教会なんて行く必要はないと思うあなたへ そもそも教会は何でしょうか。教会はヨーロッパ風で、十字架で飾られており、固いイメージを持つ建物でしょうか。または、毎週日曜日に讃美歌を歌い、説教を聞く場所でしょうか。しかし、教会というのはイエスキリストの復活の後、弟子たちに聖霊が注がれた時に、生まれたキリストの体なのです。そのことは、エペソ1章を見れば分かりますが、キリストは全てに勝る権威を持つようになった上で、その権威を教会に与えたと書いてあります。なので、教会はイエスキリストの体であり、イエス様はその体の頭です。 御霊を受け入れ、神の家族に生まれ変わった私たちは、今、キリストと繋がっています。なので、本当の教会は場所や建物ではなく、私たちのことです。私たちは神様を宿っているわけです。 教会はキリストの体として示され、それは一般的にクリスチャン全体のことを指していますが、地域教会も存在することを認識しなければなりません。認識されないと、多くのクリスチャンが勘違いしているように、私自身が教会だと主張し、教会に行く必要なんてないと思い込んでしまうからです。残念ながら、彼らは自分の内に聖霊が宿っているので牧師などの説教を聞かなくても神様の声を自分で聞こえると正当化し、教会に行かなくなります。 しかし、そこにサタンのわながあります。地域教会の存在は、エペソの教会やガラテヤの教会、ピリピの教会などといった新約聖書の各手紙に見られます。その上、イエス様自身は、黙示録2章と3章をもって、地域教会の存在を認めています。そればかりか、そこで各地域教会の牧師の存在も認められています。それを理解すると、地域教会への神様の計画と分かります。では、なぜあるクリスチャンは教会に行かなくて良いと主張するのでしょうか。 地域教会に属さないクリスチャンの理由は何でしょうか。 イエス様を受け入れたクリスチャンは、神様のみこころである聖書に従うべきだからと理解しています。なお、私たちの信仰がみことばに置かれる必要がありますが、地域教会を拒絶する人は、何を根拠としてそういう決断をするでしょうか。どの聖書箇所が「教会に行かなくて良い」ということを裏付けられますか。信仰が伴わない行動は神様に対して罪です(ローマ14:23)また、信仰の行動になるには、それが聖書に基づかなければなりません。あいにく、教会に行かないと決めた多くの人は、聖書にない訳をつけて行動を取っています。もしかしたら、自分が敏感で傷つきやすいので人間関係がうまく行かない理由で、教会を避けるようになったかもしれません。あるいは、プライドが高くて、牧師やリーダーに正されたくないため、教会に行かないことにしたかもしれません。しかし、それらは教会の必要性を否定する理由になるでしょうか。 それにしても、教会が必要ではないと主張する人は、自分自身のことだけを求めていると言っても過ちではないと思います。多くの地域教会を開拓した使徒パウロは、教会における奉仕の話するとき、このことを指摘します。 ピリ 2:19-21 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。 使徒パウロはいつもたくさんの人と開拓していたものの、テモテだけが頼れる人で、パウロと同じ心でした。もし現代の牧師たちの心を聞くなら、おそらく多くの人はテモテのような奉仕者を願っているでしょう。真に教会のことを心配し、教会のために何かをする奉仕者を求めているのではないかと思います。いつでも頼れ、務めや牧師を見捨てない奉仕者です。 さて、使徒パウロと一緒に働いていた他の人々はどうなったでしょうか。気の毒ですが、彼らは自分の牧師でありリーダーであるパウロを捨てて自分自身のことを求め始めました。それを見ると、パウロはどれほど孤独感を持ったのかを考えさせられます。そして、リーダーとして、パウロは少し厳しかったので、パウロの指導に服従したくない人もいたかもしれません。または、迫害を体験し、天から託された務めを諦めた人がいたこともありえます。 他には、ただ単に疲れた、飽きた人々もいたと考えられます。理由がどうであっても、彼らはテモテのように使徒パウロの忠実な奉仕者として思い出される特権を失いました。 自立したい!教会なんかいらないと主張する人は危険な目に合う可能性が高いと、私は思います。別に脅かすつもりはないですが、彼らは聖書に完全に逆らっているので、危険だと思います。特に近年、インターネットの普及で、自分の好きな説教を聞き、自分の未熟な部分を痛感させる説教を避けることもできるため、危険だと思います。使徒パウロはテモテに、終わりの時にそういうことが起きると注意しました。 2テモ 4:2-4 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。 現在は、まさにそうではないかと思います。多くの人は教会を避け、インターネットで自分に都合の良い、自分の意見に合う説教ばかりを聞き、好きな教師を寄せ集め、真理に背いているのではないかと考えられます。彼らは、神様の恵みばかりについて聞くのを好みますが、自分の未熟さを痛感させるような教えは聞こうとしません。また、自分は愛されているよ、祝福されているよ、何もしなくていいよ、ありのまま神様はあなたを受け入れるよなどばかりを聞き、自分自身を変える必要がないと思い込んでいます。神様はいつも優しいので、あなたが罪の奴隷のように罪を犯していても、誰にも福音を伝える努力しなくても良い、それでも神様はまだあなたを愛していますよと言いますが、それは、自分をごまかしていることにすぎません。 私は別に誰もけなすつもりはないです。むしろ、一人でも多く救いたいと思っています。また、別に私の教会に来なさいとも言っているわけでもありません。あなたは、聖霊に導かれ、聖書を真に語られる、また、聖霊の働きを大事にする教会を選ぶことが必要です。しかし、もうお気づきかもしれませんが、私たちが生きている時代は残酷です。「自分が可哀そうなのでしょうがないから」などの教えは神様からきません。だからこそ、私たちは、誠実で真理を教える牧師が必要です。時が良くても悪くても、戒め、真実を語り、聖書を教える霊的なお父さんが必要です。 […]