乾燥な時期になるとよく山火事が発生することがあります。その火事はおそらくゆっくりと小さい火から発生しましたが、短時間のうちに全体に広がり、広い面積を焼き尽くします。私たちの口から出る言葉は、隣人や自分自身を生き返らせることも殺すこともあるのに、私たちはそれに気づいていないことが多いのです。 ヤコブ3:5-6 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。 私たちは自分の言葉をコントロールすることの重要性を毎日心に留めておく必要があります。私たちの口は人々を祝福するために使われなければなりません。 癒し、救い、そして神さまの愛の宣言の源として使われなければなりません。私たちの言葉を通して、夢は殺されるのではなく、復活する必要があります。以下の聖句を通して、舌を守ると決心した人は心も守ることがわかります。 詩篇37:30-31 正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない 箴言18:21 死と生は舌に支配される。/どちらかを愛して、人はその実を食べる。 多くの場合、私達自身に対して、また他の人に対してこのように言ってませんか? そしてその言ったことが悪い影響を与えていることに気づかない時があります。うまくいかないよ!私が結婚?無理無理!あの病気は治らないよ! 私達が忘れているのは、私達が話す言葉は霊的な世界に種を蒔いていることです。 あなたの人生の中で何回このようなことを言われたことがありますか?あなたの将来が心配だよ!馬鹿だな!この出来損ない!もしかしたらあなたの心の中で、思い出の中で、その言われたことに対する傷だったり、悲しさがあったかもしれませんが、もうあなたイエスによって救われて神様の愛があなたの中に入って、あなたはイエスによって癒しを受け取りました。 それは精神的な癒やし、体の癒し、全部です! 問題の根本を認識する必要性があります。 私たちの舌の問題は心にあります。 ルカ 6:43-45 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。 良い木から悪い実は出てこないです。愛によって歩んでいないのなら愛を与えることはできないです。心が憎しみでいっぱいなら赦しに歩むことはできません。 […]
ビクビクしないで!
最近、いつもビクビクしてるクリスチャンや、いつも自信がなく、ネガティブなクリスチャンを見ます。 聖書は、義人(私たちクリスチャン)は信仰によって生きると書いてあるし、教会のブログをいつも読んでくださってる方は、このブログのテーマで信仰が多いのを見ることができると思います。 多くの人は「信仰を知っています」と信仰や御言葉を知識としてのみ理解しています。しかし、実際、彼らの人生で何か問題があるときに「どうしよー。神様ー。」と、泣いていたり、また、神様から何か導きがあったときに「え?どうすればいい?」と慌てたりする人がいます。 どうして、信仰を知ってると言っているのにそうなるのでしょうか。 それは、本当に信仰を理解していないからです。なぜなら、信仰には行動が必ず伴うからです。 ヤコブ 2:17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。 信仰に行動がなかったら無意味なんです。なので、頭で理解するだけでは信仰になっていません。多くの人は行動するのに萎縮してしまうんです。 創世記12:1-4: “主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。” ここで主はアブラムに自分が命じるところに行きなさいと言いました。これは、日帰り旅行とかではなく、故郷と家族をおいて出て行くことをいいました。 もし、あなたがある日、神様にこう言われたらどうしますか? 「え?無理。仕事とか、住むところどうするの?」と思いますか?「知らないところに行くのは怖いです。」とビクビクしますか? では、アブラムはどうでしたか? 「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」 彼は2度考えることなく、出ていきました。しかも75歳でした。しかし、決して「75歳で体力ないし、無理です。休みたい。寝たい」とはいいませんでした。 神様に従ったとき、全ての備えがあると信じて疑わず、そしてそれを行動に移しました。 これが信仰です。 「神様!信じます!」と言ってもそれに対して何も行動しないと、信仰の途中のステップに止まってしまっています。 […]
The meaning of being Christian
Let’s read the following Bible verses: John 1:12 – “Yet to all who did receive him, to those who believed […]
主の家に行こう!
私は、イエスキリストを受け入れた時にPaul Wilburという歌手の賛美をよく聞いていました。当時私は高校生であり、毎週日曜日に教会に行く時にUp To Jerusalemという賛美を家族で歌いました。その賛美は詩篇122章に基づいて作曲された賛美です。その詩篇はこう言っています。 詩篇 122:1 人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。 父が教会に行くことを楽しみにし、この賛美を歌っている姿が、私の記憶にまだはっきりあります。なぜなら、私たちにとって教会に行くことは楽しいことだからです。教会に行き、兄弟姉妹と賛美を歌い、メッセージの時に、みことばに完全に集中し、霊的に養われ、礼拝が終わったら、良いレスランで食事することにとても満足を感じられました。そして、礼拝後に少し兄弟姉妹と交わりを持ち、みことばの話や普通の話をしたりなど、嬉しかったです。 今、大人になり、また、聖職者にもなって、私の注目を引いたのは、なぜ、クリスチャンの家族の間で、多くの子供が教会に来ることを楽しくないと思うようになり、教会に行かないことを決断したのでしょうか。それは親の影響もあるかもしれません。小さい子供は親が教会に通うことに関してどういう姿勢と態度を取っているかを常に見ており、影響されていると思います。なので自分の娘が教会に対して興味を失わないように、妻といくつかのことを決めました。 まず、教会に行く日に、私たちは週の中で、その日を最も大切にすることを決めました。なので、それも娘に私たちの態度と姿勢で伝えようとしています。遊園地よりも、教会に行くことは楽しいというメッセージを娘に伝えたいからです。また、私たちも教会に行くことを楽しんでいることを娘に表したいです。なぜなら、もし娘は、私たちが教会に行くことを辛いとか大変とかと思ったら、娘も教会に行くことが大変だと思い始め、なぜ、わざわざ毎週、教会に行く必要があるのかと思うでしょう。なので、私たち親は自分の姿勢と態度にきちんと気を付けなければなりません また、毎週日曜日になるべく他の用事などをその日に入れないように努力しています。それは、「日曜日は教会に行く日だ」と娘にはっきり伝えたいからです。それに、バタバタし、感情的にならないようにするためです。旧約時代にユダヤ教の人は安息日として土曜日を完全に神様に捧げる習慣がありました。その日に、他の仕事をせず、家族と過ごし、みことばを思い巡らしました。別に律法のように私たちは土曜日を守る必要がないと思いますが、その原則を大切にしなければならないと思います。そのために、私たちは日曜日に教会に行く前に、自分自身の準備のために祈りが必要があり、その時間を持つことを大事にしています。その時に、礼拝のために、その日に会う兄弟姉妹と牧師のためにお祈りします。日曜日はゆっくり神様と過ごすからです。娘は私たちが親としてそういう時間を大切にしていることを見る必要があります。そもそも親は子供の模範だからです。 最後に、娘をわくわくさせるために、その日にだれに会うか、また何をするかを伝えます。なので、とても仲の良い友達や教会の大好きなお兄さんたちとお姉さんに会うことを伝えます。それから期待をもたせるために、一緒にわいわい喜びます!もちろん、友達と一緒にみことばを学び、一緒に賛美し、遊ぶことを伝えます。それは教会が楽しいからです。娘に教会が葬儀のような所だという印象を与えたくないです。また、聖職者として私は教会で様々なトラブルを対処する必要があります。それは、簡単なものでもなく、時にはとても疲れることもあります。しかし、娘はそれを理解できる段階になっていないため、私は聖職者の仕事が重いものだという印象を与えないように、知恵をもって伝える方法を学ばなければなりません。また、クリスチャンとして信仰をもって、いつも喜んでいる姿と愛をもって、誰でも我慢し、耐え忍ぶ模範を私は娘に与えなければなりません。なぜかというと、多くの子供が教会に行くを諦めるのは、親がいつも牧師に関しての不満を言い、また兄弟姉妹の悪口を言っているからです。そうすると、子供は親の悪い手本を見、教会に行きたがらなくなります。 キリストにあって愛する兄弟、教会に行こうと聞いたら詩篇のダビデのように喜んでください!教会が大変なことのように思っているなら、見直してください。教会は楽しいからです。そして、教会で楽しい生活を送るために、まず自分自身が喜ぶ必要があることを忘れないでください。また、あなたは教会生活で取っている姿勢と態度があなたの周りに影響を与えることを常に思い出してください。それは周りの人も自分の大切な家族も救いに導くチャンスです。人の救いの邪魔にならないように気を付けましょう!
道具か表現か?
何年も前、ある聖職者が礼拝後に衝撃的なメモを受け取りました。そこには、こう書かれていました。 「あなたが教えてくださった真理は、あなたにとってはとても明確なものでしたが、私にとってはとてもおぼろげなものでした。しかし、あなたが、今来られたとき、あなたは主の感覚をもたらしました。」 なんと力強い洞察でしょうか!私たちが説教するとき、また、人々と接するとき、情報をもたらす以上のことをしなければなりません。私たちは “主の感覚 “をもたらさなければなりません。情報を提供するミニストリーは、インスピレーションを与えるミニストリーとは別です。しかし、神は私たちを受肉させるミニストリー、すなわち神のご性質そのものを現すミニストリーにも召しておられています。 春の陽気になり、私は最近、庭仕事をすることができるようになりました。熊手、シャベル、はさみなど、これまで使ってきた道具があります。どれも機能的な道具として役に立っていますが、決して私の人格を反映しているわけではありません。何度クリスチャンは、「主よ、私を用いてください。私をあなたの道具としてください。」と祈ることでしょうか。 心の叫びは称賛に値しますが、神は私たちが神の手に握られた単なる道具以上の存在になることを望んでおられます。神は私たちが神を反映する存在であることを望んでおられます!神は私たちが機能的であることを望んでおられます。主は、私たちが実際に主を反映し、主を代表するような、変えられた人になることを望んでおられます!イエスは言われた、「しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」(ルカ6:40) ペテロの最初の手紙にある以下の記述はすべて、キリスト教の信仰が受動的な観衆ではなく、私たちの存在の核心から深く関わるものであるという考えを強調しています。神のいのちは、私たちの人格、行動、人間関係の変容において表現されるべきです。 クリスチャンは以下の物をもつように召されました。 楽しむ人生: ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(第1ペテロ1:8) 警戒した人生: ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み(第1ペテロ 1:13) 神聖なる人生: あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。(第1ペテロ 1:15) 信頼した人生: 神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。(第1ペテロ 1:21) […]
Instrument or Expression?
Many years ago, a minister received an impacting note following a service. The person wrote: “For me ’twas not the […]
癒しは神様の意志
たまに、「神様は病気を通して彼に試練を与えてます」と言う人に出会います。 でも真実は、私たちの父は良い方で、悪いことはいっさい神様から来ません。 私たちの神様は癒しは神で、癒しは神様の意志です! つまり、病気は神様から来るものではありません。 出エジプト記 15:26 わたしはあなたをいやす主である。 イエス様は人々を癒すことによってこれを証明してくれました、イエス様は父の御心しか行わないませんでした。 イエス様のところに行った人は誰も病気のままでいた人は一人もいません、みんな癒されました。 初めは病気は存在しませんでした。病気はアダムの罪によって生じました。 イザヤ書 53:4-5 しかし、私たちは罪から救われるために贖いを受け、イエス様はわれわれの病を背負い、われわれの悲しみと共になりました。その受けた傷によって、われわれは癒されたのです。 ルカ 13:16 病気はサタンの束縛です。 そしてイエス様はすでに私たちを解放してくださっているので、私たちはその権利を獲得しています。 癒しはすべてのクリスチャンに与えられる救いの権利です。 私たちは信仰を通して受け取ります! ギリシャ語で「救い」を意味する言葉はSOZOであり、救い、癒し、解放を意味します! […]
聖霊様
シャローム、今回のブログはいつものとは、すこし形式が異なります。 クリスチャンライフにとって必要不可欠な存在である、聖霊様にについて学びます。もし私たちが神と生きた関係を持ちたいのであれば、新たな誕生後に私たちの内に住まわれた聖霊の方、すなわち聖霊の方を知る必要があります。 聖霊は単なる力や影響ではありません。彼は交わりと親密さを持つことを望む人格です。 私たちが本当に神を知りたいのであれば、父と子だけでなく、聖霊も実際的、かつ個人的な方法で知る必要があります。神は本質的には 3 つの異なる個別の人物として特定されますが、神性の各人は神の属性をすべて共有し、明確な機能と個性を持っています。 祈りを通じて神の父またはイエスとだけ関係を築くことは、キリスト教徒には一般的ですが、私たちは聖霊の恵みの時代にいます。聖霊は教会の指揮者であり、神の手の働きを地上で果たします。 パウロは第2コリント人への手紙13章14節で私たちにこの交わりを促しています。この節で引用されたギリシャ語の言葉は「koinonia」であり、パートナーシップ、仲間意識、共同体、連帯を意味します。 私たちは聖霊が三位一体の中で三番目で最も重要でない人物ではなく、イエスや父と同様に神であることを忘れてはなりません。聖書のさまざまな箇所では、聖霊が個人的な存在に関連付けられる動作を行っていることが示されています。彼は悲しむ、話す、教える、思い出させる、決断する、怒るなど、個人にのみ関連付けられる動詞を使用しています。 聖書はまた、私たちが彼に対して嘘をつくことが可能であること、彼が人間の言葉や計画を禁じたり回避したりできること、彼がすべてを知っていること、霊的な賜物を分配し、私たちを助け、私たちのためにとりなしていること、彼が思考を持っていること、私たちが子供であることを私たちに証しします。 聖霊を神の父やイエスから分離することはできません。彼らは異なる現れを持つ一つです。• 彼は全知です(すべてを知っています) コリント人への手紙一書 2:9-10 「しかし、聖書にあるとおり、『目は見ず、耳は聞かず、人の心にも思い浮かばないような、神が愛する者たちのために用意されているものは、何一つ人には明らかにならなかった。しかし、神は聖霊によってそれを私たちに啓示してくださった。なぜなら、聖霊はすべてのことを探り、神の深みも見通すからです』」 • 彼は普遍的に存在します(すべての場所にいます) 詩篇 139:7-10 「私はあなたの霊がいない所に逃げられません。あなたの前からどこへ逃げることができましょうか?もし天に上っても、あなたの前にいます。もし深淵に寝床を作っても、あなたもそこにいます。もし夜明けの翼をとり、海の果てにとどまっても、あなたの手が私を導き、あなたの右手が私をつかまえるでしょう」 […]
あなたの耳を何に傾けている?
今、世界中の人々が毎日テレビをつけてニュースを見ています。世界中の出来事について、どのチャンネルでも議論しています。また、インターネットのいたるところで悲観的な記事が流れています。 デジタル時代の今、情報がかつてないほどの速さで私たちの手元に届きます。 いつでも好きな時にグーグル検索で情報を集められ、読みたければ何週間もそのトピックスについての記事が読めます。マウスでクリックすること、または指で画面をタップすることで、どんなトピックスに関しても必要なことを知ることができます。それが私たちが生きている現在において、有益な内容であればいいのですが、いつもそうではありません。大量の情報と共に大量の間違った情報が流れてきます。 かつてほどではないにしても、雑誌と新聞が、まだまだ私たちの周りに豊富に流通しています。そして恐れと悲観的な雰囲気も、その中にたくさん見受けられます。 その状況からは、逃れようがありません。一日中、連日、目の前にあります。悲観的な雰囲気がまん延しています。 それに対して、私たちはいったいどんな行動をとっているのでしょうか? 音量を上げています。 リンクサイトをクリックします。ページをめくって次を読みます。 そしてこの悲観的な雰囲気で心を満たします。戦争で起こっているあらゆることを心配し、拡大しているあらゆる新しい病気を心配し、株式市場でのあらゆる動きを心配しています。 不安が高まっている時、人々はニュースに耳を傾けます。安らぎを求めて、または恐れていることについてさらなる情報を得たいからです。ところが往々にして人が言ったことを本当だと信じてしまうことがあります。確認しようと得たその情報源もまた、間違った情報をもとに発信しているかもしれないとは考えもせず、私たちはそこで書かれていることや聞かされることを事実だとみなしてしまいます。 あまりにもセンセーショナルなニュースもあり、もはやそれが現実なのかどうかがわからなくなってしまいます。 真実を探求している私やあなたとは異なり、ジャーナリストと放送局の方針によっては、ニュースにおける事実と意見との間の明確な線引きがあいまいになってきています。 なぜなら彼らは高い視聴率を求めているからです。 でも、私たちが知っているただ一つの「真理」、それは、イエス・キリストは私たちの罪のために死なれたことです。このただ一つの真理は、事実確認され、引用され、情報源として用いられてきました。そして始めから終わりまで神がそこに働いておられるということなのです。発端から結末までです。神は著者であり、編集者であり、その御言葉は完結しています。大げさに騒ぐことはなにもありません。神が真理を隠されたままということはありません。 あなたにニュースを見るのを止めなさいとか、あなたの周りの人を信用してはいけないと、私は言っているのではありません。私が言いたいのは、何が書かれていようと、何が報告されていようと、神はすでに知っておられるということです。神のあなたのための計画は、人間の活動によっては左右されないということです。神の計画は揺るがないし、私たちの周りで起こった出来事によって変わることはありません。 不確実な時代に、神は信頼できる真実な方です。私たちの立てた計画は失敗したり変更したりしますが、聖書のヘブル人への手紙 13章8節 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも変ることがない。 と書いてありますように主が私たちのために備えておられる計画は必ず成るのです。
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