あなたは種を植えた経験がありますか。おそらく学校で教わったのではないかと思います。子供のころ、私は豆の種を巻いたことがあります。一週間未満で伸びた種の芽を見て私はとても興奮した思い出があります。もちろん当時も都市化しつつでしたが、現在の子供は、ますます農業の知識から離れていると思います。ですが、私たちは種蒔きの法則から離れることは不可能です。多くの人は意識していないだけで、人間は日々種蒔きの法則の下で生きています。ただ単に気づいていないのは、種の種類が多くあるということです。 創世記 8:22 地の続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜とは、やむことはない。 種蒔きの法則を定めたのは神様自身です。つまり、地の続く限り、種蒔きと刈り入れはやむことはないと定められています。なので、何かを刈り取りたいなら、まず種を蒔く必要があります。当然、何も蒔いていないなら、何も刈り取れません。 そして、もう一つ興味深いことがあります。農業者は、りんごの種を蒔いて、葡萄を刈り取ると期待をしません。りんごの種を蒔いたなら、当たり前にりんごを刈り取ることを期待するでしょう。また、種の種類によりますが、一個の種を蒔いて、何倍かの実を刈り取ることは普通です。とうもろこしの種の例を挙げると、一個種が十個以上のとうもろこしを刈り取れます。それに、一個のとうもろこしに何十個の種があります。それを考えると不思議と思わないでしょうか。 ここまで、農業を考えて、いくつかの例を挙げましたが、種は物質的の物だけではありません。霊的な種もあります。霊の上で、種を蒔いて刈り取ることもあります。なので、聖書でよく種蒔きの教えが示されています。イエスキリストもよく種蒔きの法則をもって教えをしました。 今回はあまりに細かく種について語るつもりはないので、簡単に言うと、言葉や行動やお金などが種として見なしても問題ありません。例えば、よく教会で引用されるIIコリント9:6をもってパウロはお金を種蒔きの法則に当てはまった献金の教えをしました。 2コリント 9:6 私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。 それを読んで、なぜ多くのクリスチャンんは経済的に苦しんでいるか分かると思います。種蒔きの法則に当てはまるお金を蒔いていないからです。種を蒔く代わりに、種を食べてしまっているので、結局、経済的に何も刈り取っていませんし、いつも支援を必要とされています。実際に、聖書は経済に当てはまる種蒔きの法則の教えが多いです。ただ、明白に「種蒔きの法則です!」と記載されていませんが、種蒔きの法則です。例えば、箴言にもよく見られます。 箴言 11:24-25 新改訳聖書 ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。 箴言 11:24 リビングバイブル 惜しげなく人に施しても、ますます金持ちになる人もあれば、財布のひもを固く締めても、一文無しになる人もいます。物惜しみしない人が裕福になります。人を潤すことで、自分も潤うのです。 (ちなみに、上に二つの聖書バージョンを出しました。私はよく利用する新改訳聖書とリビングバイブルです。両方にも同じことが書いてありますが、リビングバイブルの方が理解しやすいので、リビングバイブル版を挙げました。一方で、新改訳聖書版の方が原本に近いので、聖書の勉強のためによく利用します。しかし、理解がしづらい場合、リビングバイブルのように理解しやすいバージョンを読むのもありだと思います。とにかく、クリスチャンになったばかりの方は最初、リビングバイブルを読んだ方が良いのではないかと思います。) 箴言11章24,25節を読むと、そこは第2コリント9章6節の種蒔きの法則と同じ教えだと気づくと思います。 […]
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教会の奉仕について
1ペテロ 4:10-11 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。 神様はクリスチャンそれぞれに賜物をを託しました。何のために賜物が私たちに託されたかというと、もちろん神様があがめられるためです。つまり、私たちは自分の属している教会で奉仕することによって神様を礼拝することができます。なので、「礼拝」の概念を考えてみると、それはただ教会に行って、みなで賛美を歌って牧師からメッセージを聞くのではなく、神様があなたに与えた賜物を用い、その賜物をもって兄弟姉妹を祝福することによって、それも神様を礼拝する方法の一つです。 あいにく多くのクリスチャンは教会の奉仕に関わっていません。理由はたくさんありますが、その中でいくつか挙げるとすると、例えば、時間がないとか、私には賜物なんてないとか、面倒くさいとか、兄弟姉妹と関わりたくないとか、返しに時給をもらわないとか思う人がいます。昔、ある調査でそれぞれの地域教会のわずか20%の会員が本当に奉仕に献身していると分かりました。それを聞いた瞬間に私は悲しく思いました。なぜただ20%だけしか教会の奉仕に関わりたくないのかと自分を伺いました。私はクリスチャンになってから、教会で奉仕している人たちのように私も何かしたいと思い、最初教会のコーラスに入りました。そのおかげで、歌に関することをたくさん学べましたし、友達もでき、その奉仕することによって霊的に成長することもできました。あの時、小さな奉仕でしたが、「主は私をこの務めにつかせ、忠実に奉仕する者と認めてくださいました」(第1テモテ1:12リビングバイブル)そして、奉仕ながら主に日本への宣教師として招かれたことが分かりました。 クリスチャンは誰でも教会の奉仕のために何か貢献することができます。ある裕福な男性はクリスチャンになって家族とある教会に通うことになりました。数か月わたって彼はいつも教会でメッセージを聞いていましたが、ビジネスマンだったので、別に教会のために才能がないと思ってしまい、教会を通っていただけです。しかしながら、通うだけで、少しずつ教会に、また、みことばに前あった熱意は冷えてきました。何かが足りないと思って、クリスチャン生活が退屈になってきました。しかし、ある日、そのビジネスマンは教会の庭を世話することになり、牧師先生と相談したら、毎週土曜日に教会の花の世話が彼に任せられました。失いかけた教会への情熱が一気に燃え立たせられました。結局、あの裕福な男性は教会の奉仕に惚れて、自分の仕事より、奉仕のことに情熱をもって毎日土曜日が早くくることを願うようになりました。それから日曜日に礼拝に出る時に、いつも家族と自分が世話していた花を確認し、教会がさらに美しくなったことを見て喜んでいました。 神様が喜ぶのは私たちが喜んで奉仕することです。ある人は、教会の奉仕はしていますが、いつもつぶやいて、喜びなしで、強制的に奉仕してしまいます。正直にいうと、その人は奉仕のことを辞めた方が良いかもしれないと言いたい程です。なぜなら、その悪い機嫌とつぶやきのせいで、他の兄弟姉妹も悪影響されるかもしれないからです。しかし、辞めるよりもその人が態度を変えるのは、神様が望んでいることだと思います。それは、神様が辞める人に喜ばせないからです。しかも、神様はいつも私たちの最善を信じているので、私たちが悔い改めることを期待しています。 ですから、言いたいのは、あなたの奉仕が神様にとっても自分の属している教会にとって非常に大切だということです。私たちが奉仕する目的は特に誰かに褒められるためでも認められるためでもないです。また、利益のために奉仕するのではありません。むしろ、神様を喜ばせたくて、神様をあがめたくて、奉仕します。それに、あなたが持っている賜物が自分のためではなく、互いに仕え合うために与えられました。なので、私が奉仕することによって教会が祝福される上に、私も兄弟姉妹の奉仕によって祝福されます。要するに、奉仕しない人はある程度まで霊的な成長にすることができますが、奉仕する人は、兄弟姉妹と関わりみことばを実践するため、大きく成長ができます。また、そういう人たちが神様に忠実なので、もっと大きな物が任せられるとイエスキリストが教えました。(マタイ25:14-30を読んでください) また、ある人たちと、同じことをしないように注意してほしいのは、彼らは大きな招きをもっていると信じ、教会で小さな奉仕を拒むことです。例えば、「私は大きな教会の牧師に任命されたので、教会の子供を世話するに招かれていません」と言います。そういう小さな奉仕に招かれていないと言いながら結局教会で頼まれる奉仕に何も関わらないようにしてしまいます。しかし、神様が報うのはへりくだって小さなことでも忠実に奉仕する人です。なので、もしあなたの牧師さんや指導者に何か頼まれているなら、神様をあがめる機会、また、自分の霊的な成長する機会として見直してください。 結論として、あなたが持っている才能や賜物をもって利益を求めず、またみなに認められたり褒められたりするためではなく、神様をあがめるために、奉仕を通して兄弟姉妹を祝福してください。そして、いつも自分の心を吟味してください。なぜなら、神様が喜ぶのは忠実に自発的に喜んで奉仕する人です。なので、小さな物でも任せられたら、神様をあがめる機会として見てください。最後に、自分の健康も家族との関係も犠牲にするまで奉仕しないでください。それは神様に求められていないので、良くバランスを取る必要があります。そして、私たちが教会で奉仕するのは救われるためではなく、神様をあがめたくて、キリストにある兄弟姉妹のために自分自信を祝福になりたいからです。
なぜみことばを読むことが大事?
ヨハ 1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 クリスチャンになる時、クリスチャンと交流しているうちに、あるいは、メッセージを聞いている時に、新しい知識だけではなく、新しい体験も多く得ます。その中で、よく聞くようになるのはもちろん「みことば」です。なぜなら、みことばとしてよく知られている聖書がキリスト教の基礎だからです。聖書がなければ、基礎がなく、全てが矛盾するでしょう。しかし、聖書が私たちの信仰の源であり、安全な場所です。今日、聖書の読書の大切さを一緒に考えたいと思います。そして、聖書を読むことを強く薦めたいと思います。 まず、クリスチャンとして理解しなければならないのは、みことばそのものが神様であることです。それは聖書自体が言っていることです。私は、みことばを強調する時に、もちろん物資的な部分である本のことを指しているのではなく、聖書の内容が神様から来たものであり、神様の本質を持っているので、私たちにいのちを与えることもできます。なので、聖書を読むことによって神様の本質そのもので満たされます。 ヨハ 8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。 また、イエス自身がみことばであり、真実です。イエスキリストがこの世にいる間、弟子たちに真実を知る必要性をいつも教えていました。それに、真実を知ることによって私たちが自由にされると教えました。あなたは、今、何かに束縛されているでしょうか。もしかしたら、借金やアルコール依存症などに束縛されているかもしれません。または、何か病気やうつ病なので苦しめられているかもしれません。 しかし、みことばは真実であり、その真実を知ることによってどんな束縛であろうと自由にされます。なので、みことばを知ることは欠かせないことです。 ホセ 4:6 わたしの民は知識がないので滅ぼされる。 上の聖書箇所をよく読んで考えてください。多くの人が滅ぼされている理由は、悪魔が強いとかではなく、知識がないために、敗北しています。私自身が他のクリスチャンと交流している時に、彼らがどれほど悩んで苦しんでいるのかを聞くと、そんなに苦しめられなくてもいいと目を覚めさせたいのですが、多くの場合、彼らは苦しむに値している人だと思ってしまっています。 しかし、神様は私たちが敗北した人生を送ることを願っていないので、私たちにみことばを与えてくださいました。それは、イエスが十字架で達成したものが何か、また、キリストを受け入れてから私たちが誰になったかを理解するためだからです。もし、キリストにあって自分の立場が分かったら、敗北された人生を送る代わりに、圧倒的な勝利者として生きることができるようになるのです。 マタ 4:4 イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある。」 人間は、外なる人である肉体的な部分もありながら、内なる人である霊もあります。体が健康的に成長するために、私たちがきちんと栄養を取らなけらばならないように、内側の部分である私たちの霊も神様から来る食物を受け取って成長する必要があります。私たちがイエスキリストを信じ始める時に、幼児のようになります。なので、聖書はこう言います。 1ペテ […]
どうやって神様に約束されたものを得るのか。
新しい年が始まったので、新しいシーズンが始まりました。 「あなたは2021年に何を期待しているでしょうか。」おそらく何回かこういう質問をされたと思います。 もし、何も期待しないならそれは良くないと思います。もしかしたら先が見えていない状況なのではないかと思います。また、先が見えないなら、行くべき方向が分からにということです。先も方向も知らないと、どこへも行くことができません。しかし、あなたには神様の約束があります。もしかしたら、ただそれを知らないだけかもしれません。 まず、知っていただきたいのは、神様が神様の家族に属している人をみな導いてくださることです。 ロマ 8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 イエスキリストを受け入れたあなたは、神様の子供です!それを信じて受け取ってください。過去の過ちがどうであろうと、イエスキリストを受け入れたあなたは、完全に赦され、霊の上で新しい人とされました。なので、あなたは神様に導いていただく権利を持っています。そればかりか、神様自身があなたを導いてあなたと親しく関わりたいのです。 詩 34:15 主の目は正しい者に向き、その耳は彼らの叫びに傾けられる。 もし目標がなかったとしたら、あなたが神様に聞いて、神様から目標や目的が与えられること、そして、導かれた通りに前進するように励ましたいです。過去の自分を忘れて、キリストにあって新しくされた自分を信仰の目で見てください。 また、神様がこの2021年にあなたに大いなることをたくさんを約束していることを知っていただきたいです。あなたが今年成功できるように、神様はあなたに素晴らしいものや、自分がまだ知らなくても、これから必要とすることさえも、用意してくださっています。何と最高な神様でしょう!神様というより、彼は私たちにとって天のお父さんです。なので、いつも私たちのことを気にかけ、守り、たくさん備えたりしてくださっています。 しかし、多くの人が苦労しているのはどうやって神様に約束されたものを手に入れるか知らないからです。 現在教会でそれを解くために『FIGHT』というシリーズのメッセージを日曜日にしています。なので、その課題をさらに深く理解できるように青空礼拝の『FIGHT』のメッセージをYoutubeかFacebookで視聴することを強く薦めたいと思います。 神様が私たちに準備してくれたことを手に入れるために不可欠なことが一つあります。それは、あなたの信仰です。信仰は、神様のみことばに約束されている祝福を受け取る手段でもあります。なぜなら、信仰はそれよりはるかに深いことで、イエスキリストを受け入れた人のライフスタイルそのものだからです。なので、信仰について学ぶ必要もあり、信仰というのは成長させることができることを理解する必要があります。一つの例をあげると、マルコ5章25節から34節に12年間長血にわずらっていた女の実話が書いてあります。そこに、その女がどのように癒されたかが書かれています。まず、彼女はイエスキリストが誰でも癒されると聞いて、イエスキリストに触れることを決心しました。なぜならそのように癒しを受け取ると確信したからです。ところが、自分を触れて癒された女に対してイエスキリストはこう言いました。 マコ 5:34 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」 興味深いと思うのは、彼女が癒しを手に入れるために必要だったのは彼女自身の信仰です。神様の力が既にイエスキリストにあったにも関わらず、その力を働かせたのは彼女の信仰でした。信仰さえあれば、神様に約束されたことを手に入れることができるということです。4つの福音書を細かく読めば、イエスキリストはいつも信仰の行動に対して、応えてくださったことが分かります。一方で、不信仰の態度に対して多くの場合、イエスキリストは怒りました。 […]
祈りの依頼
ヤコ 5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。 クリスチャンにとって祈りというのは、非常に重要なことで、日常生活で欠かせないものです。なので祈らないクリスチャンはおそらくクリスチャンではないと言っても過言ではないと考えられます。もちろん、祈りは話題が広いので、祈りについて一つの記事で全て説明しませんし、そもそもできません。しかし、最近よく私の注目を引いたのは誰かのために祈ることです。誰かのために祈るというよりも、祈ってもらいたいという祈りの依頼です。実際に宣教師として誰かのために祈る経験は数え切れません。 まず、そのために私たちが理解しなければならないのは、祈りが一つのタイプだけでなく、様々であり、それぞれ異なる目的を果たすために、存在しており、祈り方も異なります。エペソ6:18がそれをさらに明らかにします。 エペ 6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 次に、クリスチャンがイエスキリストを受け入れることによってこの地上で支配する権威が、イエスキリストを通して与えられたことを認識するべきです。全てのクリスチャンが祈る権威、力をもっている証明できる聖書箇所が多くありますが、ここではマルコ16:15-18だけを引用します。 マコ 16:15-18 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」 ところが、祈りで全てが解決するわけではありません。それを言って、私は祈りの効果をけなそうとしているわけではありません。しかしながら、多くのクリスチャンが祈りの使い方を間違え、祈りを効果的にできていません。例えば、もしあなたが祈る時に、その動機が悪いことなら、もちろんそれは叶えられない祈りです。 ヤコ 4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 また、最近一つ気になっています。いつも誰かに「私のために祈ってください!」と頼むクリスチャンです。なぜいつも誰かに祈ってほしいのでしょうか。なぜ自分で祈らないのでしょうか。多くの場合、祈りを依頼するクリスチャンが自分の祈りに対して確信がないので、牧師や成熟したクリスチャンに依頼するのではないかと思います。また、ただ消極的で、自分で祈る慣習をもっていないためか、自分の祈りが聞かれないと勝手に思い、祈る役割を誰かに任せてしまいます。しかしながら、ここで最も明らかにしたいのは、全てのクリスチャンが祈る資格を持っていることです。牧師や、教師だけでなく、イエスキリストを受け入れた人たちは、みな同じ祈る力を持っています。 先ほど読んだように、義人の祈りが働くと、大きな力があります。では、ここでとても深い啓示を教えて差し上げましょう!イエスキリストを受け入れた人がみな信仰によって義人とされました。なので、あなた自身にもあなたが祈る度に、大きな力が働きます。 それから、祈りの依頼が来る時に、興味深いと思うのは、その人が苦しんでいるので依頼してくるでしょう。しかし、聖書箇所が一番最初に勧めるのは、その人自身が祈ることです。 ヤコ […]
2つのタイプの人
ヨハネ3:5,6 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。 イエスキリストは天の御国にアクセスできるように、秘訣を教えてくださいました。それは生まれ変わるということです。 「生まれ変わり」という言葉を初めて聞くと、どういうことなのか、様々なことを考えると思います。 イエスキリストと話していた宗教家のニコデモさえも、「生まれ変わり」が何のことなのかはっきり分かりませんでした。 しかし、イエスキリストの説明を通して大切な啓示を掴むことができます。 その啓示とは肉によって生まれた人と御霊によって生まれた人の2つのタイプの人がいることでした。その二つの違いを理解することで、聖書の解釈だけではなく、私たちの人生様式にも変化をもたらします。 まず、肉によって生まれた人は、永遠の命を得ていない、自然の人のことを指しています。別に、ある宗教に属しているからと言って、永遠の命を持っているわけではありません。それは肉によって生まれる人は普通の人で、霊的なことが理解ができないからです。 Iコリント2:14 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。 また、肉によって生まれた人は自分の視覚が行く範囲まで、または、自分の持っている知識の限りまで、生きようとしています。もし、あることが自分の知識の範囲を超える場合はそれを信じないようにします。だからといって、全てを理解しているわけではありません。ただ、そういう人は感覚によって生きるのです。なので、自分が肉体上で体験したことであり、感覚で確かめることができれば、信じることにしています。 しかし、御霊によって生まれた人は神様の命をもち、霊によって生きます。なので、霊的な人は霊的なことを理解することができます。 Iコリント2:12 ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。 ニコデモは宗教家だったにもかかわらず、霊的なことを理解することができませんでした。それは自分がまだ御霊によって生まれていなかったためです。 ヨハネ3:4,9-10 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」…ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。 同じように、現在も教会の中で、教会に通っているが、まだ御霊によって生まれ変わっていない人がいます。例えば、自分は、牧師の息子なので、生まれてからいつも教会に通い、教会で育てられたが、心からイエス様を主として告白していないため、まだ御霊によって生まれ変わっていない人もいます。その人達は、教会の活動に参加して、また、教会の人たちのように、クリスチャンらしい話し方をしても、霊的なことは深く理解できないし、神様と真の関係を持っていないのです。牧師の息子であり、教会で育てられたため、御霊によって生まれたと勘違いし、だまされています。 御霊によって生まれた人と肉によって生まれた人との生活様式の大きな違いは信仰です。肉によって生まれた人は、上に挙げたように、感覚によって生きるのです。しかし、御霊によって生まれた人は信仰によって生きるのです。 IIコリント5:7 […]
神様が愛する人に準備してくれたもの
1コリ 2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」 あなたの好きな聖書箇所は何でしょうか。多くの人は第一コリント2章9節が好きだと答えるかもしれません。その聖書箇所をもって作曲された賛美もたくさんあります。私がニュークリスチャンの頃、それをよく聞き、「素晴らしいな」と思って、神様は偉大な方と実感していました。素晴らしいと思いませんか。神様は愛する人のためになんて素敵なことを準備してくれたのでしょうか。神様は偉大で完全に良いお方なので、私たちのために備えてくれたことは必ず最高なものと確信しています。 ところが、その聖書箇所には問題があります。決して聖書箇所自体が間違っているわけではなく、多くの信者は9節ばかりを引用し、その前後の箇所で言っていることを注意していないからです。もちろん、このブログでは第一コリント2章全体、そして、第一コリントの背景について全ては語り切れません。2章だけでも大切なことがたくさんあり、それについて本を書くこともできると思います。しかし、今回は9節をもってあることを気づいてほしいと思います。 第一コリント2章7,8節によると、隠された奥義や神の知恵などが語られてます。正直にいうと、多くの人はそれを理解しないため、その部分を無視してしまっているのだと思います。しかし、今回は9節をさらに深く理解するために第一コリント2章全体を読むことを強くお薦めします。 1コリ 2:7-8 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。この知恵を、この世の支配者たちは、だれひとりとして悟りませんでした。もし悟っていたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。 その聖書箇所に出てくる「支配者」は悪魔と悪霊のことを指しています。もし、彼らがイエスキリストの死と復活の結果を知っていれば、イエスキリストを十字架にかけていなかったはずです。なぜなら、主イエスのいけにえのおかげで、今イエスキリストだけでなく、生まれ変わりを通してイエスキリストを信じる人も同じ聖霊を宿るようになり、聖霊の宿る宮になったからです。 要するに、悪魔は以前イエスキリストだけと立ち向かおうとしていましたが、今はキリストにあって数えきれない程の多くの生まれ変わった人たちと立ち向かわなければならなくなったということです。サタンはどれほど後悔しているでしょう。 使徒パウロが言った「隠された奥義」というのは教会のことです。誰もキリストの体である教会が現れることを予想していませんでした。旧約聖書の中で、教会のことについてのはっきりした預言もありませんでした。預言者たちにとっても奥義でした。神様はわざと誰にも自分があらかじめ定めたものを教えていませんでした。それは誰も神様の計画を妨害することがないためでした。神様はご自身と同じ性質を持ち、聖霊が宿る新しい人間を造ったということです。表面的に見ると、クリスチャンはこの世の人たちと変わりがないように見えますが、内面的に見れば大きな変化が起こりました。その人たちの性質が変わっただけではなく、イエスキリストと同様に聖霊の力も宿るようになりました。 では、今、とても深くて啓示のあることをお教えしたいと思います。9節の次に10節が来ることを知っていましたか。別にあなたをからかっているつもりはありませんが、多くのクリスチャンは9節ばかりに焦点を当て、感情的になり、その次に来る10節が見えなくなっています。 1コリ 2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。 ゆっくり読みましたか。9節に語られている、神様が私たちのために準備してくれたことは、聖霊によって私たちに啓示されたと10節に書いてあります。「啓示された」が過去形であることに注意してほしいです。つまり、これから啓示されるのではなく、御霊によって既に啓示されたとパウロは教えています。これは本当に素晴らしいことだと思います。様々な人はまだ啓示されると思っていますが、私たちには実際に悟らせています。なぜそれは大切なのかというと、私たちは聖霊の交わりを通して神様を深く知ることができるのに、9節ばかりに焦点を当てているばかり、10節に教えられている神様との深い関係を無視してしまっています。”御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです”。私たちは御霊によって神様の奥義を啓示されています。 もし第一コリント2章10節から読めばどれほど深くて強い交わりを私たちは神様とできるかが分かるでしょう。 1コリ 2:11-12 […]
クリスチャンの性格って何?
最近、私は多くのクリスチャンに対して懸念していることがあります。信者として私たちはこの世と合わせてはいけないと聖書から教えられていますが、結局、私たちはこの世の人たちと同じような行動を取っているのではないかと、私は考えています。特に自分と違う性格の人と接する時、私たちは神様の愛を表すことができているのか、それとも愛の不足を正当化し、そういう人たちを避けているのかを一緒に考えたいです。 この世の人は神様の愛を知らないので、自分の性格と違う人だと、その人とかかわることを避けるのは普通ですが、クリスチャンの間ではどうでしょうか。 まず、正しくて聖い性格というのは存在しているでしょうか。クリスチャンの間でよく勘違いされているのは、おとなしくていつも丁寧な言葉を言う人はとても謙虚な人に見えることです。しかし本当にそうなのでしょうか。しつこく質問して申し訳ないのですが、一緒に聖書をもって考えたいと思うので改めて聞きたいと思います。理想的な性格というのはあるでしょうか。聖書的でしょうか。それを聞いている理由は、教会の中で理想な性格の人が求められていて、その理想に合わない人は肉的と決め付けられることがあると思い始めたからです。理想な性格の条件は誰によって決められるでしょうか。 自分が苦手な性格の人を避けるのは、健全ではないと思いますし、聖書で教える愛と違います。確かに違う人と関わると面倒なことがあります。それに相手とぶつかり合うことは不可避です。なので、聖書を見ると、神様はわざと性格が異なる人をそれぞれ造ったのではないかと思います。 箴 27:17 鉄は鉄によってとがれ、人はその友によってとがれる。 その聖書箇所を見るとわかるように、友だちは欠かせないものです。相手とかかわることによって成長ができ、自分の弱さが現れ、どこを改善するべきか分かります。良い刀のように、人間関係をもって自分の性格も研がれるということです。例えば、調理人はいい料理を作るためによく自分のナイフを研いでいます。それはよく研がれたナイフの方が効率よく料理を作ることができるからです。同じように神様も私たちが御国のために素晴らしい結果をもたらすために、私たちに人間関係を与えてくださいました。しかし、与えてくださった人はいつも私たちと同じ考え方や性格を持つ人だとは限られません。むしろ、自分にない能力を発展させるために、おそらく自分と違う能力を持つ人をあなたの人生に置かれるでしょう。最初はとても不快ですが、本当に成長したいなら受け入れるしかありません。 現在、パンデミックに直面している教会はとても素敵な働きをしていると思います。様々な方法で信者がみことばで養われるようにインターネットや技術を利用しオンライン活動しています。私の教会もそうしています。ところが、クリスチャンはいつもステイホームで、他の信者といっさいかかわらないことは懸念されることです。まず、人間は誰かと交流するために造られました。それから、成長するには、兄弟姉妹との交わりが大切です。しかしながら、パンデミックが起きる前も、他の人とかかわりたくないと、教会を避けていたクリスチャンもいました。それはとても危険な決断です。なぜなら、聖書にそれを裏付ける教えもないし、遠ざける羊は羊飼いから守られていないからです。 イエスキリスト自身は私たちの性格の模範です。しかし、イエスキリストさえ自分と同じ考え、行動をする人たちを選ぶどころか、全く異なる性格の人たちを集め、自分自身の弟子にしました。声が小さく、丁寧な言葉を使う人が最も霊的な人格だと勘違いしてはいけません。選ばれた12人の弟子たちを見ると、おそらく私であったら、イエスキリストは本当に自分の使徒を正しく選んだのかと疑っていたと思います。ペテロを見れば分かりますが、ペテロが一番行動力があった人にもかかわらず、言うことは極端的で愚かな場合が多かったです。多分弟子たちの中で最も感情を表した人だと考えられます。そして、クリスチャンがよく感動するヨハネはもっと酷かったと思いませんか。みことばを受け入れていない村の人たちに天から火を下し村を焼き滅びるように願っていました。しかも、弟子たちの間で、誰が一番偉いとかの話がいつも争論の原因になったりして、イエスキリストは12人の弟子たちを選んだ時に、何を考えていたのかと思われませんか。では、どうして教会の中で私たちは自分と違う性格を持つ人と認めないのですか。もしかして私たちの性格は彼らより清くて偉いものですか。 新約聖書の英雄である使徒パウロの性格も興味深いです。使徒の働きや手紙などを読むと、パウロと一緒に歩むことは簡単ではなかったことが分かるでしょう。挑戦があるばかりだけでなく、パウロの性格そのものは対応しやすいものではなかったと思います。リーダーとしていつも何でもはっきり言い、行動を求め期待する性格だったし、誰よりも努力していたので、パウロの隣にいるとどういう気持ちだったのだろうかと想像します。 聖書に出てくるのはみな人間です。神様はそれぞれ異なる性格で造り、神の目的を果たすために任命しました。それは私たちが兄弟姉妹と一緒にいるときは一人よりも強いからです。みなそれぞれが異なる能力を持ち、教会の徳を高めます。私は私と違う人を受け入れるのは神様が私を受け入れたように相手を愛することだと思います。もし、ただ相手は私と違ってその人を愛さないなら神様を愛していないことと同じです。 1ヨハ 4:20 もし、「私は神を愛しています」と言いながら、兄弟であるクリスチャンを憎み続ける人がいれば、その人はうそつきです。目の前の兄弟を愛せない人が、どうして、見たこともない神を愛せるでしょう。 わざと神様が異なる性格を造ったことを確信しています。その人たちとかかわることによって自分自身が成長するだけでなく、自分のまだ未熟な能力を発展させ、人生の目的を果たすことができます。一人より多くの人と一緒になった方がもっと遠くへ行き、効果的な働きができ、影響を与えます。苦手な性格の人を避けているなら、自分に神の祝福が現れることを阻んでいる可能性が高いです。神様が私たちにくださった出会いを受け止めていきましょう。
働け!余裕がないから
初めて日本に来た時、私の目を引いたことがあります。それは、ある夜、寮を出て少し散歩していると、あるビルの前にスペースがあり、そこで一人の男子がダンスの練習を一生懸命していたことです。初めて日本の冬を体験した私は、とても寒い夜だったにもかかわらず、あの大学生が一生懸命、何のためにかは分からないが、ダンスの練習している姿を見て、「やはり日本は武士道の国だ」と勝手に思いました。笑われると思いますが、私の母国では、寒いのに外でダンスのために努力する人を、おそらく見ることがないと思います。なので、あの光景が目に焼き付き、日本人は実に働き者だと実感しました。 教会の中でも自発的な人がいます。その人を優秀だと思います。本当は、受動的な人より、積極的な人が成長し、様々なことを達成できます。しかし、受動的な人は、神様を待ち望んでいることを常に主張し、何もせずに永遠に待ってしまい、結局、何も実現しない傾向が高いと思います。その一方で、積極的な人は教会の成長にかなり貢献します。そういう人はたくさん奉仕し、様々なグループに参加し、教会に素晴らしい影響を与えます。ところが、教会の奉仕は素晴らしくても、夢中になると奉仕の肝心な点を忘れ、それから離れてしまう可能性もあります。 牧師などといった五つの奉仕職の中で奉仕している人でも、自分の務めのみに焦点を当て、初心忘るべからず努力しているつもりでも、結局、毎日のやるべき事で忙しくなり神様との関係すらきちんと保てなくなると考えられます。さらに、自分の奉仕の重要さを主張し、説教などのためによく聖書を勉強したり他の人のためによく祈ったりしますが、神様との関係が最善するどころか、悪化してしまうこともあります。残念なことに、その理由で離婚する牧師などもいます。なぜかというと、彼らはプロフェッショナルな牧師になってしまい、神様に求められている息子としての関係を忘れてしまったからです。 イエスキリストが弟子たちを召した例を考えてみると、まず「召し」という言葉を聞いて頭に浮かぶのは、おそらく弟子たちがイエスの名で群衆を癒したり、悪霊を追い出したりすることだと思います。しかしながら、イエスキリストが弟子たちに一番最初に願っていたことは何か分かりますか。 マコ 3:14-15 そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、悪霊を追い出す権威を持たせるためであった。 弟子たちの最も大事な務めはイエスキリストの身近にいることでした。私たちはミニストリーのプロフェショナルになるために召されたのではありません。むしろ、まずイエスキリストと親しい関係を持つためです。聖書は誰かに語るためばかりに読まれるのではなく、神様のみこころ、そして、神様自身を知るために読まれるべきです。祈ることは、奉仕のためにもっと油注ぎを求めるものではなく、神様を愛しているからこそ神様との時間を費やすものです。 よく教会の中でポテンシャルのある人が見ますが、彼らは活動にばかり目を向けているため、奉仕がなくなると自分のアイデンティティがなくなるようです。なので、何をするか混乱してしまい、極端な場合には教会を離れることもあります。他の人は、福音のためにやっていることですが、働きすぎて常に疲れてばかりで二度と教会に行きたくなくなります。それらは全て残念なことです。 イエスキリスト自身はそういう場面で注意したことがあります。 ルカ 10:38-42 エルサレムへの旅の途中で、イエスはある村に立ち寄られました。マルタという女が、喜んで一行を家に迎えました。マルタにはマリヤという妹がいました。マリヤはイエスのそばに座り込んで、その話にじっと聞き入っていました。一方マルタはというと、てんてこ舞いの忙しさで、「どんなおもてなしをしようかしら。あれがいいかしら、それとも……」と、気が落ち着きません。とうとう彼女は、イエスのところへ来て、文句を言いました。「先生。私が目が回るほど忙しい思いをしているのに、妹ときたら、何もしないで座っているだけなんです。少しは手伝いをするように、おっしゃってください。」しかし主は、マルタに言われました。「マルタ。あなたは、あまりにも多くのことに気を遣いすぎているようです。でも、どうしても必要なことはただ一つだけです。マリヤはそれを見つけたのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 時に、私は礼拝でメッセージしている時、あるいは、個人的に誰かに相談している時に、マルタのように落ち着かない人と会います。こちらは一生懸命、聖書をもって神様のみこころを表そうとしていますが、相手は奉仕や活動のことで頭が忙しく、神様の声を聞く余裕がありません。しかしながら、神様は一番望んでいるのは、その人と交わることです。私たちが理解しなければならないのは、教会もミニストリーも全て神様のものなので、私たちはただ協力者として働いているだけです。私たちのアイデンティティは神様のためにする活動や奉仕になく、私たちのアイデンティティは神様の子供ということです。 最後に、奉仕などをそっちのけにして良いとは言っていません。もちろん、その活動はキリストの体に大切なことです。しかし、神様が語る時に、100%その語った場にいてください。体はそこにおり、心は次の仕事ばかりに向けてはなりません。弟子たちのように、まずイエスキリストの身近にいてください。それから、心を尽くして奉仕してください。私たちは主の御前で落ち着くことを学ぶ必要があります。仕事と神様との関係のバランスをよく取ることによって健全で成長ができるからです。
教会なんて行く必要がある?
教会なんて行く必要はないと思うあなたへ そもそも教会は何でしょうか。教会はヨーロッパ風で、十字架で飾られており、固いイメージを持つ建物でしょうか。または、毎週日曜日に讃美歌を歌い、説教を聞く場所でしょうか。しかし、教会というのはイエスキリストの復活の後、弟子たちに聖霊が注がれた時に、生まれたキリストの体なのです。そのことは、エペソ1章を見れば分かりますが、キリストは全てに勝る権威を持つようになった上で、その権威を教会に与えたと書いてあります。なので、教会はイエスキリストの体であり、イエス様はその体の頭です。 御霊を受け入れ、神の家族に生まれ変わった私たちは、今、キリストと繋がっています。なので、本当の教会は場所や建物ではなく、私たちのことです。私たちは神様を宿っているわけです。 教会はキリストの体として示され、それは一般的にクリスチャン全体のことを指していますが、地域教会も存在することを認識しなければなりません。認識されないと、多くのクリスチャンが勘違いしているように、私自身が教会だと主張し、教会に行く必要なんてないと思い込んでしまうからです。残念ながら、彼らは自分の内に聖霊が宿っているので牧師などの説教を聞かなくても神様の声を自分で聞こえると正当化し、教会に行かなくなります。 しかし、そこにサタンのわながあります。地域教会の存在は、エペソの教会やガラテヤの教会、ピリピの教会などといった新約聖書の各手紙に見られます。その上、イエス様自身は、黙示録2章と3章をもって、地域教会の存在を認めています。そればかりか、そこで各地域教会の牧師の存在も認められています。それを理解すると、地域教会への神様の計画と分かります。では、なぜあるクリスチャンは教会に行かなくて良いと主張するのでしょうか。 地域教会に属さないクリスチャンの理由は何でしょうか。 イエス様を受け入れたクリスチャンは、神様のみこころである聖書に従うべきだからと理解しています。なお、私たちの信仰がみことばに置かれる必要がありますが、地域教会を拒絶する人は、何を根拠としてそういう決断をするでしょうか。どの聖書箇所が「教会に行かなくて良い」ということを裏付けられますか。信仰が伴わない行動は神様に対して罪です(ローマ14:23)また、信仰の行動になるには、それが聖書に基づかなければなりません。あいにく、教会に行かないと決めた多くの人は、聖書にない訳をつけて行動を取っています。もしかしたら、自分が敏感で傷つきやすいので人間関係がうまく行かない理由で、教会を避けるようになったかもしれません。あるいは、プライドが高くて、牧師やリーダーに正されたくないため、教会に行かないことにしたかもしれません。しかし、それらは教会の必要性を否定する理由になるでしょうか。 それにしても、教会が必要ではないと主張する人は、自分自身のことだけを求めていると言っても過ちではないと思います。多くの地域教会を開拓した使徒パウロは、教会における奉仕の話するとき、このことを指摘します。 ピリ 2:19-21 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。 使徒パウロはいつもたくさんの人と開拓していたものの、テモテだけが頼れる人で、パウロと同じ心でした。もし現代の牧師たちの心を聞くなら、おそらく多くの人はテモテのような奉仕者を願っているでしょう。真に教会のことを心配し、教会のために何かをする奉仕者を求めているのではないかと思います。いつでも頼れ、務めや牧師を見捨てない奉仕者です。 さて、使徒パウロと一緒に働いていた他の人々はどうなったでしょうか。気の毒ですが、彼らは自分の牧師でありリーダーであるパウロを捨てて自分自身のことを求め始めました。それを見ると、パウロはどれほど孤独感を持ったのかを考えさせられます。そして、リーダーとして、パウロは少し厳しかったので、パウロの指導に服従したくない人もいたかもしれません。または、迫害を体験し、天から託された務めを諦めた人がいたこともありえます。 他には、ただ単に疲れた、飽きた人々もいたと考えられます。理由がどうであっても、彼らはテモテのように使徒パウロの忠実な奉仕者として思い出される特権を失いました。 自立したい!教会なんかいらないと主張する人は危険な目に合う可能性が高いと、私は思います。別に脅かすつもりはないですが、彼らは聖書に完全に逆らっているので、危険だと思います。特に近年、インターネットの普及で、自分の好きな説教を聞き、自分の未熟な部分を痛感させる説教を避けることもできるため、危険だと思います。使徒パウロはテモテに、終わりの時にそういうことが起きると注意しました。 2テモ 4:2-4 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。 現在は、まさにそうではないかと思います。多くの人は教会を避け、インターネットで自分に都合の良い、自分の意見に合う説教ばかりを聞き、好きな教師を寄せ集め、真理に背いているのではないかと考えられます。彼らは、神様の恵みばかりについて聞くのを好みますが、自分の未熟さを痛感させるような教えは聞こうとしません。また、自分は愛されているよ、祝福されているよ、何もしなくていいよ、ありのまま神様はあなたを受け入れるよなどばかりを聞き、自分自身を変える必要がないと思い込んでいます。神様はいつも優しいので、あなたが罪の奴隷のように罪を犯していても、誰にも福音を伝える努力しなくても良い、それでも神様はまだあなたを愛していますよと言いますが、それは、自分をごまかしていることにすぎません。 私は別に誰もけなすつもりはないです。むしろ、一人でも多く救いたいと思っています。また、別に私の教会に来なさいとも言っているわけでもありません。あなたは、聖霊に導かれ、聖書を真に語られる、また、聖霊の働きを大事にする教会を選ぶことが必要です。しかし、もうお気づきかもしれませんが、私たちが生きている時代は残酷です。「自分が可哀そうなのでしょうがないから」などの教えは神様からきません。だからこそ、私たちは、誠実で真理を教える牧師が必要です。時が良くても悪くても、戒め、真実を語り、聖書を教える霊的なお父さんが必要です。 […]