バスケットボールのファンであれば、プレッシャーディフェンスのことはよく知っていると思います。このような戦術は、試合場で起こっているすべてのことに驚くほどの強度をもたらします。バスケットボールに詳しくない方のために少しご説明します。「プレッシャー・ディフェンス」は、現代の人々の生活で起こることを表す強力な例えだと思うからです。 バスケットボールでは、一方のチームが得点すると、もう一方のチームがボールを奪い、コートの反対側にパスして、同じように得点を狙います。通常、ディフェンスは走って、ゴールを守るために再びポジションを取ります。ハーフコートラインを越えるまではボールにプレッシャーをかけず、それでも攻撃するチームが得点圏に到達するまではプレッシャーはそれほど強くはありません。 ディフェンスチームが、プレッシャーディフェンスを使うと、すべてが違ってきます。ディフェンスの目的は、単に相手チームの得点を阻止することではなく、相手がボールを持てなくなるほどのプレッシャーをかけることです。もし、攻撃する人がボールを奪った場合は、ボールを持った選手をトラップして、ボールを前に出せないようにしつこく守るという戦略です。ディフェンスは、ボールに大きなプレッシャーをかけて、相手チームがコントロールを失い、ボールを渡してしまうことを期待しています。 コーチは通常、相手チームの勢いを断ち切るために、あるいは相手チームのリズムを完全に崩すために、チームにプレッシャーディフェンスをさせます。プレッシャーディフェンスの目的の一つは、相手チームを苛立たせ、混乱させることです。これは非常に疲れるディフェンスなので、通常は戦略的な場面でのみ使われ、ゲームが進むにつれて、相手チームを不安定にしてリードを奪い返すための最後の手段として使われます。 では、プレッシャーディフェンスは、現代の私たちの生活にどのように関わってくるのでしょうか。今の教会ではどうでしょうか。サタンは自分の時間が短いことを知っていて、それが最近世界で増えている騒動や狂気の要因になっているということはないでしょうか。ヨハネの黙示録12章12節には、興味深い記述があります。 それゆえ、天とその中に住む者たち。喜びなさい。しかし、地と海とには、わざわいが来る。悪魔が自分の時の短いことを知り、激しく怒って、そこに下ったからである。 終末論的な暦の中で、今がその時期だとは言いませんが、今年起きた最近の出来事は、人々や教会に大きなプレッシャーを与えており、勢いやリズムが乱れている人がいるのは確かです。バスケットボールでは、このようなプレッシャーに対応し、プレッシャーの中でも冷静さを失わないことが大切です。人生やミニストリーでも同じことが言えます。 ペテロとプレッシャー 私がここで強調したいのは、このようなプレッシャーがクリスチャンにかかってきたのは、決して今回が初めてではないということです。実際、イエスはペテロが経験するであろう差し迫ったプレッシャーについて警告しました。 ルか 22:31-32 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。 私たちは、ペテロがプレッシャーにうまく対応できなかったことを知っています。彼はそのプレッシャーで完全に倒れてしまいました。イエスは、ペテロが最初は滅びることを知っていましたが、ペテロが回復して軌道に乗ることも知っていました。 ふるいにかけるというのは、もみ殻をほぐして、穀物から分離することです。この工程には、通常、多少の揺さぶりや叩きが伴います。サタンはペテロと弟子たちを清めるのではなく、滅ぼそうとしていました。しかし、イエスと神の恵みがすべてを変えました。サタンの圧力による防御という最初の挫折を味わったペテロは、(a)悔い改め、(b)再びイエス様に立ち返り、(c)兄弟を強める、という3つのことを行いました。 イエスとプレッシャー 聖書に書かれているもう一つのプレッシャーは、ゲッセマネで起きた圧力です。ゲッセマネの名前には、「油搾り」という意味があります。文字通り、この庭にあった圧搾機でオリーブが絞られており、イエスが十字架にかかる前に祈りを捧げるのに適した場所でした。イエスは十字架の上で、私たちに代わって圧を受けることを経験されましたが(「私たちの咎のために砕かれた」イザヤ53:5)ゲッセマネでも、やがて経験するであろう圧の重さをより強く感じ始めていました。 この「油搾り」の場所で、イエスは悲しみや精神的苦痛を示すようになり、深く落ち込んでいた。そして、弟子たちに言った。「私の魂は悲しみのあまり死ぬほどです」(マタイ26:37-38)。イエス様は、重圧の中でも耐え忍び、「自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)イエスは、確かにプレッシャーを感じていましたが、それが原因で焦点を外すことはありませんでした。 パウロとプレッシャー 信仰、平和、神の武具について私たちに多くのことを教えてくれた人は、その宣教活動の過程で大変なプレッシャーを受けました。 彼はこのように書いています。 […]
How Are You Handling the Full Court Press?
If you are a basketball fan, you know exactly what a full court press is. It brings a noticeable intensity […]
The Father cares about you deeply
Today as I woke up early in the morning to go about with a busy schedule ahead I was greeted […]
種蒔きの法則
あなたは種を植えた経験がありますか。おそらく学校で教わったのではないかと思います。子供のころ、私は豆の種を巻いたことがあります。一週間未満で伸びた種の芽を見て私はとても興奮した思い出があります。もちろん当時も都市化しつつでしたが、現在の子供は、ますます農業の知識から離れていると思います。ですが、私たちは種蒔きの法則から離れることは不可能です。多くの人は意識していないだけで、人間は日々種蒔きの法則の下で生きています。ただ単に気づいていないのは、種の種類が多くあるということです。 創世記 8:22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。 種蒔きの法則を定めたのは神様自身です。つまり、地の続く限り、種蒔きと刈り入れはやむことはないと定められています。なので、何かを刈り取りたいなら、まず種を蒔く必要があります。当然、何も蒔いていないなら、何も刈り取れません。 そして、もう一つ興味深いことがあります。農業者は、りんごの種を蒔いて、葡萄を刈り取ると期待をしません。りんごの種を蒔いたなら、当たり前にりんごを刈り取ることを期待するでしょう。また、種の種類によりますが、一個の種を蒔いて、何倍かの実を刈り取ることは普通です。とうもろこしの種の例を挙げると、一個種が十個以上のとうもろこしを刈り取れます。それに、一個のとうもろこしに何十個の種があります。それを考えると不思議と思わないでしょうか。 ここまで、農業を考えて、いくつかの例を挙げましたが、種は物質的の物だけではありません。霊的な種もあります。霊の上で、種を蒔いて刈り取ることもあります。なので、聖書でよく種蒔きの教えが示されています。イエスキリストもよく種蒔きの法則をもって教えをしました。 今回はあまりに細かく種について語るつもりはないので、簡単に言うと、言葉や行動やお金などが種として見なしても問題ありません。例えば、よく教会で引用されるIIコリント9:6をもってパウロはお金を種蒔きの法則に当てはまった献金の教えをしました。 2コリント 9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。 それを読んで、なぜ多くのクリスチャンんは経済的に苦しんでいるか分かると思います。種蒔きの法則に当てはまるお金を蒔いていないからです。種を蒔く代わりに、種を食べてしまっているので、結局、経済的に何も刈り取っていませんし、いつも支援を必要とされています。実際に、聖書は経済に当てはまる種蒔きの法則の教えが多いです。ただ、明白に「種蒔きの法則です!」と記載されていませんが、種蒔きの法則です。例えば、箴言にもよく見られます。 箴言 11:24-25 新改訳聖書 ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。 箴言 11:24 リビングバイブル 惜しげなく人に施しても、ますます金持ちになる人もあれば、財布のひもを固く締めても、一文無しになる人もいます。物惜しみしない人が裕福になります。人を潤すことで、自分も潤うのです。 (ちなみに、上に二つの聖書バージョンを出しました。私はよく利用する新改訳聖書とリビングバイブルです。両方にも同じことが書いてありますが、リビングバイブルの方が理解しやすいので、リビングバイブル版を挙げました。一方で、新改訳聖書版の方が原本に近いので、聖書の勉強のためによく利用します。しかし、理解がしづらい場合、リビングバイブルのように理解しやすいバージョンを読むのもありだと思います。とにかく、クリスチャンになったばかりの方は最初、リビングバイブルを読んだ方が良いのではないかと思います。) 箴言11章24,25節を読むと、そこは第2コリント9章6節の種蒔きの法則と同じ教えだと気づくと思います。 […]
成功する
「成功する」大学に入った今、よく耳にする言葉となっています。ビジネスで成功する、スポーツで成功する、人生で成功するなど大変よく耳にします。さて、「成功」とは!?ってなりませんか?成功の定義は何なのか?成功するにはどうしたら良いのか?クリスチャンにとっての成功とはどんな事なのか?というような様々な疑問が湧きます。これらの質問に対する答えはあるのか?「成功とは失敗から失敗へと情熱を失う事なしに渡り歩む事である。」イギリスの元首相、戦争英雄 ウインストン・チャーチルの名言私が最初にこの名言読んだ時に思ったことは、成功と失敗って同じ文章に使えるか?でした。成功に失敗はない、もちろん『失敗から学べ』の表現は何回も耳にしたことがあります。しかし、自分はその言葉は嘘だと言わないが、達成するには大変難しいと思っています。文字が発明された時代から、人間の失敗は記録されてきました。現代ではインターネットに何かを投稿すると、永遠に消えないものとなります。周りの人はあなとの失敗を言いつけます。あなたの家族、友人、または、仕事の同僚などはあなたが犯した失敗を覚えています。そこで終わるかもしれないが、このような事は決して嬉しい事とは言えません。。。だが、実際は最もあなたの失敗を覚えているのはあなた自身なのです。失敗から学ぶどころか逆に泥沼に嵌められる事になってしまうのです。この泥沼から立ち上がって飛び跳ねることこそが成功するという事なのです。残念ながらクリスチャンの多くには罪の意識がまだ強く残っています。自分はまだ罪人だと思っているのです。イエスを救い主として告白した者が救われ、また、義人とされた事を把握する事はとても重要なことである。私はダビデがとても好きです。彼について考えたことはありますか?イスラエルの最も有名な王様、巨人ゴリアテを倒した男です。そんな彼には信じられないほどの重罪を犯しました。そして父親としても何回も大きな失敗をしました。それでも私たちは彼を尊敬し、また目標にもしているのです。なぜでしょう?彼には、『跳ねる力』がありました。神の赦しを求め、そして自分を許したからです。神から愛されて、また義人とされたことを頭だけではなく心に入れるようにしましょう。あなたの成功を最も願っている方は神様なのです。
Saved to be good or good to be saved?
I was born in a family that always honored hard work. I was always taught that I needed to work […]
可能性を広げる
自分は「標準以下」と考えてしまったことがありますか? 私はあります。 「自分の能力を超えているから無理だ」「自分には到底及ばないものだ」と自ら自分の限界を決めてしまい、前に進めれない状況でした。 「自分には価値がない」という思いがだんだんエスカレートしていくと「自分なんて」という卑下に変わっていきます。 それとは別に、 自分自身も気づかないうちに、自ら自分の限界を決めてしまっている人もいると思います。 自分が抱えている問題を、家庭環境のせいだから、住んでる場所のせいだからと、周りの状況のせいにしていませんか? 本当はただ自分でも自覚しないまま、自分の可能性を自ら抑え込んでしまっているかもしれません。 しかし主は、私たちが可能性を制限することを望んでいないです。 むしろその反対で、もっと前へ進め!と言ってるのです。 私が自分の可能性を広げることができたのは、 御言葉が私に語ってることを理解し、信じ、宣言して、行動にうつしたからです。 この4つのことを私たちはすべきです。 御言葉を受け取る。 御言葉を信じる。 御言葉を宣言する。 御言葉によって行動する。 これらのことをすることで、神様は絶大な力を与えてくれ、自身の可能性をもっともっと広げられることができるのです。 もっと簡単に言うと、 例えば、私に目標があるとします。(実際に目標はあります。) […]
A Good Wife
The Lord God said, “It is not good for the man to be alone. I will make a helper suitable […]
安心の領域
コンフォートゾーンという言葉を聞いたことありますか?? これは心理学などでもよく使われる用語です。 日本語で考えると、快適なゾーンです。 快適な空間とは私たちが安心できる、自分のコントロールの下にあると感じられる領域を指しています。 例えていうのであれば、いつものお店、道、家に始まり、いつものやり方、いつもの人々などなど。 自分に馴染みがあり、心地良く感じられる空間です。 しかしながら、コンフォートゾーンは成長を阻むことがあります。 なぜなら、安心の領域にいると変化がないからです。成長とは、変化していく事です。 少しだけ自分の話させてください。 私は朝早く起きるのは苦手だし、寝るのも遅いし、食事も規則正しくなくてずっと放置していました。そしていつもダイエットしたい、運動したいと考えていました。 しかし、いつも「明日やろう!」「月曜日に始めればいいや」「今度こそしっかりやろう」「〇月の1日から始める」とずっと言っていました。 みなさんもこんな経験ありませんか?? マタイの福音書14章25節~32節 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。 この聖書箇所はとても興味深いです。 弟子たちは船に乗っていて向かい風で波に悩まされていたのです。なので、不安を感じていて、水の上を歩いているイエスを見たとき驚いたのです。 わかりますか?不安を感じている時、頭の中はいろんなことを考え始めたり、無いようなことを作り上げたり、大げさに感じたりします。 だって、ずっと傍にいたイエスでさえ弟子たちは分からなかったのですから。 そんな時でもイエスは恐れるなと言ってくれます。だから不安に思うことも独りだと思う必要もありません。 それを聞いてペテロだけ、自分の安心の領域を超えたいと望み始めたのです。そして、イエスの言葉を待っていました。するとイエスは「来なさい」と言いました。それを聞いたペテロは疑うこともなく、第一歩を踏み出し、イエスだけを見つめ深い水の上を歩き出しました。 […]
結婚生活の秘訣
結婚に至るまでにはステップがあります。異性と出会って、友達になり、その人が好きになって付き合い始め、婚約をし、最終的に結婚をします。結婚生活の初めは全てが新鮮です。しかし、結婚生活が長くなると、少しずつ相手といることが当たり前になり、普通の生活になってしまいます。ある点では、いいことですが、結婚生活の基礎を決して忘れてはいけません。 それは愛によって歩むことです。 結婚生活の成功の秘訣はお互いに愛によって歩むことです。 聖書では愛について書かれています。 第1コリント人への手紙13;4−8 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のしたあくを思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 この聖書箇所には愛が何であるかを教えています。愛は自分の利益を求めません。愛は親切であり、愛は決して絶えることはありません。それは人間の愛でしょうか? いいえ、神様の愛です。人間の愛には限度があるからです。人間の愛はいつも見返りを求めます。もしあの人が私を愛しているなら私もその人を愛します。もしその人が私にいいことをしてくれたらお返しにいいことを与えます。しかし、もし愛されていないなら、愛さない、相手が何もしてくれないなら、私も何もしない。 それが人間の愛です。 神様の愛はどうでしょうか。 第一ヨハネ4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、まあ信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。 神様は愛です。神様の性質は愛です。 神様の愛こそ唯一終わりのない本当の愛です。 愛の反対は無関心です。 第一コリント人への手紙13;4−8に書いてある愛は神様の愛です。 イエスを受け入れている全ての人は神様の愛を受けています。 ローマ人への手紙 5:5 5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 […]