最近、旧約聖書の「創世記」を最初から読んでいました。何度も読んだことがあったのですが、深く読めば読むほど新しいことを学ぶことができます。 創世記2:1~3 1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。 2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 神様は6日で天地の創造を終わり、7日目は「休まれた」とあります。 どうして休まれたのでしょうか? もちろん、神様は全能の神様なので、本当に疲れた訳ではありませんでした。 モーセの十戒でも「主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。」(出エジプト記20:8)と書かれています。 これは神様との深い関係をもつためにその日を空けておくという意味があります。 人間関係でも、誰かと関係を持つためには時間を要します。すぐに仲良くなれたとしても、時間を使ってその人の考えや性格を知ることができます。 恋人もデートを重ねて、何度も会って、相手のことをよく知れます。 私たちのお父さんである神様も私たちと関係を持ちたいと願っています。 神様はあなたのことをよーく知っておられます。(髪の毛が何本あるかまで知っておられます)では、あなたはどうでしょうか? 神様のことどれだけ関係を持って、知ることができているでしょうか。 なので、神様は7日目を「神様とのデートの日」「神様のことを知る日」にされました。 それを特別に「聖」としました。(その日を特別に分けました) […]
聖書は私達の人生の取扱説明書です。
私は何回か取扱説明書を読まないで家具を組み立てようとしたことがあります。しかし思うようにうまくいきませんでした。 取扱説明書にはその家具がどのように設計されていて、組み立てるかが書かれています。もし取扱説明書がなければどうだったでしょうか?取扱説明書にはその商品の良さ、必要性、様々トラブルについても書かれてます。 聖書は私たちの人生の取扱説明書です。新しく生まれ変わったクリスチャンは全てを理解しているわけではありません。そのために神様は聖書を私たちに与えてくださいました。私たちが日常生活の中で大きな決断やほんの小さな決断でさえも御言葉を通して私たちを導きます。 詩篇 119:105 あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。 多くの人は聖書は神様が人にこれをしてはいけない法律が山程あるといいますがそれは違います。 聖書は私達の性質、ポテンシャルを知ることができ、私達を創造した人が与えてくれたマニュアルです。創造主である神様は私たちにとって何が良くて何が悪いかを知っています。 そして、私たちが知らず知らずのうちに惑わされて生きてしまわないように、彼は私たちに御言葉を残してくれました。聖書が私たちに提案していることとは違う生き方をするのは愚かなことです。 ヨシュア記1;8にはこのように書かれています。 ヨシュア記 1:8 人々に、律法をいつも思い出させなさい。まずあなたが、昼も夜も律法を忘れず、それを完全に守るよう心がけなさい。模範を示し、どんなことも律法どおりきちんと行わなければならない。成功するもしないも、すべてその一点にかかっている。 私達がこの世で成功する方法は神様の言葉を受け入れそれを実行することです。 私達は神様によって造られました。 神様が与えてくださったマニュアルを読んで、行うことによって私達は正しいことを行い、人生も楽しくなり、この人生で成功することができます。
口を守れ
東京いのちの言葉教会では、先日「山を動かす信仰」というシリーズを終了しました。 私は、信仰について勉強し、理解するのは、クリスチャンにとって欠かせないものだと思います。残念ながら、多くの教会であまり信仰について教えられていないか、もしくは、定義のみが教えられていると感じます。しかし、聖書が教える信仰はクリスチャンのライフスタイルであり、信仰がなくては神様に喜ばれないと書いてあります。(へブル11:6) ローマ 1:17 「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 へブル10:38 わたしの義人は信仰によって生きる。 ガラテヤ 3:11 「義人は信仰によって生きる」のだからです。 信仰はクリスチャンのライフスタイルであるなら、私達は信仰の土台を正しく知る必要がある上に、信仰を実践する必要があります。なぜなら、ただ自分が信仰を持っていると主張するだけで、行動が伴わないなら、あなたの信仰が無駄になるからです。 ヤコブ 2:17 このように、信仰に行いが伴わなければ、その信仰は死んだも同然です。 なので、まず私達の教会のYouTubeチャンネルにアクセスし、「山を動かす信仰」のシリーズのメッセージを確認することを深くおすすめします。 今回、あなたに注目してほしい点は、信仰が私達の口にする言葉と直接関連していることです。私達が言うことは、全て信仰か不信仰かに関わっています。それを理解するためにこちらの聖書箇所をご確認ください。 マルコ 11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。 ローマ […]
Where is your identity?
We can say that identity is what define us. Identity can include many aspects, such as nationality, gender, culture; overall, […]
最高のプレゼント
ヨハネの福音書 14:15-26 ネタバレをするとその最高のプレゼントは聖霊様です。 聖霊様はただの感情や想いではありません。 意思があって、感情もあって、知恵もあります。 人であって、神様です。 神様なので、聖霊様はどこにでもいます。 そして、僕たちを絶対に置き去りにしません、ずっとそばにいてくださいます。 イエスさまがそう言ったので、それは絶対です。 ヨハネ14章で、聖霊様はまだ来ていませんでした。 約束でしたが、2000年後の今は、もう現実です。 昔、旧約の時、そうではなかったが、新約では僕たちのうちにいます! 僕たちが生きていく上で大変な時がたくさんあると思いますが、誰にも相談出来ない時があるかもしれません。 家族でも、友達に助けてを求めてもどうにも出来ない時があるかもしれません。 彼らは手伝う気持ちはあっても、もう人間の力では不可能な時があるかも知れません。 そこで、唯一、信用が出来、裏切らない人がいます、それが聖霊様です。 頼りに出来る親友です。 だから、そういう時に直面したら、彼のことを思い出して欲しいです。 彼に助けを求めて欲しいです。 彼は全ての答えを持っているからです。 […]
信仰と医療
質問:ある病気と診断され、その治療薬を服用していました。最近、神の癒しを学んでいました。私はこの話を聞いてとても勇気づけられ、私の癒しを神に信頼しています。私が持っている疑問は飲んでいる薬に関係があります。信仰の行動として薬を中止したほうがいいのでしょうか?薬を飲むことは、私の信仰と矛盾しているのでしょうか?この点についてどうしたらいいのか、少し迷っています。 回答:とてもいい内容の質問ですね。このような問題に対して、多くの人が疑問を持ち、迷っています。どんな問題でも、人はどちらかに極端に傾く傾向があるようです。それは、道路の両側にある溝に車を入れないようにするのが難しいドライバーのようなものです。 信仰と医療について、ある人達は「神はもはや癒してくれない」「癒してくれるとしてもごくまれだ」と教えます。彼らは、奇跡の時代は終わったと言います。また、他の人はその逆で、神は今も癒してくれるだけでなく、クリスチャンが癒しを求めて医者に相談したり、薬を飲んだりすることは罪であると主張する人もいます。 最初の教えの問題点は明白です。それは、イエスキリストが昨日も今日も永遠に同じであるという聖書の真理を無視しています(ヘブル13:8)聖書は、神の力が歴史の中のある時に追いやられたとは教えていません。私たちは、約2000年前に生き、癒したイエスに仕えています。イエスがすばらしい業を行うために油を注がれた聖霊を私たちも持っています。主の慈しみと憐れみは変わらず、御言葉も変わりません。 2つ目の極面の危険性も明らかです。クリスチャンが病院や医療を利用することに反対の説教をする人々によって、人々に多くの害がもたらされ、キリストの体に多くの批難がもたらされたのです。このようなやり方によって、無駄に苦しんだり、死んだりした人たちの記事が、この数年、マスコミに溢れかえっています。 宗教上の理由で親が子供の医療を拒否するという痛ましいケースもあります。公の場を超えて、不必要な苦痛や死が発生しています。また、この誤ったイデオロギーを広める人々によって、罪悪感や恥ずかしさ、非難を浴びせられ、精神的にも苦しんでいる人が大勢います。 残念なことに、医学と信仰を敵対視するような言い方をする人がいます。この2つの力は、矛盾するものではなく、補い合うものであると考えるべきです。結局のところ、あなたの信仰も医療も、あなたの癒しと健康で完全であることという同じゴールを目指しているのです。私の考えは、医療と信仰は統合され、補い合うことができるということです。それらは敵対するものである必要はなく、また互いに孤立する必要もありません。 この問題をご自身の考えで解決するために、次のことを検討してみてください。 1. ルカによる福音書10章30-37節で、イエス様は、私たちが “良きサマリア人 “と呼ぶ人物の話をされました。この物語でサマリア人は、殴られ、大怪我をしている人に出会いました。彼は、その当時、最高の薬であった油とぶどう酒でその人の傷を治療し、包帯を巻きました。さらに、男性が怪我から回復するまでの時間を確保するようにしました。イエスはこの男の慈悲深い態度を褒め称え、それは真似するに値すると言われました。ここでわかるのは、イエスは必要な時に薬を使うことに反対はしていなかったということです。 2. ルカは医者で、パウロとともに旅をし、自分の名がついている福音書や使徒言行録を書きました。実際、パウロはルカを「愛する医者」(コロサイ4:14)と呼んでいる。パウロが鞭打ち、殴打、投獄などの虐待を受けたとき、ルカはパウロに軟膏をぬり、包帯を巻くなど傷の手当てをしていたと考えるのが妥当でしょう。パウロが彼を「愛すべき」医師と呼んだのは、このためだったかもしれません。 3. […]
Faith and Medicine
Question: I was diagnosed with a certain disease and have been taking medicine for that condition. I have recently been learning […]
Good servant
We are used to see people working hard in their lives, so they can stop working and delight in the […]
イエス様からあなたへのメッセージ
マタイの福音書16:7 今から弟子たちとペトロのところへ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう!と。 キリストがよみがえられた日、3人の女性がキリストが埋葬された場所へ、遺体に香水をつけに行きました。 しかし、墓を埋めていた巨大な石が、同じ場所にはなく、すでに持ち去られていることに気がつきました。墓の中に入って、彼女たちはびっくりした。 なぜなら、イエス様はもうそこにはいなかったからです。その場所には白い服を着た天使がいて、彼女たちにこう言いました。 マルコによる福音書16章6節 するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ女イエスを探しているのであろうが、イエスはよみがえってここにはおられない。ごらんなさい、ここが納めした場所である。 そして、天使は彼女たちに、ペテロと他の弟子たちに伝えるようにと言いました。なぜ、ペテロが特に言及されたのでしょうか? それは、彼はイエス様を否定した人だからです。イエスはペテロに自分が赦されたことを知らせたかったのです。天使が「…このメッセージをペテロに伝えよ」と言ったのは、おそらく弱くて臆病だった自分を責めていたあの弟子に、主イエスの回復の恵みを伝えるためだったのです。 ペテロは、受難の夜に主イエスを冒涜し、知ることを否定して以来、その人生は暗雲に包まれていたのでした。ペテロは、イエス様がよみがえった日曜日に昇った太陽が、恥、失敗、自責の念の雲を払拭してくれることを知る必要がありました。 イエス様がよみがえられたので、お会いしたいというメッセージを受け取ったペテロは、どんな気持ちだったでしょうか。 私たちは皆、イエス様を裏切ったことがあると思います。 私は、彼を裏切ったことは分かっています。あなたも裏切りました。 あなたは落胆し、失敗や恥、失望によって打ちのめされ、自分を責め、こう尋ねるかもしれません。「私にまだ許しがあるのだろうか?」 今、この瞬間、イエス様は聖霊様を通して、「このメッセージはあなたのためです!」と言っているのです。 神様があなたの名前を呼ぶのが聞こえますか? マルコの福音書16章7節 今から弟子たちとペトロのところへ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう!と。
誰をフォローし、どんなフォロワーがいますか?
私は最近、インスタで1千人以上の人やページ等を含めてフォローしていたことが発覚しました!! 細かく見ると、なんで・いつフォローしていたのか覚えていない自分がいました!! こんな経験したことありますか?? 私はパソコンやSNS等の物に対して少し疎く、流されやすいところがあります!! 内容を見ずに何か一つでも気に入ることがあれば、「これが好き」となっていました!! たまに、ただ単に「いいね」を押していた自分がいました! それについて考えていくとこの聖書個所が目に留まりました! テモテの手紙第二 3章10節(ALIVEバイブル) おまえは私についてすべて知っている。私の教え、生き方、人生の目標、信仰、根性、愛を。私が決してあきらめないことも。 ほかのバージョンの聖書では「すべてを知っている」が「倣い(ならい)」と記載されています。 国語辞典では、「倣い」の意味は、既にあるやり方、例を真似て、その通りにする。手本として真似をする。と書いてあります。 英語のバージョンでは「FOLLOW(フォロー)」と記載されています。 原文のギリシャ語では「Parakoloutheo(パラコルーテオ)」とあります。意味は、いつもそばにいるように、すぐ近くでその人についていくと書いてあります!! 何が言いたいかというと、インスタとかでのフォローはほとんど遠くから見ていたり、その人の生き方を想像しながら、その人が教えることや、伝える事を真似しようとします。 しかし、パウロが言いたいのは、弟子のテモテがいつもそばにいて、いつもパウロの生き様を見ていたことです。 パウロの教えていること、誰も見ていない時でもキリストの生き方、キリストと生きるという人生の目標、どんな信仰を持っていたのか、どんな人に対してでも神の愛を表し、そしてあきらめないド根性も全て受け継いでいきました!! SNSで誰をフォローしたらよいのか、限度などを言いたいわけではありません!! それはあなたの自由です! ただし、理解していただきたいのは、誰と付き合っているのか、どんな人の傍にいるのか、考えてほしいということです。 私達の近くにいる人たちは、どんな信仰を持っていますか? […]