日々の生活の中で、問題に直面することがあり、どのように解決していけばよいのかを考える必要があると思います。 しかし、みなさんは問題のない人生を想像したことがありますか? 私たちの生活の中で問題に直面する必要がなかったら、それはとても素晴らしいことではないでしょうか? ヨハネの福音書16章33節に書いてあるように残念ながら、この世には苦難があります。 私たちがどんなにキリストに従い、正しい道に歩んでいたとしても、この世界に住んでいるとしたら、いくつかの試練に直面することになります。 「あなたがたも心配しないで、安心していなさい。こんなにも念には念を入れて話したのは、そのためなのですから。確かに、この世では苦難と悲しみが山ほどあります。しかし、元気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」」 ヨハネの福音書 16:33 ここで理解しないといけないのは、神様は私たちが神に近づくために、試練は与えないことです。 そして、私たちが人生で直面するすべての問題が悪魔から直接来るわけではありません。私たちが他の不完全な人々と不完全な世界に住んでいるために起こることがあります。 問題がどこから来たとしても、常に私たちと一緒にいて、私たちを助け、私たちに力を与え、私たちを解放することを約束してくださった神がいます。 では、なぜ私たちはそれほど多くの逆境を経験するのでしょうか? マルコの福音書4章にはイエスキリストの弟子たちが逆境に遭遇してる場面が書かれています。 「夕闇の迫るころ、イエスは弟子たちに、「さあ、湖の向こう岸に渡ろう」と言われました。 弟子たちは群衆をあとに残し、イエスの乗られた小舟をこぎ出しました。あとからついて来る舟も、何そうかありました。 ところが、まもなく恐ろしい嵐が襲って来たのです。小舟は大波にほんろうされ、舟は水浸しです。」 マルコの福音書 4:35-37 […]
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祈りの依頼
ヤコ 5:16 ですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。 クリスチャンにとって祈りというのは、非常に重要なことで、日常生活で欠かせないものです。なので祈らないクリスチャンはおそらくクリスチャンではないと言っても過言ではないと考えられます。もちろん、祈りは話題が広いので、祈りについて一つの記事で全て説明しませんし、そもそもできません。しかし、最近よく私の注目を引いたのは誰かのために祈ることです。誰かのために祈るというよりも、祈ってもらいたいという祈りの依頼です。実際に宣教師として誰かのために祈る経験は数え切れません。 まず、そのために私たちが理解しなければならないのは、祈りが一つのタイプだけでなく、様々であり、それぞれ異なる目的を果たすために、存在しており、祈り方も異なります。エペソ6:18がそれをさらに明らかにします。 エペ 6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。 次に、クリスチャンがイエスキリストを受け入れることによってこの地上で支配する権威が、イエスキリストを通して与えられたことを認識するべきです。全てのクリスチャンが祈る権威、力をもっている証明できる聖書箇所が多くありますが、ここではマルコ16:15-18だけを引用します。 マコ 16:15-18 それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」 ところが、祈りで全てが解決するわけではありません。それを言って、私は祈りの効果をけなそうとしているわけではありません。しかしながら、多くのクリスチャンが祈りの使い方を間違え、祈りを効果的にできていません。例えば、もしあなたが祈る時に、その動機が悪いことなら、もちろんそれは叶えられない祈りです。 ヤコ 4:3 願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。 また、最近一つ気になっています。いつも誰かに「私のために祈ってください!」と頼むクリスチャンです。なぜいつも誰かに祈ってほしいのでしょうか。なぜ自分で祈らないのでしょうか。多くの場合、祈りを依頼するクリスチャンが自分の祈りに対して確信がないので、牧師や成熟したクリスチャンに依頼するのではないかと思います。また、ただ消極的で、自分で祈る慣習をもっていないためか、自分の祈りが聞かれないと勝手に思い、祈る役割を誰かに任せてしまいます。しかしながら、ここで最も明らかにしたいのは、全てのクリスチャンが祈る資格を持っていることです。牧師や、教師だけでなく、イエスキリストを受け入れた人たちは、みな同じ祈る力を持っています。 先ほど読んだように、義人の祈りが働くと、大きな力があります。では、ここでとても深い啓示を教えて差し上げましょう!イエスキリストを受け入れた人がみな信仰によって義人とされました。なので、あなた自身にもあなたが祈る度に、大きな力が働きます。 それから、祈りの依頼が来る時に、興味深いと思うのは、その人が苦しんでいるので依頼してくるでしょう。しかし、聖書箇所が一番最初に勧めるのは、その人自身が祈ることです。 ヤコ […]
信じる人の権威②
信者はイエスが買い戻した権威を理解する必要があります。権威を受け入れ、日常生活で使うべきです。イエスが行った事に焦点を向けましょう。イエスはこの地で神様の御心を行い、十字架で死なれました。 しかし、神様はイエスを死から復活されたのです。私達はイエスを受け入れる前は神様から離れてしまっている状態であったため、霊的に死んでいました。私達がイエスを信じて受け入れた後、私達の霊は新しくなりました。私達の地位はイエスによって遥かに良い場所になります。 聖書ではこのように書かれています。 エペソ人への手紙 2:4-6「しかし神は、なんとあわれみに満ちたお方でしょう。こんな私たちを深く愛してくださって、 罪のために霊的に死に果て、滅びる定めにあった私たちを、キリストの復活と共に生かしてくださいました。救われる価値などない私たちに、ただ一方的な恵みが注がれたのです。 そして、キリストと共に、私たちを墓の中から栄光へと引き上げ、キリストと共に席に着かせてくださいました。」 神様は私達をキリストと共に復活されました。私達は今、キリストと一緒に座っています。そこは私達に与えられた最高の場所です。十字架という言葉を聞くと、多くの信者はイエスが死なれた場所を想像します。十字架に焦点を置くことは大切なことですが、多くのクリスチャンは十字架に留まって、そこばかり見ています。 しかし、そこにずっと留まったままでいるべきではありません。何故なら、イエスはただ十字架で死んで終わりではなかったからです。彼は復活されました!今も生きておられます!彼は死に打ち勝ってよみがえられました! 私たちも霊的に死んでいましたが、キリストと一緒に復活しました。私たちは彼と一緒に座っています! 今この時、私たちはまさにそこにいるんです。聖書にもそのことが書れています。 エペソ人への手紙 2:6 「そして、キリストと共に、私たちを墓の中から栄光へと引き上げ、キリストと共に席に着かせてくださいました。」 エペソ人への手紙 1:20-23 「この同じ偉大な力が、キリストを死者の中から復活させ、ほかのどんな王、支配者、権力者、指導者よりもはるかに高い、天の神の右の座につかせたのです。このキリストの栄誉は、この世だけでなく、次に来る世でも、他のすべてにはるかにまさって輝かしいものです。そして神は、すべてをキリストの足の下に従わせ、キリストを教会の最高のかしらとされました。 ですから教会は、キリストの体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれるところです。」 私たちは栄光によって引き上げられました。私達は、神様から離れていて、暗闇の中でさまよっていた所から栄光に引き上げられ、どんなものよりも高い天の神の右の席にいます。私たちは天上の、権威の所にキリストと一緒に座っています。神様は私達にイエスを通して権威をお与えになりました。他に、聖書では、神様は私達を王と司祭にしたと書かれています。 ヨハネの黙示録 […]
信じる人の権威①
皆さんは「権威」と言う言葉を聞くとどんなイメージを持ちますか? 力を持っている人、権力がある人、上司、政治家など様々なことを想像すると思います。 聖書ではイエスは彼を信じて受け入れた、全ての人に権威を与えたと書かれています。 ルカ10:19「あなたがたには、敵のあらゆる力に打ち勝ち、蛇やさそりを踏みつぶす権威を与えてあります。だから、あなたがたに危害を加えるものなど、一つもないのです。」 権威とは何でしょうか? 権威の本来の意味は、許可、支配する力、意志と命令、他者に従わせる力を意味します。権威は与えられた力を意味します。この現実を表す例があります。あなたはこんな経験をしたことがありますか? 例えば、あなたは車を運転しています。走っていると前にパトカーが停まっています。交通警察官が誘導灯であなたに車を停めるように指示します。あなたは車を停めますか?おそらく、ほとんどの人が停めると思います。しかし、もしあなたが警察官に従わなくて、車を停めなくても、警察官は自身が持っている力だけで車を停めることはできません。それは、警察官が強力な力を持っているのではなく、警察官という役目、政府から与えられた役目に力があります。あなたはその権威を認識し、車を停めます。 イエスは私達に権威を与えました。 私達の権威の価値は、その権威の背後に存在するものの力にあります。 悪魔や悪霊は人を驚かすのが好きですが、私達を見るとき、神自身の力が、私達の背後にあるから手が出せないと認識します。その特権を理解しているクリスチャンは権威を使い、敵に対し、大胆に立ち向かうことができます! 多くの人はその真実を知らないまま苦しんで生きていたり、死んでしまうことがあります。私が好きな、ケネスヘーゲンさんはこのような例を言っています。 新聞を読んでいた時に、1人の男の記事を読みました。その男は家賃1500円の古く、ボロボロな部屋で遺体で発見されました。20年の間、シカゴでは有名でした。その近辺の住民はその男を知っていました。服装はもうボロボロで、髪もロン毛、ヒゲも剃らないし、体臭もひどく、歯も1本しかなかったと想像出来ます。いつもゴミ袋をあさり、食べていました。ある日、近所の人たちが彼を2日、3日見かけなくなりました。近所の人達は彼を心配し、探し始めました。彼の家に入ると、彼がベッドの上で死んでいました。医者が死亡原因は栄養不調によるものだと言いました。その後、彼のズボンにあったベルトを発見しました。何と!そのベルトの価格は2300万円でした!彼は貧困の人生を生きました。紙を収集して、その利益で生活していました。しかし、彼は大金がありました!彼はボロボロな部屋ではなく、シカゴの5つ星のホテル生活が出来ました!ゴミに入ってた残飯を食べるのではなく、3星レストランで最高な食事も出来ました。 この例のように、多くの人は私達が持っている本当の価値や力を知らずに苦しんでいます。神は私達が何も知らないで人生を送って欲しいとは願っていません。神様が与えてくれたプレゼントの中身を知る必要があります。価値があるプレゼントなのでそれを知らないのはもったいないことです! イエスとの人生はパワフルな人生です。私達に与えられたものを知らなければなりません。イエスは聖書でこのように言っています。 ヨハネの福音書 8:32「あなたがたは真理を知り、その真理があなたがたを自由にするのです」と言いました。」 私達人間は神様によって造られました。神様によって人に与えられた権威があります。 人は支配し、従うために造られましたました。聖書箇所を見てみましょう。 創世記1:26−28「神は言われた。 […]