あなたは最近いつ笑いましたか? 今日笑ったよと言う人もいれば、いつ笑ったか思い出せないぐらい笑ってない人もいると思います。 テレビをつけると悪いニュース、友達や同僚との話題はコロナウイルス、毎日たくさん働いて、ぎゅうぎゅうの満員電車、そして家に帰ってはーってため息をつく。そんな毎日かもしれません。 しかし、神様は私達がそんなルーティーンを生きて欲しいとは願っていません。なぜなら、神様との人生は喜び、笑いに溢れているものだからです。 ピリピ人への手紙 4:4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。 ここで「喜びなさい」と2回言っているのはどうしてでしょうか。それは、私達が喜ぶ必要があるからです。神様は私達が喜べない、笑えない時があることをもちろん知っています。だからこそ「喜びなさい」と言っています。 ローマ人への手紙 14:17 私たちクリスチャンにとって大切なのは、何を食べるか、何を飲むかではなく、義と平安と聖霊から来る喜びとに満ちあふれているかどうかだからです。 この聖書箇所を見るとはっきりわかるのは、クリスチャンにとって重要なのは、日々の生活で義、平安、喜びに満ち溢れているかどうかです。 私達はキリストを受け入れて新しく生まれたとき、聖霊が私達に宿りました。その聖霊にはすでに喜びがあります。上の聖書箇所には「聖霊からくる喜び」と書かれています。なので、私達が強いられて喜ぶのではなく、聖霊が私達の中にいると確信を持つとき、喜びが溢れて来ます。なぜなら、喜びは聖霊の実の1つだからです。 ガラテヤ人への手紙 5:22-23 しかし、聖霊が生活を支配してくださる時、私たちのうちに、次のような実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、 柔和、自制です。そこには、律法に反するものは何もありません。 上の9つが聖霊の実です。その中に喜びがありますね。しかし、その前にはある条件が書かれています。それは、「聖霊が生活を支配してくださる時」です。 私達が自分自身でなんとかして生きようとするとき、また自分の力で試そうとするとき、はじめはエネルギーがたくさんあっても途中から疲れてきて、最後までたどり着けないことがあります。なぜなら、私達の力には限界が必ずあるからです。 しかし、私達が聖霊に支配される人生、言い換えれば「聖霊に導かれる人生」を生きるとき、聖霊の実が私達の中で育って大いなる実を結びます。喜びが私達の中で育っていきます。また、その喜びが力になります。 […]
暴動の解剖学
最近の大統領選挙では、恐怖と怒りという2つの感情が米国で暴れ、熱狂的なレベルに達しました。 一部の人にとっては、恐怖はパニックに変わり、怒りは激怒に変わりました。 多くの人がお互いの首元をつかみ、暴言を吐きたい気分になっていました。 私たちは、去年の夏に多くの都市で数ヶ月の混乱を目撃しました。そして国の首都で表明された憎しみは人々にさらに苦悩と興奮をもたらしました。 この記事の目的は、米国での最近の出来事を分析することではなく、約2000年前に古代エペソで起こったことからいくつかの教訓を得ることです。 おそらく、彼らが経験したことから得た洞察は、私たちが、今この時を理解し、通り抜けるのに役立つでしょう。両者が全く同じであるとは言っていませんが、確かに、2つのそれぞれの概要には異なる過程があります。 舞台は、紀元後56年頃の小アジア(現在のトルコ)の古代エフェソでした。パウロの宣教によって、この街や地域には劇的な変化がもたらされ、数え切れないほどの人々が新たに生まれ変わりました。福音の影響は非常に大きく、巨大な偶像崇拝産業の経済的な存続が脅かされました。 使徒行伝 19:23-27 そのころ、この道のことから、ただならぬ騒動が持ち上がった。 それというのは、デメテリオという銀細工人がいて、銀でアルテミス神殿の模型を作り、職人たちにかなりの収入を得させていたが、 彼が、その職人たちや、同業の者たちをも集めて、こう言ったからである。「皆さん。ご承知のように、私たちが繁盛しているのは、この仕事のおかげです。 ところが、皆さんが見てもいるし聞いてもいるように、あのパウロが、手で作った物など神ではないと言って、エペソばかりか、ほとんどアジヤ全体にわたって、大ぜいの人々を説き伏せ、迷わせているのです。 これでは、私たちのこの仕事も信用を失う危険があるばかりか、大女神アルテミスの神殿も顧みられなくなり、全アジヤ、全世界の拝むこの大女神のご威光も地に落ちてしまいそうです。」 デメテリオ- リーダー 上の聖書箇所で強調した部分を見ると、デメテリオが4つのことを心配していたことがわかります。 繁栄 ( 25節) […]
The Anatomy of a Riot
Two emotions—fear and anger—have been running rampant across our nation and have now reached a fevered pitch. For some, fear […]
なぜみことばを読むことが大事?
ヨハ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 クリスチャンになる時、クリスチャンと交流しているうちに、あるいは、メッセージを聞いている時に、新しい知識だけではなく、新しい体験も多く得ます。その中で、よく聞くようになるのはもちろん「みことば」です。なぜなら、みことばとしてよく知られている聖書がキリスト教の基礎だからです。聖書がなければ、基礎がなく、全てが矛盾するでしょう。しかし、聖書が私たちの信仰の源であり、安全な場所です。今日、聖書の読書の大切さを一緒に考えたいと思います。そして、聖書を読むことを強く薦めたいと思います。 まず、クリスチャンとして理解しなければならないのは、みことばそのものが神様であることです。それは聖書自体が言っていることです。私は、みことばを強調する時に、もちろん物資的な部分である本のことを指しているのではなく、聖書の内容が神様から来たものであり、神様の本質を持っているので、私たちにいのちを与えることもできます。なので、聖書を読むことによって神様の本質そのもので満たされます。 ヨハ 8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。 また、イエス自身がみことばであり、真実です。イエスキリストがこの世にいる間、弟子たちに真実を知る必要性をいつも教えていました。それに、真実を知ることによって私たちが自由にされると教えました。あなたは、今、何かに束縛されているでしょうか。もしかしたら、借金やアルコール依存症などに束縛されているかもしれません。または、何か病気やうつ病なので苦しめられているかもしれません。 しかし、みことばは真実であり、その真実を知ることによってどんな束縛であろうと自由にされます。なので、みことばを知ることは欠かせないことです。 ホセ 4:6 わたしの民は知識がないので滅ぼされる。 上の聖書箇所をよく読んで考えてください。多くの人が滅ぼされている理由は、悪魔が強いとかではなく、知識がないために、敗北しています。私自身が他のクリスチャンと交流している時に、彼らがどれほど悩んで苦しんでいるのかを聞くと、そんなに苦しめられなくてもいいと目を覚めさせたいのですが、多くの場合、彼らは苦しむに値している人だと思ってしまっています。 しかし、神様は私たちが敗北した人生を送ることを願っていないので、私たちにみことばを与えてくださいました。それは、イエスが十字架で達成したものが何か、また、キリストを受け入れてから私たちが誰になったかを理解するためだからです。もし、キリストにあって自分の立場が分かったら、敗北された人生を送る代わりに、圧倒的な勝利者として生きることができるようになるのです。 マタ 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 人間は、外なる人である肉体的な部分もありながら、内なる人である霊もあります。体が健康的に成長するために、私たちがきちんと栄養を取らなけらばならないように、内側の部分である私たちの霊も神様から来る食物を受け取って成長する必要があります。私たちがイエスキリストを信じ始める時に、幼児のようになります。なので、聖書はこう言います。 1ペテ […]
人生を変える御言葉
神様は私の心をたくさんの喜びで満たしてくれました。 私たちが救いを受け取った時、神は私たちに愛や喜び、そして平安などをお与えになりました。 現代、人は私利私欲を満たすためだけに動いていると言っても過言ではありません。 幸せや喜び、平和な人生をこの世のもので探し求める人がいます。 自分が幸せになるためにはどうすれば良いのか、平和な人生を過ごすためにはどうすれば良いのかと、深く考える人もいます。 しかしその過程で、目の前が真っ暗に感じてしまうような出来事や、終わりが見えない経験で、自分にはどうにでもできないと絶望感を感じてしまい、最終的に人生を放り投げてしまっている人がいるのです。 私も人生を諦めかけていた時期がありました。 自己否定感がとても強く、何に対しても「無理」「不可能」「できない」ですべて方を付けていました。 性格も暗い人で、とても無愛想で、人と話すことが苦手な人でした。 そんな人生を変えてくれたのが、神様の御言葉でした。 レーマ聖書学校に通っていた私は、神の御言葉を深く知ることができ、主が私に与えてくれたもの全てを、心に受け取ることができました。 神が私に与えてくれた言葉は、私を喜びに満たしてくれました。 皆さんに知ってもらいたいことがあります。 主は私たちに素晴らしい贈り物を与えてくれました。 その中で一番素晴らしい贈り物とは、イエスキリストです。 神はひとり子であるイエスキリストを、世にお与えになりました。 そして他にも、多くの贈り物を与えてくださいました。 私たちはまず、イエスキリストを自分の主と救い主だという素晴らしい贈り物を受け取らなければいけません。 イエスを救い主として受け取ることができたのなら、神があなたに与えてくださった他のすべての贈り物を受け取ることができます。 まず、神は私たちに喜びを与えました。 […]
A Good Journey
I really wanted to pass in this job interview I had applied to, but I knew it was really hard […]
信仰とは
聖書による信仰とは、へブル人への手紙 11:1 には、このように書いてあります。 ——— 信仰とはいったい何でしょう。それは、望んでいることが必ずかなえられるという確信です。また、何が起こるかわからない先にも、その望んでいることが必ず待っていると信じて疑わないことです。(JCB) 信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。 (新共同訳) 信仰とは、願い事が必ずかなえられるという、不動の確信のことだ。 また、どうやって起こるかわからない行く手にも、望みどおりのことが必ず待ち受けていると信じて、疑わないことである。(AB) さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。(口語訳) ——— 要するに、今はない、目に見えない、持ってないが、それがあると確信することです。 一番簡単に例えると神さまです。 神さまが存在しているかしてないかは、誰にも証明出来ないです。 しかし、私達クリスチャンはいると信じています。 信じてない人から見れば、変な話です。どうして信じるの?と思うかも知れません。 これこそが信仰です。確信です。 神さまが存在するという確信を持つことが信仰です。 普段でも信仰を使う場面があると思います。 信仰とは存在するという確信です。 […]
A Life of Loss
Some people choose a life of loss. What does it mean? There are people that live a life full of […]
イエスの名
私たちクリスチャンは、イエスキリストを受け入れたとき、全ての祝福をもらいましたが、そのうちの1つに「イエスの名」があります。 しかしながら、多くの人はそれをどうやって使うの?と疑問に思っています。今日は、聖書で私たちはどのようにイエスの名を使うか4つみていきたいと思います。 ① 祈りの中でのイエスの名を使う 祈りというのは、イエスの名において父に祈ることです。それはイエスが聖書で教えています。 ヨハネの福音書 15:16 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです。そして任命しました。だから、あなたがたは行って、いつまでも残るすばらしい実を結びます。また、わたしの名前によって父に求めるものは、何でもいただけるのです。」 イエスはここで、私たちの祈りの方法、つまりイエスの名において父に祈ることを教えています。祈りは神様の御言葉の原則に従って祈るべきです。 神さまの御言葉が私たちに教えているように、私たちはそれに応じて祈らなければなりません。 なぜなら、イエスは、彼の言葉で表現されている父の意志に反することを決してしないからです。 ② イエスの名において主張することが必要 聖書がすでに私たちのものとして保証していることを、私たちは祈る必要はありません。 結局のところ、それはすでに私たちのものであるため、私たちはイエスの名の権威で主張することができます。 イエスの名前はまた、私たちにイエスと同じ力を保証します ヨハネの福音書 16:23-24 「その時には、何一つわたしに求める必要はありません。直接父に求めることができるからです。父は、わたしの名によって求めるものは何でも与えてくださいます。 あなたがたは、今までこのような求め方をしたことはありませんでした。わたしの名によって求めなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びに満ちあふれるのです。」 […]
絶望の中の希望
私はなんで生まれたのだろう。。 何のためにいるのだろう。。。 どうしてこんな事が起きるの?それって私にだけ? 神様って本当にいるの? このように考えた事ありませんか。 何もないのに不安を感じたり、孤独を感じたことありませんか? そんなあなたに朗報があります。 私の証をさせてください。 実は私もこのように考えたり、すごく不安や孤独を感じて生きていました。 子どもの頃、悲しい経験を沢山しました。 自分には価値がない、何の役にも立たないと考えていました。 自分の外見も体格もまわりと違うからまわりを見てよく自分を比べたりしていました。 まわりにはいつも笑っていましたが、心あらずって感じでした。 心には大きな穴が空いていました。何をしても埋めることができなかった。 この世に生まれたことも、何のためにいるかさえもわかりませんでした。。 ある日、天を見上げて問いかけました。 私は誰からも愛されていない、誰も気にかけてくれない。私は何のためにいるの?なんで生まれたの?答えが知りたい、教えてくださいと言いました。 誰にも何の相談や話していないのに、夜の20時頃、自宅に牧師の夫婦が訪ねてきました。教会の集会や神様は誰なのかを話していました。 それで、翌日の礼拝に呼ばれ、行くことを決心しました。 2007年7月22日にイエス・キリストを救い主として受け入れました。 […]