こんにちは!今日は信仰について私の経験を交えて少し話したいと思います。 信仰とは何?って思っているかもしれません。 信仰とは、『信』信じる 『仰』口に出して言う まさに、信じていることを口に出して言うことです。なので、ただ頭の中で考えるのではなくて、口で言わないと信仰は始まらないんです。 また、信仰は私たちの思いや、考えをはるかに超えているからです。 イザヤ書55:8-9 「わたしの計画はあなたがたの考える計画とは違い、 わたしの思いはあなたがたの思いと同じではない。 天が地より高いように、 わたしの道はあなたがたの道より高く、 わたしの思いはあなたがたの思いより高い。」 ここで言う「わたしの計画」とは、神様の計画です。たまに私たちクリスチャンが信じていることを他の友達や、家族に言うと「何言ってんの?」「その話はすじが通ってないね」とか言われるかもしれません。それもそのはずです。なぜなら、神様の計画や思いは私たちの思いより高いからです。不思議に思われるかもしれませんが、それは真実です。人が物事を行う方法は、神様のやり方とは違うんです。 私は、夫と3年あまりブラジルに住んだことがあります。出張や旅行で行ったわけではなく、神様に「ブラジルで私の言葉を学びなさい」と言われ、行きました。結婚3ヶ月で、貯金も全然ありませんでした。最初の家賃を払うのも一苦労だったのに、どうなるか心配が頭によぎりました。しかし、私たちは「神様は備えのある神様です。私たちに不足は一切ありません。」といつも宣言していました。銀行にはもちろん、財布の中には何もありませんでした。 ある時、神様はこう言われました。「冷蔵庫を掃除して、冷蔵庫を見ながら、食べ物の名前を呼んで買い物をしなさい。」これを読んでいるあなたは「は?」と思ったと思います。私もその時は思いました。(笑) 言われた通り、掃除をして、ピカピカの冷蔵庫に向かって夫と食べ物の名前を呼びました。「肉よこい!果物あれ!」隣に住んでいた人は不思議そうに私たちを見て何をしているか聞きました。私たちは「買い物しているんだよー」と笑いながら言いました。その人は、多分「頭狂ってるわー」と思ったでしょう。しかし、私たちは、神様の言うことの信仰を置き、自分の口で言いました。もちろん冷蔵庫は空っぽでしたが、言い続けました。 それを終えて10分後、ある友人が大きな箱を2つ抱えて家に来ました。その中には私たちが呼んだ食べ物が入っていました。ピカピカの冷蔵庫が食べ物でいっぱいになりました。 どうしてこのことが起きたのでしょうか。私たちが助けを求めて電話したわけではありません。私たちが信じていることを口に出した時、信仰が働いたのです。周りの人からは変だと思われても、神様の思いは超越しています。 そして信仰を持って話す時、それはその通りになります。 マルコによる福音書 11:22-24 […]
Tag: 信仰
怠け者のクリスチャン
私たちは、クリスチャンとして、信仰に生きるために召されました。 ロマ 1:16-17 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 「福音は神の力」と、読むと心が踊り、楽しくてたまりません。しかも、それは、日本人であってもなくても、あなたが福音を信じるなら、神様のみことばの力を体験することができます。もちろん、救いだけでなく、日常生活で、信仰によって神の力を燃え立たせることができます。聖書では「福音のうちには神様の義が啓示されている」と書かれています。それは、あなたが信仰を実行しながら霊的に成長して進んで行くからです。 信仰なしでは、私たちは神様を喜ばせることすらできません(へブ11:6)。信仰は私たちのライフスタイルなので、聖書では「義人は信仰によって生きる」と4回も堅く提示されています。(ハバ2:4;ロマ1:17;ガラ3:11;へブ10:38) では、どうすれば信仰によって生きられるのかという疑問が出てくるかもしれません。その答えを、簡単に言うと、ロマ1:16が教えている通り、福音を信じれば良いのです。つまり、神様のみことばを信じれば信仰によって生きることになります。 しかし、残念ながら、多くのクリスチャンは信仰によって歩んでいるどころか、ほとんどが肉体的に歩んでいます。 要するに、この世の人のように普通に生きていて、自分は霊的な者だという認識さえもしていません。責めるような表現に聞こえるかもしれませんが、私はそのようなクリスチャンを「怠け者のクリスチャン」と呼びます。なぜそう呼ぶかというと、彼らは信仰を実行する努力したくないからです。 イエスキリストの弟子たちも同じように、たまに怠け者のような態度をとったのでイエスキリストに強く叱られました。 マルコ 4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 この話の背景をさらに詳しく理解するために、マコ4:35から5:1まで読むことを勧めますが、今回はある部分だけを深く分析したいと思います。 主イエスは、聖霊様に動かされ、弟子たちに「船で向こう岸に渡ろう」と指示を与えました。しかしながら、主イエスが群衆にたくさんのみことばを教えていたため、途中で疲れて船尾で寝てしまいました。 すると、急に天気が悪くなり、恐ろしい嵐や、大波が起きたため、弟子たちは死にそうだと思って絶望していました。彼らは主イエスを起こすと、主イエスは激しい大雨に強く命じて天気を落ち着かせました。その後、上に挙げたように、弟子たちを叱りました。 その場面から、私たちが理解できるのは、主イエスは、弟子たちがあの激しい状況下で、何かしらの態度をとることを期待していましたが、その期待が満たされなかったことです。 なので、主イエスは不満に思い、弟子たちに「信仰がないのは、どうしたことです」とはっきり話しました。 弟子たちはいつも主イエスの教えを受けて、模範であるイエスの姿勢や振る舞いを見ていたので、信仰が使えるはずなのに、信仰の行動をとらなかったのです。 むしろ、弟子たちは、厚かましく、主イエスがなんとかしてくださるはずだと考えて、主イエスに責められるほど、怠けていました。 […]
金持ちの青年
聖書の中で私にとって心強い聖書箇所があります。マタイ19に金持ちの青年の話が記載されています。その青年はイエスと話して去った後、弟子たちはイエスのところに近づいて興味深い質問をしました。 マタ 19:25 このことばに、弟子たちはすっかり面食らってしまいました。「それなら、この世の中で、救われる人などいるでしょうか。」 それに対して、イエスキリストの返事は心に安らぎをもたらします。 マタ 19:26 イエスは、弟子たちをじっと見つめて言われました。「人間にはできません。だが、神には何でもできます。」 それはとても喜ばしい良いニュースです。私たちは神様を信頼すれば、神様は何でもできるお方なので、神様に救われることを信じることができます。しかし、弟子たちは深く考えていた。一体何があって心配させたのだろうか。そこに注目を弾き寄せます。主イエスとあの青年はどんなことを話したのでしょうか。二人の間に何があったのでしょうか。 マタイ19章16節から30節までその話は記載されています。ある金持ちの青年はイエスに近づいて、永遠の命を得るには、どんな良い行いをすれば良いのかと訪ねていました。質問に対して、イエスは、ユダヤ教に属している人にとって、とても簡単な質問しました。それは、「あなたが十戒を守るのか」ということです。ユダヤ教というと、モーセの立法である十戒は最も有名だと言っても過言ではありません。ですからイエスキリストはいくつかの一般的な法則を引用して、青年は全て肯定的で、自信満々で「はい」と答えました。ところが、十戒の中で、イエスは一つの法則を隠し青年に聞きませんでした。どういう法則だったのでしょうか。 その前に、話を続くと、イエスは青年に全ての財産を売って、その代金を貧しい人に分けて与えなさい。そしてイエス様についてきなさいと命じました。そうすれば、青年は永遠の命を得ることができると、イエス様は明らかにしました。残念ながら、青年はそれを聞くと、大変金持ちだったのでとても落ち込んで主イエスのところを去りました。 それで、主イエスは弟子たちに向かって、金持ちが天国に入るのは、非常に難しいと教え始めました。ですから、それに対して弟子たちが驚いたのです。「それなら、この世の中で、救われる人などいるでしょうか。」と疑問しました。一方で、現代である私たちは、なぜ弟子たちがそんなに驚くのかと不思議だと思うかもしれません。それは、私たちは宗教的に金が悪いなどと教わったため、イエスの教えが当然だと決めつけてしまうからです。 この背景をよく理解するためには、ユダヤ教の持つ考え方の弟子たちがなぜ驚いたのか知る必要があります。まず、理解するべきなところは、イエスキリストが別に金持ちに反対して天国に入るための制限があると教えていないということです。他の聖書箇所を見ると、金持ちでもキリスト教に属し、神様は豊富に対して逆らっていないとわかります。 1テモ 6:17 テモテよ。富んでいる人には、高慢にならないように、そして、すぐになくなるお金に望みをかけないように教えなさい。また、必要なものをいっさい備えて、私たちの人生を楽しませてくださる生ける神を誇りとし、この方だけを信頼するように忠告しなさい。 そして、主イエスについて行くためには、全ての財産を捨てる必要があるという教えは全てのクリスチャンに当てはまるものではありません。なぜかというと、主イエスがそのように命じたのはその青年だけに向けた言葉です。それは、十戒の話の中で隠れていた法則と関係があります。 それから、弟子たちが驚いた理由を理解するためには、こういう風に考えてみましょう。あなたの教会に、ある青年がくるとします。その青年は、働き者で、良い家庭に育てられました。自分の宗教に対して優秀でした。彼を見て、誰でも、その青年は力を尽くして、心から教会の教えを従おうとして、勉強する努力も見られました。それに、とても祝福された人生を送っていました。それは、必ず彼が神様のみこころに従っていた証拠だったので、大変富む人になったと思われていました。ですから、教会の奥さんたちも「もし彼は、私の娘と結婚していればなんて幸せなんだろうか」と夢中になり出来るだけ自分の娘をその青年に紹介しようとしました。 もしかしたら弟子たちもこのような考え方を持っていた可能性があります。特にユダヤ教徒にとって、富むということは神様のみこころにかなっている証拠でした。その青年は、十戒を守ろうという姿勢も見えたし、永遠の命に興味もあったし、とても繁栄な人生を送っていたのに、なぜ天国に入らないのかとびっくりしたでしょう。それだったら、誰が、救われますか。無理でしょう。 人間は努力しても、心の底では悪い気持ちを養うこともあります。ある人は誰かに対して恨みを持つかもしれません。ある人は、誰にも言えない、不品行な思いを持っています。主イエスに出会った青年は、貪欲を隠そうとしました。十戒の中で最後の法則は、貪るなという法則です。ですから聖書はこのように記載されています。 […]