私は約10年間、妊婦さんたちの通訳者や友人として付き添ってきました。 いろんな方と出会い、病院で働く方々と仲良くなり、色んな事を学び、 たくさんの経験をし、いろんな方の傍でこの大切で貴重な経験を共にしました!! 妊婦健診の時にみる超音波検査では赤ちゃんはお母さんの胎内でとても 気持ちよく、スクスクと成長していきます。 胎内は暖かく、温もり、栄養などの必要なものはお母さんから全て与えられます。 神様はこのような素晴らしい仕組みを女性の体に与えました。 新しい命が元気よく育つためにその前から全て整えてくれます。 だが、出産・分娩の時は少し変わります。 赤ちゃんには赤ちゃんの役割を果たさないといけません!! 胎内から出るように下に向けて力をいれます。 そして、出た時には目を開けて出てくる赤ちゃんもいれば、 目を閉じたまま出てくる子もいます。その時の泣き声もさまざまですww でも一番最初に彼らの上にあるのは光です。 妊婦さんを見るいつも「信仰」をイメージし、それになぜか、「エデンの園」 というイメージも浮かびます。(私の中ではwww) 初めに、神が天と地を創造した。 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。 神は仰せられた。「光あれ。」すると光があった。 創世記1章1~3節 […]
イエス様は、どんな人?
やがて一行は湖を渡り、向こう岸のゲラサ人の地に着きました。 イエスが小舟をおりる間もなく、悪霊に取りつかれた男が墓場から走って来て、イエスを迎えました。 (マルコの福音書 5:1-2 JCB) イエス様はどんな時でも、いつも良いことをしていました。 病人、らい病人、不具者、盲人、口がきけない人、耳の聞こえない人を癒しました。 そして霊的に死んだ人々の魂をよみがえらせ、多くの人々の人生の傷を癒し、罪の囚人を解放しました。 デゲラサという地で、悪魔の力に狂わされた完全に野生化した危険な男をイエス様は発見しました。 悪魔に支配され、丘や墓の間で昼夜を問わず叫び、わざと石で自分を傷つけるような彼の状況は、絶望的であり、実質的に破壊された男でした。 しかし、イエス様だけが鎖を壊すことができ、その危険な男を自由にすることができました。 そして、それを実行に移したのです。 あなたは、敵の影響に事実上降伏している世界で生きていることを知っていましたか? そして、聖書には、世界はすでに悪のものであると書かれています。どこに書いてあるのでしょうか。 私たちは神の子どもですが、回りの世界は悪魔の支配下にあることを知っています。 (ヨハネの手紙Ⅰ 5:19 ) アルコールなどの薬物の背後には悪魔がいます。 例えば、多くのハリウッド映画の舞台裏には、”闇の王子様 […]
Speaking Words of Life
What have you been speaking about your life or the things around you? Are you speaking victory or defeat? Because […]
賛美の人生
エペソ人への手紙1章3節~6節 3主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、天上のあらゆる祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。それは、私たちがキリストのものとなっているからです。 4神はこの世界をお造りになる前から、私たちを、ご自分のものとして選んでくださいました。そして、神は私たちを、ご自分の目から見て、何一つ欠点のない、きよい者にしようとお定めになりました。 5神の御心は、イエス・キリストを遣わし、その死によって、私たちを神の家族の一員として迎えることでした。 6神こそ、いっさいの賞賛を受けるべきお方です。神は、驚くばかりの恵みと愛とを豊かに注いでくださいました。それは、私たちが、神の最愛のひとり子につながる者となったからです。 エペソ人への手紙1章11節~13節 11そればかりでなく、神のご計画のままに、神のものとなるように最初から選ばれていた私たちは、神が喜んでくださる存在となっています。 12なぜ神は、このようになさったのでしょう。それは、最初からキリストを信じ、望みをおいていた私たちが、こんなにもすばらしい恵みを見て、神をほめたたえるためなのです。 13このキリストによって、あなたがたも救いを約束する福音を聞き、キリストを信じるようになりました。そして、キリストに属する者であるという証印を、聖霊によって押していただきました。 このエペソ人への手紙の中で、パウロは贖いの業、つまりイエス様が何をするためにこの地に来られたのかについて話しています。 まず私たちが理解しないといけないのは、イエス様はただ何かを与えるためにこの地に来たのではないことです。 イエス様は私たちが神の子としてどんな存在であるべきか、クリスチャンとしてどんな人になるべきかを教えるためにこの地へ来ました。 そして、イエス様は、その犠牲と贖いの御業によって、私たちを神の子とされました。 かつて、私たちの命は、罪の中にありました。 しかし今、私たちは新しい心を受け取りました。そして、新しい心とともに、私たちは召命をも受けました。それは、神に仕えること、つまり、神の栄光をたたえる人となることなのです。 ですから、私たちの人生は、神への賛美、神を敬う人生、霊において神に仕える人生であるべきなのです。 賛美のある人生と聞くと、多くの人は歌について語るのだろうと思いがちです。 どうしたらうまく歌えるか、美しい声を出せるか。 しかし、賛美の人生とは、単に声がきれいだとか、歌がうまいだけではないことを理解しなければなりません。 それはまさに御言葉にあるとおりで、救われた人生を歩むこと、神の子どもとなること、神を敬う人生、神の栄光を讃えるために仕え、生きる人生なのです。 […]
We need each other
There is a characteristic in the Gospel that always called my attention: the need for fellowship and cooperation for the […]
The treasures we have in Jesus
What should we consider treasure in our life? Something that will fade away like earthy possessions? Or something that is […]
イエスのいのちに生きる
こんにちは!今週もブログを読んでくださりありがとうございます。 聖書のヨハネの福音書10章を読んでいるときに、目に留まった御言葉がありました。 強盗は、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来ます。しかしわたしが来たのは、いのちをあふれるほど豊かに与えるためです。 ヨハネの福音書 10:10 この聖書箇所はとても有名だと思います。 今日は、後半の「わたしが来たのは、いのちをあふれるほど豊かに与えるためです。」という部分に注目していきたいと思います。 イエス様は私たちが豊かないのちを持つために来てくれました。それは、私たちが喜びに溢れた人生を生きるためです。 ここで、突然なのですが、質問したいことがあります。 「あなたは、イエス様が与えてくれたいのちに十分に生きていますか?」 なぜこの質問をしたかというと、多くの人は目の前にあるやるべきことに集中しすぎてしまって、神様の言っていることが聞こえなくなってしまっていたり、また、何でも自分の力でやろうとして結局失敗して、いつもイライラしてしまったり、やる気を失っているからです。 例えば、あなたの前に壁があるとします。実際にはそんなに高くない壁でも、もしいつも目の前でその壁ばかりを見ていたら、高くて乗り越えるのが難しいように思えてきます。 しかし、私たちにとってどんなに乗り越えるのが不可能だと思えても、イエス様にとってはちっぽけなものです。なぜなら、彼が全ての答えを知っているからです。 なので、私たちがやるべきことは、全ての答えを知っているイエス様についていくことです。イエス様を知らずに生きるのは、ある目的地にマップを持たずに行き、同じところで迷っているのと同じです。また、イエス様を知っているのに、自分の力で生きようとするのは、ナビが行くべき方向を示してくれているのに、それに自ら反対に行って何度も方向転換をしないと行けなくなって余計に訳がわからなくなっているのと同じです。 イエス様についていくと、いつどこで止まるべきか、どの道が最善かがわかります。それによって、私たちの人生はもっと軽やかなものになり、喜びで溢れます。例え、どんなに険しい道になったとしても一番いい対処法を教えてくれます。 イエス様のいのちに生きることは、彼に委ねて休むことです。ここでいう休むというのは何もしないことではなく、自分の考えや心配事をイエス様の言っていることに変えることです。なので、休むことは信仰の態度を取ることです。 「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」 箴言 3:5-6 […]
イエスによる贖い
私達はイエスキリストを受け入れた時、様々なプレゼントをもらいました。その中の1つに解放があります。では、今日は私達が実際に何から解放されたのかを見ていきたいと思います。 ガラテヤ人への手紙 3:13-14, 29 「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」 キリストは私達を律法の呪いから贖ってくださいました! では、ここで言っている律法の呪いとは何でしょうか。 律法の呪いは三つ存在します。 惨め、病気、死です。それぞれ1つずつ見ていきましょう。 ➀ 惨め 第一テモテへの手紙 4:8 「からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。」 残念ながら、あるクリスチャンは何の約束も、祝福も、繁栄も持っていないと信じています。しかしながら、上の聖書箇所は、約束があるといっています。 パウロはピリピの教会に宛てた手紙にこう書きました。 ピリピ人への手紙 4:19 「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」 […]
The side effects of unhealthy eating
Some people do not really pay attention to how they are nourishing themselves. Their eating habits are full of sugar […]
演奏する前に、自分のギターをチューニングした?
私は高校生になる前に、クリスチャンになり、そこであるクリスチャンの歌手にとても影響を受け、ギターを弾くのを学び始めました。最初、私にとってかなり大変なチャレンジはギターをチューニングすることでした。 いつも友人にお願いをしてギターをチューニングしてもらっていましたが、私もチューニングのやり方を学んだことにより、耳で聞いただけでギターの調子がわかるようになってきたと思います。 もしギターの調子が悪く、少しでも外れた音を聴くと落ち着かなくなりました。 私は、礼拝で何度か賛美をリードしたことがあり、その時ギターをチューニングしないで演奏してしまったために、音程が外れたまま賛美し、ギターの音が気になることがありました。そういう時は、賛美しづらくなるので、なるべく賛美をリードする前に、ギターのチューニングを行い、音程が外れているところがないかを確認します。 楽器を弾く方は、おそらく私の気持ちに同感できるのではないかと思います。また、ギターで一つ興味深い点は、ギターは弾いても弾かなくても、ギターの音程が必ず外れてしまうので、毎回伴奏する時に、チューニングをする必要があるということです。 私が、ここで自分のギターに関する経験を分かち合いたい理由は、私達も神様の手にある楽器のような存在だからです。神様が私たちの人生を美しく弾くためには、私達で自分自身をチューニングする必要があります。 もし、私達の人生の音が外れていると、神様は私達を通して美しいメロディーを弾くことができません。では、私達はどのように自分の人生をチューニングすることができるでしょうか。 一番最初にチューニングする方法は、みことばを通して自分の考え方を一新することによるものです。日々、聖書を読み、みことばを思い巡らし、それを宣言することによって、何が神様を喜ばせるか知るようになり、それを実践することができるようになります。 ローマ 12:2 また、この世の人々の生活態度をまねてはいけない。むしろ、神の御心は何なのか、何が善で、何が神に喜ばれ、何が完全であるのかを見分けることができるために、心を一新して、変えていただくがよい。 また、自分の人生をチューニングするにあたって、とても大切な手段があります。それは聖別の祈りによるものです。聖別の祈りというのは、神様に自分自身を捧げる祈りです。特に、何かの目的を果たす時、神様に仕える時やこれから何か大事な決断をしなければならない時などにする祈りです。しかし、それは特別な時だけにする祈りではなく、むしろ、いつもしなければならない祈りだと思います。実際に毎朝、目を覚ます時にするべき祈りなのではないかという程です。 先ほど言ったように、ギターは弾いても弾かなくても、必ず音程が外れてしまうのですが、演奏する前に、ギターをチューニングするとことで、確実に美しいメロディーが奏でられます。同じように、私達もいつもキリストの体に奉仕しているので、聖別の祈りをする必要があると思います。そして、もし、逆にあなたがキリストの体に奉仕していないのであれば、さらに聖別の祈りをする必要があります。なぜなら、メロディーも認識できない程になり、自分の人生の音程が究極的に外れてしまっているかもしれないからです。 私たちは皆、美しいメロディーを奏で、それを聞いている人が祝福されるように、自分自身の人生によってキリストの体を祝福するために召されました。 イエスキリスト自身も何回か聖別の祈りをしたことがあります。12人の使徒を任命する時に、イエスキリストは一晩祈ってから、使徒たちを任命しました。また、十字架にかかる前に、自分自身の志を献身して父なる神様の目的を果たすためにその志さえをも捧げました。 ルカ 22:42 「天のお父様。あなたに不可能なことは何もございません。どうぞ十字架に掛るというこの苦い杯を飲まないでもよいように、わたしから取りのけてください。けれども、わたしが願っていることよりも、あなたの御心が成りますように。」 イエスキリストの人生を見ると、聖霊に導かれ、神様を喜ばす人生を送ることがどれほど大切なのかが分かります。全世界の歴史を変える12人の任命はとても重要だったので、少しでも彼らが任命を外れていたなら、大きな間違いになったかもしれません。しかし、イエスキリストは完全に父なる神様の御心を成し遂げたかったので、神様の御心の理解ができるまで、休まずに何時間も聖別の祈りをしました。つまり、主イエス自身も神様の目的のために自分自身をチューニングしていたことになります。 残念ながら、多くのクリスチャンはいつも神様の心を聴くための時間がないと言い、何でも自分の思ったまま、決断してしまいます。結局、自分が選んだ道に苦労がたくさんあり、それを後悔して、そういう時にまた神様に向かって神様の助けを求めます。しかしながら、最初から神様の導きを求め、聖別の祈りをしていたなら、おそらくそれらの苦労に直面する必要がなかったでしょう。 […]