「なぜ祈る必要があるのか?祈らないとだめ?」それらの質問を答えるために、様々な角度で答えることができると思いますが、この記事で私が一番焦点を当てたいのは、あなたが祈らないとものすごい力を無駄にしていることです。それで、なぜ祈らないでいることができるでしょうか。 あいにく私がクリスチャンになって気付いたのは、多くの信徒が祈りのことをあまり大切に思っていないことです。もちろん、彼らは「祈りが大事だ」と出張しますが、実際にそれを行動に移さないがために、結局何も意味がなくなってしまっています。しかし、祈らないことは、自分の力と知識以上の問題を解決できる、とても力強い武器を持っていても、それを使わないのと同じようなものです。 祈りというのは、神様と交流する方法です。祈りで私たちは神様に向かって必要していることを求められますし、また、神様の導きも受け取れます。しかし、それ以上に、私たちはこの世に大きな変化をもたらすこともできることをご存知ですか。 また、祈りを通して私たちはこの世界に気候に対しても影響を与えることを知っていますか。それに、事実、人があなたのとりなしの祈りによって救われたり癒されたりすることもあると知っていたでしょうか。 ヤコブ 5:17-18 エリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。 エリヤは私たちと同じ人間であったが、祈った時に天気を変えるほども力が溢れていました。一回だけではなく、二回もそれを起こしました。確かにエリヤの話を読めば、彼はどれほど素晴らしい預言者だったのかが分かると思います。 事実、彼は顕著な奇跡をたくさん行いました。しかし、エリヤは私たちと同じ人間だけでなく、私たちより劣った契約の下でも力強い奇跡が起こせました。ましてや、優れた契約の下にいる私たちはイエスの名による祈りでどれほど素晴らしいことができるでしょうか。 さらに、エリヤは、神の超自然的な力によってバールの偽預言者たちを多く殺したにもかかわらず、彼が迫害された時に、恐れを肌で感じて、一人の女性から逃げました。しかし、それでも、聖書は、エリヤの人間性にも関係なく、彼が義人であることを強調しており、義人であるために自分の祈りはとても効果的であることを説いています。 また、私が気付いたのは、多くの信徒が自分自身の祈りを信じていないことです。牧師や霊的だ思える兄弟姉妹の祈りであれば、神様に聞かれると信じますが、自分の祈りは聞かれるに値としないものだと思ってしまっています。 自分の人間性を見て、また、自分がクリスチャンとして全ての条件を満たしていないと思っているので、自分の祈りは弱く、天まで届かないと思い込みます。しかし、それは悪魔の嘘です!悪魔は、クリスチャンの祈りがどれほど強いのかを知っているので、クリスチャンが祈らないように、多くの方法でクリスチャンを騙そうとしています。 さらに、もう一つの種類の祈らない信徒がいます。それは怠惰で祈らないクリスチャンです。 残念ながら、そういうクリスチャンは肉体的であり、いつも子供の段階におり、あまり霊的に成長せず、神様から与えられた召命もあまり前進しません。いつも他人に頼り、自分の責任なのに、他人になすりつけます。 残念なことですが、その信徒は自分の立場に堅く立たないため、悪魔がやってきて、人が救われませんし、癒されません。別に牧師や兄弟姉妹に祈りのリクエストするのが悪いわけではありませんが、私たちもまず自分で立ち向かう必要があると聖書で教えています。 ヤコブ 5:13 あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。 上の聖書箇所によく注意してください。「その人は祈りなさい」と書いてあります。牧師や霊的成長した兄弟姉妹ではなく、苦しんでいる人こそが祈らなければならないとはっきり指示を与えています。 神様は怠惰に答えません。主は信仰に答えます! […]