1ペテロ 4:10-11 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。 神様はクリスチャンそれぞれに賜物をを託しました。何のために賜物が私たちに託されたかというと、もちろん神様があがめられるためです。つまり、私たちは自分の属している教会で奉仕することによって神様を礼拝することができます。なので、「礼拝」の概念を考えてみると、それはただ教会に行って、みなで賛美を歌って牧師からメッセージを聞くのではなく、神様があなたに与えた賜物を用い、その賜物をもって兄弟姉妹を祝福することによって、それも神様を礼拝する方法の一つです。 あいにく多くのクリスチャンは教会の奉仕に関わっていません。理由はたくさんありますが、その中でいくつか挙げるとすると、例えば、時間がないとか、私には賜物なんてないとか、面倒くさいとか、兄弟姉妹と関わりたくないとか、返しに時給をもらわないとか思う人がいます。昔、ある調査でそれぞれの地域教会のわずか20%の会員が本当に奉仕に献身していると分かりました。それを聞いた瞬間に私は悲しく思いました。なぜただ20%だけしか教会の奉仕に関わりたくないのかと自分を伺いました。私はクリスチャンになってから、教会で奉仕している人たちのように私も何かしたいと思い、最初教会のコーラスに入りました。そのおかげで、歌に関することをたくさん学べましたし、友達もでき、その奉仕することによって霊的に成長することもできました。あの時、小さな奉仕でしたが、「主は私をこの務めにつかせ、忠実に奉仕する者と認めてくださいました」(第1テモテ1:12リビングバイブル)そして、奉仕ながら主に日本への宣教師として招かれたことが分かりました。 クリスチャンは誰でも教会の奉仕のために何か貢献することができます。ある裕福な男性はクリスチャンになって家族とある教会に通うことになりました。数か月わたって彼はいつも教会でメッセージを聞いていましたが、ビジネスマンだったので、別に教会のために才能がないと思ってしまい、教会を通っていただけです。しかしながら、通うだけで、少しずつ教会に、また、みことばに前あった熱意は冷えてきました。何かが足りないと思って、クリスチャン生活が退屈になってきました。しかし、ある日、そのビジネスマンは教会の庭を世話することになり、牧師先生と相談したら、毎週土曜日に教会の花の世話が彼に任せられました。失いかけた教会への情熱が一気に燃え立たせられました。結局、あの裕福な男性は教会の奉仕に惚れて、自分の仕事より、奉仕のことに情熱をもって毎日土曜日が早くくることを願うようになりました。それから日曜日に礼拝に出る時に、いつも家族と自分が世話していた花を確認し、教会がさらに美しくなったことを見て喜んでいました。 神様が喜ぶのは私たちが喜んで奉仕することです。ある人は、教会の奉仕はしていますが、いつもつぶやいて、喜びなしで、強制的に奉仕してしまいます。正直にいうと、その人は奉仕のことを辞めた方が良いかもしれないと言いたい程です。なぜなら、その悪い機嫌とつぶやきのせいで、他の兄弟姉妹も悪影響されるかもしれないからです。しかし、辞めるよりもその人が態度を変えるのは、神様が望んでいることだと思います。それは、神様が辞める人に喜ばせないからです。しかも、神様はいつも私たちの最善を信じているので、私たちが悔い改めることを期待しています。 ですから、言いたいのは、あなたの奉仕が神様にとっても自分の属している教会にとって非常に大切だということです。私たちが奉仕する目的は特に誰かに褒められるためでも認められるためでもないです。また、利益のために奉仕するのではありません。むしろ、神様を喜ばせたくて、神様をあがめたくて、奉仕します。それに、あなたが持っている賜物が自分のためではなく、互いに仕え合うために与えられました。なので、私が奉仕することによって教会が祝福される上に、私も兄弟姉妹の奉仕によって祝福されます。要するに、奉仕しない人はある程度まで霊的な成長にすることができますが、奉仕する人は、兄弟姉妹と関わりみことばを実践するため、大きく成長ができます。また、そういう人たちが神様に忠実なので、もっと大きな物が任せられるとイエスキリストが教えました。(マタイ25:14-30を読んでください) また、ある人たちと、同じことをしないように注意してほしいのは、彼らは大きな招きをもっていると信じ、教会で小さな奉仕を拒むことです。例えば、「私は大きな教会の牧師に任命されたので、教会の子供を世話するに招かれていません」と言います。そういう小さな奉仕に招かれていないと言いながら結局教会で頼まれる奉仕に何も関わらないようにしてしまいます。しかし、神様が報うのはへりくだって小さなことでも忠実に奉仕する人です。なので、もしあなたの牧師さんや指導者に何か頼まれているなら、神様をあがめる機会、また、自分の霊的な成長する機会として見直してください。 結論として、あなたが持っている才能や賜物をもって利益を求めず、またみなに認められたり褒められたりするためではなく、神様をあがめるために、奉仕を通して兄弟姉妹を祝福してください。そして、いつも自分の心を吟味してください。なぜなら、神様が喜ぶのは忠実に自発的に喜んで奉仕する人です。なので、小さな物でも任せられたら、神様をあがめる機会として見てください。最後に、自分の健康も家族との関係も犠牲にするまで奉仕しないでください。それは神様に求められていないので、良くバランスを取る必要があります。そして、私たちが教会で奉仕するのは救われるためではなく、神様をあがめたくて、キリストにある兄弟姉妹のために自分自信を祝福になりたいからです。
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教会の賛美
教会では賛美歌を歌うことがあります。世の中の音楽は様々なジャンルがあり、スタイルも時代と共に代わりつつあります。若者たち向けの音楽や、クラブの音楽など。 今は教会の中で、そのようなジャンルの賛美歌ができてきました。しかし、教会が注意をしないといけないのは、はたしてその賛美歌は神さまの偉大さ、素晴らしさを歌っているのか、あるいは自分の感情や思いを歌っているのかを見分ける必要があることです。 教会で礼拝が始まると、賛美を歌います。賛美を通して神様の臨在がそこで現れます。賛美を導く賛美グループがいて、そのチームを通して教会全員が一つとなって歌う時、神さまの力、御霊が働かれていきます。賛美には力があるからです。賛美は雰囲気を作り出します。神様の油注ぎで満たされている場所を作り出します。 ある教会ではあまり賛美歌チームをサポートしないことがありますが、それはとても残念です。ノンクリスチャンが教会に初めて来て、まず見るのが賛美です。賛美の曲を通して神様への御言葉に心をオープンします。もし教会の音楽が貧しかったら、もしかしたらもう2度と戻って来ないかもしれません。それほど教会の音楽は大事です。 つまり、教会の全ての人達が賛美チームを応援し、支えなければなりません。賛美チームが新しい音響機器や、楽器が必要としているなら、それを拒否するのではなく、一緒に祈ったり、励まし合うことが必要です。必ず備えは来ます。なぜなら神様が音楽を作ったからです。詩篇ではこのように書かれています。 詩篇 150:1-6 ハレルヤ。神の家でほめたたえましょう。 神のお力を示す天で、神をほめたたえましょう。 偉大な奇跡を思い起こして、ほめたたえましょう。 ラッパと十弦の琴と竪琴をかなでながら、 賛美の歌を歌いましょう。 タンバリンを打ち、神をほめたたえましょう。 弦楽器と笛で神をほめたたえましょう。 大音響を出すシンバルを打ち鳴らして、 神をほめたたえましょう。 生きているものはみな、主に賛美の声を上げなさい。 さあ、あなたも神をほめたたえなさい。 ハレルヤ。 ここでは様々な楽器が出てきています。弦楽器、笛、タンバリン、シンバルなどです。現在では、多くの楽器が存在します。教会の中ではオルガンだけしか弾いてはいけないとはどこにも聖書箇所には書かれていないので、ドラム、ギター、ベース、カホン、サックス、パーカッションも取り入れることもできます。それぞれの教会の音楽の特徴があると思いますが、まず1番大事なのが、その歌は本当に神様をほめたたえているのかどうかを知る必要があることです。 […]
教会なんて行く必要がある?
教会なんて行く必要はないと思うあなたへ そもそも教会は何でしょうか。教会はヨーロッパ風で、十字架で飾られており、固いイメージを持つ建物でしょうか。または、毎週日曜日に讃美歌を歌い、説教を聞く場所でしょうか。しかし、教会というのはイエスキリストの復活の後、弟子たちに聖霊が注がれた時に、生まれたキリストの体なのです。そのことは、エペソ1章を見れば分かりますが、キリストは全てに勝る権威を持つようになった上で、その権威を教会に与えたと書いてあります。なので、教会はイエスキリストの体であり、イエス様はその体の頭です。 御霊を受け入れ、神の家族に生まれ変わった私たちは、今、キリストと繋がっています。なので、本当の教会は場所や建物ではなく、私たちのことです。私たちは神様を宿っているわけです。 教会はキリストの体として示され、それは一般的にクリスチャン全体のことを指していますが、地域教会も存在することを認識しなければなりません。認識されないと、多くのクリスチャンが勘違いしているように、私自身が教会だと主張し、教会に行く必要なんてないと思い込んでしまうからです。残念ながら、彼らは自分の内に聖霊が宿っているので牧師などの説教を聞かなくても神様の声を自分で聞こえると正当化し、教会に行かなくなります。 しかし、そこにサタンのわながあります。地域教会の存在は、エペソの教会やガラテヤの教会、ピリピの教会などといった新約聖書の各手紙に見られます。その上、イエス様自身は、黙示録2章と3章をもって、地域教会の存在を認めています。そればかりか、そこで各地域教会の牧師の存在も認められています。それを理解すると、地域教会への神様の計画と分かります。では、なぜあるクリスチャンは教会に行かなくて良いと主張するのでしょうか。 地域教会に属さないクリスチャンの理由は何でしょうか。 イエス様を受け入れたクリスチャンは、神様のみこころである聖書に従うべきだからと理解しています。なお、私たちの信仰がみことばに置かれる必要がありますが、地域教会を拒絶する人は、何を根拠としてそういう決断をするでしょうか。どの聖書箇所が「教会に行かなくて良い」ということを裏付けられますか。信仰が伴わない行動は神様に対して罪です(ローマ14:23)また、信仰の行動になるには、それが聖書に基づかなければなりません。あいにく、教会に行かないと決めた多くの人は、聖書にない訳をつけて行動を取っています。もしかしたら、自分が敏感で傷つきやすいので人間関係がうまく行かない理由で、教会を避けるようになったかもしれません。あるいは、プライドが高くて、牧師やリーダーに正されたくないため、教会に行かないことにしたかもしれません。しかし、それらは教会の必要性を否定する理由になるでしょうか。 それにしても、教会が必要ではないと主張する人は、自分自身のことだけを求めていると言っても過ちではないと思います。多くの地域教会を開拓した使徒パウロは、教会における奉仕の話するとき、このことを指摘します。 ピリ 2:19-21 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。 使徒パウロはいつもたくさんの人と開拓していたものの、テモテだけが頼れる人で、パウロと同じ心でした。もし現代の牧師たちの心を聞くなら、おそらく多くの人はテモテのような奉仕者を願っているでしょう。真に教会のことを心配し、教会のために何かをする奉仕者を求めているのではないかと思います。いつでも頼れ、務めや牧師を見捨てない奉仕者です。 さて、使徒パウロと一緒に働いていた他の人々はどうなったでしょうか。気の毒ですが、彼らは自分の牧師でありリーダーであるパウロを捨てて自分自身のことを求め始めました。それを見ると、パウロはどれほど孤独感を持ったのかを考えさせられます。そして、リーダーとして、パウロは少し厳しかったので、パウロの指導に服従したくない人もいたかもしれません。または、迫害を体験し、天から託された務めを諦めた人がいたこともありえます。 他には、ただ単に疲れた、飽きた人々もいたと考えられます。理由がどうであっても、彼らはテモテのように使徒パウロの忠実な奉仕者として思い出される特権を失いました。 自立したい!教会なんかいらないと主張する人は危険な目に合う可能性が高いと、私は思います。別に脅かすつもりはないですが、彼らは聖書に完全に逆らっているので、危険だと思います。特に近年、インターネットの普及で、自分の好きな説教を聞き、自分の未熟な部分を痛感させる説教を避けることもできるため、危険だと思います。使徒パウロはテモテに、終わりの時にそういうことが起きると注意しました。 2テモ 4:2-4 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。 現在は、まさにそうではないかと思います。多くの人は教会を避け、インターネットで自分に都合の良い、自分の意見に合う説教ばかりを聞き、好きな教師を寄せ集め、真理に背いているのではないかと考えられます。彼らは、神様の恵みばかりについて聞くのを好みますが、自分の未熟さを痛感させるような教えは聞こうとしません。また、自分は愛されているよ、祝福されているよ、何もしなくていいよ、ありのまま神様はあなたを受け入れるよなどばかりを聞き、自分自身を変える必要がないと思い込んでいます。神様はいつも優しいので、あなたが罪の奴隷のように罪を犯していても、誰にも福音を伝える努力しなくても良い、それでも神様はまだあなたを愛していますよと言いますが、それは、自分をごまかしていることにすぎません。 私は別に誰もけなすつもりはないです。むしろ、一人でも多く救いたいと思っています。また、別に私の教会に来なさいとも言っているわけでもありません。あなたは、聖霊に導かれ、聖書を真に語られる、また、聖霊の働きを大事にする教会を選ぶことが必要です。しかし、もうお気づきかもしれませんが、私たちが生きている時代は残酷です。「自分が可哀そうなのでしょうがないから」などの教えは神様からきません。だからこそ、私たちは、誠実で真理を教える牧師が必要です。時が良くても悪くても、戒め、真実を語り、聖書を教える霊的なお父さんが必要です。 […]