癒しが神様の御心だと知っていますか。私たちがその知識がない限り、私たちは病から自由になることはできません。聖書ではこのように書かれています。 ヨハネ8:32 そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」 私たちが聖書のことを知る時、私たちは自由になります。イエスがこの地での行いを知る必要があります。 第1ペテロ2:24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。 イザヤ書53:4、5 4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 イエスは十字架で私たちの病を負いました。それは私たちが病気で苦しまないためでした。「私はいつか癒しを受けるんだ」と、思っているかもしれません。しかし、聖書では「イエスの打ち傷によって、私たちはいやされた。」と書かれています。これから癒されます。と書かれていません。癒されたと書かれています。過去形です。もう既に癒されているのです!私たちはその聖書が書かれている通りに信じることを選ぶ必要があります。聖書は癒しを保証しています。 イエスは、神様の御心を行うためにこの地に来られました。 彼は神様の現れでした。 ルカ5:12-14には、らい病の人について書かれています。 ルカ5:12-14 12 さて、イエスがある町におられたとき、全身ツァラアトの人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます。」13 イエスはてを伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ」と言われた。すると、すぐに、そのツァラアトが消えた。 神様ができることを知っているかもしれません。しかし、多くの人にとって大きな問題は、神様が癒しを望んでいるかどうかです。らい病の質問に対してイエスは答えました:「私の御心だ」。 そしてその人は癒されました。 […]
Category: ひき Hicky
結婚生活の秘訣
結婚に至るまでにはステップがあります。異性と出会って、友達になり、その人が好きになって付き合い始め、婚約をし、最終的に結婚をします。結婚生活の初めは全てが新鮮です。しかし、結婚生活が長くなると、少しずつ相手といることが当たり前になり、普通の生活になってしまいます。ある点では、いいことですが、結婚生活の基礎を決して忘れてはいけません。 それは愛によって歩むことです。 結婚生活の成功の秘訣はお互いに愛によって歩むことです。 聖書では愛について書かれています。 第1コリント人への手紙13;4−8 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のしたあくを思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。 この聖書箇所には愛が何であるかを教えています。愛は自分の利益を求めません。愛は親切であり、愛は決して絶えることはありません。それは人間の愛でしょうか? いいえ、神様の愛です。人間の愛には限度があるからです。人間の愛はいつも見返りを求めます。もしあの人が私を愛しているなら私もその人を愛します。もしその人が私にいいことをしてくれたらお返しにいいことを与えます。しかし、もし愛されていないなら、愛さない、相手が何もしてくれないなら、私も何もしない。 それが人間の愛です。 神様の愛はどうでしょうか。 第一ヨハネ4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、まあ信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。 神様は愛です。神様の性質は愛です。 神様の愛こそ唯一終わりのない本当の愛です。 愛の反対は無関心です。 第一コリント人への手紙13;4−8に書いてある愛は神様の愛です。 イエスを受け入れている全ての人は神様の愛を受けています。 ローマ人への手紙 5:5 5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。 […]
教会の賛美
教会では賛美歌を歌うことがあります。世の中の音楽は様々なジャンルがあり、スタイルも時代と共に代わりつつあります。若者たち向けの音楽や、クラブの音楽など。 今は教会の中で、そのようなジャンルの賛美歌ができてきました。しかし、教会が注意をしないといけないのは、はたしてその賛美歌は神さまの偉大さ、素晴らしさを歌っているのか、あるいは自分の感情や思いを歌っているのかを見分ける必要があることです。 教会で礼拝が始まると、賛美を歌います。賛美を通して神様の臨在がそこで現れます。賛美を導く賛美グループがいて、そのチームを通して教会全員が一つとなって歌う時、神さまの力、御霊が働かれていきます。賛美には力があるからです。賛美は雰囲気を作り出します。神様の油注ぎで満たされている場所を作り出します。 ある教会ではあまり賛美歌チームをサポートしないことがありますが、それはとても残念です。ノンクリスチャンが教会に初めて来て、まず見るのが賛美です。賛美の曲を通して神様への御言葉に心をオープンします。もし教会の音楽が貧しかったら、もしかしたらもう2度と戻って来ないかもしれません。それほど教会の音楽は大事です。 つまり、教会の全ての人達が賛美チームを応援し、支えなければなりません。賛美チームが新しい音響機器や、楽器が必要としているなら、それを拒否するのではなく、一緒に祈ったり、励まし合うことが必要です。必ず備えは来ます。なぜなら神様が音楽を作ったからです。詩篇ではこのように書かれています。 詩篇 150:1-6 ハレルヤ。神の家でほめたたえましょう。 神のお力を示す天で、神をほめたたえましょう。 偉大な奇跡を思い起こして、ほめたたえましょう。 ラッパと十弦の琴と竪琴をかなでながら、 賛美の歌を歌いましょう。 タンバリンを打ち、神をほめたたえましょう。 弦楽器と笛で神をほめたたえましょう。 大音響を出すシンバルを打ち鳴らして、 神をほめたたえましょう。 生きているものはみな、主に賛美の声を上げなさい。 さあ、あなたも神をほめたたえなさい。 ハレルヤ。 ここでは様々な楽器が出てきています。弦楽器、笛、タンバリン、シンバルなどです。現在では、多くの楽器が存在します。教会の中ではオルガンだけしか弾いてはいけないとはどこにも聖書箇所には書かれていないので、ドラム、ギター、ベース、カホン、サックス、パーカッションも取り入れることもできます。それぞれの教会の音楽の特徴があると思いますが、まず1番大事なのが、その歌は本当に神様をほめたたえているのかどうかを知る必要があることです。 […]
イエスの名
私たちクリスチャンは、イエスキリストを受け入れたとき、全ての祝福をもらいましたが、そのうちの1つに「イエスの名」があります。 しかしながら、多くの人はそれをどうやって使うの?と疑問に思っています。今日は、聖書で私たちはどのようにイエスの名を使うか4つみていきたいと思います。 ① 祈りの中でのイエスの名を使う 祈りというのは、イエスの名において父に祈ることです。それはイエスが聖書で教えています。 ヨハネの福音書 15:16 「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選んだのです。そして任命しました。だから、あなたがたは行って、いつまでも残るすばらしい実を結びます。また、わたしの名前によって父に求めるものは、何でもいただけるのです。」 イエスはここで、私たちの祈りの方法、つまりイエスの名において父に祈ることを教えています。祈りは神様の御言葉の原則に従って祈るべきです。 神さまの御言葉が私たちに教えているように、私たちはそれに応じて祈らなければなりません。 なぜなら、イエスは、彼の言葉で表現されている父の意志に反することを決してしないからです。 ② イエスの名において主張することが必要 聖書がすでに私たちのものとして保証していることを、私たちは祈る必要はありません。 結局のところ、それはすでに私たちのものであるため、私たちはイエスの名の権威で主張することができます。 イエスの名前はまた、私たちにイエスと同じ力を保証します ヨハネの福音書 16:23-24 「その時には、何一つわたしに求める必要はありません。直接父に求めることができるからです。父は、わたしの名によって求めるものは何でも与えてくださいます。 あなたがたは、今までこのような求め方をしたことはありませんでした。わたしの名によって求めなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びに満ちあふれるのです。」 […]
神様の義
今回は神様の義について書いていきたいと思います。 コリント人への第二の手紙 5:21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。 多くのクリスチャンは神様の義のことを知らずにいます。では義とは何でしょうか?ギリシャ語で「義」はディカイオスネで、「あるべき状態、神にとって受け入れられる状態」として定義されています。 神様の前に立つ能力であり、罪が存在しなかったかのように神様を父と呼べる状態のことです。 では、私達クリスチャンはいつ義とされるのでしょうか?それは、信仰によってイエスを信じて受け入れた時です。 ローマ人への手紙 5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。 他の聖書箇所ではこのように書かれています。 ローマ人への手紙 5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。 義を理解することで、私達は過去から自由に生きることができます。 コリント人への手紙Ⅱ5:17-19 だれでもクリスチャンになると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではありません。新しい人生が始まったのです。 この新しい出来事はすべて神から出ています。神様は、キリスト・イエスの働きによって、私たちをご自分のもとに連れ戻してくださいました。そして、この恵みによる神との和解を、すべての人に勧める特権をも、私たちに与えてくださったのです。 つまり、キリストによって、この世をご自分と和解させ、その罪を数え立てずに、かえって帳消しにしてくださったのです。これが、人々に伝えるようにと私たちにゆだねられた、すばらしい知らせです。 キリストの行いにより神様は私達の罪を許してくれました。私達の罪を帳消しにしてくれました。しかし、私達の敵である悪魔は罪がまだ許されてないのではないかという思いを与え、罪悪感を与えます。それに対抗するためにはイエスの行いによる死とその意味を理解する必要があります。 […]
御心を行う
今回のブログで伝えたいことがあります。それは、神様の御心を行うことです。 神の計画に従うことは、私達がこの人生で勝つための最善の戦略です。それは、神様だけが私たちにとって何が最善かを知っているからです。私達は彼と彼の御言葉を信じて、信頼することが必要です。残念ながら、多くのクリスチャンは自分の計画を実行し、神様に祝福してもらいたいと思っています。しかし、ここで言いたいのは、彼は真実で知恵であるため、あなたは彼なしでは祝福されることはありません。 あなたはイエスを信じていますか?あなたは神の子供ですか?あなたは新しく生まれ変わっていますか?それなら、あなたは神様に召されています。あなたの人生の上には、神様があなたのためにお定めになった特別なご計画と目的を果たすべき召しがあります。 ローマ人への手紙 11:29 神の賜物と召しとは、変えられることがない。 聖書は、神の賜物と召しとは、変えられることがないと書かれています。私達の上にある神様の召しは、私達が生きる限り、共にあるのです。神様が私達に行うように召しておられるどんなことでも成し遂げる能力を授けました。神様は私達が召しを果たすために霊的な装備を備えてくれました。もし、私達が本当に忠実でいるなら、神様は私達を祝福します。 召しを行うことによって、神様は私達を成功者としてくれます!聖書の中で、その例があります。その例はパウロという人です。 彼は最後まで神様の召しに忠実でした。パウロはクリスチャンを殺して迫害をした人物でした。イエスと出会った後、彼は召しを与えられました。その召しは、異邦人に福音を伝えることでした。使徒行伝でパウロの人生を見ると、パウロが自分の召しに従順であったことがわかります。私達に必要なのは、自分がいる場所で忠実でいることを学ぶことです。私達が不安定であったり不忠実であったりするなら、神様は私達を用いたり、昇進させることも出来ません。パウロは何度も動かされない者でいなさいと私達に勧めているのです。 第一コリント15:58だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。 パウロは生涯の終わりの時に弟子であるテモテに対して言いました。 第二テモテ4:7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。 パウロと同じように、私達一人一人も、神様を熱心に求める必要があります。神様の私達に対する召しは何であるかを見出す責任があります。神様の召しを成就させることに忠実でなければなりません。 私達は、全てのクリスチャンが同じ賜物と召しを持っているわけではないことを理解する必要があります。神様はすべてのクリスチャンを牧師の奉仕に召されたわけではありません。神様の召しに関して、あなたの霊の内側に傾けたことがありますか?もしかしたら、あなたは全く知らないかもしれません。自分自身の計画を立てる時、それがわからなくなります。主の計画と目標に関して主を待ち望むことで、本当の召しをあなたの内なる人を通して確信することができます。 なぜならローマ人への手紙 11:29 神の賜物と召しとは、変えられることがない。と書いてあるからです。神様があなたに与えた召しを無視しないでください。あなたに何か語っておられるかを知ろうと、熱心に神様を求めてください。あなたはあなたの召しに責任があります。 魂や、肉によって歩むのではなく、神様の召しに従い、従順の報いを刈り取ることを選んでください。私には重すぎるとか、私には出来ないと宣言しているクリスチャンがいます。それは聖書的ではない告白です。神様の御心を行うことが私達の人生の成功のカギです。多くの場合、神の計画は少し犠牲的で苦痛を伴うことがあります。 しかし、私達は神様の御言葉に書かれていることに従う時、主ご自身が私達を喜びと休息の場所に連れて行きます。私達の未来は常に成功するでしょう。私達が神様の御心の中心にいる時、私達の人生は満たされています。
信じる人の権威②
信者はイエスが買い戻した権威を理解する必要があります。権威を受け入れ、日常生活で使うべきです。イエスが行った事に焦点を向けましょう。イエスはこの地で神様の御心を行い、十字架で死なれました。 しかし、神様はイエスを死から復活されたのです。私達はイエスを受け入れる前は神様から離れてしまっている状態であったため、霊的に死んでいました。私達がイエスを信じて受け入れた後、私達の霊は新しくなりました。私達の地位はイエスによって遥かに良い場所になります。 聖書ではこのように書かれています。 エペソ人への手紙 2:4-6「しかし神は、なんとあわれみに満ちたお方でしょう。こんな私たちを深く愛してくださって、 罪のために霊的に死に果て、滅びる定めにあった私たちを、キリストの復活と共に生かしてくださいました。救われる価値などない私たちに、ただ一方的な恵みが注がれたのです。 そして、キリストと共に、私たちを墓の中から栄光へと引き上げ、キリストと共に席に着かせてくださいました。」 神様は私達をキリストと共に復活されました。私達は今、キリストと一緒に座っています。そこは私達に与えられた最高の場所です。十字架という言葉を聞くと、多くの信者はイエスが死なれた場所を想像します。十字架に焦点を置くことは大切なことですが、多くのクリスチャンは十字架に留まって、そこばかり見ています。 しかし、そこにずっと留まったままでいるべきではありません。何故なら、イエスはただ十字架で死んで終わりではなかったからです。彼は復活されました!今も生きておられます!彼は死に打ち勝ってよみがえられました! 私たちも霊的に死んでいましたが、キリストと一緒に復活しました。私たちは彼と一緒に座っています! 今この時、私たちはまさにそこにいるんです。聖書にもそのことが書れています。 エペソ人への手紙 2:6 「そして、キリストと共に、私たちを墓の中から栄光へと引き上げ、キリストと共に席に着かせてくださいました。」 エペソ人への手紙 1:20-23 「この同じ偉大な力が、キリストを死者の中から復活させ、ほかのどんな王、支配者、権力者、指導者よりもはるかに高い、天の神の右の座につかせたのです。このキリストの栄誉は、この世だけでなく、次に来る世でも、他のすべてにはるかにまさって輝かしいものです。そして神は、すべてをキリストの足の下に従わせ、キリストを教会の最高のかしらとされました。 ですから教会は、キリストの体であって、すべてを造り、すべてを満たすキリストの霊が満ちあふれるところです。」 私たちは栄光によって引き上げられました。私達は、神様から離れていて、暗闇の中でさまよっていた所から栄光に引き上げられ、どんなものよりも高い天の神の右の席にいます。私たちは天上の、権威の所にキリストと一緒に座っています。神様は私達にイエスを通して権威をお与えになりました。他に、聖書では、神様は私達を王と司祭にしたと書かれています。 ヨハネの黙示録 […]
本当の自分を知る事
クリスチャンの中には救いを頭だけで理解し、そこでストップしてしまっている人がいます。神様が計画している道を知らずに、また果たしてほしいことを知らないままクリスチャン人生を生きている人達が多いです。 もっと神様が私達に行ってくれたことを知る必要性があります。 神の御心を知らないため、多くのクリスチャンは苦しみ、病気、貧困の人生を過ごしています。 神様の御言葉の聖書箇所はこのように書かれています。 ホセア4:6 わたしの民は知識がないために滅ぼされる。あなたは知識を捨てたゆえに、わたしもあなたを捨てて、わたしの祭司としない。あなたはあなたの神の律法を忘れたゆえに、わたしもまたあなたの子らを忘れる。 聖書の原点を一緒に見てみましょう。 神様はこの世界を造った人です。私達一人一人を造りました。 神様は私達を造ったとき、彼の命を私達に与えました。私達は神の命があります。 私達は神様に似せて造られたので、神様は私達の天のお父さんです。 神様には性質があり、私達が造られたときに、神様と同じの性質を私達に与えました。なので、神様のDNAを持って造られました。 神様は人を造った後に、人に任務を与えました。それはこの地の管理を託すことでした。 創世記2:15 神は、人をエデンの園の番人にし、その管理を任せました。 神様は人を祝福し、園にあるすべての果物を与えました。しかし、たった1つだけ人に掟を与えました。 その掟は聖書箇所に書かれています。 創世記 2:16-17 ただし、一つだけきびしい注意がありました。「園の果物はどれでも食べてよい。だが、『良心の木』の実だけは絶対に食べてはいけない。それを食べると、正しいことと間違ったこと、良いことと悪いことについて、自分勝手な判断を下すようになるからだ。それを食べたら、あなたは必ず死ぬ。」 多くの人は、なぜ神様は良心の木を園の中に置いたのかと疑問があると思います。 […]
信じる人の権威①
皆さんは「権威」と言う言葉を聞くとどんなイメージを持ちますか? 力を持っている人、権力がある人、上司、政治家など様々なことを想像すると思います。 聖書ではイエスは彼を信じて受け入れた、全ての人に権威を与えたと書かれています。 ルカ10:19「あなたがたには、敵のあらゆる力に打ち勝ち、蛇やさそりを踏みつぶす権威を与えてあります。だから、あなたがたに危害を加えるものなど、一つもないのです。」 権威とは何でしょうか? 権威の本来の意味は、許可、支配する力、意志と命令、他者に従わせる力を意味します。権威は与えられた力を意味します。この現実を表す例があります。あなたはこんな経験をしたことがありますか? 例えば、あなたは車を運転しています。走っていると前にパトカーが停まっています。交通警察官が誘導灯であなたに車を停めるように指示します。あなたは車を停めますか?おそらく、ほとんどの人が停めると思います。しかし、もしあなたが警察官に従わなくて、車を停めなくても、警察官は自身が持っている力だけで車を停めることはできません。それは、警察官が強力な力を持っているのではなく、警察官という役目、政府から与えられた役目に力があります。あなたはその権威を認識し、車を停めます。 イエスは私達に権威を与えました。 私達の権威の価値は、その権威の背後に存在するものの力にあります。 悪魔や悪霊は人を驚かすのが好きですが、私達を見るとき、神自身の力が、私達の背後にあるから手が出せないと認識します。その特権を理解しているクリスチャンは権威を使い、敵に対し、大胆に立ち向かうことができます! 多くの人はその真実を知らないまま苦しんで生きていたり、死んでしまうことがあります。私が好きな、ケネスヘーゲンさんはこのような例を言っています。 新聞を読んでいた時に、1人の男の記事を読みました。その男は家賃1500円の古く、ボロボロな部屋で遺体で発見されました。20年の間、シカゴでは有名でした。その近辺の住民はその男を知っていました。服装はもうボロボロで、髪もロン毛、ヒゲも剃らないし、体臭もひどく、歯も1本しかなかったと想像出来ます。いつもゴミ袋をあさり、食べていました。ある日、近所の人たちが彼を2日、3日見かけなくなりました。近所の人達は彼を心配し、探し始めました。彼の家に入ると、彼がベッドの上で死んでいました。医者が死亡原因は栄養不調によるものだと言いました。その後、彼のズボンにあったベルトを発見しました。何と!そのベルトの価格は2300万円でした!彼は貧困の人生を生きました。紙を収集して、その利益で生活していました。しかし、彼は大金がありました!彼はボロボロな部屋ではなく、シカゴの5つ星のホテル生活が出来ました!ゴミに入ってた残飯を食べるのではなく、3星レストランで最高な食事も出来ました。 この例のように、多くの人は私達が持っている本当の価値や力を知らずに苦しんでいます。神は私達が何も知らないで人生を送って欲しいとは願っていません。神様が与えてくれたプレゼントの中身を知る必要があります。価値があるプレゼントなのでそれを知らないのはもったいないことです! イエスとの人生はパワフルな人生です。私達に与えられたものを知らなければなりません。イエスは聖書でこのように言っています。 ヨハネの福音書 8:32「あなたがたは真理を知り、その真理があなたがたを自由にするのです」と言いました。」 私達人間は神様によって造られました。神様によって人に与えられた権威があります。 人は支配し、従うために造られましたました。聖書箇所を見てみましょう。 創世記1:26−28「神は言われた。 […]
最強のチーム
この世の中にはスポーツ、歌手などいろんなチームがあります。 あなたはどのチームが好きですか? この話題は友達と何時間も話せる話題です。 今日は、皆さんとある最強のチームについて話したいと思います。 それは、神様のチームです。中には「神様ってチーム?」「神様って唯一だから1人じゃないの?」と思っている人がいると思います。 神様はもちろん、唯一です。しかし、3人の位格を持っています。 神様が3人いるのではなく、三位一体、3人の人でありながら唯一の永遠の神様です。 まず、父である神様がいて、次に、子であるイエスキリスト、そして聖霊がいます。 それぞれに役目があり、その3人が協力し合い1つのチームとし、尊敬しあいながら働き、愛を表現しています。 創世記1:26には神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」と書かれています。 ここで、「わたし」ではなく、「われわれ」と言っています。なので、1人ではなく3人がチームとなって造り上げていったことがわかります。 では、ここでそれぞれの役目を見てみましょう。 ➀ 神様:この世界と私達を造った創造主 分かりやすく言うと、神様は建築士で、全てどう作るか考え、命令しました。 ② イエス:神様の命令に従い、計画を実行しました。 ③ 聖霊: 聖霊は創造を明らかにし、神様の創造に同行し、調整しました。 この3人の中で、何もしないでただ見ているだけの人は、誰もいませんでした。各々が役目を果たし、チームとして働きました。そこには、私達人間のように嫉妬や、喧嘩などありませんでした。なぜなら、神様は完全なるお方であるからです。 もし、三位一体が違う思いで、それぞれが別々のアイディアでこの世を作ってたらどうなっていたでしょうか?何もかもがぐちゃぐちゃになり、ずさんな状態になっていたかもしれません。しかし、神様の願いはそうなることではなく、いつもチームがうまく協力し合いながら働くことです。なので、私たちにもそうしなければなりません。 イエスはそのことについて祈っていました。 ヨハネ17:20-23 わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。 […]