私は最近、「ISIS(アイシス)には目的があり、エボラにも目的があります。では、信者には目的がありますか?」と考え直しました。明らかに、ISISとエボラには死と破壊をもたらす目的があり、私たちは両方とも世界で塩と光であるという聖なる召しを持っています、そして私たちは地球上で最も決意を持ち、熱心で、目的のある人々であるべきだと信じています。 これは、教会が受け身になったり、休止状態、または臆病になる時ではありません。私たちの周りの世界のシステムの衰退を嘆く代わりに、神の御言葉は私たちに次のように忠告します。「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。 それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 」(ピリピ2:14-15) 一部の信者は確かに燃えていることを知っていますが、私は最近、主に尋ねました。「教会の世界がその無気力と自己満足から目覚め、信者が自分の利己心から解放されるには何が必要でしょうか。「私達がどんな目的を持って生まれてきたか?」という情熱的で説得力のある目的で燃やされるようになりますか?」 これを熟考する中で、私は歴史を通してさまざまな霊的なリーダーの心に燃えた神聖な火を思い出しました。人間の出来事の過程に根本的に影響を与えたのは、神の召しと運命の感覚に燃え上がった個人でした。こんな聖なる目覚めがまたありますように!私たちは、「形だけ行う」または「通常通り」のことが、教会から見る必要のある結果を生み出さない時代にいます。 ダビデ ダビデの日、私たちは「…ペリシテびとの陣から、ガテのゴリアテという名の、戦いをいどむ者が出てきた。」と読みました(サムエル記上17:4)。地獄には常にチャンピオンがいて、私たちの時代にも霊的な邪悪さが醜い頭を上げているのが見えます。他の人が恐れを抱きながら、ダビデは自信を持って立ち上がった。彼は積極的な信仰のために兄弟たちから批判されたとき、「僕が何をしたっていうんです? ちょっと尋ねただけじゃありませんか。」と言いました (サムエル記上17:29)ダビデの文字通りの声明は、「それは御言葉ではないのですか?」でした。おそらく、一部のコメンテーターが示唆しているように、ダビデは単に質問をしているだけだと言っていたのでしょう。しかし、ダビデが実際に彼の人生で重要な目的(または原因)を持っていたことは明らかであり、彼は神の言葉によって根本的に力を与えられていました。神はダビデに契約に基づく信仰を生み、それはダビデを神のために大いなる手柄をするように駆り立てました。 エレミヤ ユダに対する彼の重荷は非常に大きかったので、エレミヤは「涙の預言者」と呼ばれました。彼はバビロニア人によるエルサレムの征服に至るまでの数年間、預言しました。重く迫害されたエレミヤは(20:9、口語訳)、もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火のわが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。」説教者として、私たちは何かを言わなければならないので説教壇に上がるのではなく、何かを言う必要があるから上がるべきです。エレミヤは神の心と思いから鋭い言葉を話しました…それらは祭壇からの生きた炭でした。 ネヘミヤ ネヘミヤはペルシャの王アルタクセルクセスの政権において立派な地位を占めていましたが、神は彼に対してより大きな任務を負っていました。エルサレムが破壊されてから何年も経った後、彼は、エルサレムが再定住しているときに最近街に行った人たちに出会いました。ネヘミヤ1:2-4(口語訳)は、次のように述べています。「…捕囚の地からエルサレムに戻った人々は元気にやっていますか。実は、大変な目に会っています。城壁はくずされたまま、門も焼き払われたままです。 私はそれを聞いて、座りこんで泣きました。そしてそれから何日も断食して、天の神にひたすら祈り続けました。」壊れた壁を再建することはネヘミヤにとって良い考えではありませんでした。それは神の考えでした!それらの壁の再建に対する切望、燃えるような欲求は、彼の存在そのものの構造の一部になりました。 使徒たち ペテロとヨハネがイエスの名によってこれ以上話さないように脅されたとき、彼らは「私たちは、イエスの行われたことやお話しになったことを、知らせないわけにはいきません。」(使徒行伝4:20)と答えました。そのような大胆さはどこから来たのでしょうか? 彼らは世界によって自己満足に流されませんでした。彼らはこの世界が提供しなければならないものには何の関心もありませんでした。 A.W.トザーは次のように書いています。「初代教会はキリストに驚いていました。彼は彼らを眩惑させ、彼らがキリストを越えることができないほどの驚きの感情を起こさせました。彼らが話していたのはキリストだけでした。彼らが考えたのは、朝から晩まで、キリストだけでした。キリストは彼らの生きる唯一の理由であり、彼らは彼のために死ぬことをいとわなかったのです。」 パウロ 彼の回心の前に、タルソのサウロはクリスチャンを破壊するという彼の決意に貪欲でした。彼の人生が主イエスによって変えられたとき、それらの破壊的な欲求は聖なる野心と神聖な決意によって置き換えられました。彼の関与については、カジュアルでもリラックスしたものでもありませんでした。 パウロは100%関わっていました! 彼がイエスを知らなかった彼自身の人種の人々について話したとき、彼の奉献ははっきりと見ることができます。 彼はこのように言いました。「私の同胞であるイスラエルの人々、同国人であるユダヤ人の人たちがキリストのもとに来ることを、私はどんなに望んでいるでしょう。昼も夜も、彼らのことで心は重く、悲しみのあまり、胸も張り裂けんばかりです。彼らがキリストによって救われるためなら、私は永遠にのろわれてもかまいません。むしろ、のろわれたいくらいです。口先だけでこう言っているのでないことは、キリストも聖霊もご存じです。」(ローマ9:1-3) 今日、そのような言葉はどこで聞くことができますか? 彼らと彼らの愛する人が救われる限り、何人の人々が満足していますか? 誰が迷子を求めて叫んでいますか? ジョンノックス スコットランドを代表する改革者は、かつて庭にひざまずいて祈っていました。 「神様、スコットランドをください、さもないと私は死にます」と叫んでいるのを他の人がふと聞きました。彼は大胆に福音を宣べ伝え、国を変えました。ノックスが亡くなったとき、スコットランドの王は「ここに、人の顔を恐れたことのない男性がいます」と言いました。先程引用したトザーも、次のように述べています。「過去の聖なる男性と女性の近くに来ると、すぐに神の後に彼らの欲望の熱を感じるでしょう。彼らは彼を嘆き、祈り、全力で戦い、昼も夜も、季節も季節外れも彼を求めました。そして彼らが彼を見つけたとき、その発見は長い間求めていたときより甘かったです。」 マーティン・ルーサー・キング・ジュニア 偉大な市民権の指導者は、次のように述べています。「彼らがあなたを殺そうとしても、あなたは、死ぬ価値があるほど貴重なものもあれば、永遠に真実なものもあるという内なる確信を育みます。 そして、死ぬための何かを発見することに失敗した人は、生きるのに適していません!」 マーティン・ルーサー・キング・ジュニアは「オールイン」でした。 砂に線が引かれ、彼はそれを横切った。 燃えるようなビジョンが彼を支配し、彼を導き、恐ろしい反対に直面して前進することを彼に強いました。 […]
Category: トニー・クック(日本語版)
誰も1人ではできない
モスクワにあるGood News教会の入り口には、その素晴らしい施設の実現を助けてくれたパートナーに感謝の気持ちを表す大きな看板があります。 前回の訪問中、建物に出入りするたびに、リックレナーさんは立ち止まり、その看板に手を置いていました。 彼はパートナーのために神に短い感謝をし、神が彼らを祝福するように祈りました。 私はあなたの行動に感銘を受け、感動しました。 その姿は他の人の優しさを決して無視しないことを思い出させてくれました。牧師であろうとなかろうと、私たち全員が他者の努力の影響を強く受けているのが現実です。 私たちは、私たちが食べる物を植える農夫、私たちの家を建て、また運転する道で働いた人々、そして私たちと知識を共有してくれた教師から恩恵を受けています。 アルベルト アインシュタインは、「一日に幾度となく、私は実感する。私自身の外的・内的生活がいかに多く、現在や過去の同胞の努力の上に築かれているかということを。また、自分が受けただけの恩義を返すためには、いかに真剣に努力しなければならないかということを。」と述べました。 同じように、アイザック ニュートンは「私がかなたを見渡せたのだとしたら、それは巨人の肩の上に乗っていたからだ」と言ったそうです。 私たちは皆、他者の貢献の恩恵を受けています。 私たちは感謝し、他者の利益を追求するべきです。 これらのことを振り返っている間、私は何年にもわたって私を助けてくれた人々を思い出しました。そのリストは無限に思えます:例を挙げると、両親、教師、霊的なリーダー、コーチ、友人など。 また、奉仕の機会を与えてくれたリーダーや、模範を示し続けている同僚、会衆で奉仕する特権を与えてくれた牧師の方々、そして私たちが今していることを可能にさせるために私とリサを支援してくれるパートナーたちをも思いました。 私たちは皆、感謝しなければならないことがたくさんあります。私たちが信頼し、励まし、助け合えるように、神は家族全員を本当に計画されたことを知っています。リックさんがパートナーのために短い祈りをしているのを見ていたとき、全ての教会はメンバーの忠実な関与と彼らの参加によって存在することを思い出しました。 それは、人々が共に働き、共に寄付し、一緒に祈り、共に奉仕することによって、物事が起こるのです。 私はイエス自身の働きをも思い出しました。彼は一人ですべてをしたわけではありませんでした! もちろん、彼には御父と聖霊の超自然的な存在があり、「子は自分から何もできないが、父がしていることを見て、同じようにするしかできない」(ヨハネ5:19)という断言で完全に拠り所にしていることを認めました。 しかし、イエスが超自然の中で助けがあっただけでなく、彼は自然の次元でもすばらしい助けがありました。イエスの宣教がどのように資金提供を受けていたか考えたことがありますか? […]
No One Can Do It Alone
In the lobby of Good News Church in Moscow, there is a large plaque expressing gratitude to the partners who […]
Pentecost Changed Everything
Shortly before Pentecost Sunday, a pastor friend texted me and asked my thoughts on how the original disciples had been […]
ペンテコステは全てのことを変えた
ペンテコステの日曜日の少し前に、牧師の友人が私にテキストメッセージが送れられてきて、使徒行伝の第二章で弟子たちに起こったことで彼らがどのように変わったかについて私の考えを尋ねました。つまり、聖霊に満たされるという重大な出来事の前後で、彼らはどうだったかという質問でした。 私がすぐに考えたのは、元の12人の中で最も衝動的で率直であるペテロのことでした。彼はいつも自分の意見を述べた最初の人であり、ボートから降りてイエスと一緒に水の中を歩こうとした最初の人でした。イエスが捕らえられた夜、彼が主と知り合いであることを3回否定したとき、彼の人間の強さの限界がわかります。聖書に記載されていることは、ペテロの強さと感情の深さを明らかにしています。 マタイ26:74-75 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。 75ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。 ルカの記述では、ペテロが3回目に否定した時のまさにその瞬間に起こったことの重要な詳細を言い足しています。 ルカの福音書 22:61-62 「その瞬間、イエスはふり向き、ペテロを見つめました。ペテロは、はっと我に返りました。「明日の朝、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言うでしょう」と言われたイエスのことばを思い出したのです。 ペテロは外へ走り出て、泣きくずれました。 私たちの多くは、イエスがどのようにペテロを美しく回復させ、主の羊を養うという召しを再確認したかという話をよく知っています(ヨハネ21:15-19)。そして、ペンテコステの日に、ペテロはグループの代表者として立ち上がり、イエス・キリストの死、埋葬、そして復活を大胆に宣言しました。その日、三千人の魂がその言葉を受け取り、神の家族に連れて来られました。ペテロの人生に違いをもたらしたのは、聖霊が彼に臨んだ後に彼が力を受けたとだという事を理解することができます。(使徒1:8) しかし、ペンテコステにはさらに多くの事がある ペテロに変化をもたらしたことが重要だったのと同じくらい、弟子たちの「ペンテコステの前」と「ペンテコステの後」の全体的なイメージは、はるかに変わりました。聖霊の力はペンテコステの日に来たのではなく、個々の説教者が力をもって説教できるようにするためでした!それは、はるかに大きなイメージがあり、それはすべての信者を含みます。 ペンテコステ以前は、弟子たちは団結することに本当に苦労していました。弟子たちはしばしば、身勝手で自己主張が強かったからです。 3つの異なる機会に、イエスが弟子たちを注意しなければならなかったのは、彼らのうちで誰が最高かを言い争っており、そのうちの1人が最後の晩餐で起こったからです。復活の直後、ヨハネは自分がペテロよりも足が速いことを指摘し、ペテロよりも先に墓に到着しました。(ヨハネの福音書20:3-8) ペンテコステ以前は、弟子たちは肉欲的なエネルギーを持っており、しばしば間違ったように使われていました。 ペテロはゲッセマネの園で男の耳を切り落としました。 ヤコブとヨハネは彼らを迎えてくれなかった村に火をつけたいと思いました。また、 彼らはイエスを見たいと思っていた幼い子供たちから逃げようとしました。そしてヨハネは他の誰かがイエスの名前を使って人々を傷ついた人に仕えるために使わないように要求しました。なぜならその個人は彼のグループの一部ではなかったからです。 これらの表現はすべて肉欲的であり、イエスはそれらを注意して正しました。 […]