私は、イエスキリストを受け入れた時にPaul Wilburという歌手の賛美をよく聞いていました。当時私は高校生であり、毎週日曜日に教会に行く時にUp To Jerusalemという賛美を家族で歌いました。その賛美は詩篇122章に基づいて作曲された賛美です。その詩篇はこう言っています。 詩篇 122:1 人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。 父が教会に行くことを楽しみにし、この賛美を歌っている姿が、私の記憶にまだはっきりあります。なぜなら、私たちにとって教会に行くことは楽しいことだからです。教会に行き、兄弟姉妹と賛美を歌い、メッセージの時に、みことばに完全に集中し、霊的に養われ、礼拝が終わったら、良いレスランで食事することにとても満足を感じられました。そして、礼拝後に少し兄弟姉妹と交わりを持ち、みことばの話や普通の話をしたりなど、嬉しかったです。 今、大人になり、また、聖職者にもなって、私の注目を引いたのは、なぜ、クリスチャンの家族の間で、多くの子供が教会に来ることを楽しくないと思うようになり、教会に行かないことを決断したのでしょうか。それは親の影響もあるかもしれません。小さい子供は親が教会に通うことに関してどういう姿勢と態度を取っているかを常に見ており、影響されていると思います。なので自分の娘が教会に対して興味を失わないように、妻といくつかのことを決めました。 まず、教会に行く日に、私たちは週の中で、その日を最も大切にすることを決めました。なので、それも娘に私たちの態度と姿勢で伝えようとしています。遊園地よりも、教会に行くことは楽しいというメッセージを娘に伝えたいからです。また、私たちも教会に行くことを楽しんでいることを娘に表したいです。なぜなら、もし娘は、私たちが教会に行くことを辛いとか大変とかと思ったら、娘も教会に行くことが大変だと思い始め、なぜ、わざわざ毎週、教会に行く必要があるのかと思うでしょう。なので、私たち親は自分の姿勢と態度にきちんと気を付けなければなりません また、毎週日曜日になるべく他の用事などをその日に入れないように努力しています。それは、「日曜日は教会に行く日だ」と娘にはっきり伝えたいからです。それに、バタバタし、感情的にならないようにするためです。旧約時代にユダヤ教の人は安息日として土曜日を完全に神様に捧げる習慣がありました。その日に、他の仕事をせず、家族と過ごし、みことばを思い巡らしました。別に律法のように私たちは土曜日を守る必要がないと思いますが、その原則を大切にしなければならないと思います。そのために、私たちは日曜日に教会に行く前に、自分自身の準備のために祈りが必要があり、その時間を持つことを大事にしています。その時に、礼拝のために、その日に会う兄弟姉妹と牧師のためにお祈りします。日曜日はゆっくり神様と過ごすからです。娘は私たちが親としてそういう時間を大切にしていることを見る必要があります。そもそも親は子供の模範だからです。 最後に、娘をわくわくさせるために、その日にだれに会うか、また何をするかを伝えます。なので、とても仲の良い友達や教会の大好きなお兄さんたちとお姉さんに会うことを伝えます。それから期待をもたせるために、一緒にわいわい喜びます!もちろん、友達と一緒にみことばを学び、一緒に賛美し、遊ぶことを伝えます。それは教会が楽しいからです。娘に教会が葬儀のような所だという印象を与えたくないです。また、聖職者として私は教会で様々なトラブルを対処する必要があります。それは、簡単なものでもなく、時にはとても疲れることもあります。しかし、娘はそれを理解できる段階になっていないため、私は聖職者の仕事が重いものだという印象を与えないように、知恵をもって伝える方法を学ばなければなりません。また、クリスチャンとして信仰をもって、いつも喜んでいる姿と愛をもって、誰でも我慢し、耐え忍ぶ模範を私は娘に与えなければなりません。なぜかというと、多くの子供が教会に行くを諦めるのは、親がいつも牧師に関しての不満を言い、また兄弟姉妹の悪口を言っているからです。そうすると、子供は親の悪い手本を見、教会に行きたがらなくなります。 キリストにあって愛する兄弟、教会に行こうと聞いたら詩篇のダビデのように喜んでください!教会が大変なことのように思っているなら、見直してください。教会は楽しいからです。そして、教会で楽しい生活を送るために、まず自分自身が喜ぶ必要があることを忘れないでください。また、あなたは教会生活で取っている姿勢と態度があなたの周りに影響を与えることを常に思い出してください。それは周りの人も自分の大切な家族も救いに導くチャンスです。人の救いの邪魔にならないように気を付けましょう!