私たちがイエスキリストを主と救い主として受け入れた時、素晴らしい存在が私たちの内に宿りました。 それが聖霊様です。 皆さんはこれがどれだけ素晴らしいことなのか理解できますか?私たちの心と生活に神の恵み、力、導きをもたらす存在です。 私たちの「内」というのは、私たちの「霊」のことです。 「我々の形に、我々に似せて人を造ろう」と神様がご自分の形に人を創造したと記されています。なので神様が霊であるなら、人間も霊です。 人間が神の形に造られていて、神は霊でもあるから、人間も霊として存在しています。神様に似せて創造された霊的存在なのです。 第二コリント人への手紙 6章16節 「神の宮と偶像とに、何の一致があるでしょう。私たちは生ける神の宮なのです。神はこう言われました。「わたしは彼らの間に住み、また歩む。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」 私たちは聖霊の住まいです。聖霊は私たちの霊の中に宿るように来られました。 パウロとペテロがキリストのからだの中で使徒として特別に召されたように、聖霊はこの世で特定の働きをするために、父なる神から特別な「召命」を受けました。 ヨハネの福音書14章26節 「しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」 ヨハネの福音書14章16節 「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」 この二つの聖書箇所ではイエスキリストが弟子たちに自分はもうすぐいなくなると言われた後に私たちの助け主が来るということを伝えています。 聖霊は私たちの助け主です。助け主はギリシャ語で、parakletos (パラクリートス)と言います。この単語は“他の者の側に呼ばれた者”という意味になります。神である聖霊が、“側に召された”お方です。 聖霊は人格のあるお方でキリストを受け入れた全ての人のうちに宿っておられ、私たちにみことばを教えて、真理に導いて下さいます。聖霊の導きは航海士が船を目的地に導く様子に例えることができます。 航海中、船は途中、荒波や嵐に遭遇しますが、航海士は常に海図や潮の流れ、星の位置を頼りに航路を定め、船を安全な港へと導きます。 この航海士のように、聖霊も私たちが人生の旅で直面するあらゆる困難や試練に対して、神の御心に基づいて最適な道を示し、私たちを支え、導きます。神が私たちに望まれる使命を完遂するために、必要なときに必要な助けを提供してくださいます。 […]
変化のプレッシャーに立ち向かう
4月といえば、学校では新年度が始まります。保育園では、新しい園児たちが入園し、慣らし保育が始まります。今まで笑い声に満ちていた保育園に泣き声が響き渡るようになります。 それを見ていると、この子達は、今までお家で大好きなママとパパと過ごしていたのに心地の良い生活だったのが変化し、自分たちのコンフォートゾーンから出なきゃいけない、違う環境、違う生活リズム、知らない人たちと関わらなきゃいけなくなるという場面に立ち向かっているということです。大人も変わりはありません。園児だけではなく、先生達も変化のプレッシャーに立ち向かわないといけないんです。いろんな試行錯誤しながら、どのようにして、その子を泣きやめさせるのか、慣れさせるのか、保護者の対応やその他の業務なども考えながら過ごします。 では、その時私たちが新しい環境に対するプレッシャーを感じたり、経験をしている場合は何をしていますか?ヨハネの福音書16章33節によれば、私たちはこの世にいるだけであらゆる方面からプレッシャーを受ける。プレッシャーに立ち向かえないと感じたとき、私たちにはどんな手段があるのだろうか?困難の中で忍耐できない自分に気づいたとき、私たちにはどんな手段があるのだろうか? 霊による祈り(手段その1) ローマ8:26 同じように、御霊も私たちの弱さを助けてくださいます。私たちは、何を祈るべきかを知らないのですが、御霊ご自身が、言葉にならないうめきをもって、私たちのために執り成してくださるからです」 この聖句にある「弱さ」という言葉は、必要なことに対する自分の弱さ、無力さ、力のなさを指しています。あなたは一人ではない!結果を出すことができないと思った時は、異言で祈ることによって聖霊の助けを受けることになります。聖霊は、私たちとの協力なしに一人で取り次いでくださるのではなく、チームワークなの!聖霊は、私たちが正しい方法で、正しいことのために祈るのを助けてくださる御方です。 聖霊は私たちと共に、私たちの弱さに応え、私たちが力を発揮できないときに支えてくださる。これが、異言の祈りが重要な理由のひとつである。 全てのことが働かせて益となることを信じる(手段その2) ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを私たちは知っています。 私たちが祈るとき、物事が私たちの益となるように働き始める。神に愛されていることを知り、神の完全な御心を祈るとき、あなたの状況は神の御心と一致する。祈りによって、すべてのことがあなたの益となるように共に働くのです。 つまり、あなたは神の祝福を受けるにふさわしいということです。あなたはふさわしくないと感じるかもしれないが、あなたがどう感じるかは関係ないのです。 イエスによって、私たちは神の祝福を受けるにふさわしい者となったのだ。他人に自分を正当化する必要はない。神はすでにあなたを義と認め、神の祝福があなたに属すると決定されたのですから! 神があなたの味方であることを知る。(手段その3) ローマ8:31 では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 プレッシャーの中で、私たちは何と言おう?弱さ、無力さ、力のなさのただ中で、私たちは何と言えばいいのか?パウロは、自分が何を言うかによって、自分が何を得るかが決まることを知っていた。何を言うかによって、あなたの心と体が受ける反応が決まる。プレッシャーの中で何を言うかによって、私たちの進む方向が決まります。 神が私たちの味方であることを悟る必要がある!パウロは32節でこう続けている。“私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。”。 もしあなたがプレッシャーにさらされているなら、その代価はすでにあなたのために支払われていることを知ってほしい。癒しの顕現、仕事内の環境の変化、備えの顕現、それが何であれ、神はそれを自由に与えてくださる。神はすでにすべてのものを与えてくださっている!あなたがすべきことは、受け入れ、そして受け取ることだけなのです。 イエスがあなたのためにとりなしていることを知る(手段その4) […]
Decide to grow in faith
Romans 15:13 says: “May the God of hope fill you with all joy and peace as you trust in him, […]
信仰x疑い
私たちは告白した以上のものを受け取ることはありません。信仰は告白によって成長しますが、それを超えることはありません。 正しいことを告白することは、御言葉によって新たにされた心から来る正しい考えの結果です。疑いは信仰の最大の敵で、ギリシャ語には「疑い」と訳されている言葉があります。 Diakrinoです。それは信仰が不足していること。疑いと恐れは一緒になって私たちの信仰を奪います。 聖書のペテロは水の上を歩きました。イエスは群衆にパンと魚の奇跡を起こしたあと、弟子たちに船で向こう岸に行かせました。 マタイ14:28-34 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ、助けてください」と言った。31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。34 彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。 ペテロが風の方を見て、その状況をフォーカスした時に恐れ、疑いを生じさせたことを見ることができます。 恐れと疑いはセットであり、信仰を盗みます。そして疑いは不信仰を生みます。 また、1人の人が自分の息子のために祈ってほしいと弟子たちに頼みましたが弟子たちは直すことが出来ませんでした。そこでその人はイエスの助けを求めました。 マタイ17:18-20 そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ。私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでもあなたがたにできないことはありません。 マタイ […]
私たちのアイデンティティー
1ペテロ 2:4-6 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」 1ペテロ 2:9-10 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。 ペテロは私たちがキリストにあってのアイデンティティを話しています。 イエスは私たちに救いと贖いをもたらしてくれました。イエスを受け入れる前は霊的に死んでた存在でしたが、救われました。それは、私たちが何かいいことをしたのではなく、神様から来るものです。 私たちは恵みによって救われました。 恵とは、私たちが受けるに値しなかったものが、無償で与えられるものです。 罪人は生きるに値しないものでした。なぜなら、聖書では、罪の報酬は死だと言っているからです。(ローマ6:23) しかし、神様はその状態を見て救い、永遠の命を与えてくれました。それは恵です。 その恵みは私たちのところにきて、救ってくれただけでなく、私たちが神に呼ばれた人生を生きるための条件をあたえてくれました。 先程の聖書箇所で、ペテロは私たちは聖なる国民と言っていいます。 「聖なる」という言葉は旧約聖書のヘブライ語で カドシュです。 あるもののために取り分けられる。2つのものには併用できない。あるもの専用に取り分けられ、守られる。という意味があります。 また、新約聖書のギリシャ語では、アギオスです。とても大いなるもの、とても聖なるもの、光り輝くので隠すことはできないという意味があります。 旧約聖書では、幕屋のために聖なるものが分けられました。私たちが今いる、新約聖書では、輝くもの、隠れてはいけない光です。 […]
彼が死んだとき、悲しんだ者は誰もいなかった
「彼が死んだとき、悲しんだ者は誰もいなかった。」ユダの第5代王であるエホラムの言葉です。 第2歴代誌21:20 彼は三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王であった。彼は人々に愛されることなく世を去った。人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には納めなかった。 これほどの悪名を得るには何が必要でしょうか?はじめに、彼は自分の地位を確立するとすぐ、兄弟たちや他の認められた指導者たちを皆殺してしまいました。彼の妻はアハブとイゼベルの娘の1人であり、彼は偶像崇拝と異教の聖堂を推し進めていました。彼の死後、王家の墓地に埋葬される栄誉は与えられませんでした。メッセージ訳では、上の聖句の一部をこのように訳しています 彼が死んだとき、涙は流されなかった。 30年ほど前、ある葬儀社に面会に行ったことがあります。教会にいた少し年配の男性が亡くなり、その未亡人が私にこのように言いました。「私が感情を表に出したり、涙を流したりしなくても、驚かないでください。夫は教会ではとても友好的でしたが、家ではとても気難しく、一緒に暮らすには不愉快な人でした。今、私が感じているのは、彼がいなくなって、もう我慢しなくていいんだという安堵感だけです」 その言葉を聞いたとき、私はとても胸が締め付けられる思いがしました。その人は生涯を全うしたのに、亡くなったときにそのような感想を述べられるのは、どんなに悲しいことかと思いました。 他者に祝福を与えるような人生を送っている人は、そうはなりません。箴言10:7正しい者の呼び名はほめたたえられ、悪者の名は朽ち果てる。 良い人生とはどのようなものでしょうか これとは対照的に、使徒に記されている神々しい女性がいました。彼女は王族でも、社会的な基準で高貴な地位にあった形跡もありませんでした。しかし、彼女が亡くなったとき、人々は彼女を愛し、深く悼みました。人々は、善良で親切な女性の喪失を感じていました。 ルカは、「この女は、多くの良いわざと施しをしていた。」(使徒9:36)とドルカスのことを語っています。彼女が死んで、神がペテロを使って死からよみがえらせた話は覚えていると思いますが、彼女の人生に影響を受けた人々が彼女をどのように思っていたかを忘れてはなりません。 使徒9:39 やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。” ここで注目すべき重要なことは、 私たちの影響力は、最終的には地位や肩書きによって決まるのではなく、私たちの人格と行動によって決まることです。エホラム王は、より大きな地位と潜在的な影響力を持っていたかもしれませんが、それをうまく使うことができませんでした。彼はその地位を公のため、他の人々のために使うことができたはずであったのに、そうはしませんでした。おそらく周りの注目を引きたいという自己顕示欲と自己利益のために、持っていた可能性を浪費し、無駄にしてしまっていました。 一方、ドルカは、何のポテンシャルもなかったように見えますが、彼女のシンプルで寛大な行為によって、もっともっと増やしていきました。 彼女の内面には大きな愛があり、それを表現する方法をいつも見つけていました。エホラムは全財産を持っているように見えましたが、亡くなった時には軽蔑されました。ドルカスはほとんど何も持っていないように見えましたが、祝福され、名誉を受け、尊敬されました。エホラムは(地上の基準では)多くを持っていましたが、ドルカスはもっと与えました。つまり、神の恵みにより、ドルカスは偉大な影響力を持つことができました。 影響する者になるには、まず影響されなければなりません。 神の方程式を持って、パウロは聞きました。 第1コリント […]
No One Was Sorry When He Died
“No one was sorry when he died.” That is a tough statement to hear, but it was made of Judah’s […]
私はキリストの体の一員だから全ての教会に通ってもいい?
私は山梨県に住んでいた時、ある姉妹が私と同じ教会に通っていましたが、その姉妹にはとても興味深い習慣がありました。同じ日曜日に少なくとも二つの違う教会に行く習慣でした。最初、問題はないだろうと思いました。それは、私たちがみなキリストにあって神様の家族ですし、兄弟姉妹が交わりを持つことに何も悪いことがないと思ったからです。しかし、時間が経つと、その姉妹は教会の皆との関係が気まずくなり、牧師は結局、姉妹と話をし、実際にどの教会に通うのかを尋ねたところ、その姉妹は、「自分がキリストの体の一員なので、教会は一つ」と答え、さらに、「どの教会に行っても大丈夫でしょう」と牧師に言い返しました。 確かにその姉妹が言ったことには間違いがないように聞こえますが、私は聖書の教えに合わないと思いました。また、問題は、多くのクリスチャンがその姉妹と同じ思考を持っていることにも気付きました。そして、特に未熟なクリスチャンにはそこに罠があります。 私はまだ若いクリスチャンであった時に、多くの教会に訪問する習慣がありました。別にそれは悪いことだと今も思っていませんが、ある時期、私は二つの教会に同時に通うようになったこともありました。一つは地域教会として、日曜日に通っていましたが、若い人たちと交流するために、また別の教会に通い始めました。 その過去の習慣に関して、現在の理解で意見を出すとしたら、私から確かめられることは一つです。それは私がその当時まだ霊的に未熟だったことです。さらに、あの段階では私を模範として扱うことができなかったと思います。 結論からいうと、クリスチャンが様々な教会に行きたいと思っている理由はいくつかあります。 まず、自分自身が教会に対して責任を持ちたくないことです。 一つの教会に通うとなると、その教会に忠実に奉仕したり、指導者に報告したりする必要があることに気づき、それらを避けるために、距離を置き、同時に他の教会に通うようにし、好きなところだけを楽しんで、何も責任感を抱かないようにしています。 要するに、子供の段階に留まっていたいということです。 しかし、福音書を少しでも読んでいるなら、そういう態度は神様にどれだけ好まないのかが分かります(参考:マタイ25章14~30節)なぜなら、神様が望んでいるのは、全ての信者が成長し、キリストの体に貢献ができるようになることだからです。つまり、私たちが実を結ぶことです(参考:ヨハネ15章1〜8節)しかしながら、同時に様々な教会に通う人は奉仕することが面倒だと思い、実を結ばない道を選んでいます。 また、もう一つの問題は牧師に服従することです。 様々な教会に通っているクリスチャンの多くは、服従に関する悩みがあります。確かに服従することは挑戦的ですが、神様の御心です。また、神様の命令は重荷ではないと聖書に書いてあるので、(第一ヨハネ5章3,4節)まず、全ての信者が理解しなければならないのは、牧師がキリストによって立てられた聖職者であり、その牧師の年代や性格や国籍や教育などに関係なく、イエスキリストに遣わされた人であれば、その牧師に服従することはイエスキリストに服従すると同じだということです。 ヨハネ 13:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。 なので、牧師に反抗することは神様に反抗することなので、気を付ける必要があります。そして、神様は、牧師も人間なので、完璧ではなく、失敗する者だと分かっていますが、それでもあなたの牧師は神様に選ばれた者であり、あなたが通っている教会に責任があります。 へブル 13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。 牧師に正され、教えを受けることは良いことです。しかし、肉体的な習慣を捨てたくない人は矯正を軽蔑し、それを拒むでしょう。なのでパウロはそういう人について警戒しなさいと命じました。 最後に、山梨県の姉妹の発言に関して、どこが正しくないのを一緒に考えたいです。 […]
神を求める
エペソ 3:7-8 「私は神の力の働きに応じて私に与えられた神の恵みの賜物によって、その奉仕者とされました。すべての聖徒の中で最も小さい私に、福音を通してキリストの計り知れない豊かさを異邦人の間で宣べ伝えるこの恵みが与えられました。」 私は自分が経験していることを目撃し、体感しています。それは、私たちの周りの人々が私たちを見ているということです。休憩をしている場合ではありません。私たちは神の中にしっかりと留まり続ける必要があります。私の内に働く力を使って、主ご自身が私を見られるように私自身を見る必要があります。彼は私を頼りにしています。 使徒 17:26、27 「そして彼は、一つの血からすべての世代の人間を地球の全面に住まわせ、前に定められた時と彼らの居住の限界を定めた。おそらく彼らが手探りして主を見つけることができれば、彼らが主を求めることができるように。それは私たち一人ひとりから遠くないところですが。」 私たちは神と共にいるために、神と親密になり、交わりを持つために造られました。神はご自身を人間に現し、神とコミュニケーションをとることを望んでおり、そのために神は人類全体を創造されました。私たちが心を尽くして神を捜し求めるなら、必ず神に出会うでしょう。 私たちは神をさらに求めるにつれて、神が誰であるかを発見しようと努めています。検索がある限り、必ず答えはあります。彼は私たちに明らかにすべきことがまだたくさんあります。神は私たちにご自身を明らかにしたいのです。 Searchとは、調べる、調査する、探索する、向かうという意味です。彼は自分自身を見つけてもらうでしょう。私たちは主をもっと求めるという期待を常に持たなければなりません。私たちが神を求める決意をするので、神は面と向かってご自身を明らかにしてくださいます。 神を求めるのは答えを見つけるためではなく、私たちが心から神を望んでいるからです。神があなたのためにしてくださることを求めるのではなく、神のために求めてください。 「私の探求があまりにも熱心で、他に何も問題がありませんように。私が生み出す探求は私の欲望を超え、心から湧き出たものです。」 ルカ 10:38-42 「そして、彼らが旅をしているときに、イエスが村に入られたことが起こりました。そしてマーサという名前の女性が彼を家に迎え入れました。この人にはマリアという姉妹がいましたが、彼女もイエスの足もとに座って、イエスの言葉を聞いていました。しかし、マルタは多くの仕事に気を取られていました。そして近づいて、彼は言いました:「主よ、私の妹が私を一人で奉仕させておくのは気にされませんか?」彼に私を助けてくれるように伝えてください。するとイエスは答えて彼女に言われた、「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを心配して悩んでいますが、必要なのは一つだけです。そしてマリアは良い部分を選びました、それは彼女から取り上げられることはありません。」 雑事で主との時間を台無しにしないでください。私たちがしなければならないのは、神の前に自分の心を注ぎ出すことだけです。そうすれば、私たちの人生は変わります。神を求め、神を知ることの最良の部分を自分で選択してください。気を散らさないでください!御言葉にもっと執着することを決意してください。 何かで成長するには、他のことを手放す必要があります。成長は時々不快感を引き起こす。 詩篇 16:9-11 「したがって、私の心は喜び、私の栄光は喜びます。私の肉体もしっかりと休むでしょう。あなたは私の魂を地獄に放っておかず、あなたの聖なる者に堕落を見ることを許しません。あなたは私に命の道を見させてくださいます。あなたの臨在の中には豊かな喜びがあります。あなたの右には永遠に楽しみがある。」 […]
Have We Forgotten Hell?
I’m all for “positive preaching.” I believe people need to be lifted up and encouraged as they walk through a […]