何年も前、ある聖職者が礼拝後に衝撃的なメモを受け取りました。そこには、こう書かれていました。 「あなたが教えてくださった真理は、あなたにとってはとても明確なものでしたが、私にとってはとてもおぼろげなものでした。しかし、あなたが、今来られたとき、あなたは主の感覚をもたらしました。」 なんと力強い洞察でしょうか!私たちが説教するとき、また、人々と接するとき、情報をもたらす以上のことをしなければなりません。私たちは “主の感覚 “をもたらさなければなりません。情報を提供するミニストリーは、インスピレーションを与えるミニストリーとは別です。しかし、神は私たちを受肉させるミニストリー、すなわち神のご性質そのものを現すミニストリーにも召しておられています。 春の陽気になり、私は最近、庭仕事をすることができるようになりました。熊手、シャベル、はさみなど、これまで使ってきた道具があります。どれも機能的な道具として役に立っていますが、決して私の人格を反映しているわけではありません。何度クリスチャンは、「主よ、私を用いてください。私をあなたの道具としてください。」と祈ることでしょうか。 心の叫びは称賛に値しますが、神は私たちが神の手に握られた単なる道具以上の存在になることを望んでおられます。神は私たちが神を反映する存在であることを望んでおられます!神は私たちが機能的であることを望んでおられます。主は、私たちが実際に主を反映し、主を代表するような、変えられた人になることを望んでおられます!イエスは言われた、「しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。」(ルカ6:40) ペテロの最初の手紙にある以下の記述はすべて、キリスト教の信仰が受動的な観衆ではなく、私たちの存在の核心から深く関わるものであるという考えを強調しています。神のいのちは、私たちの人格、行動、人間関係の変容において表現されるべきです。 クリスチャンは以下の物をもつように召されました。 楽しむ人生: ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。(第1ペテロ1:8) 警戒した人生: ですから、あなたがたは、心を引き締め、身を慎み(第1ペテロ 1:13) 神聖なる人生: あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行いにおいて聖なるものとされなさい。(第1ペテロ 1:15) 信頼した人生: 神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。(第1ペテロ 1:21) […]