交わりを持ち、みことばの話や普通の話をしたりなど、嬉しかったです。 今、大人になり、また、聖職者にもなって、私の注目を引いたのは、なぜ、クリスチャンの家族の間で、多くの子供が教会に来ることを楽しくないと思うようになり、教会に行かないことを決断したのでしょうか。それは親の影響もあるかもしれません。小さい子供は親が教会に通うことに関してどういう姿勢と態度を取っているかを常に見ており、影響されていると思います。なので自分の娘が教会に対して興味を失わないように、妻といくつかのことを決めました。 まず、教会に行く日に、私たちは週の中で、その日を最も大切にすることを決めました。なので、それも娘に私たちの態度と姿勢で伝えようとしています。遊園地よりも、教会に行くことは楽しいというメッセージを娘に伝えたいからです。また、私たちも教会に行くことを楽しんでいることを娘に表したいです。なぜなら、もし娘は、私たちが教会に行くことを辛いとか大変とかと思ったら、娘も教会に行くことが大変だと思い始め、なぜ、わざわざ毎週、教会に行く必要があるのかと思うでしょう。なので、私たち親は自分の姿勢と態度にきちんと気を付けなければなりません また、毎週日曜日になるべく他の用事などをその日に入れないように努力しています。それは、「日曜日は教会に行く日だ」と娘にはっきり伝えたいからです。それに、バタバタし、感情的にならないようにするためです。旧約時代にユダヤ教の人は安息日として土曜日を完全に神様に捧げる習慣がありました。その日に、他の仕事をせず、家族と過ごし、みことばを思い巡らしました。別に律法のように私たちは土曜日を守る必要がないと思いますが、その原則を大切にしなければならないと思います。そのために、私たちは日曜日に教会に行く前に、自分自身の準備のために祈りが必要があり、その時間を持つことを大事にしています。その時に、礼拝のために、その日に会う兄弟姉妹と牧師のためにお祈りします。日曜日はゆっくり神様と過ごすからです。娘は私たちが親としてそういう時間を大切にしていることを見る必要があります。そもそも親は子供の模範だからです。 最後に、娘をわくわくさせるために、その日にだれに会うか、また何をするかを伝えます。なので、とても仲の良い友達や教会の大好きなお兄さんたちとお姉さんに会うことを伝えます。それから期待をもたせるために、一緒にわいわい喜びます!もちろん、友達と一緒にみことばを学び、一緒に賛美し、遊ぶことを伝えます。それは教会が楽しいからです。娘に教会が葬儀のような所だという印象を与えたくないです。また、聖職者として私は教会で様々なトラブルを対処する必要があります。それは、簡単なものでもなく、時にはとても疲れることもあります。しかし、娘はそれを理解できる段階になっていないため、私は聖職者の仕事が重いものだという印象を与えないように、知恵をもって伝える方法を学ばなければなりません。また、クリスチャンとして信仰をもって、いつも喜んでいる姿と愛をもって、誰でも我慢し、耐え忍ぶ模範を私は娘に与えなければなりません。なぜかというと、多くの子供が教会に行くを諦めるのは、親がいつも牧師に関しての不満を言い、また兄弟姉妹の悪口を言っているからです。そうすると、子供は親の悪い手本を見、教会に行きたがらなくなります。 キリストにあって愛する兄弟、教会に行こうと聞いたら詩篇のダビデのように喜んでください!教会が大変なことのように思っているなら、見直してください。教会は楽しいからです。そして、教会で楽しい生活を送るために、まず自分自身が喜ぶ必要があることを忘れないでください。また、あなたは教会生活で取っている姿勢と態度があなたの周りに影響を与えることを常に思い出してください。それは周りの人も自分の大切な家族も救いに導くチャンスです。人の救いの邪魔にならないように気を付けましょう!
神様に恋をする
あけましておめでとうございます あなたが今年、神様との関係をもっと深くなり、そしてあなたの人生を通してより多くの人が祝福され、救われ癒されることをお祈りし求めます。 クリスチャンとして私が他のクリスチャンと交流してよく悩んでいるのは、彼らが本当にクリスチャン生活を楽しんでいるか、またそれによって充実に生きているかどうかということです。 多くの人はサークルのように教会に行っていますが、はたして礼拝で聴いているメッセージから神様のいのちを受けて取っているでしょうか。実際に、私自身が気を付けているのは、信仰生活を活動的なものとして行わないことです。つまり、私は、クリスチャンとして、ただ教会の活動をするために存在しているわけではないということです。私がクリスチャンになったのは唯一の神様と関係を持つためです。 特に牧師は、クリスチャン生活をただの活動として生きる傾向が高いと思います。それには、メッセージを用意するときだけに祈ったり、一生懸命聖書を勉強したりすることが当てはまります。だからこそ、私は他の誰よりも、活動家にならないように気を付けています。 私が神様を求めるのは、日曜日にメッセージするからではなく、毎日神様を、きのうよりさらに深く恋をするように求めたいからです。教会を指導するためだけに、導きを求めるのではありません。私は神様を喜ばせたくて、よりに深く神様を知りたいので、神様との時間を費やします。私はプロフェッショナルの牧師ではありません。私は、イエスキリストが言った真の礼拝者です。私は神様の子供です。 ヨハネ 4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 真の礼拝者は、神様を礼拝するための場所と時間は制限されていません。真の礼拝者はいつでもどこでも真と霊をもって神様を礼拝します。また、どのように神様を喜ばせるかを常に思い巡らします。 事実、真の礼拝者は一日中、神様を喜ばせる方法を考えています。そして、自分が行なっていることが全て神様の計画であるのかを考慮します。なぜなら自分の時間と行動を少しも無駄にしたくないからです。真の礼拝者は神様に恋しているからです。 2コリント 4:18 私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。 この通りです。私たちは神様に恋をしなければなりません。そして、日々を重ね、さらに恋をするべきだと思います。なぜなら、私たちに永遠のいのちを与えてくださる唯一の方は神様だからです。また、私たちが、一切神様を求めず、神様に相応しくない罪人であった時にでも、神様は私たちを愛してくださり、恵みの上で私たちを救ってくださったからです。どうしてその素晴らしい神様を愛さないのでしょうか。 2テモテ 1:6 それですから、私はあなたに注意したいのです。私の按手をもってあなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。 ある人はこう考えるかもしれません。「私はイエスキリストを受け入れた時、とても情熱なクリスチャンだったですが、最近、聖書を読む気もありません」。しかし、神様への恋の炎を燃え立たせる責任は私たちにあります。 おそらくどこかで妥協して、ぬるい霊的生活になってしまったのではないでしょうか。事実、私たちは愛の歩みで失敗して、そこで悔い改めないと、少しずつ霊的に冷めてしまいます。また、聖書を読む時間、また、祈る時間を大切にしない時、自分が気付かないところで、かなり神様の臨在から離れてしまいます。なので、どれほど忙しくても、神様との交流の時間を惜しみなく費やしてください。確実に神様を愛しており、神様を第一にしたいと思っているなら、犠牲を払う覚悟しなければなりません。 […]
口を守れ
東京いのちの言葉教会では、先日「山を動かす信仰」というシリーズを終了しました。 私は、信仰について勉強し、理解するのは、クリスチャンにとって欠かせないものだと思います。残念ながら、多くの教会であまり信仰について教えられていないか、もしくは、定義のみが教えられていると感じます。しかし、聖書が教える信仰はクリスチャンのライフスタイルであり、信仰がなくては神様に喜ばれないと書いてあります。(へブル11:6) ローマ 1:17 「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 へブル10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。 ガラテヤ 3:11 「義人は信仰によって生きる」のだからです。 信仰はクリスチャンのライフスタイルであるなら、私達は信仰の土台を正しく知る必要がある上に、信仰を実践する必要があります。なぜなら、ただ自分が信仰を持っていると主張するだけで、行動が伴わないなら、あなたの信仰が無駄になるからです。 ヤコブ 2:17 このように、信仰に行いが伴わなければ、その信仰は死んだも同然です。 なので、まず私達の教会のYouTubeチャンネルにアクセスし、「山を動かす信仰」のシリーズのメッセージを確認することを深くおすすめします。 今回、あなたに注目してほしい点は、信仰が私達の口にする言葉と直接関連していることです。私達が言うことは、全て信仰か不信仰かに関わっています。それを理解するためにこちらの聖書箇所をご確認ください。 マルコ 11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。 ローマ […]
今日の予定はどうですか?
私が、神様に立ち返り聖書を読み始めた時に、最も知りたかったのは、イエスキリストの人生のことでした。それを知るために、4つの福音書を読み始め、その中で、イエス様が弟子たちを呼びかける場面に出会いました。 その中でも、私の注目を引いたのは、イエス様がある人のところに行き、その人と初めて出会ったにもかかわらず、すぐその人に「私についてきなさい」と招いた箇所です。 また、さらに不思議だったのは、その人もイエス様の招きに応答し、全てを捨て、イエス様についていき、イエス様の弟子となったことです。 しかし、よく考えてみたら、その人たちの個人の人生はどうだったでしょうか。 彼らは、イエス様に招かれた日に予定や仕事などはなかったのでしょうか。また家族などはどうだったでしょうか。イエス様のことを何も知らずに、よく全てを捨て、ついていったなと、私はいつも思っていました。 確かに、弟子たちは、イエス様のことを詳しく知らなかったものの、イエス様に何か特別なことがあることに気づいていたと思います。というのも、弟子たちを呼びかけたのは、救い主である、全能なる神様の子です。何て光栄なことだったでしょうか。 当然、弟子たちはイエスキリストについていくことにより、人生が完全に変わりました。新しい冒険が始まり、毎日、直接イエス様から新しいことを学びました。そればかりか、彼ら自身がイエスキリストと親しい関係を持つことができたため、彼らもイエス様に任命され、多くの人に影響を与えられ、神様の御国の拡大に大いなる貢献ができました。さらに、福音のために全てを捧げた弟子たちにイエス様はとても偉大な約束もしてくれました。 マルコ10:28-30 ペテロはイエスにこう言い出した。「ご覧ください。私たちは、何もかも一切を捨てて、あなたの弟子になりました。」イエスは言われた。「よく言っておきますが、確かに、わたしのため、福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、あるいは財産までもささげた人は、すべてその何百倍もの報いを受けます。今のこの時代には、たとい迫害されても、家、兄弟、姉妹、母、子、そのほか財産が、すべて本当の価値となり、後の世においては、永遠に神様から祝福を頂くことができます。 それに加え、弟子たちはイエス様と生活を共にしていた間、生活のために必要なものが全て備えられました。その例として、イエス様はペテロと自分の税金をも納め、また、食べ物がなかった時に、パンと魚を増やし、弟子たちにも群衆にも与えたことなどがあります。御国のために全てを捧げ、イエス様に従うことがどれ程素晴らしいか体験ができるようになりました。なぜなら、神様の御計画はいつも私達の計画より優れ、勝っているからです。 ところが、イエス様の招きを断った人もいます。あまり詳しくその人の話をしませんが、聖書箇所を引用します。 マルコ 10:21-22 イエスは心から彼に同情して言われました。「あなたには、たった一つだけ欠けたところがあるのです。さあ、家に帰って財産を全部売り払い、そのお金を貧しい人たちに分けてあげなさい。そうすれば、天に宝をたくわえることになるのです。それから、わたしについて来なさい。」このイエスのことばに、その人は顔をくもらせ、悲しそうに帰って行きました。たいへんな金持ちだったからです。 クリスチャンになってから、私が気づいたのは、教会の中に様々な人がいることです。正直にイエスキリストを受け入れ、生まれ変わった人も多くいると思います。しかし、その全ての人が、イエス様の「ついてきなさい」の招きに応答している訳ではないことにも気付きました。 多くの信者は、ある程度、神様からの祝福を楽しめるまでの教会生活で満足しているようですが、残念ながら、彼らがまだ理解していないのは、ただ少しの祝福を楽しむのではなく、彼らを通して祝福を与える人になることで、また、その恵みで多くの人の人生を変化をもたらすようになるのが神様の御心です。 事実、イエス様は全ての信者を福音の拡大のための協力者として呼びかけていますが、あいにく自分のスケジュールしか考えていないクリスチャンが多いです。 様々な牧師と話してみてください。教会の中で奉仕し、心が一つになっているのは何人ですかと聞いてみてください。おそらく20%は協力しているでしょうが、他の80%はどうですか。教会生活を楽しみたい、メッセージで祝福されたいと思っていますが、教会の使命とビジョンまで決心したくないと思う人が多いのではないでしょうか。また、ただ、皆と仲良くできる程度まで奉仕する人もいますが、大宣教命令のために決心していない人もいます。なので、もし奉仕が面倒と感じたら、彼らはすぐ諦める傾向が高いです。 パウロも素晴らしいリーダーでした。もちろん、現在、パウロの下で訓練されたいと言うクリスチャンが多くいると思います。しかし、当時、本当に信頼ができる、完全に使命のために自分の時間も都合も捧げた人は一人しかいませんでした。。それはテモテです。 ピリピ […]
演奏する前に、自分のギターをチューニングした?
私は高校生になる前に、クリスチャンになり、そこであるクリスチャンの歌手にとても影響を受け、ギターを弾くのを学び始めました。最初、私にとってかなり大変なチャレンジはギターをチューニングすることでした。 いつも友人にお願いをしてギターをチューニングしてもらっていましたが、私もチューニングのやり方を学んだことにより、耳で聞いただけでギターの調子がわかるようになってきたと思います。 もしギターの調子が悪く、少しでも外れた音を聴くと落ち着かなくなりました。 私は、礼拝で何度か賛美をリードしたことがあり、その時ギターをチューニングしないで演奏してしまったために、音程が外れたまま賛美し、ギターの音が気になることがありました。そういう時は、賛美しづらくなるので、なるべく賛美をリードする前に、ギターのチューニングを行い、音程が外れているところがないかを確認します。 楽器を弾く方は、おそらく私の気持ちに同感できるのではないかと思います。また、ギターで一つ興味深い点は、ギターは弾いても弾かなくても、ギターの音程が必ず外れてしまうので、毎回伴奏する時に、チューニングをする必要があるということです。 私が、ここで自分のギターに関する経験を分かち合いたい理由は、私達も神様の手にある楽器のような存在だからです。神様が私たちの人生を美しく弾くためには、私達で自分自身をチューニングする必要があります。 もし、私達の人生の音が外れていると、神様は私達を通して美しいメロディーを弾くことができません。では、私達はどのように自分の人生をチューニングすることができるでしょうか。 一番最初にチューニングする方法は、みことばを通して自分の考え方を一新することによるものです。日々、聖書を読み、みことばを思い巡らし、それを宣言することによって、何が神様を喜ばせるか知るようになり、それを実践することができるようになります。 ローマ 12:2 また、この世の人々の生活態度をまねてはいけない。むしろ、神の御心は何なのか、何が善で、何が神に喜ばれ、何が完全であるのかを見分けることができるために、心を一新して、変えていただくがよい。 また、自分の人生をチューニングするにあたって、とても大切な手段があります。それは聖別の祈りによるものです。聖別の祈りというのは、神様に自分自身を捧げる祈りです。特に、何かの目的を果たす時、神様に仕える時やこれから何か大事な決断をしなければならない時などにする祈りです。しかし、それは特別な時だけにする祈りではなく、むしろ、いつもしなければならない祈りだと思います。実際に毎朝、目を覚ます時にするべき祈りなのではないかという程です。 先ほど言ったように、ギターは弾いても弾かなくても、必ず音程が外れてしまうのですが、演奏する前に、ギターをチューニングするとことで、確実に美しいメロディーが奏でられます。同じように、私達もいつもキリストの体に奉仕しているので、聖別の祈りをする必要があると思います。そして、もし、逆にあなたがキリストの体に奉仕していないのであれば、さらに聖別の祈りをする必要があります。なぜなら、メロディーも認識できない程になり、自分の人生の音程が究極的に外れてしまっているかもしれないからです。 私たちは皆、美しいメロディーを奏で、それを聞いている人が祝福されるように、自分自身の人生によってキリストの体を祝福するために召されました。 イエスキリスト自身も何回か聖別の祈りをしたことがあります。12人の使徒を任命する時に、イエスキリストは一晩祈ってから、使徒たちを任命しました。また、十字架にかかる前に、自分自身の志を献身して父なる神様の目的を果たすためにその志さえをも捧げました。 ルカ 22:42 「天のお父様。あなたに不可能なことは何もございません。どうぞ十字架に掛るというこの苦い杯を飲まないでもよいように、わたしから取りのけてください。けれども、わたしが願っていることよりも、あなたの御心が成りますように。」 イエスキリストの人生を見ると、聖霊に導かれ、神様を喜ばす人生を送ることがどれほど大切なのかが分かります。全世界の歴史を変える12人の任命はとても重要だったので、少しでも彼らが任命を外れていたなら、大きな間違いになったかもしれません。しかし、イエスキリストは完全に父なる神様の御心を成し遂げたかったので、神様の御心の理解ができるまで、休まずに何時間も聖別の祈りをしました。つまり、主イエス自身も神様の目的のために自分自身をチューニングしていたことになります。 残念ながら、多くのクリスチャンはいつも神様の心を聴くための時間がないと言い、何でも自分の思ったまま、決断してしまいます。結局、自分が選んだ道に苦労がたくさんあり、それを後悔して、そういう時にまた神様に向かって神様の助けを求めます。しかしながら、最初から神様の導きを求め、聖別の祈りをしていたなら、おそらくそれらの苦労に直面する必要がなかったでしょう。 […]
最近クリスチャンになった人へ
私の牧師は「クリスチャンでいることは豪華です」とよく言いました。なぜそういう言葉を使ったのかといつも興味深く感じていました。しかし、イエスキリストを受け入れ、クリスチャンになった人は、全く新しい人生を受けいれ、また、その新しい人生の中に利点ばかりがあるので、もちろんクリスチャンでいることは豪華です。それを証明するためにいくつかの聖書箇所を引用したいです。 ヨハネ 1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 まず、クリスチャンになることは神様の子供となることなので、それだけでもかなり深い意味が持たれていると思います。それは、宇宙も全世界を創造した神様の子供になるのがどれ程素晴らしいかと考えさせるからです。 ハガイ 2:8 銀はわたしのもの。金もわたしのもの。――万軍の主の御告げ―― また、神様が全てを創造しただけでなく、全てを持っておられるお方なので、その意味で豪華すぎると思いませんか。それに加えて、私達の必要性をみなご自身の富をもって、満たしてくださることを約束してくださっています。 ピリピ 4:19 また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。 クリスチャンでいることは豪華なことなので、それを知らずにいれば損だと思います。 また、神様が私達に何を用意して下さっているかを知るには聖書を読むことが不可欠です。なぜなら、聖書に「みことばを思い巡らす人は成功する」と書いてあるからです。 ヨシュア 1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。 残念ながら、多くのクリスチャンは聖書を読んでいないため、あまり霊的に成長しておらず、逆境が来る時に自分に与えられた霊的な武具を使うことができなく、神様が何を約束してくださっていることも知らずに、絶望したりします。しかしながら、信仰の上でみことばで養われたらそのクリスチャンが敗北することはありません。なので、私が深く推薦したいのは、毎日聖書を読み、それを思い巡らし、学んだことを行動に移すことです。そうすることによって、あなたは必ずいつも勝利に導かれると信じます。 そして、多くの人はクリスチャンになる時に、自分が神様の恵みや臨在に相応しくないと思ってしまうことがありますが、そういう思いを受け止めないでほしいです。なぜなら、イエスキリストが死んでよみがえった理由はあなたが神様の恵みに値する人となるためで、あなたは神様の全ての祝福を受け取るに相応しくなったからです(コロサイ1:12)。過去の過ちを忘れても問題がなく(IIコリント5:17)、自分も霊的に成長しているので、たまに失敗したりすることがあります。しかし、犯した罪を悔い改めて神様に告白すれば十分です(Iヨハネ1:9)。それ以上、他にする必要はありません。 次に、深く励ましたいのは、教会に通い、牧師からみことばを教わることです。それは聖書的な教えだからです。 […]
成功の秘訣
もし成功の秘訣が本当に存在するなら、あなたはどうしますか。成功するために、人生をかける覚悟ができているでしょうか。おそらく、成功したくない人は一人もいないと思います。もし「成功したくない」という人がいれば、かなり強い表現ですが、偽善者だと思います。人は誰でも成功したいと思うものです。なので、たくさん勉強し、一生懸命働いて、家族のために良い物を備えようとします。「成功したくない」という人は、おそらく自分を謙虚な者として見せようとしているか、人生で色々苦労したり失敗したりしてしまい、今は精神を滅ぼすまで努力しないと決めたかと思います。しかしながら、私達は本当なら成功したいと考えているはずです。 成功し、栄えることは別に悪くありません。むしろ、神様自身はみなに成功し繁栄してほしいと願っていることを、今日は聖書をもって証明したいと思います。 読んでくれている皆さんに「あなたが成功しても良い」と言っている3つの聖書箇所を紹介したいと思います。他にもたくさん聖書箇所あげることができますが、今回は、旧約聖書から新約聖書まで「成功の秘訣」を教えながら、その3つの聖書箇所に書かれている真実を信仰の上で受け取ってほしいです。 まず、私の大好きなヨシュア記の聖書箇所をあげます。ヨシュアは、神様に約束された地に入る前に、使命が成功するように、神様にこう命じられました。 ヨシュア記 1:8 この律法の書を、あなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさまなければならない。そのうちにしるされているすべてのことを守り行うためである。そうすれば、あなたのすることで繁栄し、また栄えることができるからである。 「律法の書」と書いているところを「みことば」として理解していただきたいです。なぜなら、「律法」は当時、イスラエルの民に与えられた神様のみことばだからです。また、律法は現在、旧約聖書の始まりの部分なので、「律法の書」を「みことば」に変えても間違いではありません。その理解をもって、皆さんに、改めてヨシュア記1:8を読んでいただき、質問したいと思います。 あなたの成功はだれにかかっているでしょうか。 答えを見つけたでしょうか。多くのクリスチャンは残念ながら、成功や繁栄に関して完全な理解ができていないため、成功していないことを神様の責任にし、自分の人生がうまく行っていないのは「それは神様のみこころです」というような言い方をしてしまっています。しかし、それは偽りであり、みことばでも裏付けできません。 最初に、上に挙げた質問を、聖書箇所を見ながら、答えましょう。あなたの成功は「あなたのすることで」と書いてあります。つまり、あなたのすることによって、あなたは繁栄するかしないかに分かれます。なので、あなたが成功しない理由は神様にありません。次に、また質問させてください。 ヨシュア記1.8であなたは、何をして成功することができると分かるでしょうか。 自分で読んで答えを見てけられたでしょうか。その聖書箇所に関してさらに分かりやすく理解できるように、別のバージョンを引用します。 ヨシュア記 1:8 人々に、律法をいつも思い出させなさい。まずあなたが、昼も夜も律法を忘れず、それを完全に守るよう心がけなさい。模範を示し、どんなことも律法どおりきちんと行わなければならない。成功するもしないも、すべてその一点にかかっている。 第一歩としてあなたの成功はみことばにかかっていることが既に分かったと思います。まず、みことばを読み、理解し、それを口で宣言する必要があると書いてあります。私は「あなたの口から離さず」と書かれているこの箇所が大好きです。 正にその通りです。みことばを心から守るには、そればかりを言う必要があります。しかし、みことばを宣言するためには、みことばを知る必要があります。もし、みことばに何が書いているか分からなければ、それを宣言することができないでしょう。あいにく、今まで出会ったクリスチャンの中で多くの人は、みことばを知らなかったため、敗北しているように、いつも色々なことで苦労して悲しい人生を送っているようです。また、神様は彼らに最高で幸せな人生を計画してくださっているにもかかわらず、彼らはそれを知らないため、最高な人生を楽しめておらず、サタンに苦しめられています。 ヨシュア記1:8で神様は私達に「成功の秘訣」を教えてくださっています。昼も夜も毎日みことばを思い巡らす必要があります。その次の行動はみことばの知識にかかっているからです。ここで、思い巡らすことはどういうことなのかを少し説明したいと思います。ヨシュア記1:8によると、みことばを思い巡らすことは、みことばを知り、みことばを読み、それを昼も夜も考えて、口にすることです。イエス様も教えたように、口に出ることは心に満ちているものです(マタイ12:34)。もしあなたの心がみことばで満ちているなら、状況に問わずいつもみことばを口にするでしょう。 次に成功するためには、ただみことばを知り、言うだけでは足りません。もちろんそれは大事ですが、全てではありません。多くの人はみことばを知っていることを自慢しますが、それを実践しないなら無駄です。あなたはいくら聖書を宣言していても、信じている通りに歩まないなら、何も効果がありません。なので、みことばを完全に守るように心がける必要があります。状況を問わずにみことばの通りに歩めば、最終的にあなたは必ず成功します。ヨシュアも約束された地を獲得するために、与えられた通りにみことばを守り、色々大変な挑戦をしましたが、最終的に、神様が約束してくださった通りに、約束の地を獲得できました。 […]
種蒔きの法則
あなたは種を植えた経験がありますか。おそらく学校で教わったのではないかと思います。子供のころ、私は豆の種を巻いたことがあります。一週間未満で伸びた種の芽を見て私はとても興奮した思い出があります。もちろん当時も都市化しつつでしたが、現在の子供は、ますます農業の知識から離れていると思います。ですが、私たちは種蒔きの法則から離れることは不可能です。多くの人は意識していないだけで、人間は日々種蒔きの法則の下で生きています。ただ単に気づいていないのは、種の種類が多くあるということです。 創世記 8:22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。 種蒔きの法則を定めたのは神様自身です。つまり、地の続く限り、種蒔きと刈り入れはやむことはないと定められています。なので、何かを刈り取りたいなら、まず種を蒔く必要があります。当然、何も蒔いていないなら、何も刈り取れません。 そして、もう一つ興味深いことがあります。農業者は、りんごの種を蒔いて、葡萄を刈り取ると期待をしません。りんごの種を蒔いたなら、当たり前にりんごを刈り取ることを期待するでしょう。また、種の種類によりますが、一個の種を蒔いて、何倍かの実を刈り取ることは普通です。とうもろこしの種の例を挙げると、一個種が十個以上のとうもろこしを刈り取れます。それに、一個のとうもろこしに何十個の種があります。それを考えると不思議と思わないでしょうか。 ここまで、農業を考えて、いくつかの例を挙げましたが、種は物質的の物だけではありません。霊的な種もあります。霊の上で、種を蒔いて刈り取ることもあります。なので、聖書でよく種蒔きの教えが示されています。イエスキリストもよく種蒔きの法則をもって教えをしました。 今回はあまりに細かく種について語るつもりはないので、簡単に言うと、言葉や行動やお金などが種として見なしても問題ありません。例えば、よく教会で引用されるIIコリント9:6をもってパウロはお金を種蒔きの法則に当てはまった献金の教えをしました。 2コリント 9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。 それを読んで、なぜ多くのクリスチャンんは経済的に苦しんでいるか分かると思います。種蒔きの法則に当てはまるお金を蒔いていないからです。種を蒔く代わりに、種を食べてしまっているので、結局、経済的に何も刈り取っていませんし、いつも支援を必要とされています。実際に、聖書は経済に当てはまる種蒔きの法則の教えが多いです。ただ、明白に「種蒔きの法則です!」と記載されていませんが、種蒔きの法則です。例えば、箴言にもよく見られます。 箴言 11:24-25 新改訳聖書 ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。 箴言 11:24 リビングバイブル 惜しげなく人に施しても、ますます金持ちになる人もあれば、財布のひもを固く締めても、一文無しになる人もいます。物惜しみしない人が裕福になります。人を潤すことで、自分も潤うのです。 (ちなみに、上に二つの聖書バージョンを出しました。私はよく利用する新改訳聖書とリビングバイブルです。両方にも同じことが書いてありますが、リビングバイブルの方が理解しやすいので、リビングバイブル版を挙げました。一方で、新改訳聖書版の方が原本に近いので、聖書の勉強のためによく利用します。しかし、理解がしづらい場合、リビングバイブルのように理解しやすいバージョンを読むのもありだと思います。とにかく、クリスチャンになったばかりの方は最初、リビングバイブルを読んだ方が良いのではないかと思います。) 箴言11章24,25節を読むと、そこは第2コリント9章6節の種蒔きの法則と同じ教えだと気づくと思います。 […]
教会の奉仕について
1ペテロ 4:10-11 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。 神様はクリスチャンそれぞれに賜物をを託しました。何のために賜物が私たちに託されたかというと、もちろん神様があがめられるためです。つまり、私たちは自分の属している教会で奉仕することによって神様を礼拝することができます。なので、「礼拝」の概念を考えてみると、それはただ教会に行って、みなで賛美を歌って牧師からメッセージを聞くのではなく、神様があなたに与えた賜物を用い、その賜物をもって兄弟姉妹を祝福することによって、それも神様を礼拝する方法の一つです。 あいにく多くのクリスチャンは教会の奉仕に関わっていません。理由はたくさんありますが、その中でいくつか挙げるとすると、例えば、時間がないとか、私には賜物なんてないとか、面倒くさいとか、兄弟姉妹と関わりたくないとか、返しに時給をもらわないとか思う人がいます。昔、ある調査でそれぞれの地域教会のわずか20%の会員が本当に奉仕に献身していると分かりました。それを聞いた瞬間に私は悲しく思いました。なぜただ20%だけしか教会の奉仕に関わりたくないのかと自分を伺いました。私はクリスチャンになってから、教会で奉仕している人たちのように私も何かしたいと思い、最初教会のコーラスに入りました。そのおかげで、歌に関することをたくさん学べましたし、友達もでき、その奉仕することによって霊的に成長することもできました。あの時、小さな奉仕でしたが、「主は私をこの務めにつかせ、忠実に奉仕する者と認めてくださいました」(第1テモテ1:12リビングバイブル)そして、奉仕ながら主に日本への宣教師として招かれたことが分かりました。 クリスチャンは誰でも教会の奉仕のために何か貢献することができます。ある裕福な男性はクリスチャンになって家族とある教会に通うことになりました。数か月わたって彼はいつも教会でメッセージを聞いていましたが、ビジネスマンだったので、別に教会のために才能がないと思ってしまい、教会を通っていただけです。しかしながら、通うだけで、少しずつ教会に、また、みことばに前あった熱意は冷えてきました。何かが足りないと思って、クリスチャン生活が退屈になってきました。しかし、ある日、そのビジネスマンは教会の庭を世話することになり、牧師先生と相談したら、毎週土曜日に教会の花の世話が彼に任せられました。失いかけた教会への情熱が一気に燃え立たせられました。結局、あの裕福な男性は教会の奉仕に惚れて、自分の仕事より、奉仕のことに情熱をもって毎日土曜日が早くくることを願うようになりました。それから日曜日に礼拝に出る時に、いつも家族と自分が世話していた花を確認し、教会がさらに美しくなったことを見て喜んでいました。 神様が喜ぶのは私たちが喜んで奉仕することです。ある人は、教会の奉仕はしていますが、いつもつぶやいて、喜びなしで、強制的に奉仕してしまいます。正直にいうと、その人は奉仕のことを辞めた方が良いかもしれないと言いたい程です。なぜなら、その悪い機嫌とつぶやきのせいで、他の兄弟姉妹も悪影響されるかもしれないからです。しかし、辞めるよりもその人が態度を変えるのは、神様が望んでいることだと思います。それは、神様が辞める人に喜ばせないからです。しかも、神様はいつも私たちの最善を信じているので、私たちが悔い改めることを期待しています。 ですから、言いたいのは、あなたの奉仕が神様にとっても自分の属している教会にとって非常に大切だということです。私たちが奉仕する目的は特に誰かに褒められるためでも認められるためでもないです。また、利益のために奉仕するのではありません。むしろ、神様を喜ばせたくて、神様をあがめたくて、奉仕します。それに、あなたが持っている賜物が自分のためではなく、互いに仕え合うために与えられました。なので、私が奉仕することによって教会が祝福される上に、私も兄弟姉妹の奉仕によって祝福されます。要するに、奉仕しない人はある程度まで霊的な成長にすることができますが、奉仕する人は、兄弟姉妹と関わりみことばを実践するため、大きく成長ができます。また、そういう人たちが神様に忠実なので、もっと大きな物が任せられるとイエスキリストが教えました。(マタイ25:14-30を読んでください) また、ある人たちと、同じことをしないように注意してほしいのは、彼らは大きな招きをもっていると信じ、教会で小さな奉仕を拒むことです。例えば、「私は大きな教会の牧師に任命されたので、教会の子供を世話するに招かれていません」と言います。そういう小さな奉仕に招かれていないと言いながら結局教会で頼まれる奉仕に何も関わらないようにしてしまいます。しかし、神様が報うのはへりくだって小さなことでも忠実に奉仕する人です。なので、もしあなたの牧師さんや指導者に何か頼まれているなら、神様をあがめる機会、また、自分の霊的な成長する機会として見直してください。 結論として、あなたが持っている才能や賜物をもって利益を求めず、またみなに認められたり褒められたりするためではなく、神様をあがめるために、奉仕を通して兄弟姉妹を祝福してください。そして、いつも自分の心を吟味してください。なぜなら、神様が喜ぶのは忠実に自発的に喜んで奉仕する人です。なので、小さな物でも任せられたら、神様をあがめる機会として見てください。最後に、自分の健康も家族との関係も犠牲にするまで奉仕しないでください。それは神様に求められていないので、良くバランスを取る必要があります。そして、私たちが教会で奉仕するのは救われるためではなく、神様をあがめたくて、キリストにある兄弟姉妹のために自分自信を祝福になりたいからです。