ペンテコステの日曜日の少し前に、牧師の友人が私にテキストメッセージが送れられてきて、使徒行伝の第二章で弟子たちに起こったことで彼らがどのように変わったかについて私の考えを尋ねました。つまり、聖霊に満たされるという重大な出来事の前後で、彼らはどうだったかという質問でした。 私がすぐに考えたのは、元の12人の中で最も衝動的で率直であるペテロのことでした。彼はいつも自分の意見を述べた最初の人であり、ボートから降りてイエスと一緒に水の中を歩こうとした最初の人でした。イエスが捕らえられた夜、彼が主と知り合いであることを3回否定したとき、彼の人間の強さの限界がわかります。聖書に記載されていることは、ペテロの強さと感情の深さを明らかにしています。 マタイ26:74-75 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。 75ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。 ルカの記述では、ペテロが3回目に否定した時のまさにその瞬間に起こったことの重要な詳細を言い足しています。 ルカの福音書 22:61-62 「その瞬間、イエスはふり向き、ペテロを見つめました。ペテロは、はっと我に返りました。「明日の朝、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言うでしょう」と言われたイエスのことばを思い出したのです。 ペテロは外へ走り出て、泣きくずれました。 私たちの多くは、イエスがどのようにペテロを美しく回復させ、主の羊を養うという召しを再確認したかという話をよく知っています(ヨハネ21:15-19)。そして、ペンテコステの日に、ペテロはグループの代表者として立ち上がり、イエス・キリストの死、埋葬、そして復活を大胆に宣言しました。その日、三千人の魂がその言葉を受け取り、神の家族に連れて来られました。ペテロの人生に違いをもたらしたのは、聖霊が彼に臨んだ後に彼が力を受けたとだという事を理解することができます。(使徒1:8) しかし、ペンテコステにはさらに多くの事がある ペテロに変化をもたらしたことが重要だったのと同じくらい、弟子たちの「ペンテコステの前」と「ペンテコステの後」の全体的なイメージは、はるかに変わりました。聖霊の力はペンテコステの日に来たのではなく、個々の説教者が力をもって説教できるようにするためでした!それは、はるかに大きなイメージがあり、それはすべての信者を含みます。 ペンテコステ以前は、弟子たちは団結することに本当に苦労していました。弟子たちはしばしば、身勝手で自己主張が強かったからです。 3つの異なる機会に、イエスが弟子たちを注意しなければならなかったのは、彼らのうちで誰が最高かを言い争っており、そのうちの1人が最後の晩餐で起こったからです。復活の直後、ヨハネは自分がペテロよりも足が速いことを指摘し、ペテロよりも先に墓に到着しました。(ヨハネの福音書20:3-8) ペンテコステ以前は、弟子たちは肉欲的なエネルギーを持っており、しばしば間違ったように使われていました。 ペテロはゲッセマネの園で男の耳を切り落としました。 ヤコブとヨハネは彼らを迎えてくれなかった村に火をつけたいと思いました。また、 彼らはイエスを見たいと思っていた幼い子供たちから逃げようとしました。そしてヨハネは他の誰かがイエスの名前を使って人々を傷ついた人に仕えるために使わないように要求しました。なぜならその個人は彼のグループの一部ではなかったからです。 これらの表現はすべて肉欲的であり、イエスはそれらを注意して正しました。 […]
本当の自分を知る事
クリスチャンの中には救いを頭だけで理解し、そこでストップしてしまっている人がいます。神様が計画している道を知らずに、また果たしてほしいことを知らないままクリスチャン人生を生きている人達が多いです。 もっと神様が私達に行ってくれたことを知る必要性があります。 神の御心を知らないため、多くのクリスチャンは苦しみ、病気、貧困の人生を過ごしています。 神様の御言葉の聖書箇所はこのように書かれています。 ホセア4:6 わたしの民は知識がないために滅ぼされる。あなたは知識を捨てたゆえに、わたしもあなたを捨てて、わたしの祭司としない。あなたはあなたの神の律法を忘れたゆえに、わたしもまたあなたの子らを忘れる。 聖書の原点を一緒に見てみましょう。 神様はこの世界を造った人です。私達一人一人を造りました。 神様は私達を造ったとき、彼の命を私達に与えました。私達は神の命があります。 私達は神様に似せて造られたので、神様は私達の天のお父さんです。 神様には性質があり、私達が造られたときに、神様と同じの性質を私達に与えました。なので、神様のDNAを持って造られました。 神様は人を造った後に、人に任務を与えました。それはこの地の管理を託すことでした。 創世記2:15 神は、人をエデンの園の番人にし、その管理を任せました。 神様は人を祝福し、園にあるすべての果物を与えました。しかし、たった1つだけ人に掟を与えました。 その掟は聖書箇所に書かれています。 創世記 2:16-17 ただし、一つだけきびしい注意がありました。「園の果物はどれでも食べてよい。だが、『良心の木』の実だけは絶対に食べてはいけない。それを食べると、正しいことと間違ったこと、良いことと悪いことについて、自分勝手な判断を下すようになるからだ。それを食べたら、あなたは必ず死ぬ。」 多くの人は、なぜ神様は良心の木を園の中に置いたのかと疑問があると思います。 […]
働け!余裕がないから
初めて日本に来た時、私の目を引いたことがあります。それは、ある夜、寮を出て少し散歩していると、あるビルの前にスペースがあり、そこで一人の男子がダンスの練習を一生懸命していたことです。初めて日本の冬を体験した私は、とても寒い夜だったにもかかわらず、あの大学生が一生懸命、何のためにかは分からないが、ダンスの練習している姿を見て、「やはり日本は武士道の国だ」と勝手に思いました。笑われると思いますが、私の母国では、寒いのに外でダンスのために努力する人を、おそらく見ることがないと思います。なので、あの光景が目に焼き付き、日本人は実に働き者だと実感しました。 教会の中でも自発的な人がいます。その人を優秀だと思います。本当は、受動的な人より、積極的な人が成長し、様々なことを達成できます。しかし、受動的な人は、神様を待ち望んでいることを常に主張し、何もせずに永遠に待ってしまい、結局、何も実現しない傾向が高いと思います。その一方で、積極的な人は教会の成長にかなり貢献します。そういう人はたくさん奉仕し、様々なグループに参加し、教会に素晴らしい影響を与えます。ところが、教会の奉仕は素晴らしくても、夢中になると奉仕の肝心な点を忘れ、それから離れてしまう可能性もあります。 牧師などといった五つの奉仕職の中で奉仕している人でも、自分の務めのみに焦点を当て、初心忘るべからず努力しているつもりでも、結局、毎日のやるべき事で忙しくなり神様との関係すらきちんと保てなくなると考えられます。さらに、自分の奉仕の重要さを主張し、説教などのためによく聖書を勉強したり他の人のためによく祈ったりしますが、神様との関係が最善するどころか、悪化してしまうこともあります。残念なことに、その理由で離婚する牧師などもいます。なぜかというと、彼らはプロフェッショナルな牧師になってしまい、神様に求められている息子としての関係を忘れてしまったからです。 イエスキリストが弟子たちを召した例を考えてみると、まず「召し」という言葉を聞いて頭に浮かぶのは、おそらく弟子たちがイエスの名で群衆を癒したり、悪霊を追い出したりすることだと思います。しかしながら、イエスキリストが弟子たちに一番最初に願っていたことは何か分かりますか。 マコ 3:14-15 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 弟子たちの最も大事な務めはイエスキリストの身近にいることでした。私たちはミニストリーのプロフェショナルになるために召されたのではありません。むしろ、まずイエスキリストと親しい関係を持つためです。聖書は誰かに語るためばかりに読まれるのではなく、神様のみこころ、そして、神様自身を知るために読まれるべきです。祈ることは、奉仕のためにもっと油注ぎを求めるものではなく、神様を愛しているからこそ神様との時間を費やすものです。 よく教会の中でポテンシャルのある人が見ますが、彼らは活動にばかり目を向けているため、奉仕がなくなると自分のアイデンティティがなくなるようです。なので、何をするか混乱してしまい、極端な場合には教会を離れることもあります。他の人は、福音のためにやっていることですが、働きすぎて常に疲れてばかりで二度と教会に行きたくなくなります。それらは全て残念なことです。 イエスキリスト自身はそういう場面で注意したことがあります。 ルカ 10:38-42 エルサレムへの旅の途中で、イエスはある村に立ち寄られました。マルタという女が、喜んで一行を家に迎えました。マルタにはマリヤという妹がいました。マリヤはイエスのそばに座り込んで、その話にじっと聞き入っていました。一方マルタはというと、てんてこ舞いの忙しさで、「どんなおもてなしをしようかしら。あれがいいかしら、それとも……」と、気が落ち着きません。とうとう彼女は、イエスのところへ来て、文句を言いました。「先生。私が目が回るほど忙しい思いをしているのに、妹ときたら、何もしないで座っているだけなんです。少しは手伝いをするように、おっしゃってください。」しかし主は、マルタに言われました。「マルタ。あなたは、あまりにも多くのことに気を遣いすぎているようです。でも、どうしても必要なことはただ一つだけです。マリヤはそれを見つけたのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 時に、私は礼拝でメッセージしている時、あるいは、個人的に誰かに相談している時に、マルタのように落ち着かない人と会います。こちらは一生懸命、聖書をもって神様のみこころを表そうとしていますが、相手は奉仕や活動のことで頭が忙しく、神様の声を聞く余裕がありません。しかしながら、神様は一番望んでいるのは、その人と交わることです。私たちが理解しなければならないのは、教会もミニストリーも全て神様のものなので、私たちはただ協力者として働いているだけです。私たちのアイデンティティは神様のためにする活動や奉仕になく、私たちのアイデンティティは神様の子供ということです。 最後に、奉仕などをそっちのけにして良いとは言っていません。もちろん、その活動はキリストの体に大切なことです。しかし、神様が語る時に、100%その語った場にいてください。体はそこにおり、心は次の仕事ばかりに向けてはなりません。弟子たちのように、まずイエスキリストの身近にいてください。それから、心を尽くして奉仕してください。私たちは主の御前で落ち着くことを学ぶ必要があります。仕事と神様との関係のバランスをよく取ることによって健全で成長ができるからです。
妬みはどこから来るのか
「妬み」という漢字は「女へん」に「石」と書きます。これを見るときに私は「えっ?」って少しなるのですが、もしかしたらこの漢字を考えたのは男の人かもしれません。(笑) 冗談はさておき、今日は妬みや嫉妬について聖書はどういっているか、少し学んでいきたいと思います。 聖書で書かれている人物が皆、素晴らしく、優秀で妬みや争いがなかったかというと、決してそうではありません。聖書でもバチバチした妬みや嫉妬はありました。 では、「妬み」とは何なのでしょうか。人は知らないうちに妬んでいて、それが何かを深く考えることをしていないと思います。 「妬み」という感情は、自分と誰かを比較する事から起こり、「あの人はできるのに、自分はできない」、「あの人は持っているけど自分は持っていない」「あの人はしてもらっているのに自分はしてもらえない」このように、他人と比較することによって、妬みの感情がわいてきます。 まず、妬みとは「他の人の成功などを自分の事の様に喜べない心」です。聖書では他の人が成功したとき、ローマ12:15 「だれかが幸せで喜んでいる時には、いっしょに喜んであげなさい。悲しんでいる人がいたら、いっしょに悲しんであげなさい。」と言っています。残念ながら、時に人は一緒に喜ぶより、一緒に悲しむことの方が簡単なことがあります。一緒に喜ぶ時、自分の事の様に喜ぶとき、本当の愛がそこにあります。「あの人は成功しているのに、私は何で?」と思うとき、「いっしょに喜ぶことの出来ない心」になってしまっています。 また、妬みは憧れや尊敬とは全く違うものです。憧れや尊敬は相手の素晴らしさを認め、称賛することです。「自分もあの人のように頑張らないと」と思わせる心です。しかし妬みは「その物自体を欲しがるばかりでなく、相手がそれを持っていなければいいのにと思う心」です。なので、その人を困らせるために奪ったり、壊したりします。人間関係の拗れによる殺人事件が多いのもそのせいです。 ある人達は「愛してるから妬んでしまう」や「愛情の一部」などと言いますが、上で言った妬みは決して愛情表現ではなく、自信や信頼が欠けることによるものです。「私は無力なのか」「必要とされていないのか」そういった不安に駆られる時、自分を見て欲しいが為に妬んで注意を引こうとします。 例えば、子供がいて1人の間は親からの愛情をたっぷりもらいますが、弟か妹ができて、両親がその子の世話で忙しくなると、上の子は急に甘え出したり、自分も見て欲しいから注意をひこうとします。それは「兄弟ができたから自分はもう可愛がってもらえないんじゃないか」という不安から来るものです。 聖書にも妬みの例があります。サウル王の話です。サウルがかわいがっていたダビデは次々と戦争で大勝利を収め、ある時、戦場から帰って来た時、民はサウルとダビデを褒め称えて迎えます。「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」と。 この言葉を聞いた時、今までの愛やすごいと思っていた気持ちが一瞬にして妬みに変わってしまいました。「その日以来、サウルはダビデを疑いの目で見るようになった」と聖書に書かれています。これがきっかけとなり、やがてサウルはダビデに対して殺意を抱き、実際に殺そうとします。 それは、サウルが劣等感を持ち始めたことや、今まで自分を信頼していた民はダビデを信じて、ダビデに取られてしまうのではないかという証拠のない勝手な不安から来るものでした。 どうでしょうか。サウルとダビデの状況に陥った時、どんな行動やどんな気持ちを持つでしょうか。しかし、聖書は私たちの人生のマニュアル本なので、どのように打ち勝っていくか、どうすればいいか教えてくれます。 では、何が正しい妬みの解決方法でしょうか。聖書は何と言っていますか。このコリント13章では「愛は人を妬みません」と語り掛けています。神から来る本当の愛があるならば、人は次第に妬まなくなります。神から来る愛は、見返りのない偽りのない愛で、いつも相手にベストを求め、与える愛です。反対に、人間の愛は限界があり、もっと欲しい、与えて欲しいという吸い取る愛です。 神様の愛こそが妬みを克服するのです。愛の支配は、妬みの侵入を護ります。神様の愛を受け取り、その愛で人を愛そうとすることが、妬みに対しての最高のバリアです。 神様の愛は海の水のようにかれることがありません。そこから必要な愛を受け取りましょう。
What is so amazing about the Grace of God?
There is a famous Christian hymn, written by John Newton, called “Amazing Grace”. In the beginning, it says: “Amazing grace […]
信じる人の権威①
皆さんは「権威」と言う言葉を聞くとどんなイメージを持ちますか? 力を持っている人、権力がある人、上司、政治家など様々なことを想像すると思います。 聖書ではイエスは彼を信じて受け入れた、全ての人に権威を与えたと書かれています。 ルカ10:19「あなたがたには、敵のあらゆる力に打ち勝ち、蛇やさそりを踏みつぶす権威を与えてあります。だから、あなたがたに危害を加えるものなど、一つもないのです。」 権威とは何でしょうか? 権威の本来の意味は、許可、支配する力、意志と命令、他者に従わせる力を意味します。権威は与えられた力を意味します。この現実を表す例があります。あなたはこんな経験をしたことがありますか? 例えば、あなたは車を運転しています。走っていると前にパトカーが停まっています。交通警察官が誘導灯であなたに車を停めるように指示します。あなたは車を停めますか?おそらく、ほとんどの人が停めると思います。しかし、もしあなたが警察官に従わなくて、車を停めなくても、警察官は自身が持っている力だけで車を停めることはできません。それは、警察官が強力な力を持っているのではなく、警察官という役目、政府から与えられた役目に力があります。あなたはその権威を認識し、車を停めます。 イエスは私達に権威を与えました。 私達の権威の価値は、その権威の背後に存在するものの力にあります。 悪魔や悪霊は人を驚かすのが好きですが、私達を見るとき、神自身の力が、私達の背後にあるから手が出せないと認識します。その特権を理解しているクリスチャンは権威を使い、敵に対し、大胆に立ち向かうことができます! 多くの人はその真実を知らないまま苦しんで生きていたり、死んでしまうことがあります。私が好きな、ケネスヘーゲンさんはこのような例を言っています。 新聞を読んでいた時に、1人の男の記事を読みました。その男は家賃1500円の古く、ボロボロな部屋で遺体で発見されました。20年の間、シカゴでは有名でした。その近辺の住民はその男を知っていました。服装はもうボロボロで、髪もロン毛、ヒゲも剃らないし、体臭もひどく、歯も1本しかなかったと想像出来ます。いつもゴミ袋をあさり、食べていました。ある日、近所の人たちが彼を2日、3日見かけなくなりました。近所の人達は彼を心配し、探し始めました。彼の家に入ると、彼がベッドの上で死んでいました。医者が死亡原因は栄養不調によるものだと言いました。その後、彼のズボンにあったベルトを発見しました。何と!そのベルトの価格は2300万円でした!彼は貧困の人生を生きました。紙を収集して、その利益で生活していました。しかし、彼は大金がありました!彼はボロボロな部屋ではなく、シカゴの5つ星のホテル生活が出来ました!ゴミに入ってた残飯を食べるのではなく、3星レストランで最高な食事も出来ました。 この例のように、多くの人は私達が持っている本当の価値や力を知らずに苦しんでいます。神は私達が何も知らないで人生を送って欲しいとは願っていません。神様が与えてくれたプレゼントの中身を知る必要があります。価値があるプレゼントなのでそれを知らないのはもったいないことです! イエスとの人生はパワフルな人生です。私達に与えられたものを知らなければなりません。イエスは聖書でこのように言っています。 ヨハネの福音書 8:32「あなたがたは真理を知り、その真理があなたがたを自由にするのです」と言いました。」 私達人間は神様によって造られました。神様によって人に与えられた権威があります。 人は支配し、従うために造られましたました。聖書箇所を見てみましょう。 創世記1:26−28「神は言われた。 […]
You have a life full of meaning
Human beings have the tendency of questioning their own existence. We tend to question the purpose of our lives. Why […]
教会なんて行く必要がある?
教会なんて行く必要はないと思うあなたへ そもそも教会は何でしょうか。教会はヨーロッパ風で、十字架で飾られており、固いイメージを持つ建物でしょうか。または、毎週日曜日に讃美歌を歌い、説教を聞く場所でしょうか。しかし、教会というのはイエスキリストの復活の後、弟子たちに聖霊が注がれた時に、生まれたキリストの体なのです。そのことは、エペソ1章を見れば分かりますが、キリストは全てに勝る権威を持つようになった上で、その権威を教会に与えたと書いてあります。なので、教会はイエスキリストの体であり、イエス様はその体の頭です。 御霊を受け入れ、神の家族に生まれ変わった私たちは、今、キリストと繋がっています。なので、本当の教会は場所や建物ではなく、私たちのことです。私たちは神様を宿っているわけです。 教会はキリストの体として示され、それは一般的にクリスチャン全体のことを指していますが、地域教会も存在することを認識しなければなりません。認識されないと、多くのクリスチャンが勘違いしているように、私自身が教会だと主張し、教会に行く必要なんてないと思い込んでしまうからです。残念ながら、彼らは自分の内に聖霊が宿っているので牧師などの説教を聞かなくても神様の声を自分で聞こえると正当化し、教会に行かなくなります。 しかし、そこにサタンのわながあります。地域教会の存在は、エペソの教会やガラテヤの教会、ピリピの教会などといった新約聖書の各手紙に見られます。その上、イエス様自身は、黙示録2章と3章をもって、地域教会の存在を認めています。そればかりか、そこで各地域教会の牧師の存在も認められています。それを理解すると、地域教会への神様の計画と分かります。では、なぜあるクリスチャンは教会に行かなくて良いと主張するのでしょうか。 地域教会に属さないクリスチャンの理由は何でしょうか。 イエス様を受け入れたクリスチャンは、神様のみこころである聖書に従うべきだからと理解しています。なお、私たちの信仰がみことばに置かれる必要がありますが、地域教会を拒絶する人は、何を根拠としてそういう決断をするでしょうか。どの聖書箇所が「教会に行かなくて良い」ということを裏付けられますか。信仰が伴わない行動は神様に対して罪です(ローマ14:23)また、信仰の行動になるには、それが聖書に基づかなければなりません。あいにく、教会に行かないと決めた多くの人は、聖書にない訳をつけて行動を取っています。もしかしたら、自分が敏感で傷つきやすいので人間関係がうまく行かない理由で、教会を避けるようになったかもしれません。あるいは、プライドが高くて、牧師やリーダーに正されたくないため、教会に行かないことにしたかもしれません。しかし、それらは教会の必要性を否定する理由になるでしょうか。 それにしても、教会が必要ではないと主張する人は、自分自身のことだけを求めていると言っても過ちではないと思います。多くの地域教会を開拓した使徒パウロは、教会における奉仕の話するとき、このことを指摘します。 ピリ 2:19-21 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。 使徒パウロはいつもたくさんの人と開拓していたものの、テモテだけが頼れる人で、パウロと同じ心でした。もし現代の牧師たちの心を聞くなら、おそらく多くの人はテモテのような奉仕者を願っているでしょう。真に教会のことを心配し、教会のために何かをする奉仕者を求めているのではないかと思います。いつでも頼れ、務めや牧師を見捨てない奉仕者です。 さて、使徒パウロと一緒に働いていた他の人々はどうなったでしょうか。気の毒ですが、彼らは自分の牧師でありリーダーであるパウロを捨てて自分自身のことを求め始めました。それを見ると、パウロはどれほど孤独感を持ったのかを考えさせられます。そして、リーダーとして、パウロは少し厳しかったので、パウロの指導に服従したくない人もいたかもしれません。または、迫害を体験し、天から託された務めを諦めた人がいたこともありえます。 他には、ただ単に疲れた、飽きた人々もいたと考えられます。理由がどうであっても、彼らはテモテのように使徒パウロの忠実な奉仕者として思い出される特権を失いました。 自立したい!教会なんかいらないと主張する人は危険な目に合う可能性が高いと、私は思います。別に脅かすつもりはないですが、彼らは聖書に完全に逆らっているので、危険だと思います。特に近年、インターネットの普及で、自分の好きな説教を聞き、自分の未熟な部分を痛感させる説教を避けることもできるため、危険だと思います。使徒パウロはテモテに、終わりの時にそういうことが起きると注意しました。 2テモ 4:2-4 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。 現在は、まさにそうではないかと思います。多くの人は教会を避け、インターネットで自分に都合の良い、自分の意見に合う説教ばかりを聞き、好きな教師を寄せ集め、真理に背いているのではないかと考えられます。彼らは、神様の恵みばかりについて聞くのを好みますが、自分の未熟さを痛感させるような教えは聞こうとしません。また、自分は愛されているよ、祝福されているよ、何もしなくていいよ、ありのまま神様はあなたを受け入れるよなどばかりを聞き、自分自身を変える必要がないと思い込んでいます。神様はいつも優しいので、あなたが罪の奴隷のように罪を犯していても、誰にも福音を伝える努力しなくても良い、それでも神様はまだあなたを愛していますよと言いますが、それは、自分をごまかしていることにすぎません。 私は別に誰もけなすつもりはないです。むしろ、一人でも多く救いたいと思っています。また、別に私の教会に来なさいとも言っているわけでもありません。あなたは、聖霊に導かれ、聖書を真に語られる、また、聖霊の働きを大事にする教会を選ぶことが必要です。しかし、もうお気づきかもしれませんが、私たちが生きている時代は残酷です。「自分が可哀そうなのでしょうがないから」などの教えは神様からきません。だからこそ、私たちは、誠実で真理を教える牧師が必要です。時が良くても悪くても、戒め、真実を語り、聖書を教える霊的なお父さんが必要です。 […]
敬う心 パート②
前回のブログで、私達はいつも敬う心を持つべきだと話しました。 私達が敬いの心を持つときに神様は私達を大いに祝福してくれます。 人を敬うのは、ただ丁寧な言葉で話すことや、挨拶をするだけではなく、私達の言葉で、行動で考えで相手を尊敬することです。それは全て心と繋がっています。 私達は、教会の中でも外(会社や学校など)でも自分の上司やリーダを尊敬し、もしあなたがリーダーであるなら、部下や自分の下で働いてくれている人たちに尊敬しなければなりません。神様はそのようにグループがうまく働いていくことを願っています。 家庭の中でも同じです。エペソ6:1-4にはこのように書いてあります。 「子どもは両親に従いなさい。神は、親が子どもを監督する権威を認めておられるのです。従うのは正しいことです。 「あなたの父と母とを敬え。」これは、「十戒」の中で対人関係について言われた第一の戒めで、その後に約束があります。 つまり、「父母を敬うなら、あなたは幸せになり、長生きする」(出エジプト20・12)という約束です。 両親にもひとこと言っておきます。子どもを、いつもうるさくしかりつけて反抗心を起こさせたり、恨みをいだかせたりしてはいけません。かえって、主がお認めになる教育と、愛のこもった助言や忠告によって育てなさい。」 この聖書箇所で私達が見ることができるのは、子供だけが親を敬い、言うことに従うだけではなく、両親も子供に愛をもって尊敬しながら子供を育てることが重要であるということです。 詩篇127:3には「子どもたちは主からの贈り物であり、報いです」と書いてあります。日本では子どもができた時に「子宝を授かる」を言います。「授かる」とは目上の人から与えられるという意味です。なので子どもである宝、贈り物は神様から与えられた、授かったということが分かります。神様は両親にその贈り物を愛をもって大切に育てるよう任務を与えました。 聖書にはその他にも、夫婦関係についても書かれ、夫婦はどのような態度でお互いに接するべきかを話しています。 エペソ5:21には「キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。」と書かれています。どちらかが命令をするのではなく、お互いに尊敬しあいながら、チームとして仕えあうことが必要です。 男女が夫婦となるとき1つになります。なので、神様からの祝福も一緒に受け取ります。しかし、1つであるべきものがバラバラだと、うまくやっていくことは不可能になります。夫婦が1つとして助け合い、お互いの強みと弱みを知り、相手のポテンシャルを引き出すことが大切です。 人間というのは、残念ながら相手の良い所より悪い所にまず目が行ってしまうことが多く、「そんなこともできないの~」「これがあなたの欠点だね」とかネガティブな言葉を相手にかけてしまいます。そこでストレスやもめ事がおこったりもします。それがはじまるときりがなくなります。なぜなら、人間は完璧ではないからです。なので、どんな時でもお互いを尊敬し、愛し合っていくためには、完璧である神様、彼の愛が必要です。 マタイ22:37-39 「イエスはお答えになりました。「『心を尽くし、たましいを尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが第一で、最も重要な戒めです。 第二も同じように重要で、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』という戒めです。」 神様と隣人を愛するのは、報いが欲しいとか見返りを求める為ではなく、私達が神様と共にいるときに神様の性質である見返りを求めない愛が、私達の中に注がれ、その愛をもって愛していくことができるようになるからです。 また、人間関係がうまくいくためにどうすればいいか、知恵も神様が与えてくれます。 箴言4:5-9 […]
The peace inside of you
All of us seek to find peace in our lives. The dictionary defines peace as: “a state of concord or […]