神の言葉は真の成功への道で、私たちの生活の基盤であり、神の意志に従って私たちを形作るものです。 神の言葉は、私たちが変わることを望む限り、誰でも変容させることができます。 神は私たちに自由の意志を与えてくださいました。 神の言葉は神の意志に従って私たちを変え、形作ることができますが、私たちは神にそうされることを許す必要があります。神は強制される方ではありません。 私たちが神の言葉を通して変わることを選ぶとき、私たちが神に変えられるためにまず必要なのは、私たちが神の前に立つ方法です。 神は私たちを暗闇の奴隷から解放し、私たちを彼の子供たちに変えてくれました。 最高ですね! 私たちは神の子です、そしてあなたが救われるならあなたもそうなります。神はあなたが彼の前に立つ方法を変えてくれました。もはや悪魔の奴隷ではなく、神の子供たちです。 コリント人への手紙Ⅱ 5:17-18 だれでもクリスチャンになると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではありません。新しい人生が始まったのです。 この新しい出来事はすべて神から出ています。神様は、キリスト・イエスの働きによって、私たちをご自分のもとに連れ戻してくださいました。そして、この恵みによる神との和解を、すべての人に勧める特権をも、私たちに与えてくださったのです。 イエスを受け入れることによって、私達は霊的なものに変えられ、新しい被造物となります。 聖書箇所ではこのように書いてあります:古いものはなくなり、見よ、すべてのものが新しくなった。 過去に何をしたかは関係ありません。本当に悔い改めてイエスを受け入れるなら、あなたは新しい人になります。 聖書は、私たちがキリストによって新しい人になると言っています。 例えば、聖書の中にパウロという人がいます。彼は、神様に使われた人ですが、かつてはクリスチャンの殺人者でした。しかし、神の言葉に変えられることをを決心したので、神の偉大な人になりました。 ここで、神の言葉にはさまざまな変化があることをみたいと思います。 一つ目は、第2コリント5:17が言うように、私たちは新しい創造物にされ、神の子供になるということです。 この変化は瞬間的であり、あなたがイエスを受け入れた瞬間、あなたは新しい創造物に変わります。 […]
どうやって神様に約束されたものを得るのか。
新しい年が始まったので、新しいシーズンが始まりました。 「あなたは2021年に何を期待しているでしょうか。」おそらく何回かこういう質問をされたと思います。 もし、何も期待しないならそれは良くないと思います。もしかしたら先が見えていない状況なのではないかと思います。また、先が見えないなら、行くべき方向が分からにということです。先も方向も知らないと、どこへも行くことができません。しかし、あなたには神様の約束があります。もしかしたら、ただそれを知らないだけかもしれません。 まず、知っていただきたいのは、神様が神様の家族に属している人をみな導いてくださることです。 ロマ 8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 イエスキリストを受け入れたあなたは、神様の子供です!それを信じて受け取ってください。過去の過ちがどうであろうと、イエスキリストを受け入れたあなたは、完全に赦され、霊の上で新しい人とされました。なので、あなたは神様に導いていただく権利を持っています。そればかりか、神様自身があなたを導いてあなたと親しく関わりたいのです。 詩 34:15 主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。 もし目標がなかったとしたら、あなたが神様に聞いて、神様から目標や目的が与えられること、そして、導かれた通りに前進するように励ましたいです。過去の自分を忘れて、キリストにあって新しくされた自分を信仰の目で見てください。 また、神様がこの2021年にあなたに大いなることをたくさんを約束していることを知っていただきたいです。あなたが今年成功できるように、神様はあなたに素晴らしいものや、自分がまだ知らなくても、これから必要とすることさえも、用意してくださっています。何と最高な神様でしょう!神様というより、彼は私たちにとって天のお父さんです。なので、いつも私たちのことを気にかけ、守り、たくさん備えたりしてくださっています。 しかし、多くの人が苦労しているのはどうやって神様に約束されたものを手に入れるか知らないからです。 現在教会でそれを解くために『FIGHT』というシリーズのメッセージを日曜日にしています。なので、その課題をさらに深く理解できるように青空礼拝の『FIGHT』のメッセージをYoutubeかFacebookで視聴することを強く薦めたいと思います。 神様が私たちに準備してくれたことを手に入れるために不可欠なことが一つあります。それは、あなたの信仰です。信仰は、神様のみことばに約束されている祝福を受け取る手段でもあります。なぜなら、信仰はそれよりはるかに深いことで、イエスキリストを受け入れた人のライフスタイルそのものだからです。なので、信仰について学ぶ必要もあり、信仰というのは成長させることができることを理解する必要があります。一つの例をあげると、マルコ5章25節から34節に12年間長血にわずらっていた女の実話が書いてあります。そこに、その女がどのように癒されたかが書かれています。まず、彼女はイエスキリストが誰でも癒されると聞いて、イエスキリストに触れることを決心しました。なぜならそのように癒しを受け取ると確信したからです。ところが、自分を触れて癒された女に対してイエスキリストはこう言いました。 マコ 5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」 興味深いと思うのは、彼女が癒しを手に入れるために必要だったのは彼女自身の信仰です。神様の力が既にイエスキリストにあったにも関わらず、その力を働かせたのは彼女の信仰でした。信仰さえあれば、神様に約束されたことを手に入れることができるということです。4つの福音書を細かく読めば、イエスキリストはいつも信仰の行動に対して、応えてくださったことが分かります。一方で、不信仰の態度に対して多くの場合、イエスキリストは怒りました。 […]
命じる言葉の力
私たちがみことばを従うことに献身することで働かせることのできる力があります。 それは、命じる言葉の力です。 私たちが新しく生まれ変わった時に、神様から与えられた特権です。 しかし多くの人は、この素晴らしい特権を与えられたことを理解していません。 多くの人は「命じる」ことを、使徒や預言者、それか牧師などにしか与えられてないと思っているのです。 聖書は、私たちはキリストの体だと語られています。 「あなたがたは共に、キリストという一つの体であり、一人一人がなくてはならない部分であるということです。」 コリント人への手紙Ⅰ 12:27 キリストの体である全ての人が、イエス様が言われたすべての権利や特権を自分のものとして命じて要求することができるのです。 なぜ自分には何も起こらないのだろう? こういった疑問を持っている人々がいます。 神のみことばをしっかり聞いて、お祈りもしてるのに、なぜなにも起こらないのか。 それは、何かが起きるために命じてないからです。 たくさん祈り、たくさん告白することは良いことであり、とても大切です。 しかし、最も大切なことは「命じる言葉の力」なのです。 聖書の福音書を見てみると、イエス様が病人を癒したり奇跡を起こしたりする場面がたくさんあります。 そこで注目して欲しいのは、イエス様はその時、命令を発していることです。 ルカの福音書5章で、全身らい病患者がイエス様のもとに来て、癒しを求めました。 […]
Prospering as we walk with God
I want to start this article by telling you the good news: We are no longer slaves of fear; whoever […]
神様の義
今回は神様の義について書いていきたいと思います。 コリント人への第二の手紙 5:21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。 多くのクリスチャンは神様の義のことを知らずにいます。では義とは何でしょうか?ギリシャ語で「義」はディカイオスネで、「あるべき状態、神にとって受け入れられる状態」として定義されています。 神様の前に立つ能力であり、罪が存在しなかったかのように神様を父と呼べる状態のことです。 では、私達クリスチャンはいつ義とされるのでしょうか?それは、信仰によってイエスを信じて受け入れた時です。 ローマ人への手紙 5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 他の聖書箇所ではこのように書かれています。 ローマ人への手紙 5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。 義を理解することで、私達は過去から自由に生きることができます。 コリント人への手紙Ⅱ5:17-19 だれでもクリスチャンになると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではありません。新しい人生が始まったのです。 この新しい出来事はすべて神から出ています。神様は、キリスト・イエスの働きによって、私たちをご自分のもとに連れ戻してくださいました。そして、この恵みによる神との和解を、すべての人に勧める特権をも、私たちに与えてくださったのです。 つまり、キリストによって、この世をご自分と和解させ、その罪を数え立てずに、かえって帳消しにしてくださったのです。これが、人々に伝えるようにと私たちにゆだねられた、すばらしい知らせです。 キリストの行いにより神様は私達の罪を許してくれました。私達の罪を帳消しにしてくれました。しかし、私達の敵である悪魔は罪がまだ許されてないのではないかという思いを与え、罪悪感を与えます。それに対抗するためにはイエスの行いによる死とその意味を理解する必要があります。 […]
The Person God Uses
We are living in amazing days. There are more people alive on the planet than at any other time in […]
神様が使う人々
私たちは、素晴らしい時を生きています。今、地球には歴史上他のどの時代よりも多くの人々が生きており、教会の可能性は、今まで以上に大きく、命を与えるメッセージと変容する力をもって、ため息をつき、泣き、そして死にゆく世界に影響を与えています。 しかし、教会はその準備ができているでしょうか。イエスが祈った働き手は装備されて活力を与えられているのでしょうか、それとも信者たちは生き残るためにかろうじて頑張っているのでしょうか。 これは、「神は誰を用いるのか」という質問につながります。 私たちは、神がイザヤに次の質問をしたことを知っています。 「だれをわたしの民への使いとしよう。だれが行ってくれるだろうか。」 そして、私たちはイザヤは誠実な応答をしました。:「主よ、私が行きます。私を使いに出してください。」 (イザヤ6:8) 今、このような熱意をもって神に応答している人は何人いるでしょうか。 私はここで、誰が説教者または宣教師になるかについて言及しているのではなく、彼らがフルタイムでミニストリーを行う召しを持っているかどうかに関係なく、あなたの地域教会、仕事、またその他の場所で、どれだけの人が完全に神に身を捧げているかということについて言っています。 何年にもわたって、神に用いられる所に身を置くタイプの人々の成長を見てきました。 確かに他の要因も関係していますが、御国の働きでの有用性を高めるために人々がすべき5つの非常に重要な要素について紹介します。 1-自発性 自発的に物事を行う人は、主に無条件の「はい!」をもって自分の人生を差し出す人々です。神は泥棒ではないので、私たちが自ら進んで提供しないものを私たちから奪うことはありません。神は人々に彼らの意志に反して仕えることを強制しません。神は私たちに懇願し、影響を与えますが、私たちの自由意志に反することはありません。そのため、私達が(イエスのように)「…私の思い通りではなく、あなたのお心のままになさってください」(ルカ22:42)と言い。神に捧げる時が重要です。数年前は、人々が祭壇で熱心に「神様、あなたが行きたいところならどこへでも行きます。私はあなたが私にしたいことをします。私はあなたが私に言いたいことを言います」というお祈りを聞くのが一般的でした。 自分の存在の一部が完全に神に身をゆだねたくないと気づいたために、自発的な問題に苦しむ人もいます。その後、罪を感じて彼から背を向ける人もいます。あなたがそれと一致しているならば、あなたを励ましたいと思います。あなたが感じていることは普通のことです。これは肉体や新たにされていない考えの自然な働きで、それは、自分自身を喜ばせ、奉仕することを求めています。あなたが自ら進んで行うことと戦うならば、非難されてはいけません。それについて神に話してください。あなたが喜んで行うことを望んでいることを彼に伝え、あなたが彼の助けを必要としていることを認識してください。 時々、意欲は何かを行おうとするやる気から始まります。これを一人ではできないことを認めることは、謙虚さの中で必要なステップであり、一人ではできないことをするために神の恵みを受けるようになります。フィリピ2:13を思い出してください。彼は次のように述べています。「[自分の力ではない] なぜなら、あなたがたのうちに働きかけて、[あなたに力と欲望を活気づけて創造する]その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」。 2-有効性 意欲は不可欠で基本的であり、それは神に仕える上で重要なものです。しかし、神に仕えることには実践的で一連の流れ的な側面もあり、それは私たちに可用性の問題をもたらします。あなたは世界中で最高の心を持っているかもしれません、そしてあなたは奉献の祈りを行うことができます、しかし実際に、あなたが何も提供することができないならば、あなたの意欲は決して実用的なものになることはありません。 牧師が奉仕する機会を与えるたびに、ある人がこう言います。「あぁ!私はそれをしたいのですが、私はとても忙しいです」、その人は彼の善意があるにもかかわらず、決して何もしません。私は人々が仕事や家族の義務などを持っていることを知っていますが、神に仕えるために割り当てられた時間があることは、明確に定義された優先順位と規律のある取り組みを示しています。 イエスが「…最初に神の国を求めなさい…」(マタイ6:33)と言ったことを思い出してください。彼は「神の国だけを求めなさい」とは言いませんでした…彼は私たちが霊的なものだけでなく、やるべきことがあることを知っています。しかし、神は私たちの最優先でなければなりません。私たちはすべてにおいて彼を第一に置かなければなりません。私にとって、それは神を第一に置き、神に仕える時間を確保することを意味します。ここで注目に値するのは、神に仕えることは、私たちの日常生活の中での関係を通じて自然にかつ形式ばらずにに起こることもありますが、地元の教会での奉仕を通じて一貫して神に仕えることも理想的です。可能な限りあらゆる方法で神に自発的でいるのは良いことです。 3-忠実さ […]
祈りの依頼
ヤコ 5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。 クリスチャンにとって祈りというのは、非常に重要なことで、日常生活で欠かせないものです。なので祈らないクリスチャンはおそらくクリスチャンではないと言っても過言ではないと考えられます。もちろん、祈りは話題が広いので、祈りについて一つの記事で全て説明しませんし、そもそもできません。しかし、最近よく私の注目を引いたのは誰かのために祈ることです。誰かのために祈るというよりも、祈ってもらいたいという祈りの依頼です。実際に宣教師として誰かのために祈る経験は数え切れません。 まず、そのために私たちが理解しなければならないのは、祈りが一つのタイプだけでなく、様々であり、それぞれ異なる目的を果たすために、存在しており、祈り方も異なります。エペソ6:18がそれをさらに明らかにします。 エペ 6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 次に、クリスチャンがイエスキリストを受け入れることによってこの地上で支配する権威が、イエスキリストを通して与えられたことを認識するべきです。全てのクリスチャンが祈る権威、力をもっている証明できる聖書箇所が多くありますが、ここではマルコ16:15-18だけを引用します。 マコ 16:15-18 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」 ところが、祈りで全てが解決するわけではありません。それを言って、私は祈りの効果をけなそうとしているわけではありません。しかしながら、多くのクリスチャンが祈りの使い方を間違え、祈りを効果的にできていません。例えば、もしあなたが祈る時に、その動機が悪いことなら、もちろんそれは叶えられない祈りです。 ヤコ 4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 また、最近一つ気になっています。いつも誰かに「私のために祈ってください!」と頼むクリスチャンです。なぜいつも誰かに祈ってほしいのでしょうか。なぜ自分で祈らないのでしょうか。多くの場合、祈りを依頼するクリスチャンが自分の祈りに対して確信がないので、牧師や成熟したクリスチャンに依頼するのではないかと思います。また、ただ消極的で、自分で祈る慣習をもっていないためか、自分の祈りが聞かれないと勝手に思い、祈る役割を誰かに任せてしまいます。しかしながら、ここで最も明らかにしたいのは、全てのクリスチャンが祈る資格を持っていることです。牧師や、教師だけでなく、イエスキリストを受け入れた人たちは、みな同じ祈る力を持っています。 先ほど読んだように、義人の祈りが働くと、大きな力があります。では、ここでとても深い啓示を教えて差し上げましょう!イエスキリストを受け入れた人がみな信仰によって義人とされました。なので、あなた自身にもあなたが祈る度に、大きな力が働きます。 それから、祈りの依頼が来る時に、興味深いと思うのは、その人が苦しんでいるので依頼してくるでしょう。しかし、聖書箇所が一番最初に勧めるのは、その人自身が祈ることです。 ヤコ […]
神様からの贈り物
みなさんも大掃除をした時に、「私こんなものあったんだ」って思えるようなものを見つけたことがありますか? つい最近の話なんですけど、部屋の掃除をしていたら、本に1万円が挟んであるのを見つけました。 その1万円は私が自分へのお小遣いとして使うためのお金だったのですが、財布に入れたら全部使ってしまうと思い、本に挟んでおいたものでした。 しかし、私は挟んでおいたことを忘れてしまい、見つけた時は数ヶ月も経ってしまっていました。 ケネス・ヘーゲン師の本にも似たような話があり、彼が財布に20ドルの紙幣を入れていたのに、そのことを忘れていたことがありました。 ある日ガソリンが尽きてしまい、自分の財布を探すと、財布から20ドルを見つけたのです。何ヶ月も、カバンのポケットにそれをずっと持っていたのに、自分が持っていることを知らなかったので、そのお金を使うことが出来なかったのです。 これらを踏まえて、私が何を伝えたいのかというと、私たちクリスチャンは、新しく生まれ変わった時に神様から様々なものを与えられたのですが、持っているのにも関わらず、自分は惨めだ、神様から良いものを与えられるのに値しない存在だと思っている人がおり、神様が与えてくれた素晴らしいものを忘れてしまってる人がいるのです。 放蕩息子のたとえ話を覚えてますか? 父親は息子2人に財産を分け与えました。 弟は遠くへ旅立ち使い果たしましたが、兄は、父親が持っていたものを全て持っていたのに、使ったことがありませんでした。 財産を使い果たして飢えに苦しんでいた弟が帰ってきた時、父親が指輪や服などを弟に贈り、パーティーをしたことに対して、兄は平等に扱われていなかったことに腹を立て、父親に不満をぶつけました。 その後に、父親が何を言ったかわかりますか? ルカの福音書 15:31 「すると、父親は言いました。『いいか、よく聞きなさい。おまえはいつだって、私のそばにいたではないか。私のものは全部おまえのものだ。」 兄は全てのものを利用することができたはずです。 しかし彼は自分にある権利、そして父親にとってどれだけ価値のある人なのかを理解していませんでした。 私たちは自分が誰なのか、何が自分のものとされているのかを理解する必要があります。神様が私たちにみことばをお与えになったのは、何が私たちのものであるかを私たちに教えるためです。 みなさんは自分が誰なのか、どのような存在なのか、そして神様は私たちに何を与えてくださったのかを考えてみたことはありますか? 聖書にはそのことについてはっきり示してくれてます。 […]
御心を行う
今回のブログで伝えたいことがあります。それは、神様の御心を行うことです。 神の計画に従うことは、私達がこの人生で勝つための最善の戦略です。それは、神様だけが私たちにとって何が最善かを知っているからです。私達は彼と彼の御言葉を信じて、信頼することが必要です。残念ながら、多くのクリスチャンは自分の計画を実行し、神様に祝福してもらいたいと思っています。しかし、ここで言いたいのは、彼は真実で知恵であるため、あなたは彼なしでは祝福されることはありません。 あなたはイエスを信じていますか?あなたは神の子供ですか?あなたは新しく生まれ変わっていますか?それなら、あなたは神様に召されています。あなたの人生の上には、神様があなたのためにお定めになった特別なご計画と目的を果たすべき召しがあります。 ローマ人への手紙 11:29 神の賜物と召しとは、変えられることがない。 聖書は、神の賜物と召しとは、変えられることがないと書かれています。私達の上にある神様の召しは、私達が生きる限り、共にあるのです。神様が私達に行うように召しておられるどんなことでも成し遂げる能力を授けました。神様は私達が召しを果たすために霊的な装備を備えてくれました。もし、私達が本当に忠実でいるなら、神様は私達を祝福します。 召しを行うことによって、神様は私達を成功者としてくれます!聖書の中で、その例があります。その例はパウロという人です。 彼は最後まで神様の召しに忠実でした。パウロはクリスチャンを殺して迫害をした人物でした。イエスと出会った後、彼は召しを与えられました。その召しは、異邦人に福音を伝えることでした。使徒行伝でパウロの人生を見ると、パウロが自分の召しに従順であったことがわかります。私達に必要なのは、自分がいる場所で忠実でいることを学ぶことです。私達が不安定であったり不忠実であったりするなら、神様は私達を用いたり、昇進させることも出来ません。パウロは何度も動かされない者でいなさいと私達に勧めているのです。 第一コリント15:58だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。 パウロは生涯の終わりの時に弟子であるテモテに対して言いました。 第二テモテ4:7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。 パウロと同じように、私達一人一人も、神様を熱心に求める必要があります。神様の私達に対する召しは何であるかを見出す責任があります。神様の召しを成就させることに忠実でなければなりません。 私達は、全てのクリスチャンが同じ賜物と召しを持っているわけではないことを理解する必要があります。神様はすべてのクリスチャンを牧師の奉仕に召されたわけではありません。神様の召しに関して、あなたの霊の内側に傾けたことがありますか?もしかしたら、あなたは全く知らないかもしれません。自分自身の計画を立てる時、それがわからなくなります。主の計画と目標に関して主を待ち望むことで、本当の召しをあなたの内なる人を通して確信することができます。 なぜならローマ人への手紙 11:29 神の賜物と召しとは、変えられることがない。と書いてあるからです。神様があなたに与えた召しを無視しないでください。あなたに何か語っておられるかを知ろうと、熱心に神様を求めてください。あなたはあなたの召しに責任があります。 魂や、肉によって歩むのではなく、神様の召しに従い、従順の報いを刈り取ることを選んでください。私には重すぎるとか、私には出来ないと宣言しているクリスチャンがいます。それは聖書的ではない告白です。神様の御心を行うことが私達の人生の成功のカギです。多くの場合、神の計画は少し犠牲的で苦痛を伴うことがあります。 しかし、私達は神様の御言葉に書かれていることに従う時、主ご自身が私達を喜びと休息の場所に連れて行きます。私達の未来は常に成功するでしょう。私達が神様の御心の中心にいる時、私達の人生は満たされています。