誰にでも性格が苦手な人がいます。 恥ずかしいですが、私にもそういう人がいます。正直に言って、そのような人とはあまり関わりたくないし、できるだけ避けたいと思うことが多くあります。しかし、クリスチャンである私たちは、そのような思いを持っていても大丈夫なのでしょうか。もし大丈夫でないとしたら、そのような人とどう関わっていけば良いのでしょうか。一つの記事では語り尽くせないテーマですが、今回はいくつかのポイントを考えてみたいと思います。 ヘブル 12:15 「そのためには、あなたがたはよく監督して、だれも神の恵みから落ちる者がないように、また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように」 この聖書箇所で、まず「恵み」という言葉に注目していただきたいです。著者はクリスチャンに対して、恵みから落ちないように注意しなければならない点があると語っています。 第一に考えたいのは、すべてのクリスチャンは恵みによって救われているということです。救いに値する人は一人もいませんでした。誰もが過ちを犯し、良い行いを一つもしていなかったため、イエス・キリストを通して神様の恵みによる赦しが必要でした。また、私たちクリスチャンは皆、恵みによって神様との交わりを保っていることを知っていると思います。 では、「恵みから落ちる」とは何でしょうか。それは、神様とのつながりが断たれ、主からのいのちの流れを失うことです。なんと恐ろしいことでしょう。だからこそ、著者は「苦い根」が芽を出さないように気をつけなさいと警告しているのです。 「苦い根」はどこから? 「苦い根」が芽を出し始めるのは、誰かに対して不満を抱き、その人のことを悪く思うようになったときです。多くのクリスチャンは表面的には兄弟姉妹を我慢しようとしますが、聖書はそれよりも深いところを懸念しています。神様は、他の誰にも見えない心の奥底、「苦い根」をご覧になっておられます。そして、あなたがそのような苦い思いから解放されることを望んでおられるのです。 なぜなら、「苦い根」が育ってしまうと、最終的には恵みから落ちてしまい、神様との交わりが失われてしまうからです。 私が見てきた「苦い根」 これまでに私が見てきた中で、「苦い根」が芽を出した人たちは、最初は神様からの祝福をたくさん受け取り、いつも喜んでいる様子を見せていました。しかし、性格が合わない人と出会うと、その人との関わりを避けることを決めてしまいます。すると、その人に対する思いが次第に悪化し、同じ空間にいるだけで不快になるほどになります。 最初は笑顔だったその人の顔も次第に変わり、かつて輝いていた目は、今では硬い表情に変わってしまいました。カインも弟アベルを殺す前に同じような様子でした(参考:創世記 4:6)。 1ヨハネ 3:15 「兄弟を憎む者はみな、人殺しです。言うまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。」 神様は表面だけでなく、誰にも見えない心の動機を見ておられます。たとえ実際に手を下していなくても、心の中で「この人とはもう関わらない」と思い、その人に関心を持たなくなるなら、それは心の中でその人を“殺した”ような状態です。 1サムエル […]
Tag: 恵み
神様の恵み
あなたは、普段「恵み」という言葉を耳にしますか。 大地の恵み、自然の恵みという形で使うと思います。 あなたにとって「恵み」とは何でしょうか。 お金や物ががあることですか? そもそも「恵み」が何か考えたことがない人もいるかもしれません。今日は聖書で「恵み」とは何かを見て行きたいと思います。 聖書に出てくる人でパウロという人がいます。彼はエペソの手紙で「恵み」という言葉を使って福音とは何かを説明している人です。エペソでは合計13回も「恵み」という言葉を使っています。ここで、全ての聖書箇所は載せませんが、このブログを読んだ後に、エペソの手紙を読むことをおすすめしたいです。 エペソ人への手紙1:5‐8 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 6それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。7私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。 8神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって… この聖書箇所で見ることができるのは、まず「神様が私たちに恵みを与えてくれた」ことです。これは、私たちが何かをしたからではなく、私たちは神様の子どもだからです。 また、「恵みによって罪の赦しを受けた」ことも7節で見ることができます。罪とは、神に背を向けることです。その状態にいた私たちでも、神様はイエスキリストが十字架で流した血により、和解することができ、赦されたという意味です。 そして、8節「この恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもっている」と書かれていますが、私たちは神様と和解したことにより、「知恵と思慮」を与えてくれたということが解ります。 1章を見ただけでも、素晴らしいことを神様がイエスキリストを通して行ってくれたことが解ります。 エペソ人への手紙2:5,7-8 罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― 7それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。 8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 2章の最初で、私たちは罪深い人であったことが記されています。しかし、続けて読むと、イエスキリストによって(彼を信じることによって)私たちは救われ、生きることができることが理解できます。「恵み」によって私たちは神様とともにいることができます。それだけ私たちは愛されています。 エペソ人への手紙3:7‐9 私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。8すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝え、9また、万物を創造された神の中に世々隠されていた奥義を実行に移す務めが何であるかを明らかにするためにほかなりません。 […]