妬みはどこから来るのか

「妬み」という漢字は「女へん」に「石」と書きます。これを見るときに私は「えっ?」って少しなるのですが、もしかしたらこの漢字を考えたのは男の人かもしれません。(笑)

冗談はさておき、今日は妬みや嫉妬について聖書はどういっているか、少し学んでいきたいと思います。

聖書で書かれている人物が皆、素晴らしく、優秀で妬みや争いがなかったかというと、決してそうではありません。聖書でもバチバチした妬みや嫉妬はありました。

では、「妬み」とは何なのでしょうか。人は知らないうちに妬んでいて、それが何かを深く考えることをしていないと思います。

「妬み」という感情は、自分と誰かを比較する事から起こり、「あの人はできるのに、自分はできない」、「あの人は持っているけど自分は持っていない」「あの人はしてもらっているのに自分はしてもらえない」このように、他人と比較することによって、妬みの感情がわいてきます。

 まず、妬みとは「他の人の成功などを自分の事の様に喜べない心」です。聖書では他の人が成功したとき、ローマ12:15 「だれかが幸せで喜んでいる時には、いっしょに喜んであげなさい。悲しんでいる人がいたら、いっしょに悲しんであげなさい。」と言っています。残念ながら、時に人は一緒に喜ぶより、一緒に悲しむことの方が簡単なことがあります。一緒に喜ぶ時、自分の事の様に喜ぶとき、本当の愛がそこにあります。「あの人は成功しているのに、私は何で?」と思うとき、「いっしょに喜ぶことの出来ない心」になってしまっています。

また、妬みは憧れや尊敬とは全く違うものです。憧れや尊敬は相手の素晴らしさを認め、称賛することです。「自分もあの人のように頑張らないと」と思わせる心です。しかし妬みは「その物自体を欲しがるばかりでなく、相手がそれを持っていなければいいのにと思う心」です。なので、その人を困らせるために奪ったり、壊したりします。人間関係の拗れによる殺人事件が多いのもそのせいです。

ある人達は「愛してるから妬んでしまう」や「愛情の一部」などと言いますが、上で言った妬みは決して愛情表現ではなく、自信や信頼が欠けることによるものです。「私は無力なのか」「必要とされていないのか」そういった不安に駆られる時、自分を見て欲しいが為に妬んで注意を引こうとします。

例えば、子供がいて1人の間は親からの愛情をたっぷりもらいますが、弟か妹ができて、両親がその子の世話で忙しくなると、上の子は急に甘え出したり、自分も見て欲しいから注意をひこうとします。それは「兄弟ができたから自分はもう可愛がってもらえないんじゃないか」という不安から来るものです。

聖書にも妬みの例があります。サウル王の話です。サウルがかわいがっていたダビデは次々と戦争で大勝利を収め、ある時、戦場から帰って来た時、民はサウルとダビデを褒め称えて迎えます。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と。 この言葉を聞いた時、今までの愛やすごいと思っていた気持ちが一瞬にして妬みに変わってしまいました。「その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった」と聖書に書かれています。これがきっかけとなり、やがてサウルはダビデに対して殺意を抱き、実際に殺そうとします。

それは、サウルが劣等感を持ち始めたことや、今まで自分を信頼していた民はダビデを信じて、ダビデに取られてしまうのではないかという証拠のない勝手な不安から来るものでした。

  どうでしょうか。サウルとダビデの状況に陥った時、どんな行動やどんな気持ちを持つでしょうか。しかし、聖書は私たちの人生のマニュアル本なので、どのように打ち勝っていくか、どうすればいいか教えてくれます。

では、何が正しい妬みの解決方法でしょうか。聖書は何と言っていますか。このコリント13章では「愛は人を妬みません」と語り掛けています。神から来る本当の愛があるならば、人は次第に妬まなくなります。神から来る愛は、見返りのない偽りのない愛で、いつも相手にベストを求め、与える愛です。反対に、人間の愛は限界があり、もっと欲しい、与えて欲しいという吸い取る愛です。

 神様の愛こそが妬みを克服するのです。愛の支配は、妬みの侵入を護ります。神様の愛を受け取り、その愛で人を愛そうとすることが、妬みに対しての最高のバリアです。

神様の愛は海の水のようにかれることがありません。そこから必要な愛を受け取りましょう。