このご時世では、劣等感を感じる人たちが多いです。 ちょっと、うまく行かなかっただけで自信を失い立ち止まります。 自信というのは、今のあなたに影響するものですし、これからのあなたに影響するものです。 だから、励ましたいです。 自信がない人に、今日、神さまに触れて自信を取り戻す日になるように! まず、イエスにあってのアイデンティティについて考えてください。 神さまは、あなたについてどう思ってるか、それが本当の自分です。 他人から何を言われようが関係ありません、あなた自身が自分のことをどう思っているかも関係ありません。 あなたを定義出来るのは、神さまだけです。 そして、神さまはあなたのことをなんて言ってるか。 ギデオンのようにあなたのことを勇士と呼んでいます。 主の使いはギデオンの前に立ち、「勇士よ、主はあなたとともにおられる」と告げました。 士師記 6:12 ギデオンも自信がなかった人でした。 ストーリーの続きを見てみるとギデオンは神さまにこう答えてます。 ギデオンは答えました。「主よ、とんでもありません。私がイスラエルを救うことなど、できるわけありません。私の家はマナセ族の中で最も弱く、それに私は家で一番年下なのです。」 士師記 6:15 自分には出来ない、最も弱く、一番年下だから、など […]
普通の御霊の働きと並外れた御霊の働き
以下の記事は、トニーの著書『Miracles and the Supernatural Throughout Church History』から引用したものです。 ジョナサン・エドワーズが行った区分けを頭に置いておくといいでしょう。彼はよく、御霊の「普通の」働きと「並外れた」働きを区別していました。もしあなたが、「並外れた」働きに対して強い賜物を持っていたり、「しるし」が顕著な時期であれば、それは素晴らしいことです。しかし、その時に顕著なしるしや賜物が起こっているかどうかにかかわらず、常に御霊の「平常」の働きの中で自分の役割を果たすことに集中すればよいのです。 エドワーズがマサチューセッツで牧師になった時、前任者は、自分たちはその前に57、53、40、24、18年の例外的なリバイバルの時期を経験し、そのうちの3回はより強い波の時期であったと話したという。それは、聖霊が非常に注がれた時期であり、並外れた結果が起こったのである。エドワーズがそこで牧師をしている間にも、リバイバルが途絶えることはなかった。これは、聖霊によるリバイバルや特別な注ぎが、周期的あるいは時期的に起こる傾向があるという現象とも一致している。 では、そのような霊の注ぎの「ピーク・シーズン」ではない場合、牧師や信者はどうすればよいのでしょうか。パウロがこの言葉を書いた時に考えていたこととは違うかもしれませんが、テモテへの戒めとして「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」(2テモテ4:2)と言ったのは非常に適切な答えだと思います。リバイバルの時、力強い注ぎの時であろうとなかろうと、私たちが熱心に取り組まななければならないクリスチャンの責任があるのです。 例えば、ルカが、死からよみがえらなかったら、使徒言行録の中でドルカスを紹介することはなかったでしょう。確かに、私たちは神がペテロを使ってこのような素晴らしい奇跡を行われたことを喜びますが、ルカは「この女は、多くの良いわざと施しをしていた。」(使徒9:36 )とも述べているのです。ペテロが彼女を生き返らせる前、「やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。」(使徒9:39)と書かれています。奇跡を台座にのせて、愛や親切といった「基本的」な働きを無視する傾向があります。私は、イエスがご自分の栄光のために、ご自分の名によってなされるすべてのことを大切にしていると信じています。 アントニー(AD251-356)は、これらの一連の考えをうまく表現しています。 「また、悪魔を追い出す者だけが高く評価され、追い出さない者は無価値とされるのは、ふさわしくない…」とある。しるしの働きは、私たちのものではなく、救い主の働きだからです。 パウロは、第1コリント12章で、使徒、預言者、奇跡、癒しといった聖霊の5つの賜物を列挙しているが、そのリストのちょうど真ん中あたりに、「助け」も加えている(第1コリント12:28)。何人かの牧師から聞いた話なのですが、時々、彼らの元に知らない人がやってきて、”牧師先生、もしあなたのために説教をする必要があるなら、私を使ってください “というようなことを言うのだそうです。 そのような申し出に対して、「今は説教の手伝いは必要ないですが、建物の掃除は手伝ってほしいです」と答える牧師も当然います。そのような人は、たいていの場合、すぐにいなくなってしまうことが多いです。ある人は、注目される場所であれば喜んで奉仕しますが、裏方の仕事には全く興味を示しません。「霊的」であることは、時に教会の裏方で行われている地味で、目立たない、実践的な奉仕の中に最も鮮明に現れることがあるのです。
The Ordinary and the Extraordinary Works of the Spirit
The following article is from Tony’s book, Miracles and the Supernatural Throughout Church History. It is good to keep in mind […]
組織を敬う
組織とはどんなものなのかを考えた事がありますか? それは、とても大切なことだと思います!! なぜなら、社会の中でも教会の中でも理解と協力し合う必要があるからです。 円滑に物事や場所が成り立つには「受け入れる心」も大切です。 組織とはどんなものなのか? 定義は「意識的に調整された二人以上またはそれ以上の人々の活動や諸力のシステム」 成立要件は「共通の目標を有し、目標達成のために協働を行う、何らかの手段で統制された複数の人々の行為やコミュニケーションによって構成される」 組織の構成には三要件があると言われています。 ① 共通目的 (COMMON PURPOSE) ② 貢献意欲 (WILLINGNESS TO SERVE) ③ 意思疎通 (COMMUNICATION) きっと、これは教会や御言葉とどんな関係しているのか考えていますよね? ですが、これは社会だけではなく、教会の中にも組織があります。それを理解し、敬う必要があります。 なぜなら、目標の持っていない場所は組織と言えないからです。 私たち教会、クリスチャンの目標はイエスの名が知れ渡ることです。 人々は尊い存在であること、神様によって愛されていることを理解し、御言葉によって自由になることを目指しています。 その目標達成のためには一人ではできないからです。 […]
Choosing Growth
Growth should be one of the many life goals in a Christian’s life. Someone who wants growth in their personal […]
幸せになりたい人は誰ですか?
幸せになりたい人は誰ですか? 誰もがそれを望んでいますよね? しかし、神様の御言葉によると、幸せは世界が与える定義とは何の関係もありません。世の中にとって、幸せとはたくさんのお金、たくさんの所有物、影響力のある友人(インフルエンサー)、名声、地位、人気を持っている人達ですよね? しかし、幸せであるとはどういう意味かというイエスの定義とはまったく異なります。マタイによる福音書5章3-10節には、幸せな人の中で際立っている8つの特質の説明と、それぞれの簡単な説明があります。 – 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、 天国は彼らのものである。 (マタイによる福音書 5:3) 神の前で自分が完全なる援助を必要とし、自分自身に頼らないことを認める霊を持つことは幸いです。その人は神様に全ての信頼を置きます。 このような人だけが神様に従い、神様を喜ばせることができます。 – 悲しんでいる人たちは、さいわいである、 彼らは慰められるであろう。 (マタイによる福音書 5:4) 自分の罪と世の罪と苦しみに心を痛めている人は幸せです。あなたの涙は、私たちの魂の偉大な慰め者、私たちの弱さや苦しみの中で私たちを慰める神様に目を向けるように導きます。 – 柔和な人たちは、さいわいである、 彼らは地を受けつぐであろう。 […]
逆境に打ち勝つ
日々の生活の中で、問題に直面することがあり、どのように解決していけばよいのかを考える必要があると思います。 しかし、みなさんは問題のない人生を想像したことがありますか? 私たちの生活の中で問題に直面する必要がなかったら、それはとても素晴らしいことではないでしょうか? ヨハネの福音書16章33節に書いてあるように残念ながら、この世には苦難があります。 私たちがどんなにキリストに従い、正しい道に歩んでいたとしても、この世界に住んでいるとしたら、いくつかの試練に直面することになります。 「あなたがたも心配しないで、安心していなさい。こんなにも念には念を入れて話したのは、そのためなのですから。確かに、この世では苦難と悲しみが山ほどあります。しかし、元気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」」 ヨハネの福音書 16:33 ここで理解しないといけないのは、神様は私たちが神に近づくために、試練は与えないことです。 そして、私たちが人生で直面するすべての問題が悪魔から直接来るわけではありません。私たちが他の不完全な人々と不完全な世界に住んでいるために起こることがあります。 問題がどこから来たとしても、常に私たちと一緒にいて、私たちを助け、私たちに力を与え、私たちを解放することを約束してくださった神がいます。 では、なぜ私たちはそれほど多くの逆境を経験するのでしょうか? マルコの福音書4章にはイエスキリストの弟子たちが逆境に遭遇してる場面が書かれています。 「夕闇の迫るころ、イエスは弟子たちに、「さあ、湖の向こう岸に渡ろう」と言われました。 弟子たちは群衆をあとに残し、イエスの乗られた小舟をこぎ出しました。あとからついて来る舟も、何そうかありました。 ところが、まもなく恐ろしい嵐が襲って来たのです。小舟は大波にほんろうされ、舟は水浸しです。」 マルコの福音書 4:35-37 […]
変化することを恐れないで
昨日から3月が始まりました。4月から入学、就職など移り変わりが多い時期になります。 また3月中に引っ越しをする人も多いのではないでしょうか。 私は、引っ越しや部屋の模様替え、家具の位置を変えることが結構好きです。新しい気持ちになるからです。しかし中にはそれがあまり好きではない人、面倒だと思う人もいると思います。それは何かを変えるためには、行動力が必要となるからです。 人生でも同じことが言えます。 人は誰か憧れの人を見る時、「あー、あの人のようにスリムだったらなー。」とか「あの人のように人前で話すのが上手だったらなー」とか思います。自分が出来ないことや持っていないことを相手と比べて自分は劣っていると思い始めます。 しかしながら、そのような人は結果だけを見てしまっています。 あなたがスリムでいいなと思っている人は、必死にダイエットをしたり、体型を維持するために健康に気をつけているかもしれません。話上手な人も、何度も失敗をしたかもしれないけど諦めずに練習してきたから上手になったかもしれません。 良い結果の背景には「行動」と「過程」があります。人は時々その「行動」をせずに他の人を羨ましがるだけ、何もせずに「どうしていい結果が得られないのだろう」と待っているだけのことがあります。 クリスチャンでも「どうして奇跡が起こらないのだろう。神様何とかしてよ」と言っている人がいます。しかし、神様はそのような人に「あなたの役割をやってください」「行動に移して」と言っています。 モーセが紅海を分けた時も主はこのように言いました。 出エジプト記 14:13-16 「しかし、モーセは言いました。「みんな、怖がってはいけない。今いる場所にしっかり腰をすえて、今日、主がすばらしい方法で救ってくださるのを、よく見ようではないか。あのエジプト人を見るのも、今日が最後だ。 主が代わりに戦ってくださる。だから、みんなは指一本、動かす必要もない。」 主はモーセに命じました。「いつまでもわたしに叫び求めないで、人々を前進させなさい。 杖を海(紅海)の上に差し伸べると、水が分かれて道ができる。その乾いた土の上を歩いて海を渡りなさい。」 主は「私が全てを行うから、何もしなくていい」とは言わず、「人々を前進させなさい」と行動させました。 聖書で見ることができる奇跡の多くには、神様の力の他に人の信仰による行動が伴っています。 ラザロが死から生き返った時もイエスは墓の前の石を取るという行動をさせました。 […]
Praising God during the darkest moments
Recently, I experienced something very scary: I had to spend a month hospitalized dua a liver malfunction. I will spare […]
平安に生きる
あなたにとって平安とはなんでしょうか。考えたことがありますか? 平安が欲しいと願っている人も多いと思います。 このブログでは本当の平安について見ていきたいと思います。 聖書には平安について以下のように言っています。 ヨハネの福音書 14:27 あなたがたに贈り物をあげましょう。あなたがたの思いと心を安らかにすること、それがわたしの贈り物です。わたしが与える平安は、この世のはかない平安とは比べものになりません。だから、どんな時にもおろおろしたり、恐れたりしてはいけません。 クリスチャンはイエスが言った彼からくる平安に生きるべきです。この聖書箇所ではイエスの平安について書かれています。この世の平安とは異なります。 この世の平安はどのような平安でしょうか? この世では感情が平安を提供します。人生の中で全てが順調に行っているならその平安が来ますが、自分が想定していなかったことが起こったり、難しい状況に直面する時にはその平安はすぐ何処かへ行ってしまいます。 このヨハネで書かれているイエスの平安は最高です!なぜなら人生の状況が良くても悪くても、イエスの平安はどちらにも働くからです。 ヨハネの福音書 14:27の最後に「だから、どんな時にもおろおろしたり、恐れたりしてはいけません。」と言っています。 ここでイエスは私達が様々な問題に直面したとしても、おろおろするのではなく、また恐れたりするのではありませんと言っています。心配や、恐れを心の中に入れさせないように気をつけなければなりません。 ヨハネの福音書 14:27の最初に「あなたがたに贈り物をあげましょう。あなたがたの思いと心を安らかにすること、」と書かれています。 ここでイエスは私達にギフトを与えてくださいました。それが平安です。イエスが与えてくれた平安だけが、私達の思いと心を安らかにすることが出来るのです。 この平安は私達に対するイエス様の御心です。もし私達に問題が起こったとき、悪魔は私達を脅して、落ち着かせないようにします。 しかし私達がイエスから与えられた平安に満たされてるとき、悪魔は私達に働くことはできません。問題に直面した時は、この世の平安ではなく、イエスの平安が私の中に既にあると信じて、安らぎましょう。 しかし、残念ながら多くの人が悪魔の誘惑に負けて、心配しすぎて、感情的になって不信仰の言葉を言ってしまいます。 […]