私は高校生になる前に、クリスチャンになり、そこであるクリスチャンの歌手にとても影響を受け、ギターを弾くのを学び始めました。最初、私にとってかなり大変なチャレンジはギターをチューニングすることでした。 いつも友人にお願いをしてギターをチューニングしてもらっていましたが、私もチューニングのやり方を学んだことにより、耳で聞いただけでギターの調子がわかるようになってきたと思います。 もしギターの調子が悪く、少しでも外れた音を聴くと落ち着かなくなりました。 私は、礼拝で何度か賛美をリードしたことがあり、その時ギターをチューニングしないで演奏してしまったために、音程が外れたまま賛美し、ギターの音が気になることがありました。そういう時は、賛美しづらくなるので、なるべく賛美をリードする前に、ギターのチューニングを行い、音程が外れているところがないかを確認します。 楽器を弾く方は、おそらく私の気持ちに同感できるのではないかと思います。また、ギターで一つ興味深い点は、ギターは弾いても弾かなくても、ギターの音程が必ず外れてしまうので、毎回伴奏する時に、チューニングをする必要があるということです。 私が、ここで自分のギターに関する経験を分かち合いたい理由は、私達も神様の手にある楽器のような存在だからです。神様が私たちの人生を美しく弾くためには、私達で自分自身をチューニングする必要があります。 もし、私達の人生の音が外れていると、神様は私達を通して美しいメロディーを弾くことができません。では、私達はどのように自分の人生をチューニングすることができるでしょうか。 一番最初にチューニングする方法は、みことばを通して自分の考え方を一新することによるものです。日々、聖書を読み、みことばを思い巡らし、それを宣言することによって、何が神様を喜ばせるか知るようになり、それを実践することができるようになります。 ローマ 12:2 また、この世の人々の生活態度をまねてはいけない。むしろ、神の御心は何なのか、何が善で、何が神に喜ばれ、何が完全であるのかを見分けることができるために、心を一新して、変えていただくがよい。 また、自分の人生をチューニングするにあたって、とても大切な手段があります。それは聖別の祈りによるものです。聖別の祈りというのは、神様に自分自身を捧げる祈りです。特に、何かの目的を果たす時、神様に仕える時やこれから何か大事な決断をしなければならない時などにする祈りです。しかし、それは特別な時だけにする祈りではなく、むしろ、いつもしなければならない祈りだと思います。実際に毎朝、目を覚ます時にするべき祈りなのではないかという程です。 先ほど言ったように、ギターは弾いても弾かなくても、必ず音程が外れてしまうのですが、演奏する前に、ギターをチューニングするとことで、確実に美しいメロディーが奏でられます。同じように、私達もいつもキリストの体に奉仕しているので、聖別の祈りをする必要があると思います。そして、もし、逆にあなたがキリストの体に奉仕していないのであれば、さらに聖別の祈りをする必要があります。なぜなら、メロディーも認識できない程になり、自分の人生の音程が究極的に外れてしまっているかもしれないからです。 私たちは皆、美しいメロディーを奏で、それを聞いている人が祝福されるように、自分自身の人生によってキリストの体を祝福するために召されました。 イエスキリスト自身も何回か聖別の祈りをしたことがあります。12人の使徒を任命する時に、イエスキリストは一晩祈ってから、使徒たちを任命しました。また、十字架にかかる前に、自分自身の志を献身して父なる神様の目的を果たすためにその志さえをも捧げました。 ルカ 22:42 「天のお父様。あなたに不可能なことは何もございません。どうぞ十字架に掛るというこの苦い杯を飲まないでもよいように、わたしから取りのけてください。けれども、わたしが願っていることよりも、あなたの御心が成りますように。」 イエスキリストの人生を見ると、聖霊に導かれ、神様を喜ばす人生を送ることがどれほど大切なのかが分かります。全世界の歴史を変える12人の任命はとても重要だったので、少しでも彼らが任命を外れていたなら、大きな間違いになったかもしれません。しかし、イエスキリストは完全に父なる神様の御心を成し遂げたかったので、神様の御心の理解ができるまで、休まずに何時間も聖別の祈りをしました。つまり、主イエス自身も神様の目的のために自分自身をチューニングしていたことになります。 残念ながら、多くのクリスチャンはいつも神様の心を聴くための時間がないと言い、何でも自分の思ったまま、決断してしまいます。結局、自分が選んだ道に苦労がたくさんあり、それを後悔して、そういう時にまた神様に向かって神様の助けを求めます。しかしながら、最初から神様の導きを求め、聖別の祈りをしていたなら、おそらくそれらの苦労に直面する必要がなかったでしょう。 […]