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Category: トニー・クック(日本語版)

彼が死んだとき、悲しんだ者は誰もいなかった
February 28, 2024April 8, 2024

彼が死んだとき、悲しんだ者は誰もいなかった

トニー・クック(日本語版)

「彼が死んだとき、悲しんだ者は誰もいなかった。」ユダの第5代王であるエホラムの言葉です。 第2歴代誌21:20 彼は三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王であった。彼は人々に愛されることなく世を去った。人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には納めなかった。 これほどの悪名を得るには何が必要でしょうか?はじめに、彼は自分の地位を確立するとすぐ、兄弟たちや他の認められた指導者たちを皆殺してしまいました。彼の妻はアハブとイゼベルの娘の1人であり、彼は偶像崇拝と異教の聖堂を推し進めていました。彼の死後、王家の墓地に埋葬される栄誉は与えられませんでした。メッセージ訳では、上の聖句の一部をこのように訳しています 彼が死んだとき、涙は流されなかった。 30年ほど前、ある葬儀社に面会に行ったことがあります。教会にいた少し年配の男性が亡くなり、その未亡人が私にこのように言いました。「私が感情を表に出したり、涙を流したりしなくても、驚かないでください。夫は教会ではとても友好的でしたが、家ではとても気難しく、一緒に暮らすには不愉快な人でした。今、私が感じているのは、彼がいなくなって、もう我慢しなくていいんだという安堵感だけです」 その言葉を聞いたとき、私はとても胸が締め付けられる思いがしました。その人は生涯を全うしたのに、亡くなったときにそのような感想を述べられるのは、どんなに悲しいことかと思いました。 他者に祝福を与えるような人生を送っている人は、そうはなりません。箴言10:7正しい者の呼び名はほめたたえられ、悪者の名は朽ち果てる。 良い人生とはどのようなものでしょうか これとは対照的に、使徒に記されている神々しい女性がいました。彼女は王族でも、社会的な基準で高貴な地位にあった形跡もありませんでした。しかし、彼女が亡くなったとき、人々は彼女を愛し、深く悼みました。人々は、善良で親切な女性の喪失を感じていました。 ルカは、「この女は、多くの良いわざと施しをしていた。」(使徒9:36)とドルカスのことを語っています。彼女が死んで、神がペテロを使って死からよみがえらせた話は覚えていると思いますが、彼女の人生に影響を受けた人々が彼女をどのように思っていたかを忘れてはなりません。 使徒9:39 やもめたちはみな泣きながら、彼のそばに来て、ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。” ここで注目すべき重要なことは、 私たちの影響力は、最終的には地位や肩書きによって決まるのではなく、私たちの人格と行動によって決まることです。エホラム王は、より大きな地位と潜在的な影響力を持っていたかもしれませんが、それをうまく使うことができませんでした。彼はその地位を公のため、他の人々のために使うことができたはずであったのに、そうはしませんでした。おそらく周りの注目を引きたいという自己顕示欲と自己利益のために、持っていた可能性を浪費し、無駄にしてしまっていました。 一方、ドルカは、何のポテンシャルもなかったように見えますが、彼女のシンプルで寛大な行為によって、もっともっと増やしていきました。 彼女の内面には大きな愛があり、それを表現する方法をいつも見つけていました。エホラムは全財産を持っているように見えましたが、亡くなった時には軽蔑されました。ドルカスはほとんど何も持っていないように見えましたが、祝福され、名誉を受け、尊敬されました。エホラムは(地上の基準では)多くを持っていましたが、ドルカスはもっと与えました。つまり、神の恵みにより、ドルカスは偉大な影響力を持つことができました。 影響する者になるには、まず影響されなければなりません。 神の方程式を持って、パウロは聞きました。 第1コリント […]

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No One Was Sorry When He Died
February 28, 2024April 8, 2024

No One Was Sorry When He Died

Tony Cooke (英語版/English Version)

“No one was sorry when he died.” That is a tough statement to hear, but it was made of Judah’s […]

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Have We Forgotten Hell?
December 6, 2023January 18, 2024

Have We Forgotten Hell?

Tony Cooke (英語版/English Version)

I’m all for “positive preaching.” I believe people need to be lifted up and encouraged as they walk through a […]

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私たちは地獄を忘れたのか?
December 6, 2023January 18, 2024

私たちは地獄を忘れたのか?

トニー・クック(日本語版)

私は 「前向きな説教」に大賛成です。人々は常に打ちのめされ、引きずり降ろされる世界を歩んでいるので、元気づけられて励まされる必要があると信じています。しかし、肯定的で励ましのメッセージを伝えるということは、「否定的」と見なされるようなことに決して触れてはいけないということなのでしょうか?私たちは、人々を愛している神を指し示し、親切に励ますべきですが、もし、私たちが説教する内容全体の一部として、裁きと地獄の現実に関する聖書の真理を取り上げないのであれば、私たちは大きな過ちを犯していると思います。 イエスのように宣教したいですか? チャールズ・スポルジョン(1834-1892)は、「私たちの主イエスキリストほど、失われた者の運命についてこれほど恐ろしい言葉を語った霊感を受けた説教者がいないということは、非常に驚くべき事実である 」と述べています。  尊敬すべき福音派の神学者であるJ.I.パッカー(1926-2020)は、聖書が神の怒りについて述べていることに現代教会が消極的であることを指摘しています。  キリスト教会の現代の習慣は、このテーマの重要性を最小限に抑えることです。今でも神の怒りを信じている人たちは(すべての人がそうではないが)、それについてほとんど語りません。貪欲、プライド、セックス、そして自己の意志という神に恥ずかしげもなく媚を売る時代に対して、教会は神の優しさについては話しますが、神の裁きについては事実上何も語りません……事実、神の怒りというタイトルは現代社会ではタブーとなっており、クリスチャンは、たいていそのタブーを受け入れ、それを決して口にしないように自らを律しています。 パッカーよりも前に、リチャード・ニーバー(1894-1962)は、リベラルな神学によってキリスト教信仰の本質的なテーマがキリスト教から取り除かれつつあることを指摘しました。彼は(1937年)貧弱で中和された「福音」を次の言葉で要約しています  「怒りのない神は、十字架のないキリストの働きによって、罪のない人々を裁きのない王国へと導きました」 万人受けを狙うなら、省略すべき4つの領域がニーバーの言葉に要約されていると思います。つまり、怒り、罪です、裁き、十字架について言及しないことです。 世間は、説教者が「神は愛である」と言っても何の問題も抱かないでしょう(それは真実です。第1ヨハネ4:8、16は、神は愛であると喜びをもって宣言しています) 実のところ、彼らはこの素晴らしい事実に拍手さえ送るかもしれません。神の愛が基礎であり、命令であり、不可欠であるように、新約聖書が教えていることはそれだけではありません。次のことを考えてみましょう: ・ヨハネ3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。 ・ローマ2:5は「神の怒りと正しい裁きの現れる日」について書かれています。 ・コロサイ3:6このようなことのために、神の怒りが下るのです。 パウロは、イエスが再臨されるとき、「燃え盛る炎の中に」来られると書いている。「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とそのとき御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」(2テサロニケ1:8-9) 上記の聖句を読んでも神の怒りの現実が確信できないのであれば、黙示録の「怒り」について学ぶことをお勧めします。 福音のメッセージは、神が怒りを持てない、あるいは持たないということではなく、「あわれみは裁きに向かって勝ち誇る」(ヤコブ2:13)ということです。 イエスのおかげで私たちが得た福音は、以下の聖句で表現されています: […]

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Instrument or Expression?
August 9, 2023August 22, 2023

Instrument or Expression?

Tony Cooke (英語版/English Version)

Many years ago, a minister received an impacting note following a service. The person wrote: “For me ’twas not the […]

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道具か表現か?
August 9, 2023October 4, 2023

道具か表現か?

トニー・クック(日本語版)

何年も前、ある聖職者が礼拝後に衝撃的なメモを受け取りました。そこには、こう書かれていました。 「あなたが教えてくださった真理は、あなたにとってはとても明確なものでしたが、私にとってはとてもおぼろげなものでした。しかし、あなたが、今来られたとき、あなたは主の感覚をもたらしました。」 なんと力強い洞察でしょうか!私たちが説教するとき、また、人々と接するとき、情報をもたらす以上のことをしなければなりません。私たちは “主の感覚 “をもたらさなければなりません。情報を提供するミニストリーは、インスピレーションを与えるミニストリーとは別です。しかし、神は私たちを受肉させるミニストリー、すなわち神のご性質そのものを現すミニストリーにも召しておられています。 春の陽気になり、私は最近、庭仕事をすることができるようになりました。熊手、シャベル、はさみなど、これまで使ってきた道具があります。どれも機能的な道具として役に立っていますが、決して私の人格を反映しているわけではありません。何度クリスチャンは、「主よ、私を用いてください。私をあなたの道具としてください。」と祈ることでしょうか。 心の叫びは称賛に値しますが、神は私たちが神の手に握られた単なる道具以上の存在になることを望んでおられます。神は私たちが神を反映する存在であることを望んでおられます!神は私たちが機能的であることを望んでおられます。主は、私たちが実際に主を反映し、主を代表するような、変えられた人になることを望んでおられます!イエスは言われた、「しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」(ルカ6:40) ペテロの最初の手紙にある以下の記述はすべて、キリスト教の信仰が受動的な観衆ではなく、私たちの存在の核心から深く関わるものであるという考えを強調しています。神のいのちは、私たちの人格、行動、人間関係の変容において表現されるべきです。 クリスチャンは以下の物をもつように召されました。 楽しむ人生: ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(第1ペテロ1:8) 警戒した人生: ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み(第1ペテロ 1:13) 神聖なる人生: あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。(第1ペテロ 1:15) 信頼した人生: 神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。(第1ペテロ 1:21) […]

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決して簡単ではない
February 15, 2023February 14, 2023

決して簡単ではない

トニー・クック(日本語版)

というのは、働きのための広い門が私のために開かれており、反対者も大勢いるからです。第1コリント16:9 最近、ムーディーの後を読んでいたら、このような名文に出会いました。 「ドイツでマルティン・ルターを取り囲んだ濃い闇を見よ、スコットランドでジョン・ノックスが直面した困難を見よ。しかし、彼らは、その時代、その世代において、神のために力強く、永続的な仕事をしたのである。ウェスレーとホワイトフィールドの時代、イギリスを覆っていた暗黒を見よ。彼らには、今の時代にはない多くの障害があった。しかし、彼らは強く勇敢な心で前進し、主は彼らに成功を与えたのである」 ムーディは自分が何を言っているのか分かっていました。1871年10月8日の日曜日の夜、ムーディが説教をしている間に、シカゴで大火災が発生しました。ムーディーの教会と自宅が焼失したほか、10万人が家を失い、約17,000の建造物が破壊されました。死者は300人と推定されていました。 ムーディは、その夜のメッセージ(タイトルは「キリストと共に何をするか」)を終えたとき、会衆にその質問を考えさせ、次の週にまた来るようにと言ったことが心に残っているでしょう。なぜなら、次の日曜日の礼拝は行われることはなかったからです。それから20年以上経ってから、彼はこう言いました。 「なんという間違いだろう。それ以来、私はあえて一週間も聴衆に救いを考える時間を与えたことはありませんでした。もし、彼らが迷子になっていたら、私に対して裁きに立ち上がるかもしれません。それ以来、私はその会衆とは二度と会うことはありませんでした。今日も涙をこらえるのに必死です。その夜、私が学んだ一つの教訓で、決して忘れることができないのは、私が人々にキリストについて説教するとき、その瞬間に決断させるようにすることです。私は、今、聴衆にイエスをどうするかという決断を一週間もさせるくらいなら、自分の右手を切り落とす方がましだ」と。 1871年にそのような壊滅的な損失にもかかわらず、ムーディーのミニストリーの最盛期はこれからでした。 ムーディーは、大きな暗闇と困難の中で神に仕えた他の人々についても言及しています。 マルティン・ルターは、数え切れないほどの苦難に加え、自分を異端者とみなして殺そうとする者たちから身を守るために、10ヶ月間ヴァルトブルク城に閉じこもって隠れて過ごしていました。ルターは、自分が天から与えられた使命によって、あらゆる闇の力から狙われる存在であることを知っていました。サタンはできることなら、喜んで私を殺すだろうといいました。彼が私に圧力をかける時、彼は私の踵を踏んでいるのです。しかし、彼が望むことは行われず、神が望まれることが行われます。 スコットランドのジョン・ノックスは、フランス船で奴隷として19ヶ月間オールに鎖でつながれて過ごしました。その後、長い亡命生活を経て、スコットランドに戻り、プロテスタントの改革を主導した。 ジョン・ウェスレーとジョージ・ホワイトフィールドは、野外での伝道活動において、怒りや敵意を持った群衆を相手にすることが多くありました。時には石や土、果物、動物の死骸まで投げつけられることもありました。それでも、彼らは忠実に福音を宣べ伝え、イギリスやアメリカの植民地に与えた影響は計り知れません。 特に使徒パウロは苦難を理解し、厳しい環境の中で伝道しました。  いま私は、心を縛られて、エルサレムに上る途中です。そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、なわめと苦しみが私を待っていると言われることです。けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。 – 使徒20章22-24節(NKJV) 教会は、安易で快適な時代に生まれたわけではありません。対照的で人を寄せ付けない文化の中で生まれ、成長したのです。福音を広め、拡大させることができたのは、神の指導者と信者たちの恵みによる決意だったのです。この物語は今も続いており、私たちは先人たちの変わらぬ勇気を決して忘れることはないでしょう。

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It Was Never Easy
February 15, 2023February 13, 2023

It Was Never Easy

Tony Cooke (英語版/English Version)

For a great and effective door has opened to me, and there are many adversaries. – 1 Corinthians 16:9 (NKJV) I was […]

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信仰と医療
September 28, 2022September 27, 2022

信仰と医療

トニー・クック(日本語版)

質問:ある病気と診断され、その治療薬を服用していました。最近、神の癒しを学んでいました。私はこの話を聞いてとても勇気づけられ、私の癒しを神に信頼しています。私が持っている疑問は飲んでいる薬に関係があります。信仰の行動として薬を中止したほうがいいのでしょうか?薬を飲むことは、私の信仰と矛盾しているのでしょうか?この点についてどうしたらいいのか、少し迷っています。  回答:とてもいい内容の質問ですね。このような問題に対して、多くの人が疑問を持ち、迷っています。どんな問題でも、人はどちらかに極端に傾く傾向があるようです。それは、道路の両側にある溝に車を入れないようにするのが難しいドライバーのようなものです。 信仰と医療について、ある人達は「神はもはや癒してくれない」「癒してくれるとしてもごくまれだ」と教えます。彼らは、奇跡の時代は終わったと言います。また、他の人はその逆で、神は今も癒してくれるだけでなく、クリスチャンが癒しを求めて医者に相談したり、薬を飲んだりすることは罪であると主張する人もいます。 最初の教えの問題点は明白です。それは、イエスキリストが昨日も今日も永遠に同じであるという聖書の真理を無視しています(ヘブル13:8)聖書は、神の力が歴史の中のある時に追いやられたとは教えていません。私たちは、約2000年前に生き、癒したイエスに仕えています。イエスがすばらしい業を行うために油を注がれた聖霊を私たちも持っています。主の慈しみと憐れみは変わらず、御言葉も変わりません。 2つ目の極面の危険性も明らかです。クリスチャンが病院や医療を利用することに反対の説教をする人々によって、人々に多くの害がもたらされ、キリストの体に多くの批難がもたらされたのです。このようなやり方によって、無駄に苦しんだり、死んだりした人たちの記事が、この数年、マスコミに溢れかえっています。 宗教上の理由で親が子供の医療を拒否するという痛ましいケースもあります。公の場を超えて、不必要な苦痛や死が発生しています。また、この誤ったイデオロギーを広める人々によって、罪悪感や恥ずかしさ、非難を浴びせられ、精神的にも苦しんでいる人が大勢います。 残念なことに、医学と信仰を敵対視するような言い方をする人がいます。この2つの力は、矛盾するものではなく、補い合うものであると考えるべきです。結局のところ、あなたの信仰も医療も、あなたの癒しと健康で完全であることという同じゴールを目指しているのです。私の考えは、医療と信仰は統合され、補い合うことができるということです。それらは敵対するものである必要はなく、また互いに孤立する必要もありません。 この問題をご自身の考えで解決するために、次のことを検討してみてください。 1.  ルカによる福音書10章30-37節で、イエス様は、私たちが “良きサマリア人 “と呼ぶ人物の話をされました。この物語でサマリア人は、殴られ、大怪我をしている人に出会いました。彼は、その当時、最高の薬であった油とぶどう酒でその人の傷を治療し、包帯を巻きました。さらに、男性が怪我から回復するまでの時間を確保するようにしました。イエスはこの男の慈悲深い態度を褒め称え、それは真似するに値すると言われました。ここでわかるのは、イエスは必要な時に薬を使うことに反対はしていなかったということです。 2.    ルカは医者で、パウロとともに旅をし、自分の名がついている福音書や使徒言行録を書きました。実際、パウロはルカを「愛する医者」(コロサイ4:14)と呼んでいる。パウロが鞭打ち、殴打、投獄などの虐待を受けたとき、ルカはパウロに軟膏をぬり、包帯を巻くなど傷の手当てをしていたと考えるのが妥当でしょう。パウロが彼を「愛すべき」医師と呼んだのは、このためだったかもしれません。 3.         […]

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Faith and Medicine
September 28, 2022September 27, 2022

Faith and Medicine

Tony Cooke (英語版/English Version)

Question: I was diagnosed with a certain disease and have been taking medicine for that condition. I have recently been learning […]

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