祈りの依頼

ヤコ 5:16

ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

クリスチャンにとって祈りというのは、非常に重要なことで、日常生活で欠かせないものです。なので祈らないクリスチャンはおそらくクリスチャンではないと言っても過言ではないと考えられます。もちろん、祈りは話題が広いので、祈りについて一つの記事で全て説明しませんし、そもそもできません。しかし、最近よく私の注目を引いたのは誰かのために祈ることです。誰かのために祈るというよりも、祈ってもらいたいという祈りの依頼です。実際に宣教師として誰かのために祈る経験は数え切れません。

まず、そのために私たちが理解しなければならないのは、祈りが一つのタイプだけでなく、様々であり、それぞれ異なる目的を果たすために、存在しており、祈り方も異なります。エペソ6:18がそれをさらに明らかにします。

エペ 6:18

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

次に、クリスチャンがイエスキリストを受け入れることによってこの地上で支配する権威が、イエスキリストを通して与えられたことを認識するべきです。全てのクリスチャンが祈る権威、力をもっている証明できる聖書箇所が多くありますが、ここではマルコ16:15-18だけを引用します。

マコ 16:15-18

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」

ところが、祈りで全てが解決するわけではありません。それを言って、私は祈りの効果をけなそうとしているわけではありません。しかしながら、多くのクリスチャンが祈りの使い方を間違え、祈りを効果的にできていません。例えば、もしあなたが祈る時に、その動機が悪いことなら、もちろんそれは叶えられない祈りです。

ヤコ 4:3

願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。

また、最近一つ気になっています。いつも誰かに「私のために祈ってください!」と頼むクリスチャンです。なぜいつも誰かに祈ってほしいのでしょうか。なぜ自分で祈らないのでしょうか。多くの場合、祈りを依頼するクリスチャンが自分の祈りに対して確信がないので、牧師や成熟したクリスチャンに依頼するのではないかと思います。また、ただ消極的で、自分で祈る慣習をもっていないためか、自分の祈りが聞かれないと勝手に思い、祈る役割を誰かに任せてしまいます。しかしながら、ここで最も明らかにしたいのは、全てのクリスチャンが祈る資格を持っていることです。牧師や、教師だけでなく、イエスキリストを受け入れた人たちは、みな同じ祈る力を持っています。

先ほど読んだように、義人の祈りが働くと、大きな力があります。では、ここでとても深い啓示を教えて差し上げましょう!イエスキリストを受け入れた人がみな信仰によって義人とされました。なので、あなた自身にもあなたが祈る度に、大きな力が働きます。

それから、祈りの依頼が来る時に、興味深いと思うのは、その人が苦しんでいるので依頼してくるでしょう。しかし、聖書箇所が一番最初に勧めるのは、その人自身が祈ることです。

ヤコ 5:13

あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。

別に祈りを求めることが良くないと言っているわけではありませんが、最近気づいているのは、祈りを求めることに中毒になっているクリスチャンが多いことです。それらの人は、自分がキリストにあってどんな人であるか、どんな権威が与えられたかをおそらく知らないからでしょう。キリストが私に任された権威は他のクリスチャンと正に同じ権威です。しかし、もっと深刻な問題も見られます。それはみことばを実行しないクリスチャンです。

多くの場合、祈ってほしいと依頼してくる時、実際に相手のために祈る必要がないこともあります。少し会話しながら、問題の原因が分かり、ほとんどの場合、祈らなくても、聖書を教えることだけで済みます。よく考えれば、全ての問題は祈りで解決ができません。もし、その人が勤勉にみことばを実行していないなら、いくら祈っても、何の変化も起きないでしょう。それを明らかにするために、例え話をしましょう。

ある兄弟が妻との関係がうまく行っていないとします。二人とも毎日喧嘩ばかりです。その兄弟が祈ってほしいと依頼してきますが、彼は妻に対して恨みを抱いて、赦さない心を保っています。彼は全て妻のせいだと主張していますが、実は、彼自身が妻に対して良い接し方をしていなく、いつも悪口を言ったり、怒ったりして、怒りで家の家具などを壊すこともあります。しかし、彼も、夫として大きな失敗しているにもかかわらず、全てを妻のせいにし、「祈って下さい!」と求めてきます。ところが、もし彼自身が自分を正さなければ、いくら祈ってもそれは叶えられない祈りとなるです。祈りで済む問題ではありません。

1ペテ 3:7

同じように、夫たちよ。妻が女性であって、自分よりも弱い器だということをわきまえて妻とともに生活し、いのちの恵みをともに受け継ぐ者として尊敬しなさい。それは、あなたがたの祈りが妨げられないためです。

この記事を通じてグループで祈ったり、牧師先生などと一緒に祈ったりすることを落胆させたくありません。むしろ、最初にも言ったように、祈りが非常に重要なことで、毎日たくさん祈ることはいいと思います。また、もし自分が誰かの助けを必要としているならば、その時は、必ず自分より成熟した兄弟姉妹や先生に相談し一緒に祈ることを励ましたいです。しかし、理解してほしいのは、全てのクリスチャンには同じように祈る権威が与えられているので、自分で祈らないことはもったいないことです。おそらく自分がまだ苦労している理由は、あなたが信仰によってイエスキリストを通して与えられた権威をもってサタンに対して堅く立ち向かっていないからです。なので、一秒たりとも遅れず、自分の権威の立場に堅く立ってください。最後に、祈りで済まない問題があることも分かっていただきたいです。つまり、ある問題はみことばを実践することによって解決されます。いくら祈っても、みことばを実践しないなら、もちろん状況が変わることはありません。また、長年にわたって私が気付いたのは多くの場合、クリスチャンが苦しんでいるのは、みことばを実行していないからだということです。