私たちは告白した以上のものを受け取ることはありません。信仰は告白によって成長しますが、それを超えることはありません。 正しいことを告白することは、御言葉によって新たにされた心から来る正しい考えの結果です。疑いは信仰の最大の敵で、ギリシャ語には「疑い」と訳されている言葉があります。 Diakrinoです。それは信仰が不足していること。疑いと恐れは一緒になって私たちの信仰を奪います。 聖書のペテロは水の上を歩きました。イエスは群衆にパンと魚の奇跡を起こしたあと、弟子たちに船で向こう岸に行かせました。 マタイ14:28-34 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ、助けてください」と言った。31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。34 彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。 ペテロが風の方を見て、その状況をフォーカスした時に恐れ、疑いを生じさせたことを見ることができます。 恐れと疑いはセットであり、信仰を盗みます。そして疑いは不信仰を生みます。 また、1人の人が自分の息子のために祈ってほしいと弟子たちに頼みましたが弟子たちは直すことが出来ませんでした。そこでその人はイエスの助けを求めました。 マタイ17:18-20 そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ。私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでもあなたがたにできないことはありません。 マタイ […]
私たちのアイデンティティー
1ペテロ 2:4-6 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」 1ペテロ 2:9-10 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。 ペテロは私たちがキリストにあってのアイデンティティを話しています。 イエスは私たちに救いと贖いをもたらしてくれました。イエスを受け入れる前は霊的に死んでた存在でしたが、救われました。それは、私たちが何かいいことをしたのではなく、神様から来るものです。 私たちは恵みによって救われました。 恵とは、私たちが受けるに値しなかったものが、無償で与えられるものです。 罪人は生きるに値しないものでした。なぜなら、聖書では、罪の報酬は死だと言っているからです。(ローマ6:23) しかし、神様はその状態を見て救い、永遠の命を与えてくれました。それは恵です。 その恵みは私たちのところにきて、救ってくれただけでなく、私たちが神に呼ばれた人生を生きるための条件をあたえてくれました。 先程の聖書箇所で、ペテロは私たちは聖なる国民と言っていいます。 「聖なる」という言葉は旧約聖書のヘブライ語で カドシュです。 あるもののために取り分けられる。2つのものには併用できない。あるもの専用に取り分けられ、守られる。という意味があります。 また、新約聖書のギリシャ語では、アギオスです。とても大いなるもの、とても聖なるもの、光り輝くので隠すことはできないという意味があります。 旧約聖書では、幕屋のために聖なるものが分けられました。私たちが今いる、新約聖書では、輝くもの、隠れてはいけない光です。 […]
彼が死んだとき、悲しんだ者は誰もいなかった
「彼が死んだとき、悲しんだ者は誰もいなかった。」ユダの第5代王であるエホラムの言葉です。 第2歴代誌21:20 彼は三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王であった。彼は人々に愛されることなく世を去った。人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には納めなかった。 これほどの悪名を得るには何が必要でしょうか?はじめに、彼は自分の地位を確立するとすぐ、兄弟たちや他の認められた指導者たちを皆殺してしまいました。彼の妻はアハブとイゼベルの娘の1人であり、彼は偶像崇拝と異教の聖堂を推し進めていました。彼の死後、王家の墓地に埋葬される栄誉は与えられませんでした。メッセージ訳では、上の聖句の一部をこのように訳しています 彼が死んだとき、涙は流されなかった。 30年ほど前、ある葬儀社に面会に行ったことがあります。教会にいた少し年配の男性が亡くなり、その未亡人が私にこのように言いました。「私が感情を表に出したり、涙を流したりしなくても、驚かないでください。夫は教会ではとても友好的でしたが、家ではとても気難しく、一緒に暮らすには不愉快な人でした。今、私が感じているのは、彼がいなくなって、もう我慢しなくていいんだという安堵感だけです」 その言葉を聞いたとき、私はとても胸が締め付けられる思いがしました。その人は生涯を全うしたのに、亡くなったときにそのような感想を述べられるのは、どんなに悲しいことかと思いました。 他者に祝福を与えるような人生を送っている人は、そうはなりません。箴言10:7正しい者の呼び名はほめたたえられ、悪者の名は朽ち果てる。 良い人生とはどのようなものでしょうか これとは対照的に、使徒に記されている神々しい女性がいました。彼女は王族でも、社会的な基準で高貴な地位にあった形跡もありませんでした。しかし、彼女が亡くなったとき、人々は彼女を愛し、深く悼みました。人々は、善良で親切な女性の喪失を感じていました。 ルカは、「この女は、多くの良いわざと施しをしていた。」(使徒9:36)とドルカスのことを語っています。彼女が死んで、神がペテロを使って死からよみがえらせた話は覚えていると思いますが、彼女の人生に影響を受けた人々が彼女をどのように思っていたかを忘れてはなりません。 使徒9:39 やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。” ここで注目すべき重要なことは、 私たちの影響力は、最終的には地位や肩書きによって決まるのではなく、私たちの人格と行動によって決まることです。エホラム王は、より大きな地位と潜在的な影響力を持っていたかもしれませんが、それをうまく使うことができませんでした。彼はその地位を公のため、他の人々のために使うことができたはずであったのに、そうはしませんでした。おそらく周りの注目を引きたいという自己顕示欲と自己利益のために、持っていた可能性を浪費し、無駄にしてしまっていました。 一方、ドルカは、何のポテンシャルもなかったように見えますが、彼女のシンプルで寛大な行為によって、もっともっと増やしていきました。 彼女の内面には大きな愛があり、それを表現する方法をいつも見つけていました。エホラムは全財産を持っているように見えましたが、亡くなった時には軽蔑されました。ドルカスはほとんど何も持っていないように見えましたが、祝福され、名誉を受け、尊敬されました。エホラムは(地上の基準では)多くを持っていましたが、ドルカスはもっと与えました。つまり、神の恵みにより、ドルカスは偉大な影響力を持つことができました。 影響する者になるには、まず影響されなければなりません。 神の方程式を持って、パウロは聞きました。 第1コリント […]
No One Was Sorry When He Died
“No one was sorry when he died.” That is a tough statement to hear, but it was made of Judah’s […]
私はキリストの体の一員だから全ての教会に通ってもいい?
私は山梨県に住んでいた時、ある姉妹が私と同じ教会に通っていましたが、その姉妹にはとても興味深い習慣がありました。同じ日曜日に少なくとも二つの違う教会に行く習慣でした。最初、問題はないだろうと思いました。それは、私たちがみなキリストにあって神様の家族ですし、兄弟姉妹が交わりを持つことに何も悪いことがないと思ったからです。しかし、時間が経つと、その姉妹は教会の皆との関係が気まずくなり、牧師は結局、姉妹と話をし、実際にどの教会に通うのかを尋ねたところ、その姉妹は、「自分がキリストの体の一員なので、教会は一つ」と答え、さらに、「どの教会に行っても大丈夫でしょう」と牧師に言い返しました。 確かにその姉妹が言ったことには間違いがないように聞こえますが、私は聖書の教えに合わないと思いました。また、問題は、多くのクリスチャンがその姉妹と同じ思考を持っていることにも気付きました。そして、特に未熟なクリスチャンにはそこに罠があります。 私はまだ若いクリスチャンであった時に、多くの教会に訪問する習慣がありました。別にそれは悪いことだと今も思っていませんが、ある時期、私は二つの教会に同時に通うようになったこともありました。一つは地域教会として、日曜日に通っていましたが、若い人たちと交流するために、また別の教会に通い始めました。 その過去の習慣に関して、現在の理解で意見を出すとしたら、私から確かめられることは一つです。それは私がその当時まだ霊的に未熟だったことです。さらに、あの段階では私を模範として扱うことができなかったと思います。 結論からいうと、クリスチャンが様々な教会に行きたいと思っている理由はいくつかあります。 まず、自分自身が教会に対して責任を持ちたくないことです。 一つの教会に通うとなると、その教会に忠実に奉仕したり、指導者に報告したりする必要があることに気づき、それらを避けるために、距離を置き、同時に他の教会に通うようにし、好きなところだけを楽しんで、何も責任感を抱かないようにしています。 要するに、子供の段階に留まっていたいということです。 しかし、福音書を少しでも読んでいるなら、そういう態度は神様にどれだけ好まないのかが分かります(参考:マタイ25章14~30節)なぜなら、神様が望んでいるのは、全ての信者が成長し、キリストの体に貢献ができるようになることだからです。つまり、私たちが実を結ぶことです(参考:ヨハネ15章1〜8節)しかしながら、同時に様々な教会に通う人は奉仕することが面倒だと思い、実を結ばない道を選んでいます。 また、もう一つの問題は牧師に服従することです。 様々な教会に通っているクリスチャンの多くは、服従に関する悩みがあります。確かに服従することは挑戦的ですが、神様の御心です。また、神様の命令は重荷ではないと聖書に書いてあるので、(第一ヨハネ5章3,4節)まず、全ての信者が理解しなければならないのは、牧師がキリストによって立てられた聖職者であり、その牧師の年代や性格や国籍や教育などに関係なく、イエスキリストに遣わされた人であれば、その牧師に服従することはイエスキリストに服従すると同じだということです。 ヨハネ 13:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。 なので、牧師に反抗することは神様に反抗することなので、気を付ける必要があります。そして、神様は、牧師も人間なので、完璧ではなく、失敗する者だと分かっていますが、それでもあなたの牧師は神様に選ばれた者であり、あなたが通っている教会に責任があります。 へブル 13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。 牧師に正され、教えを受けることは良いことです。しかし、肉体的な習慣を捨てたくない人は矯正を軽蔑し、それを拒むでしょう。なのでパウロはそういう人について警戒しなさいと命じました。 最後に、山梨県の姉妹の発言に関して、どこが正しくないのを一緒に考えたいです。 […]
神を求める
エペソ 3:7-8 「私は神の力の働きに応じて私に与えられた神の恵みの賜物によって、その奉仕者とされました。すべての聖徒の中で最も小さい私に、福音を通してキリストの計り知れない豊かさを異邦人の間で宣べ伝えるこの恵みが与えられました。」 私は自分が経験していることを目撃し、体感しています。それは、私たちの周りの人々が私たちを見ているということです。休憩をしている場合ではありません。私たちは神の中にしっかりと留まり続ける必要があります。私の内に働く力を使って、主ご自身が私を見られるように私自身を見る必要があります。彼は私を頼りにしています。 使徒 17:26、27 「そして彼は、一つの血からすべての世代の人間を地球の全面に住まわせ、前に定められた時と彼らの居住の限界を定めた。おそらく彼らが手探りして主を見つけることができれば、彼らが主を求めることができるように。それは私たち一人ひとりから遠くないところですが。」 私たちは神と共にいるために、神と親密になり、交わりを持つために造られました。神はご自身を人間に現し、神とコミュニケーションをとることを望んでおり、そのために神は人類全体を創造されました。私たちが心を尽くして神を捜し求めるなら、必ず神に出会うでしょう。 私たちは神をさらに求めるにつれて、神が誰であるかを発見しようと努めています。検索がある限り、必ず答えはあります。彼は私たちに明らかにすべきことがまだたくさんあります。神は私たちにご自身を明らかにしたいのです。 Searchとは、調べる、調査する、探索する、向かうという意味です。彼は自分自身を見つけてもらうでしょう。私たちは主をもっと求めるという期待を常に持たなければなりません。私たちが神を求める決意をするので、神は面と向かってご自身を明らかにしてくださいます。 神を求めるのは答えを見つけるためではなく、私たちが心から神を望んでいるからです。神があなたのためにしてくださることを求めるのではなく、神のために求めてください。 「私の探求があまりにも熱心で、他に何も問題がありませんように。私が生み出す探求は私の欲望を超え、心から湧き出たものです。」 ルカ 10:38-42 「そして、彼らが旅をしているときに、イエスが村に入られたことが起こりました。そしてマーサという名前の女性が彼を家に迎え入れました。この人にはマリアという姉妹がいましたが、彼女もイエスの足もとに座って、イエスの言葉を聞いていました。しかし、マルタは多くの仕事に気を取られていました。そして近づいて、彼は言いました:「主よ、私の妹が私を一人で奉仕させておくのは気にされませんか?」彼に私を助けてくれるように伝えてください。するとイエスは答えて彼女に言われた、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して悩んでいますが、必要なのは一つだけです。そしてマリアは良い部分を選びました、それは彼女から取り上げられることはありません。」 雑事で主との時間を台無しにしないでください。私たちがしなければならないのは、神の前に自分の心を注ぎ出すことだけです。そうすれば、私たちの人生は変わります。神を求め、神を知ることの最良の部分を自分で選択してください。気を散らさないでください!御言葉にもっと執着することを決意してください。 何かで成長するには、他のことを手放す必要があります。成長は時々不快感を引き起こす。 詩篇 16:9-11 「したがって、私の心は喜び、私の栄光は喜びます。私の肉体もしっかりと休むでしょう。あなたは私の魂を地獄に放っておかず、あなたの聖なる者に堕落を見ることを許しません。あなたは私に命の道を見させてくださいます。あなたの臨在の中には豊かな喜びがあります。あなたの右には永遠に楽しみがある。」 […]
Have We Forgotten Hell?
I’m all for “positive preaching.” I believe people need to be lifted up and encouraged as they walk through a […]
私たちは地獄を忘れたのか?
私は 「前向きな説教」に大賛成です。人々は常に打ちのめされ、引きずり降ろされる世界を歩んでいるので、元気づけられて励まされる必要があると信じています。しかし、肯定的で励ましのメッセージを伝えるということは、「否定的」と見なされるようなことに決して触れてはいけないということなのでしょうか?私たちは、人々を愛している神を指し示し、親切に励ますべきですが、もし、私たちが説教する内容全体の一部として、裁きと地獄の現実に関する聖書の真理を取り上げないのであれば、私たちは大きな過ちを犯していると思います。 イエスのように宣教したいですか? チャールズ・スポルジョン(1834-1892)は、「私たちの主イエスキリストほど、失われた者の運命についてこれほど恐ろしい言葉を語った霊感を受けた説教者がいないということは、非常に驚くべき事実である 」と述べています。 尊敬すべき福音派の神学者であるJ.I.パッカー(1926-2020)は、聖書が神の怒りについて述べていることに現代教会が消極的であることを指摘しています。 キリスト教会の現代の習慣は、このテーマの重要性を最小限に抑えることです。今でも神の怒りを信じている人たちは(すべての人がそうではないが)、それについてほとんど語りません。貪欲、プライド、セックス、そして自己の意志という神に恥ずかしげもなく媚を売る時代に対して、教会は神の優しさについては話しますが、神の裁きについては事実上何も語りません……事実、神の怒りというタイトルは現代社会ではタブーとなっており、クリスチャンは、たいていそのタブーを受け入れ、それを決して口にしないように自らを律しています。 パッカーよりも前に、リチャード・ニーバー(1894-1962)は、リベラルな神学によってキリスト教信仰の本質的なテーマがキリスト教から取り除かれつつあることを指摘しました。彼は(1937年)貧弱で中和された「福音」を次の言葉で要約しています 「怒りのない神は、十字架のないキリストの働きによって、罪のない人々を裁きのない王国へと導きました」 万人受けを狙うなら、省略すべき4つの領域がニーバーの言葉に要約されていると思います。つまり、怒り、罪です、裁き、十字架について言及しないことです。 世間は、説教者が「神は愛である」と言っても何の問題も抱かないでしょう(それは真実です。第1ヨハネ4:8、16は、神は愛であると喜びをもって宣言しています) 実のところ、彼らはこの素晴らしい事実に拍手さえ送るかもしれません。神の愛が基礎であり、命令であり、不可欠であるように、新約聖書が教えていることはそれだけではありません。次のことを考えてみましょう: ・ヨハネ3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 ・ローマ2:5は「神の怒りと正しい裁きの現れる日」について書かれています。 ・コロサイ3:6このようなことのために、神の怒りが下るのです。 パウロは、イエスが再臨されるとき、「燃え盛る炎の中に」来られると書いている。「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とそのとき御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」(2テサロニケ1:8-9) 上記の聖句を読んでも神の怒りの現実が確信できないのであれば、黙示録の「怒り」について学ぶことをお勧めします。 福音のメッセージは、神が怒りを持てない、あるいは持たないということではなく、「あわれみは裁きに向かって勝ち誇る」(ヤコブ2:13)ということです。 イエスのおかげで私たちが得た福音は、以下の聖句で表現されています: […]
心の戦いに勝つ
コリントの信徒への手紙Ⅱ 10:4-5 「私たちの戦いで使う武器は、肉体の武器ではなく、神から出て、堅固な城塞を打ち破る力がある。われわれは神に逆らうあらゆる思いごとを、キリストに服従させ、全ての人間の思考を捕えて、キリストに服従させる。」 私たちの行動は私たちの考えの結果です。 ネガティブな心を持っていれば、ネガティブな人生を送ります。 しかし、神の言葉に従って毎日私たちの心を新たにすれば、神の良い、喜ばしい、そして完璧な御心を楽しむことができます。 そして、私たちが恐れや疑いの心、混乱、罪悪感を感じるとき、それらはすべて私たちの心に対する攻撃です。 そして悪魔は、私たちの心を惑わす戦略で私たちを打ち負かそうとします。 しかし、これを防ぐためには、私たちの心を常に新たにしなければなりません。 どのように新たにするのか? それは、神を求め、御言葉を学び、祈りと賛美が、心を新たにする強力な武器です。 私たちは神を信じなければなりません。 神様を信じると口先だけのことを言ったり、疑いの心があったりすると、何の意味もありません。 マタイによる福音書 12:33 「- 良い実りを持つには、良い木を持っていなければなりません。しかし、価値のない木を持っていれば、価値のない実りを持つことになります。良い木と悪い木を、その実りによって知ります。」 みなさんは自分自身についてどのように考えていますか? […]
BUT FIRST
Recently, I have been pondering on our relationship with God as His sons and daughters and how vital it is […]