御言葉と癒しは、切り離すことのできない関係にあります。聖書は、神のことばを「聞くこと」と「語ること」が、信仰の結果を生み出すことをはっきりと教えています。この原則は特別なものではなく、まず救いにおいて明確に示されており、癒しにもそのまま当てはまります。救いと癒しは、同じ霊的な仕組みで働いています。 使徒の働き11:13–14では、御使いがコルネリオに現れ、 「ペテロを呼びなさい。彼はあなたとあなたの家の者すべてが救われることばを語ります」 と告げました。ここで救いは、ことばを聞くことから始まることがわかります。エペソ人への手紙2:8には 「この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです」 ともあります。皆さんも、救いを受ける前に誰かから神様の話を聞いたと思います。話を聞いたり読んだりすることなく、救いが起こることはありません。 ローマ人への手紙10:17には 「信仰は聞くことから始まり、聞くことはキリストについてのことばによるのです」 とあります。信仰は、神のことばを聞くことによって生まれます。しかし、それだけでは終わりません。ローマ人への手紙10:9–10には、「もしあなたの口でイエスを主と告白し、神がイエスを死者の中からよみがえらせたと心で信じるなら、あなたは救われます。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです」とあります。信じるだけでは不十分です。口で語ることによって、信じたことが現実となります。信仰は、語られるときに働きます。 この原則は、癒しにも同じように働きます。癒しは、神がすでに備えておられるものです。そして、その癒しは、神のことばを聞くことによって信仰が生まれ、その信仰を口で語ることによって現実となります。したがって、神のことばを聞き、語ることは、癒しを受け取るうえで欠かすことができません。 しかし、多くの人は、神が特別な方法で働いてくださるのを待とうとします。確かに、神は主権的に奇跡を行われることがあります。ヨハネの福音書5:1–4では、ベテスダの池で御使いが水を動かした後、最初に入った人が癒されました。また、マルコの福音書4:35–40では、イエスが「黙れ、静まれ」と言われると嵐はすぐに静まり、マタイの福音書14:25–31では、沈みかけたペテロをイエスが手を伸ばして助けられました。これらは、人の信仰によるというよりも、神ご自身の権威とあわれみによる働きです。 しかし、このような主権的な働きはすべての人に常に起こるものではありません。聖書が教えている基本は、神のことばによって信仰が生まれ、その信仰によって受け取るという方法です。ローマ人への手紙10:17が示す通り、「信仰は聞くことから始まる」のです。神は、みことばを通して信仰を与えておられます。 さらに、マルコの福音書11:23には、 「だれでも、この山に向かって『動いて、海に入れ』と言い、心の中で疑わず、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」 とあります。ここでも明らかなように、信仰は心の中にとどまるものではなく、口で語られるときに働きます。 聖書は、ことばの力についても明確に語っています。マタイの福音書12:37には「あなたは自分のことばによって義とされ、また自分のことばによって有罪とされるのです」とあります。また、箴言12:18には「知恵のある人の舌は人を癒やす」とあります。ことばは、単なる音ではなく、結果を生み出す力を持っています。 人は、自分の語ることばによって、自らの人生を方向づけています。箴言6:2にあるように、「あなたは自分の口のことばに捕らえられ、自分の口のことばに引き寄せられる」のです。否定的なことばを語り続けるなら、その現実に縛られます。しかし、神のことばを語るなら、神の約束に生きることになります。 だからこそ、神のことばを聞き、それを信じ、そして語ることが必要です。神のことばを語るとき、信仰は強められ、神がすでに備えてくださっているものが現実として現れます。癒しはその中に含まれています。みことばを口にし続けるとき、神の備えは確かに現されていきます。
The results of saying yes to God
Delight yourself in the Lord, and He will give you the desires of your heart. Psalms 37:4 For this to […]
You are a child of God
Please, take a moment to meditate on those Bible verses: Proverbs 3:5-8 [5] Trust in the Lord with all your […]
「私には何もない」と思っていませんか?
聖書には、私たちクリスチャンは神に選ばれた種族であると書かれています。そして、それがどれほど力強いことばであるかを考えたことがあるでしょうか。神様は意図的に、ある目的のために私たちを選んでくださいました。そして今年、主が日本において、私たちの人生を通してさらに賛美されることを信じ、私は大きな期待をもってわくわくしています。 1ペテロ 2:9「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。」 神様が最も望まれる賛美とは 神様は、あなたが御言葉を実践するときに賛美されます。周りの人々が、あなたが御言葉を生きている姿を見て、信仰によってさまざまなチャレンジを乗り越えているのを見たとき、彼らは主を賛美するでしょう。 だからこそ、今年は大胆に主の偉大さを伝えてください。それは主に栄光を帰すことだからです。賛美とは、ただ歌うことだけではありません。むしろ、聖書に書かれている神様の御心を行うときにこそ、真の賛美がなされるのです。 多くの人は音楽によって感動しますが、神様が最も望んでおられるのは、御言葉を実行する人です。 「自分には何もない」と思っていませんか? しかし、あなたはこう考えるかもしれません。「私はただの普通の人です。特別な賜物があるわけでもなく、お金持ちでもありません。社会に影響を与えることなんてできません。」 残念ながら、多くのクリスチャンは、社会に違いをもたらすためには、とても賢く、才能があり、影響力のある人でなければならないと思い込んでいます。また、経済的な力にフォーカスしすぎて、「自分には力がない」と感じてしまう人もいます。 しかし、神様はそのようなものを探し求めておられるのではありません。 1コリント 1:26–31「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって神の知恵となり、また義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、『誇る者は主を誇れ』と書いてあるとおりになるためです。」 あなたは「最もふさわしい人」 才能やお金を持つこと自体は、決して悪いことではありません。また、神様は怠け者を選ばれるわけでもありません。しかし、それらを多く持つ人ほど、しばしば自分の持っているものに信頼を置き、神様の御言葉を信じなくなってしまうことがあります。 ですから、「自分は神様の計画にふさわしくない」と思っているあなたこそ、実は最もふさわしい人なのです。なぜなら、あなたはただ一つ、そして最も重要なものを持っているからです。 それは、イエス・キリストによる信仰です。それさえあれば十分です。神様は、あなたの賜物や経済力を信頼しなさいとは言っておられません。神様は、「主を誇りなさい」と言っておられるのです。 主が用いられる心とは 神様は高ぶりを嫌われます。しかし、何かを持っているからといって、その人が高ぶっているとは限りません。逆に、何も持っていないように見えても、高ぶった心を持つ人もいます。 大切なのは、あなたが裕福かどうか、若いか年配か、友達が多いか少ないかではありません。重要なのは、あなたの心の中で、主が一番になっているかどうかです。 […]
What are you saying?
“From the fruit of their mouth a person’s stomach is filled; with the harvest of their lips they are satisfied. […]
教会の祝福となる
私たちはつい、「教会がどんな祝福をくれるか」「どんな助けが得られるか」「自分に合う教会なのか」と、受ける側の視点で物事を見てしまいがちです。もちろん、必要や弱さがあるのは当然で、助けを受けることは悪いことではありません。でも、もしそこで信仰が止まってしまうと、神様が用意しているもっと豊かな世界に気づけなくなってしまいます。 イエス様は聖書で 使徒20:35 「受けるよりも、与えるほうが幸いである」 と言われました。与える生き方は、人を祝福するだけでなく、自分自身を最も豊かにします。時間を差し出すこと、力を分け合うこと、賜物をささげること、誰かに親切を示すことなど、その一つひとつが私たちの心を開き、祝福の器を大きくしていくのです。 そして私たちは、「信仰生活は一人ではない」という大切な部分を見落としがちです。聖霊が共にいてくださるだけでなく、神様は兄弟以上に親しい仲間を与えてくださっています。 使徒パウロの例を見てみたいと思います。パウロの手紙には、彼を支えた多くの協力者の名前が書かれています。たとえば、ローマ人への手紙16章3〜7節にはこうあります。 ローマ16:3–7 「キリスト・イエスにあって私の協力者であるプリスキラとアキラによろしく伝えてください。彼らは私のために自分の命をも惜しみませんでした。彼らには私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。また、私の親戚で、一緒に投獄されたアンドロニコとユニアによろしく伝えてください。彼らは使徒たちの中でも評判が良く、私より前にキリストを信じていました。」 表には見えないけれど、彼らがいなければパウロは働きを成し遂げることができませんでした。祈り、時間を差し出し、経済的に支え、苦労を共にした多くの仲間がパウロを支えていました。 アフリカのことわざに「早く行きたいなら一人で行け。遠くに行きたいなら皆で行け」という言葉があります。パウロは、一人で働ける力がありながら、それでも人と一緒に歩む道を選びました。人間的に見れば弱く、足りない部分があるように見えても、その人こそ霊的にあなたを目的へ導く「鍵」となることがあります。 イエス様もこの地上で歩まれたときに、1人ではなく弟子とともにいました。イエス様は神様から送られてきたので、他の人の助けがいらないくらいの十分な力を持っていました。しかし、どこかに行くために誰かのロバや誰かが作った舟が必要でした。また、知らない町に行ったとき、そこを案内してくれる誰かが必要だったかもしれません。イエス様はいつでもどこでも人と一緒に、仲間と一緒に歩まれました。 「人とともに歩む」というのは、初代教会にもありました。聖書では、私たちを「一つのからだ」と呼びます。互いに祈り、励まし合い、支え合い、協力するところに、神様の力が最も強く働きます。彼らが心を一つにして祈ったとき、そこには一致の力がありました。 使徒4:31-35 彼らが祈ると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り始めた。信じた者の群れは心と思いが一つであった。だれ一人、自分の持ち物を自分のものだと言わず、すべてを共有していた。使徒たちは主イエスの復活を力強く証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。彼らの間には、ひとりの乏しい人もいなかった。土地や家を所有している者は皆、それを売り、売った物の代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。そして、それぞれの必要に応じて、分け与えられたのである。 心と思いを一つにして、自分のものを共有し、お互いの必要を満たしあったとき、誰にも不足はありませんでした。これが神の国の姿です。「ほしい」と思うのではなく「人のために何ができるか」を考え、行動に移すのが神の御心です。 もし私たち一人ひとりが、「受ける側」から「与える側」へと変わったらどうでしょうか。礼拝は整い、奉仕はスムーズに流れ、問題は早く解決し、福音の力はさらに広がり、聖霊の働きをより深く経験することになるはずです。「だれがすごいと言われるか」「だれの手柄になるか」を気にしなくなると、教会は神様のために想像以上の力を発揮できるようになります。 では、私たちは今日から何ができるでしょうか。挨拶を先にする、誰かを励ます、ちょっとした奉仕を引き受ける、誰かのために一言祈る、準備や片付けを手伝う、感謝を伝える……どれも小さなことですが、その「小さな与える心」が神様の大きな祝福を呼び込みます。先ほど読んだ使徒4:34には「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」と書かれています。神様は「与える人」「仕える人」に祝福してくださるお方です。 最後に、質問をして終わりたいと思います。あなたは今日、どんな祝福を誰に流しますか?そして、自分が通う教会にとっての祝福になると決心してみませんか。 私たち一人ひとりが「与える人」「仕える人」へと変えられるなら、神様はあなたの人生と教会に、あふれる恵みを注いでくださいます。
権威の問題
クリスチャンが今真剣に考えるべき重要なテーマがあります。それは「権威」、特に神の権威についてです。すべての人は、「自分の人生を神の支配にゆだねるかどうか」という根本的な問いに向き合わなくてはなりません。ときどきクリスチャンは、世の人々が神の基準や戒めを尊重しないことに驚くようですが、それは本当に驚くべきことなのでしょうか。 ローマ8:7にはこう書かれています。 ローマ8:7 「肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わない。それどころか従うこともできない。」 コロサイ1:21でも、パウロは私たちが神と和解する前、「悪い行いによって心において神に敵対していた」と言っています。 神の権威を拒む姿勢には非常にはっきりとしたものがあります。ダビデは詩篇2:2–3でこう言っています。 詩篇2:2–3 「地の王たちは立ち構え、支配者たちは結束して主とその油そそがれた者に逆らって言う。『彼らのかせを断ち、彼らの綱を解き捨てよう。』」 NLT訳では3節を「『束縛を断ち切って、神から自由になろう!』と彼らは叫ぶ。」と訳されています。 神の御心に従うこと、神の働きかけに身をゆだねることを、奴隷のようなものと誤解してしまう。大きな勘違いですね。サタンと罪の支配のほうが、宇宙の創造主である神とのいのちに満ちた自由な関係よりも良いと思うとは、どれほど大きな勘違いでしょうか。 イエスはルカ19:12-14の例えの中で、神の権威を拒む者について語られました。 ルカ19:12-14 「ある貴族が王位を受けるために遠くへ行くことになった…しかし、彼の国民は彼を憎み、『この人を私たちの王にしたくない』と使者を送った。」 イエスは、歴史を通して、そして今も人々が神の権威を拒み続けていることを示していました。同じようににペテロも、「高慢で横柄な者は、権威を侮る」(2ペテロ2:10)と言っています。 士師記の時代、ミカ(後の預言者とは別)は、自分のための聖所やエポデや家の偶像を作り、息子を祭司にしました。聖書ではその背景をこう書いています。 士師記17:5–6 「そのころ、イスラエルには王がなく、だれもが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」 ミカの姿は、現代社会にもよく当てはまるように感じます。 今日、多くの人が自分の好みに合わせた“神”をつくり、本当の神を拒もうとしています。悔い改めを求めず、罪を戒めない“神像”を求めるのです。MSG訳は、「人々はただ自分が好きなように行動していた」と訳しています。 箴言には、神の権威を拒む者の行く末が描かれています。 […]
A Question of Authority
Something believers need to strongly consider these days is the issue of authority, and more specifically, God’s authority. A fundamental […]
イエスにとどまり、実を結ぶ
私たちは忙しい社会の中で生きています。皆さんもそう感じているのではないでしょうか。用事が重なり合い、止まることがないように見えます。仕事や勉強、家族などのことで、私たちは毎日忙しくしています。また、どんなに頑張っても、仕事が終わらないように感じることもあります。 そのため、私たちはもっと成果を出せるように、より生産的になれる方法を取り入れようとすることが珍しくありません。私もその一人です。もっと生産的になり、時間をうまく使う方法を探しています。 しかしながら、現代の人々は「どうすれば生産的になれるか」をよく研究していますが、それでもなお、不満を感じてしまうようです。いくら働いても、いつも「まだ足りない」と思い、落胆してしまうのです。 しかし、それはなぜでしょうか。この記事だけで完全な答えを示すことはできませんが、いくつかの点を一緒に考えてみたいと思います。 まず、イエス・キリストは、私たちが不満や不安を抱えながら生きることを望んでおられません。むしろ、喜びに満ちた人生を送ることを望んでおられるのです。次の聖書箇所をご覧ください。 ヨハネ 15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。 では、どうすれば喜びに満たされた人生を生きることができるのでしょうか。 それは、イエス・キリストの語られたことを受け入れることによってです。イエス・キリストの教えるみことばは、私たちの人生に目的と意味を与えてくださいます。多くの人は方向も目的もなく生きようとしています。そのために、落胆してしまうのです。 ヨハネ15章で、イエス・キリストは弟子たちに大切な教えをされました。すべての人が実を結ぶ方法を教えておられるのです。 ヨハネ 15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様に、あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。 要するに、私たちはイエス・キリストにとどまることによって、実を結ぶ人生を送ることができるということです。そして神様は、私たちが実を結ぶことを期待しておられます。 ある人は「神様は私という存在そのものにしか興味がない」と思っているかもしれません。確かに神様はあなたを愛しておられますが、それだけでなく、あなたが何をするかにも期待しておられます。なぜなら、神様はあなたを造られたときに、ある目的を持って造られたからです。 つまり、あなたはただ存在するために生まれたのではありません。使命(ミッション)を果たすために生まれたのです。私たちの人生には意味があります。 エペソ 1:4 すなわち、神は、世界の基が置かれる前からキリストにあって私たちを選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 […]
神様の平安に守られて生きる
突然ですが、質問です。 あなたは幸せですか? あなたは神様にどれほど愛されているか知っていますか? そして、神の平安があなたに与えられていることを知っていますか? 私たちは御言葉を通して、そのことを知ることができます。自分のアイデンティティがイエスキリストにあることを知っているからです。だからこそ「神の平安が私の内にある」と確信できるのです。 でも世の中には、そのことを知らない人が大勢います。 御言葉を知らない人。 キリストを知らない人。 私は毎日のように思います。 「神様を知っていて良かった。」「御言葉を知っていて良かった。」「神様に愛されていることを知っていて良かった。」 もし神様がいなかったら、私は今ここにいなかったでしょう。 同じように、あなたの人生も神様がいなければ成り立たなかったのではないでしょうか。 先日、日本のニュースでこういうデータを見ました。日本には1,100万人以上が障害を抱えており、そのうち600万人以上が精神的な問題を抱えているそうです。 この数字は、この国における心の痛みの深さを表しています。 私は日本が大好きです。文化も、技術も、本当に素晴らしいと思います。でも、その背後には「孤独な世界」が存在します。助けを求められない人たちが沈黙の中で苦しみ、希望を失い、自ら命を絶ってしまう現実があります。 だからこそ、私たちは光である必要があります。暗闇にいる人に、神の愛と平安を届ける存在として。 私の心に強く響いた聖書箇所があります。 ピリピ 4:6-7 「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人知を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」 […]