あなたはグループの一致には力があると知っていますか? 神さまは人間をお作りになった時にこのように言いました。 創世記 1:28: “神は人間を祝福して言われました。「地に増え広がり、大地を治めよ。あなたがたは、魚と鳥とすべての動物の主人なのだ。” 彼が人間に言ったことは地に増え広がること、大地を治めることでした。しかし人間は神様の掟を守っていましたが、やがて過ちを犯してしまいました。人間は堕落してしまったのです。その時から人間は神様の完璧なビジョンを失ってしまいました。もしあなたが神様との関係が全く無い時、神様からのインスピレーションを受けなくなるようになります。 アダムは神様からの影響を失いました。罪を犯し、神様から離れてしまいました。 最初の人間アダムは神様が与えた掟を忘れ、神様が計画しなかった人生を生き始めるようになったのです。神様が人間に与えた掟とは地に増え広がり、大地を治めることでした。もし私達が神様から来ていないアイデアを計画すると、問題が発生します。1番祝福なこととは、自分にある神様の計画に従い、それを生きることです! 聖書ではある民が増え広がることをしないで、一緒になり天まで届く塔を建てようと計画が書いてあります。当時その民は同じ言葉を語り、自分達の偉大さをこの地に示そうとしたのです。 その聖書箇所を見てみましょう。 創世記 11:1-7 “さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」” ここで神様は永遠に機能する原則を確立しています。同じ言葉を話すことにより起こる力を示しているのです。6節ではこの民は同じ言葉を使っていたこと、そして一致していたことが書かれています。この民は互いに会話をする時理解していました。それは同じ言語を持っていたからです。同じ言語のコミュニケーションとは、相手が話すことを理解でき、私が話していることを相手は理解ができることです。 […]
“Seeing” the Grace of God
The #1 question I am asked about concerning my travels is this, “What are you seeing as you travel to […]
神の恵みを「見る」
旅をしてさまざまな教会を訪問していると、最もよく聞かれる質問があります。 「いろんな教会を回っていて、どんなことを見ていますか?」 この質問は、ほとんどの場合、他の教会の現状に興味を持っている牧師の方からです。たとえば、他の教会が成長しているのか、停滞しているのか、あるいは人数が減っているのか。また、地域によって教会が直面している課題に違いはあるのか。また、どんな方法や工夫で効果を上げているのか、そういったことに関心を持っています。 もちろん、そうした視点もとても大切です。しかし、私が教会を訪ねて最も強く感じることは、そこまで分析的なことではありません。 私の心に響くのは、バルナバがアンティオキアの教会を訪れたときに体験したことと似ています。聖書にはこう記されています。 使徒の働き11章23節 「彼はそこに到着して、神の恵みを見、喜んだ。そして、心を固く保って、いつも主にとどまっているようにと皆を励ました。」 私はまだ旅を始める何年も前にこの聖書箇所を知っていましたが、「神の恵みを見るって、どういうことだろう?」と不思議に思ったのを覚えています。 他の訳のバージョンを見ると、少しヒントがあるかもしれません。 バルナバが見たのは、聖霊の力によって変えられた人々の姿だったと思います。人々が新しく生まれ変わり、信仰の中で成長しているのを見ました。イエスがしたことと、聖霊が今働いていることに対して、喜びと感謝の心で礼拝している人々を見たのです。さらに、人々が互いに愛し合い、共に神に仕えている姿も見たと思います。 では、バルナバはそれを見てどうしたでしょうか? 「彼は喜び、心を固く保って主にとどまるようにと皆を励ました」のです。 たしかに、私たちは時に、戦略的に物事を分析し、「もっと良くできることは何か」を考えることも必要です。しかし、同時に、神がすでにしてくださった良いこと、そして今も続けてくださっている良いことに目を留めて感謝することも大切です。 それは牧師であるかどうかに関わらず、私たち全員に言えることです。家庭でも、人間関係でも、職場でも、私たちは立ち止まって、与えられているものに心から感謝しているでしょうか? 旅の一歩一歩を、楽しんでいるでしょうか? 時に、自分が望む結果が得られないときや、状況がうまくいかないと感じるとき、落ち込んでしまいそうになることがあります。そんなときこそ、パウロのこの言葉を思い出してください。 第2コリント4章17~18節 「今の時の軽い苦難は、私たちのうちに働いて、計り知れない、永遠の重い栄光をもたらすからです。私たちは見えるものではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠に続くからです。」 神の恵みが働いているところを見ることを、いつも忘れないでください。 神の恵みが働いているときには、いつもそれを見るようにしましょう。それは神が働いておられるときです。そして、問題があなたの注意を引こうとするときこそ、人間の感覚では見えないもの、神の約束、神の善さ、そして神の臨在に目をしっかりと向けていましょう。
真の賛美と礼拝
私が好きな賛美の中に「目覚めの時から眠るまで素晴らしい主を賛美します」「命ある限り素晴らしい主を賛美します」というフレーズがあります。 皆さんは、朝目覚めた時、まず最初に出る言葉は何ですか。私や主人は朝起きてよく賛美をして、1日の感謝をします。 賛美や礼拝と聞くと、日曜日の教会でするイメージが強いかもしれません。しかし、聖書では、このように言っています。 ヨハネ4:20-24 20私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」21 イエスは彼女に言われた。「私の言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。22 救いはユダヤ人から出るものですから、あなたがたは知らないで礼拝しています。23 しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 イエスは、ここでサマリアの女性に礼拝についての大切な教えをしています。 「…まことの礼拝者たちが、御父を霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がその時です。」(ヨハネ4:23) イエスは「どこで礼拝するか」ではなく、「どう礼拝するか」が重要だと語られました。神は霊であり、霊とまことによる礼拝を求めています。では、霊とまことで礼拝するとはどういう意味か未定規定と思います。 霊によって礼拝する「私たちは…神の霊によって礼拝する」(ピリピ3:3) 「霊による礼拝」とは、神と直接交わることができる「新しく生まれた霊」を通して捧げる礼拝です。イエスが十字架にかかって復活する前、人は霊的に死んでいたので、霊によって神を礼拝することができませんでした。しかし今は、御霊によって生き、神との親しい交わりの中で礼拝ができるようになりました。 まことによって礼拝する「…真理によって彼らを聖め分けてください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17:17) 「まこと」とは、神の御言葉に沿っているかどうかということです。感情や伝統ではなく、聖書に基づいた礼拝こそが、神の御心です。 では、聖書に基づく礼拝とは、どんな礼拝でしょうか。1つめは、手を挙げて礼拝をすることです。 「どこででも、怒ったり争ったりせず、きよい手を挙げて祈るように…」(1テモテ2:8) 神に向かって手を挙げるのは、へりくだりと信頼の表れです。教会の賛美の時間は、ぼーっとしたり、携帯をみたり、髪をさわる時間ではありません。メッセージに入るために、あなた自身を準備させる時間です。 私たちは、毎日忙しい生活の中で生きていて、頭の中がいっぱいなときも少なくはありません。いろいろ考え事をしているとメッセージに集中することが難しくなります。なので、その時は、手を上げながら賛美をし、神に集中すること。そして、私たちの力の源は神からやって来ることを再認識する必要があります。 […]
教会の中に嫌な人がいると感じた時に読む話
誰にでも性格が苦手な人がいます。 恥ずかしいですが、私にもそういう人がいます。正直に言って、そのような人とはあまり関わりたくないし、できるだけ避けたいと思うことが多くあります。しかし、クリスチャンである私たちは、そのような思いを持っていても大丈夫なのでしょうか。もし大丈夫でないとしたら、そのような人とどう関わっていけば良いのでしょうか。一つの記事では語り尽くせないテーマですが、今回はいくつかのポイントを考えてみたいと思います。 ヘブル 12:15 「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」 この聖書箇所で、まず「恵み」という言葉に注目していただきたいです。著者はクリスチャンに対して、恵みから落ちないように注意しなければならない点があると語っています。 第一に考えたいのは、すべてのクリスチャンは恵みによって救われているということです。救いに値する人は一人もいませんでした。誰もが過ちを犯し、良い行いを一つもしていなかったため、イエス・キリストを通して神様の恵みによる赦しが必要でした。また、私たちクリスチャンは皆、恵みによって神様との交わりを保っていることを知っていると思います。 では、「恵みから落ちる」とは何でしょうか。それは、神様とのつながりが断たれ、主からのいのちの流れを失うことです。なんと恐ろしいことでしょう。だからこそ、著者は「苦い根」が芽を出さないように気をつけなさいと警告しているのです。 「苦い根」はどこから? 「苦い根」が芽を出し始めるのは、誰かに対して不満を抱き、その人のことを悪く思うようになったときです。多くのクリスチャンは表面的には兄弟姉妹を我慢しようとしますが、聖書はそれよりも深いところを懸念しています。神様は、他の誰にも見えない心の奥底、「苦い根」をご覧になっておられます。そして、あなたがそのような苦い思いから解放されることを望んでおられるのです。 なぜなら、「苦い根」が育ってしまうと、最終的には恵みから落ちてしまい、神様との交わりが失われてしまうからです。 私が見てきた「苦い根」 これまでに私が見てきた中で、「苦い根」が芽を出した人たちは、最初は神様からの祝福をたくさん受け取り、いつも喜んでいる様子を見せていました。しかし、性格が合わない人と出会うと、その人との関わりを避けることを決めてしまいます。すると、その人に対する思いが次第に悪化し、同じ空間にいるだけで不快になるほどになります。 最初は笑顔だったその人の顔も次第に変わり、かつて輝いていた目は、今では硬い表情に変わってしまいました。カインも弟アベルを殺す前に同じような様子でした(参考:創世記 4:6)。 1ヨハネ 3:15 「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。言うまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」 神様は表面だけでなく、誰にも見えない心の動機を見ておられます。たとえ実際に手を下していなくても、心の中で「この人とはもう関わらない」と思い、その人に関心を持たなくなるなら、それは心の中でその人を“殺した”ような状態です。 1サムエル […]
心の優先順位
詩篇37:5 「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げて下さる。」 日々の生活の中で何かを決断する時、つい自分の事を中心に考え、神様の事を後ろにしてしまうことはありませんか? 今回は私がクリスチャンになったばかりの頃の証をしたいと思います。 その頃私がいた会社での仕事は、プロパンガスを使っている家のドアを叩いて、半ば強引に自社のプロパンガスに替えさせる営業でした。入社時から35万円の給料がもらえますが、月に15件のノルマを達成しないと退職に追い込まれるような所でした。毎日朝6時に家を出て、夜中の12時に家に着く毎日でした。 同じ時期、私と妻は長野県にあるブラジル人中心の教会に通っていました。その頃の私は礼拝での献金や1/10献金、教会への協力金について同意しませんでした。毎週の神奈川県から長野県の行き帰りの経費は安くはなく、いつも経済的な心配ばかりしていました。妻は私とは正反対で、礼拝の時は私の分まで献金をする程、神様に心が開かれていました。そんな時、1/10献金を勧められましたが、「35万円の給料の1/10は3万5千円、それだけあれば色々買える。教会に献金するのはもったいない。」と心固くしていました。 会社に入社して1ヶ月目、話術がないこともあって、結局3件ぐらいしか契約が取れず、このままでは辞めないといけない状況になりました。そこで私は神様に解決を求め、そして自分の方からも神様に捧げる事を始めようと思い立ち、1/10献金をその月から始めました。 献金してから1,2週間後の休日、家にいるとふと「1人で営業に出てみようか。」と思い、車で出かけ、何となく止まった所で訪問営業しました。するとなんと、すぐに契約が取れました。その後、その周りや、私が回る所どこでも契約が次々と取れるようになりました。結果、2ヶ月目は15件以上の契約が取れ、会社の中でトップの成績になりました。決して話術があった訳ではなかったので、会社の先輩も私に「やはりあなたには神様がいるね。」と言いました。私は日々の必要は自分の力によってではなく、全て神様から来ているとその時はっきり理解し、それからは進んで礼拝の献金、1/10献金をするようになりました。 ところが3か月目から会社がもっと業績が上がる為に、日曜日にまで営業に出るように言われました。それでは教会に全く行けなくなるので、私は会社を辞める決心をしました。上司は引き止めましたが、迷いませんでした。 実際、無職になりましたが、その時は不思議と平安がありました。神様が別のよい仕事をあたえてくださると信じて疑いませんでした。土日は教会に行けて、平日の夜も教会の奉仕が出来る良い条件の仕事を神様に祈り願い、しばらくして条件通りの仕事が与えられました。 その仕事をしながら生活は支えられ、教会の奉仕も今まで以上に出来るようになりました。 それだけでなく、職場では沢山の日本人がイエス様を受けました。ハレルヤ! マタイ6:33 「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。」 私と同じ事を皆さんもやるように言っているのではありません。皆さん1人1人には色んな生活の状況があります。ただ私達が忘れてはいけないのは、神様は私達の心の優先順位をいつも見ておられる事です。あなたの人生の中でどんな時も神様を、そして神の国の事を1番にする態度を神様は望んでおられます。そしてまず第一に求め、信じるべきは自分の力ではなく神様の御言葉です!聖書の御言葉に全ての解決があります。その御言葉への信仰に固く立って下さい。御言葉を信じきり、従って下さい。そうすればあなたの人生に素晴らしい事を見ることが出来ます。イエス様を受け入れたあなたの人生の繁栄はキリストの名によってもう保証されているんです! 1ペテロ5:6 「ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい、神は、ちょうど良い時にあなたがたを高く上げてくださいます。あなた方の思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」 あなたの心の優先順位はどうですか?神様が1番になっていますか?
Do not look at yourself
When I arrived in Japan, Jefter was already doing missions here. I came to add to his mission. Later, Satsuki […]
あなたの日を作り出してください
神様の御心は私達の人生の全ての面で助言を与えることです。 詩篇 32:8 “主はこう言われます。わたしはあなたを教え、最善の人生へと導こう。助言を与えて、一歩一歩を見守ろう。” 神様はすでにあなたに与えものをあなたがそれを使うことができるように、それを楽しむ事ができるように導きを与えます。勝利は既にあなたの中にあります。 もう私達の中に勝利があるなら何が必要ですか?それは、神様の助言が必要です。私達の中にあるものをどのように使う事ができるかを学ぶ必要があります。私達が知らないといけないのは、神様の助言はもう確実に良いもので、勝利の助言だということです。 第1コリント 2:9,10,12 9まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 10神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 12ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。 この9節で書いてある神の備えてくださったものは何でしょうか?私達は神の御霊を受けました。神様があなたの将来に用意されているものはもうあなたのものです。私達はそのものをどのように活用すればいいのかを学ぶ必要があります。イエスは私達の勝利です。 聖霊があなたの中に宿るようになったとき、彼が持ってるすべてのものはあなたの中にあります。 ヨハネ 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。” 私達はイエスキリストを受け入れる時新しくされました。内側が変わりました。そして私達は中の変化を外に出す必要があります。それは私達の口を通して表すことができます。御言葉を語る時に自分の将来のために宣言していることを意味しています。なのであなたの1日をあなた自身の言葉で作り出すことができます。 神様の見本を見てみましょう。 創世記 1:3-4 […]
聖書からの子育て
皆さんがいつも読んでいる聖書は私たちのマニュアル本です。また、聖霊様は私たちを導いてくれます。それは、人生のどの領域においてもそうです。もちろん、子育てに関してもインスピレーションを与えてくれます。 今日は、聖書から私たちがどのように子育てし、子供を教育していくべきかをいくつかのポイントで学んでいきましょう。 ➀ 御言葉の中で子育てをする 時々、子育てを重いものとして見てしまうことがあります。実際に、子育ては簡単ではありません。責任もあります。しかし、私たちが御言葉に頼り、捧げることによって考え方は変わってきます。 教育は負担ではなく、神聖なものです。まず、子供は神様が与えてくださった宝です。私達は、その宝を守り、育てる使命があります。育つたびに天のお父さんである神様は喜んでいます。子供を生んで育てるのは神様の計画です。なので、私たちは迷ったときに、御言葉に戻り、その光の中で教育すべきです。 詩篇127:3-5 3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。 ② 神様とつながることを教える 箴言22:6 若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。 私たち親には、子供たちが神様の道にいるべきことを教えなければなりません。しかし、それは、教会の子供たちの先生の責任ではなく、親自身が教えなければなりません。もちろん教会は手伝いますが、子供は教会より家で過ごす時間の方が、はるかに多いです。なので、親がやるべきことです。 ある人たちは、「そんなに小さい子に、聖書を教えても何の意味もないし、わからないでしょ?」といいます。しかし、子供はすべてを見てわかっています。 私の3歳と1歳の子どもたちも、朝起きたら1日のためにお祈りする。毎日聖書を読む。日曜日は教会に行く日というのがわかっています。また、保育園の行きかえり、家でも常に賛美をしています。神様を1番にするということを、小さいころから教えるべきです。 また、子供たちが見ているアニメや音楽から影響されないように注意をしてみて、必要があれば正す必要があります。 ③ 自分を人と比べない これは、特に女性の方に伝えたいです。完璧な母親になろうとすると、挫折することがあります。今では、SNSをみると完璧に見えるお母さんをたくさん見ることができます。しかし、あなたは、その人とは違います。その人の子どもはあなたとは違います。 […]
幻滅と失望を超えて
リサと私が8月(2024年)にオーストラリアにいたとき、太平洋南東部のクリスチャンからある話を聞きました。何年か前、あるクリスチャングループがあるビーチで祝賀会を行おうとしたが、信仰に基づいて許可が下りなかったという。その代わりに、彼らは山の上の別の、あまり好ましくない会場に集まらなければならないと言われました。 彼らはがっかりしましたが、山に登りました。その時、その海岸や周りの地域にいた何千人もの人々が、押し寄せてきた津波によって命を落とすことになるとは、彼らは知る由もありませんでした。山の中にいたため、クリスチャンたちの命は助かりました。彼らの短期的な失望は、それよりもはるかに大きな祝福に変わりました。 もっと身近なところでは、先日のヨーロッパ旅行の直前、リサと私はノースカロライナ州ローリーでミッチ&スーザン・ホートン牧師のイベントで話をしていました。(2024年9月27~29日)教会の計画と準備としては、このイベントを教会とは別の場所で行うために、アッシュビルのホテルの予約を確保しようとしていましたが、何度も努力しましたが、希望のホテルから必要な情報を得ることはできませんでした。 その結果、その教会はローリーの教会で集会を開催することを決定しました。しかし、もし計画通り、イベントがアッシュビルで開催されていたら、ハリケーン「ヘリーン」がその地域に壊滅的な打撃を与えたとき、私たちはそこにいたでしょう。ひどい被害を受けたすべての住民のことを考えると、私たちの心は確かに痛みますが、私たちは感謝しています。 聖書で語る 幻滅している人を助けようとしたことがあるでしょうか?物事がうまくいかなかったり、計画どおりにいかなかったりして、苛立ったり失望したりしている人を見たことがあるでしょう。もしかしたら、私たち自身も経験したことがあるかもしれません。聖書で、幻滅と向き合った人といえば、私は洗礼者ヨハネのことを思い出します。投獄されていた彼は、イエスが行っていた素晴らしい奇跡について聞き始めました。他の人たちは奇跡を受けていたようですが、彼は受けていませんでした。 次の箇所がどれほど痛烈であるかを考えてみましょう: マタイ11:2-6 2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、 3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」 4 目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。 5 目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病人は清められ、耳の聞こえない人は聞く。 6 だれでもわたしにつまずかない者は幸いです。」 ヨハネの頭の中でいったい何が起こっていたのかは推測するしかありませんが、もしかしたら、このように考えるかもしれません。「ちょっと待って!他の人たちはイエスに助けてもらっているのに、なぜ自分は助けてもらえないのだろう?」彼は牢獄に座っていました。彼は、捕らわれ人を解放するキリストを世に紹介しましたが、彼自身は捕らわれ人になってしまいました。彼は、自分の置かれた状況にもかかわらず、神を無条件に信頼しなければなりませんでした。 イエスが彼らの期待に応えなかったとき、多くの弟子たちは幻滅しました。ヨハネによる福音書6章には、イエスのある教えに対して多くの人々が否定的な反応を示したことが記されています。イエスの言葉は彼らを挑発し、苛立たせ、失望させました。彼らは結局、不平を言い、自分たちの間で言い争いました。その結果、「弟子たちのうちの多くの者が離れ去っていき、もはやイエスと共に歩かなかった」(ヨハネ6:66)しかし、十二弟子の態度が違っていたことを神に感謝しましょう。「主よ、私たちがだれの所に行きましょう。あなたは、永遠のいのちのことばをもっておられます。私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。」(ヨハネ6:68-69)イエスがバプテスマのヨハネに関連して言われたことを覚えているでしょうか。「わたしのゆえに怒らない者は幸いである」(マタイ11:6)。 […]