私たちはつい、「教会がどんな祝福をくれるか」「どんな助けが得られるか」「自分に合う教会なのか」と、受ける側の視点で物事を見てしまいがちです。もちろん、必要や弱さがあるのは当然で、助けを受けることは悪いことではありません。でも、もしそこで信仰が止まってしまうと、神様が用意しているもっと豊かな世界に気づけなくなってしまいます。 イエス様は聖書で 使徒20:35 「受けるよりも、与えるほうが幸いである」 と言われました。与える生き方は、人を祝福するだけでなく、自分自身を最も豊かにします。時間を差し出すこと、力を分け合うこと、賜物をささげること、誰かに親切を示すことなど、その一つひとつが私たちの心を開き、祝福の器を大きくしていくのです。 そして私たちは、「信仰生活は一人ではない」という大切な部分を見落としがちです。聖霊が共にいてくださるだけでなく、神様は兄弟以上に親しい仲間を与えてくださっています。 使徒パウロの例を見てみたいと思います。パウロの手紙には、彼を支えた多くの協力者の名前が書かれています。たとえば、ローマ人への手紙16章3〜7節にはこうあります。 ローマ16:3–7 「キリスト・イエスにあって私の協力者であるプリスキラとアキラによろしく伝えてください。彼らは私のために自分の命をも惜しみませんでした。彼らには私だけでなく、異邦人のすべての教会も感謝しています。また、私の親戚で、一緒に投獄されたアンドロニコとユニアによろしく伝えてください。彼らは使徒たちの中でも評判が良く、私より前にキリストを信じていました。」 表には見えないけれど、彼らがいなければパウロは働きを成し遂げることができませんでした。祈り、時間を差し出し、経済的に支え、苦労を共にした多くの仲間がパウロを支えていました。 アフリカのことわざに「早く行きたいなら一人で行け。遠くに行きたいなら皆で行け」という言葉があります。パウロは、一人で働ける力がありながら、それでも人と一緒に歩む道を選びました。人間的に見れば弱く、足りない部分があるように見えても、その人こそ霊的にあなたを目的へ導く「鍵」となることがあります。 イエス様もこの地上で歩まれたときに、1人ではなく弟子とともにいました。イエス様は神様から送られてきたので、他の人の助けがいらないくらいの十分な力を持っていました。しかし、どこかに行くために誰かのロバや誰かが作った舟が必要でした。また、知らない町に行ったとき、そこを案内してくれる誰かが必要だったかもしれません。イエス様はいつでもどこでも人と一緒に、仲間と一緒に歩まれました。 「人とともに歩む」というのは、初代教会にもありました。聖書では、私たちを「一つのからだ」と呼びます。互いに祈り、励まし合い、支え合い、協力するところに、神様の力が最も強く働きます。彼らが心を一つにして祈ったとき、そこには一致の力がありました。 使徒4:31-35 彼らが祈ると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語り始めた。信じた者の群れは心と思いが一つであった。だれ一人、自分の持ち物を自分のものだと言わず、すべてを共有していた。使徒たちは主イエスの復活を力強く証しし、大きな恵みが彼ら全員の上にあった。彼らの間には、ひとりの乏しい人もいなかった。土地や家を所有している者は皆、それを売り、売った物の代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。そして、それぞれの必要に応じて、分け与えられたのである。 心と思いを一つにして、自分のものを共有し、お互いの必要を満たしあったとき、誰にも不足はありませんでした。これが神の国の姿です。「ほしい」と思うのではなく「人のために何ができるか」を考え、行動に移すのが神の御心です。 もし私たち一人ひとりが、「受ける側」から「与える側」へと変わったらどうでしょうか。礼拝は整い、奉仕はスムーズに流れ、問題は早く解決し、福音の力はさらに広がり、聖霊の働きをより深く経験することになるはずです。「だれがすごいと言われるか」「だれの手柄になるか」を気にしなくなると、教会は神様のために想像以上の力を発揮できるようになります。 では、私たちは今日から何ができるでしょうか。挨拶を先にする、誰かを励ます、ちょっとした奉仕を引き受ける、誰かのために一言祈る、準備や片付けを手伝う、感謝を伝える……どれも小さなことですが、その「小さな与える心」が神様の大きな祝福を呼び込みます。先ほど読んだ使徒4:34には「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」と書かれています。神様は「与える人」「仕える人」に祝福してくださるお方です。 最後に、質問をして終わりたいと思います。あなたは今日、どんな祝福を誰に流しますか?そして、自分が通う教会にとっての祝福になると決心してみませんか。 私たち一人ひとりが「与える人」「仕える人」へと変えられるなら、神様はあなたの人生と教会に、あふれる恵みを注いでくださいます。
Category: 夕貴 Yuki
真の賛美と礼拝
私が好きな賛美の中に「目覚めの時から眠るまで素晴らしい主を賛美します」「命ある限り素晴らしい主を賛美します」というフレーズがあります。 皆さんは、朝目覚めた時、まず最初に出る言葉は何ですか。私や主人は朝起きてよく賛美をして、1日の感謝をします。 賛美や礼拝と聞くと、日曜日の教会でするイメージが強いかもしれません。しかし、聖書では、このように言っています。 ヨハネ4:20-24 20私たちの父祖たちはこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」21 イエスは彼女に言われた。「私の言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。22 救いはユダヤ人から出るものですから、あなたがたは知らないで礼拝しています。23 しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。24 神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」 イエスは、ここでサマリアの女性に礼拝についての大切な教えをしています。 「…まことの礼拝者たちが、御父を霊とまことによって礼拝する時が来ます。今がその時です。」(ヨハネ4:23) イエスは「どこで礼拝するか」ではなく、「どう礼拝するか」が重要だと語られました。神は霊であり、霊とまことによる礼拝を求めています。では、霊とまことで礼拝するとはどういう意味か未定規定と思います。 霊によって礼拝する「私たちは…神の霊によって礼拝する」(ピリピ3:3) 「霊による礼拝」とは、神と直接交わることができる「新しく生まれた霊」を通して捧げる礼拝です。イエスが十字架にかかって復活する前、人は霊的に死んでいたので、霊によって神を礼拝することができませんでした。しかし今は、御霊によって生き、神との親しい交わりの中で礼拝ができるようになりました。 まことによって礼拝する「…真理によって彼らを聖め分けてください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17:17) 「まこと」とは、神の御言葉に沿っているかどうかということです。感情や伝統ではなく、聖書に基づいた礼拝こそが、神の御心です。 では、聖書に基づく礼拝とは、どんな礼拝でしょうか。1つめは、手を挙げて礼拝をすることです。 「どこででも、怒ったり争ったりせず、きよい手を挙げて祈るように…」(1テモテ2:8) 神に向かって手を挙げるのは、へりくだりと信頼の表れです。教会の賛美の時間は、ぼーっとしたり、携帯をみたり、髪をさわる時間ではありません。メッセージに入るために、あなた自身を準備させる時間です。 私たちは、毎日忙しい生活の中で生きていて、頭の中がいっぱいなときも少なくはありません。いろいろ考え事をしているとメッセージに集中することが難しくなります。なので、その時は、手を上げながら賛美をし、神に集中すること。そして、私たちの力の源は神からやって来ることを再認識する必要があります。 […]
聖書からの子育て
皆さんがいつも読んでいる聖書は私たちのマニュアル本です。また、聖霊様は私たちを導いてくれます。それは、人生のどの領域においてもそうです。もちろん、子育てに関してもインスピレーションを与えてくれます。 今日は、聖書から私たちがどのように子育てし、子供を教育していくべきかをいくつかのポイントで学んでいきましょう。 ➀ 御言葉の中で子育てをする 時々、子育てを重いものとして見てしまうことがあります。実際に、子育ては簡単ではありません。責任もあります。しかし、私たちが御言葉に頼り、捧げることによって考え方は変わってきます。 教育は負担ではなく、神聖なものです。まず、子供は神様が与えてくださった宝です。私達は、その宝を守り、育てる使命があります。育つたびに天のお父さんである神様は喜んでいます。子供を生んで育てるのは神様の計画です。なので、私たちは迷ったときに、御言葉に戻り、その光の中で教育すべきです。 詩篇127:3-5 3 見よ。子どもたちは主の賜物、胎の実は報酬である。4 若い時の子らはまさに勇士の手にある矢のようだ。5 幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない。 ② 神様とつながることを教える 箴言22:6 若者をその行く道にふさわしく教育せよ。そうすれば、年老いても、それから離れない。 私たち親には、子供たちが神様の道にいるべきことを教えなければなりません。しかし、それは、教会の子供たちの先生の責任ではなく、親自身が教えなければなりません。もちろん教会は手伝いますが、子供は教会より家で過ごす時間の方が、はるかに多いです。なので、親がやるべきことです。 ある人たちは、「そんなに小さい子に、聖書を教えても何の意味もないし、わからないでしょ?」といいます。しかし、子供はすべてを見てわかっています。 私の3歳と1歳の子どもたちも、朝起きたら1日のためにお祈りする。毎日聖書を読む。日曜日は教会に行く日というのがわかっています。また、保育園の行きかえり、家でも常に賛美をしています。神様を1番にするということを、小さいころから教えるべきです。 また、子供たちが見ているアニメや音楽から影響されないように注意をしてみて、必要があれば正す必要があります。 ③ 自分を人と比べない これは、特に女性の方に伝えたいです。完璧な母親になろうとすると、挫折することがあります。今では、SNSをみると完璧に見えるお母さんをたくさん見ることができます。しかし、あなたは、その人とは違います。その人の子どもはあなたとは違います。 […]
誰の言葉を信じますか
みなさんは、日々どんな言葉を聞きながら生きていますか? テレビや新聞では私たちをびっくりさせること、恐れを持つようなことをたくさん言います。それによって多くの人が不安の中に生きています。 わたしの職場は学校なのでいつも多くの人と接触します。職員室では、いつもあの病気が流行ってるとか、〇〇クラスでコロナが出た!インフルが出た!とかそのような話ばかりです。いつも「自分もいつかそうなるかもしれない。どうしよう」と話しています。その話がわたしに振られるといつもわたしは「大丈夫です!わたしは守られてます。どんな病気もわたしに触れることができません」と答えます。 その答えを聞くといつもびっくりされるか、感心されます。このブログを読んでいる方がクリスチャンかどうかわかりません。もし、あなたがクリスチャンであれば、すべての病はイエスキリストがすでに持ち去ってくれたことを再確認する必要があります。 私はこの聖書箇所が大好きです。 コロサイ 2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除してさらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。 他のバージョンでは次のように書かれています。 コロサイ2:15 こうして神は、罪を犯したあなたがたを責め立てるサタンの力をくじかれました。そして、十字架の上でのキリストの勝利を公然と示されたのです。この十字架によって、罪はすべて取り除かれました。 この聖書箇所がどれだけ力強いものかわかりますでしょうか。 イエスがサタンを打ち負かして勝利を得ました。イエスが勝ち取った勝利には罪や病気、束縛からの勝利がありました。 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除しました。これは、イエスが悪魔が握っていた特権を完全に取り戻したという意味です。 そして、その後、捕虜として凱旋の行列に加えられました。この凱旋とはパレードのことです。イエスキリストは悪魔に打ち勝ち、勝利のパレードを行いました。 そのパレードで、捕虜(負けたもの)は完全に服を脱がされ、最大級の辱めを受けました。 パウロはこの聖書箇所を通して、イエスが悪魔に何をしたかを見せました。 イエスは悪魔の服を剥ぎ取り、武器を取り上げて、ありのままをさらけ出しました。それは、悪はもう無力であることを公に見せつけるためでした。 オリンピックやワールドカップなどのスポーツを想像してみてください。 グループのスポーツには、必ず試合に出て戦っている選手と、外で応援している選手がいます。そのチームが優勝して勝利を祝うのは、戦った選手だけでなく、外で応援し出られなかった選手も一緒にお祝いします。また国中も「私たちの国が優勝した!!!」とお祝いします。メダルを渡されるときに、国歌が流れ国旗が揚げられるのは、国全体が優勝したからです。 イエスがもたらした勝利も同じです。イエスが勝ち取ってくれた勝利は、神の子どもである私たちの勝利でもあります。なので、聖書では私たちを圧倒的な勝利者と呼んでいます。 […]
古いレッテルをはがす
あなたは自分のことをどうみていますか?そして、あなたは他の人にどう見られていると感じていますか?多くの人は、人からの評価を気にしすぎたり、レッテルを貼られているような感じがしたりします。または、反対に「あの人は、いつもこうだから。」「いつもああなんだよね。」と言ってレッテルを貼ってしまっているかもしれません。 レッテルを貼るとは辞書を見ると、『ある人物などに対して一方的・断定的に評価をつける。』という意味があります。なので、これは人が勝手にした判断です。小さい頃から「他の兄弟はできるのに、あんたはダメだね」とか「みんなわかってるのに、なんであなただけわからないの?」とレッテルを貼られてきたかもしれません。数えきれないほどあると思います。 先程もいいましたが、これは他の人がしたあなたに対しての勝手な評価であって、本当のあなたではありません。もしかしたら、レッテルが貼られ過ぎてて、あなたは本当の自分が見えなくなっているかもしれません。本当のあなたは、外側に貼り付けられたものでも、飾り付けられたものでもありません。あなたの中身です。 ヨハネ 3:18 御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。 私たちがイエスキリストを信じるとき、私たちはもうさばかれないんです。イエスによって、きれいにされ、全てが変えられもう明らかにされました。 また、聖書ではマタイ 7:1さばいてはいけません。さばかれないためです。ともいっています。 なので、私たちはレッテルを貼られる必要もなければ、レッテルを貼ってもいけないんです。 2コリント 5:17 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 キリストと共にいることを決断するとき、今まで貼られ続けてきたレッテルが全てはがされます。そして、本当の自分を生きることができます。 聖書で、本当のあなたは、1ペテロ 2:9: しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。と言っています。 これが新しくされたあなたの現実です。 あなたの周りにはあなたにレッテルを貼りたがる人たち、あなたがどうあるべきかを勝手に決めたがる人たちがいます。「あなたはこの大学にいくべきよ!」「この人と結婚すべき」「この道に進むべきだよ!」といろいろ言ってくるかもしれません。 でも、忘れないで欲しいのは、あなたに本当の価値をつけるのは、周りでもあなたでもありません。神様です。そして、神様が与えてくださった聖霊様があなたを導きます。 […]
私たちのアイデンティティー
1ペテロ 2:4-6 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」 1ペテロ 2:9-10 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。 ペテロは私たちがキリストにあってのアイデンティティを話しています。 イエスは私たちに救いと贖いをもたらしてくれました。イエスを受け入れる前は霊的に死んでた存在でしたが、救われました。それは、私たちが何かいいことをしたのではなく、神様から来るものです。 私たちは恵みによって救われました。 恵とは、私たちが受けるに値しなかったものが、無償で与えられるものです。 罪人は生きるに値しないものでした。なぜなら、聖書では、罪の報酬は死だと言っているからです。(ローマ6:23) しかし、神様はその状態を見て救い、永遠の命を与えてくれました。それは恵です。 その恵みは私たちのところにきて、救ってくれただけでなく、私たちが神に呼ばれた人生を生きるための条件をあたえてくれました。 先程の聖書箇所で、ペテロは私たちは聖なる国民と言っていいます。 「聖なる」という言葉は旧約聖書のヘブライ語で カドシュです。 あるもののために取り分けられる。2つのものには併用できない。あるもの専用に取り分けられ、守られる。という意味があります。 また、新約聖書のギリシャ語では、アギオスです。とても大いなるもの、とても聖なるもの、光り輝くので隠すことはできないという意味があります。 旧約聖書では、幕屋のために聖なるものが分けられました。私たちが今いる、新約聖書では、輝くもの、隠れてはいけない光です。 […]
ビクビクしないで!
最近、いつもビクビクしてるクリスチャンや、いつも自信がなく、ネガティブなクリスチャンを見ます。 聖書は、義人(私たちクリスチャン)は信仰によって生きると書いてあるし、教会のブログをいつも読んでくださってる方は、このブログのテーマで信仰が多いのを見ることができると思います。 多くの人は「信仰を知っています」と信仰や御言葉を知識としてのみ理解しています。しかし、実際、彼らの人生で何か問題があるときに「どうしよー。神様ー。」と、泣いていたり、また、神様から何か導きがあったときに「え?どうすればいい?」と慌てたりする人がいます。 どうして、信仰を知ってると言っているのにそうなるのでしょうか。 それは、本当に信仰を理解していないからです。なぜなら、信仰には行動が必ず伴うからです。 ヤコブ 2:17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。 信仰に行動がなかったら無意味なんです。なので、頭で理解するだけでは信仰になっていません。多くの人は行動するのに萎縮してしまうんです。 創世記12:1-4: “主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。ロトも彼といっしょに出かけた。アブラムがハランを出たときは、七十五歳であった。” ここで主はアブラムに自分が命じるところに行きなさいと言いました。これは、日帰り旅行とかではなく、故郷と家族をおいて出て行くことをいいました。 もし、あなたがある日、神様にこう言われたらどうしますか? 「え?無理。仕事とか、住むところどうするの?」と思いますか?「知らないところに行くのは怖いです。」とビクビクしますか? では、アブラムはどうでしたか? 「アブラムは主がお告げになったとおりに出かけた。」 彼は2度考えることなく、出ていきました。しかも75歳でした。しかし、決して「75歳で体力ないし、無理です。休みたい。寝たい」とはいいませんでした。 神様に従ったとき、全ての備えがあると信じて疑わず、そしてそれを行動に移しました。 これが信仰です。 「神様!信じます!」と言ってもそれに対して何も行動しないと、信仰の途中のステップに止まってしまっています。 […]
The perfect guide!
Think about the best professional you know in the area you act. How much would it cost you to have […]
あなたは真の礼拝者ですか?礼拝の参加者ですか?
あなたにとって礼拝するとは何ですか? ある人は、毎週教会に行くことが礼拝すること、教会で賛美をすることが礼拝をすることと言います。それは決して間違ってはいません。 教会に行くことも、賛美をすることも、座ってメッセージを聞くことも大切です。 しかし、「礼拝をする」とはそれ以上の意味があります。 ヨハネ 4:23 しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。 この文章は非常に興味深いものです イエスが言っているのをよく見ると、神を礼拝する方法に大きな変化があることを確認することができます。 イエスは「真の礼拝者が霊とまことをもって父を礼拝する時が来ます」(未来)と「今がその時です」(現在)と言っています。 ここでは現在と未来の二つの時制が使われており、過去の時制は一切使われていないことがわかります。イエスは、過去の人物を示していません。 なぜでしょうか? それは、霊とまことに父を礼拝する真の礼拝者は、キリストの死と復活と昇天の後にのみ約束されるからです。つまり、恵みの時代、新生の時代です。 神を礼拝することは、キリストにあって新しく生まれた者が成し遂げるすべてのことにおいて、主にインスピレーションされた生き方です。 ヨハネの4章でイエスがサマリヤの女と出会った話を知っていますか? その女がイエスにあった時、正しい礼拝場所は山ですか?エルサレムですか?と聞きました。イエスは、こうお答えになりました。 ヨハネ 4:21 イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。 それは、新しい時代、新しい礼拝の時代が来ます。聖徒が霊とまことをもって神を礼拝できるようになる時であり、それは神の霊が彼らのうちに宿っているからです。という意味になります。 […]
神様とのデート
最近、旧約聖書の「創世記」を最初から読んでいました。何度も読んだことがあったのですが、深く読めば読むほど新しいことを学ぶことができます。 創世記2:1~3 1 こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。 2 神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。 3 神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 神様は6日で天地の創造を終わり、7日目は「休まれた」とあります。 どうして休まれたのでしょうか? もちろん、神様は全能の神様なので、本当に疲れた訳ではありませんでした。 モーセの十戒でも「主の日を心にとどめ、これを聖とせよ。」(出エジプト記20:8)と書かれています。 これは神様との深い関係をもつためにその日を空けておくという意味があります。 人間関係でも、誰かと関係を持つためには時間を要します。すぐに仲良くなれたとしても、時間を使ってその人の考えや性格を知ることができます。 恋人もデートを重ねて、何度も会って、相手のことをよく知れます。 私たちのお父さんである神様も私たちと関係を持ちたいと願っています。 神様はあなたのことをよーく知っておられます。(髪の毛が何本あるかまで知っておられます)では、あなたはどうでしょうか? 神様のことどれだけ関係を持って、知ることができているでしょうか。 なので、神様は7日目を「神様とのデートの日」「神様のことを知る日」にされました。 それを特別に「聖」としました。(その日を特別に分けました) […]