The Lord God said, “It is not good for the man to be alone. I will make a helper suitable […]
安心の領域
コンフォートゾーンという言葉を聞いたことありますか?? これは心理学などでもよく使われる用語です。 日本語で考えると、快適なゾーンです。 快適な空間とは私たちが安心できる、自分のコントロールの下にあると感じられる領域を指しています。 例えていうのであれば、いつものお店、道、家に始まり、いつものやり方、いつもの人々などなど。 自分に馴染みがあり、心地良く感じられる空間です。 しかしながら、コンフォートゾーンは成長を阻むことがあります。 なぜなら、安心の領域にいると変化がないからです。成長とは、変化していく事です。 少しだけ自分の話させてください。 私は朝早く起きるのは苦手だし、寝るのも遅いし、食事も規則正しくなくてずっと放置していました。そしていつもダイエットしたい、運動したいと考えていました。 しかし、いつも「明日やろう!」「月曜日に始めればいいや」「今度こそしっかりやろう」「〇月の1日から始める」とずっと言っていました。 みなさんもこんな経験ありませんか?? マタイの福音書14章25節~32節 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。 この聖書箇所はとても興味深いです。 弟子たちは船に乗っていて向かい風で波に悩まされていたのです。なので、不安を感じていて、水の上を歩いているイエスを見たとき驚いたのです。 わかりますか?不安を感じている時、頭の中はいろんなことを考え始めたり、無いようなことを作り上げたり、大げさに感じたりします。 だって、ずっと傍にいたイエスでさえ弟子たちは分からなかったのですから。 そんな時でもイエスは恐れるなと言ってくれます。だから不安に思うことも独りだと思う必要もありません。 それを聞いてペテロだけ、自分の安心の領域を超えたいと望み始めたのです。そして、イエスの言葉を待っていました。するとイエスは「来なさい」と言いました。それを聞いたペテロは疑うこともなく、第一歩を踏み出し、イエスだけを見つめ深い水の上を歩き出しました。 […]
結婚生活の秘訣
結婚に至るまでにはステップがあります。異性と出会って、友達になり、その人が好きになって付き合い始め、婚約をし、最終的に結婚をします。結婚生活の初めは全てが新鮮です。しかし、結婚生活が長くなると、少しずつ相手といることが当たり前になり、普通の生活になってしまいます。ある点では、いいことですが、結婚生活の基礎を決して忘れてはいけません。 それは愛によって歩むことです。 結婚生活の成功の秘訣はお互いに愛によって歩むことです。 聖書では愛について書かれています。 第1コリント人への手紙13;4−8 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のしたあくを思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 この聖書箇所には愛が何であるかを教えています。愛は自分の利益を求めません。愛は親切であり、愛は決して絶えることはありません。それは人間の愛でしょうか? いいえ、神様の愛です。人間の愛には限度があるからです。人間の愛はいつも見返りを求めます。もしあの人が私を愛しているなら私もその人を愛します。もしその人が私にいいことをしてくれたらお返しにいいことを与えます。しかし、もし愛されていないなら、愛さない、相手が何もしてくれないなら、私も何もしない。 それが人間の愛です。 神様の愛はどうでしょうか。 第一ヨハネ4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、まあ信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。 神様は愛です。神様の性質は愛です。 神様の愛こそ唯一終わりのない本当の愛です。 愛の反対は無関心です。 第一コリント人への手紙13;4−8に書いてある愛は神様の愛です。 イエスを受け入れている全ての人は神様の愛を受けています。 ローマ人への手紙 5:5 5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 […]
ありがとう
今日「ありがとう」を伝えましたか? 1日に何回「ありがとう」という言葉を言いますか。 もし、あなたがクリスチャンであれば、神様にいつも感謝の言葉を祈りや賛美を通して伝えていると思います。もちろん、それは最高な事です。なぜなら全ての良いことは神様からやってくるので、私達はそれを感謝すべきです。 しかし、聖書では、主を愛するとともにもう1つ私達がやるべき事を与えました。それは、マタイの福音書に書かれています。 マタイ22:37-39 そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。 第一に主を愛し、その次に隣人を愛することをイエスははっきりと言っています。 では第二の「隣人をあなたのように愛する」ことはどのくらい実行することが出来ているでしょうか。 夫婦や家族、友達関係というのは、大抵の場合、付き合う時間が長いと遠慮がなくなりお互いに言いたいことを言います。 自分では相手を傷つけていないつもりでも、知らず知らずのうちに相手が傷ついて、関係に亀裂が入ることもあります。間違った言葉を間違った時に使うことで、家庭が壊れるのを何度も見たことがあります。忍耐を持って「目と目を合わせて」率直な会話をすれば、全てのことは簡単に解決するはずなのですが、イライラしてる時に自分をコントロールすること、特に自分の舌(話すこと)をコントロールすることは難しいと思います。 しかし、それは可能なんです。もちろん、自分の力ではできません。なぜなら、それらは御言葉と神様だけがもたらすことのできる態度の変化の過程だからです。 プライドは、いつも自分が満足していないと気が済まず、自分が正しく、他は間違っていると思うことです。ひどくなると、自分の信念を守るために、神様の御言葉を否定するまでにもなります。他の人に謝るときも、「ごめんなさい。でも、わたしが過ちを犯したのはあなたが….」といいます。 プライドがあるところには神様の愛がありません。神様の愛と罪であるプライドは共存しないからです。 私たちは、神様の言葉を聞くことを学ぶ必要もありますが、舌も神様の言葉でいっぱいにし、使いこなすことを学ぶ必要があるからです。 箴言18:21 死と生は舌に支配される。どちらかを愛して、人はその実を食べる。 時々、問題なのは、私たちが考えずに話し、話し、話し、自分が話していることに注意を払わないことです。 ガラテヤ5:23を読むと、イエスキリストを受け入れた時、私たちのなかに自制心が与えられたことがわかります。それは、イライラするとき、怒りの時に相手を傷つけてしまうような言葉を発してしまいそうになるときに自分自身を特に舌を支配し、神様の愛に溢れる言葉を話すのを手伝うために、与えられたものです。 神様の御言葉は薬です。それは体の癒しだけでなく、人間関係が悪くなったところも修復してくれます。 テサロニケ人への第一の手紙 5:16-18 いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。 […]
攻めに出る
私はスポーツアナリストではありませんが、特にバスケットボールでは、チームが極端に慎重になり、勝つためにプレーするのではなく、単に負けないためにプレーするようになる試合をいくつか見てきました。これは通常、試合の後半に起こることが多く、相手チームの勢いが増して努力が必要になったときに起こります。 2020年は、多くの人を動揺させ、「守りを固める」という意識を持たせたのではないでしょうか。しかし、私たちは「ただ時間稼ぎ」して、事態が悪化する前にイエスが戻ってくるのを待つためだけにここにいるのではありません。イエス様が「ハデスの門もそれには打ち勝てません。」(マタイ16:18)とおっしゃったのは、教会が攻めることを想定してのことだったようです。私たちのメンタリティは、「自分の立場を守る」のではなく、「門を襲撃する」ことです。 イエスが「ハデスの門」と言った意味については、様々な解釈がありますが、その一つに「門のある城」というイメージがあります。これが正しい理解であれば、門は防御のために設計されたものであり、これは私たちを攻撃側に立たせるものです。ウィリアム・バークレイは「どのようであっても、この言葉は、キリストとその教会の不滅性を勝利的に表現している」と書いています。 ギデオンの物語は、神の子の一人が守りから攻めへと移行したことを力強く物語っています。ミデヤン人の威嚇により、イスラエル全体が萎縮していました。イスラエルの人々は、抑圧されていたために貧困に陥っていました。士師記6章6節には、「それで、イスラエルはミデヤン人のために非常に弱くなっていった。」とあります。 物語の展開としては、ギデオン自身が小麦の脱穀をしながらぶどうの搾り出しタンクの中で縮こまっていました(士師記6:11)。NTLHを見ると、彼が隠れていたことがわかります。通常、ギデオンはブドウを搾るタンクではなく、脱穀場で小麦を脱穀しているはずです。これは、ギデオン自身が経験していた脅迫のレベルを端的に表しています。水槽の底で小麦を脱穀しても、わずかな成果しか得られないのですから、ギデオンの恐怖心が大きな生産性を妨げていたことがわかります。 ギデオンが攻勢に出る前に、自分の敗北主義的な言い訳を克服しなければならなかった。天使と話していたときの彼の心境を考えてみましょう。 士師記 6:13, 15 ギデオンはその御使いに言った。「ああ、主よ。もし主が私たちといっしょにおられるなら、なぜこれらのことがみな、私たちに起こったのでしょうか。私たちの先祖たちが、『主は私たちをエジプトから上らせたではないか』と言って、私たちに話したあの驚くべきみわざはみな、どこにありますか。今、主は私たち捨てて、ミデヤン人の手に渡されました。」 ギデオンは言った。「ああ、主よ。私にどのようにしてイスラエルを救うことができましょう。ご存じのように、私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです。」 ギデオンを捕らえ、束縛していた恐れ、不信、劣等感の砦を見てみましょう。そんなことを考えている余裕はありません。 良いニュースは、ギデオンが最終的に神の命令に屈したことで、ヘブル11章の偉大な「信仰の殿堂」に入ったことです。 へブル 11:32-34 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ、 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。 信仰が私たちを攻めに向かわせるのです 教会が攻撃を仕掛ける方法はいろいろあると思います。私たちは皆、同じことをするように召されているわけではありませんが、違いを生み出すように召されています。テネシー州ナッシュビルにあるConduit […]
Going on the Offensive
I am no sports analyst, but I’ve seen several games, especially in basketball, where a team gets overly cautious, and […]
教会の奉仕について
1ペテロ 4:10-11 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。 神様はクリスチャンそれぞれに賜物をを託しました。何のために賜物が私たちに託されたかというと、もちろん神様があがめられるためです。つまり、私たちは自分の属している教会で奉仕することによって神様を礼拝することができます。なので、「礼拝」の概念を考えてみると、それはただ教会に行って、みなで賛美を歌って牧師からメッセージを聞くのではなく、神様があなたに与えた賜物を用い、その賜物をもって兄弟姉妹を祝福することによって、それも神様を礼拝する方法の一つです。 あいにく多くのクリスチャンは教会の奉仕に関わっていません。理由はたくさんありますが、その中でいくつか挙げるとすると、例えば、時間がないとか、私には賜物なんてないとか、面倒くさいとか、兄弟姉妹と関わりたくないとか、返しに時給をもらわないとか思う人がいます。昔、ある調査でそれぞれの地域教会のわずか20%の会員が本当に奉仕に献身していると分かりました。それを聞いた瞬間に私は悲しく思いました。なぜただ20%だけしか教会の奉仕に関わりたくないのかと自分を伺いました。私はクリスチャンになってから、教会で奉仕している人たちのように私も何かしたいと思い、最初教会のコーラスに入りました。そのおかげで、歌に関することをたくさん学べましたし、友達もでき、その奉仕することによって霊的に成長することもできました。あの時、小さな奉仕でしたが、「主は私をこの務めにつかせ、忠実に奉仕する者と認めてくださいました」(第1テモテ1:12リビングバイブル)そして、奉仕ながら主に日本への宣教師として招かれたことが分かりました。 クリスチャンは誰でも教会の奉仕のために何か貢献することができます。ある裕福な男性はクリスチャンになって家族とある教会に通うことになりました。数か月わたって彼はいつも教会でメッセージを聞いていましたが、ビジネスマンだったので、別に教会のために才能がないと思ってしまい、教会を通っていただけです。しかしながら、通うだけで、少しずつ教会に、また、みことばに前あった熱意は冷えてきました。何かが足りないと思って、クリスチャン生活が退屈になってきました。しかし、ある日、そのビジネスマンは教会の庭を世話することになり、牧師先生と相談したら、毎週土曜日に教会の花の世話が彼に任せられました。失いかけた教会への情熱が一気に燃え立たせられました。結局、あの裕福な男性は教会の奉仕に惚れて、自分の仕事より、奉仕のことに情熱をもって毎日土曜日が早くくることを願うようになりました。それから日曜日に礼拝に出る時に、いつも家族と自分が世話していた花を確認し、教会がさらに美しくなったことを見て喜んでいました。 神様が喜ぶのは私たちが喜んで奉仕することです。ある人は、教会の奉仕はしていますが、いつもつぶやいて、喜びなしで、強制的に奉仕してしまいます。正直にいうと、その人は奉仕のことを辞めた方が良いかもしれないと言いたい程です。なぜなら、その悪い機嫌とつぶやきのせいで、他の兄弟姉妹も悪影響されるかもしれないからです。しかし、辞めるよりもその人が態度を変えるのは、神様が望んでいることだと思います。それは、神様が辞める人に喜ばせないからです。しかも、神様はいつも私たちの最善を信じているので、私たちが悔い改めることを期待しています。 ですから、言いたいのは、あなたの奉仕が神様にとっても自分の属している教会にとって非常に大切だということです。私たちが奉仕する目的は特に誰かに褒められるためでも認められるためでもないです。また、利益のために奉仕するのではありません。むしろ、神様を喜ばせたくて、神様をあがめたくて、奉仕します。それに、あなたが持っている賜物が自分のためではなく、互いに仕え合うために与えられました。なので、私が奉仕することによって教会が祝福される上に、私も兄弟姉妹の奉仕によって祝福されます。要するに、奉仕しない人はある程度まで霊的な成長にすることができますが、奉仕する人は、兄弟姉妹と関わりみことばを実践するため、大きく成長ができます。また、そういう人たちが神様に忠実なので、もっと大きな物が任せられるとイエスキリストが教えました。(マタイ25:14-30を読んでください) また、ある人たちと、同じことをしないように注意してほしいのは、彼らは大きな招きをもっていると信じ、教会で小さな奉仕を拒むことです。例えば、「私は大きな教会の牧師に任命されたので、教会の子供を世話するに招かれていません」と言います。そういう小さな奉仕に招かれていないと言いながら結局教会で頼まれる奉仕に何も関わらないようにしてしまいます。しかし、神様が報うのはへりくだって小さなことでも忠実に奉仕する人です。なので、もしあなたの牧師さんや指導者に何か頼まれているなら、神様をあがめる機会、また、自分の霊的な成長する機会として見直してください。 結論として、あなたが持っている才能や賜物をもって利益を求めず、またみなに認められたり褒められたりするためではなく、神様をあがめるために、奉仕を通して兄弟姉妹を祝福してください。そして、いつも自分の心を吟味してください。なぜなら、神様が喜ぶのは忠実に自発的に喜んで奉仕する人です。なので、小さな物でも任せられたら、神様をあがめる機会として見てください。最後に、自分の健康も家族との関係も犠牲にするまで奉仕しないでください。それは神様に求められていないので、良くバランスを取る必要があります。そして、私たちが教会で奉仕するのは救われるためではなく、神様をあがめたくて、キリストにある兄弟姉妹のために自分自信を祝福になりたいからです。
人を愛する
神様が私たちに与えた最も重要な戒めとは、「主を愛すること」です。 その次に、神様は第二の戒めを与えてくれました。 「第二は、『自分を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』 ( レビ19・18 ) という戒めです。これ以上に重要な戒めはありません。」 マルコの福音書 12:31 最近、人との関わりついて大切なことを学び始めたのですが、 世の中にはいろんな人がいること、 いろんな考え方があること、 人は皆違うということを知ることができました。 私たちは毎日、人と関わることが必ずあると思います。 しかし、私たちが関わっていく人の中で決して「変な子」「変わった子」は存在しないこと、人はそれぞれ違うことをみなさんに理解してもらいたいです。 そもそも普通な人なんて存在しないと思うのです。 私たち一人ひとりは、それぞれ違う、唯一の貴重な存在だからです。 個性的な人や価値観の違う人、天真爛漫な人、 このように私たちは、たくさんの人と関わることがあります。 […]
A perfect prayer
If you had God’s mind and could see the future as clear as the present, how would your prayers be? […]
信仰は大きくできる!
自分に信仰がないと思ってる人が多いと思います。 ですが、信仰はイエスを受け入れた時に既にあります。 最初は小さい信仰ですがそれを大きくすることができます! そう、信仰は育てることができます。 筋肉は筋トレをすればするほど大きくなりますよね? それと同様に信仰を使えば使うほど大きく育っていきます。 些細なところで信仰を使って行きましょう! 気づいた時には信仰は大きく育っているはずです。 信仰をくださいと祈っても何も変わりません。 イエスを受け入れた時、一人一人の心の中に信仰の種が植えられました。 その小さな種を育てる役目は私たちにあります。 その小さな種を育てれば、大きな木になり実ができます。 その実こそが、今、求めている奇跡の実です。 イエスを受け入れた時にもう既に奇跡がおきてます。