私は山梨県に住んでいた時、ある姉妹が私と同じ教会に通っていましたが、その姉妹にはとても興味深い習慣がありました。同じ日曜日に少なくとも二つの違う教会に行く習慣でした。最初、問題はないだろうと思いました。それは、私たちがみなキリストにあって神様の家族ですし、兄弟姉妹が交わりを持つことに何も悪いことがないと思ったからです。しかし、時間が経つと、その姉妹は教会の皆との関係が気まずくなり、牧師は結局、姉妹と話をし、実際にどの教会に通うのかを尋ねたところ、その姉妹は、「自分がキリストの体の一員なので、教会は一つ」と答え、さらに、「どの教会に行っても大丈夫でしょう」と牧師に言い返しました。 確かにその姉妹が言ったことには間違いがないように聞こえますが、私は聖書の教えに合わないと思いました。また、問題は、多くのクリスチャンがその姉妹と同じ思考を持っていることにも気付きました。そして、特に未熟なクリスチャンにはそこに罠があります。 私はまだ若いクリスチャンであった時に、多くの教会に訪問する習慣がありました。別にそれは悪いことだと今も思っていませんが、ある時期、私は二つの教会に同時に通うようになったこともありました。一つは地域教会として、日曜日に通っていましたが、若い人たちと交流するために、また別の教会に通い始めました。 その過去の習慣に関して、現在の理解で意見を出すとしたら、私から確かめられることは一つです。それは私がその当時まだ霊的に未熟だったことです。さらに、あの段階では私を模範として扱うことができなかったと思います。 結論からいうと、クリスチャンが様々な教会に行きたいと思っている理由はいくつかあります。 まず、自分自身が教会に対して責任を持ちたくないことです。 一つの教会に通うとなると、その教会に忠実に奉仕したり、指導者に報告したりする必要があることに気づき、それらを避けるために、距離を置き、同時に他の教会に通うようにし、好きなところだけを楽しんで、何も責任感を抱かないようにしています。 要するに、子供の段階に留まっていたいということです。 しかし、福音書を少しでも読んでいるなら、そういう態度は神様にどれだけ好まないのかが分かります(参考:マタイ25章14~30節)なぜなら、神様が望んでいるのは、全ての信者が成長し、キリストの体に貢献ができるようになることだからです。つまり、私たちが実を結ぶことです(参考:ヨハネ15章1〜8節)しかしながら、同時に様々な教会に通う人は奉仕することが面倒だと思い、実を結ばない道を選んでいます。 また、もう一つの問題は牧師に服従することです。 様々な教会に通っているクリスチャンの多くは、服従に関する悩みがあります。確かに服従することは挑戦的ですが、神様の御心です。また、神様の命令は重荷ではないと聖書に書いてあるので、(第一ヨハネ5章3,4節)まず、全ての信者が理解しなければならないのは、牧師がキリストによって立てられた聖職者であり、その牧師の年代や性格や国籍や教育などに関係なく、イエスキリストに遣わされた人であれば、その牧師に服従することはイエスキリストに服従すると同じだということです。 ヨハネ 13:20 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしの遣わす者を受け入れる者は、わたしを受け入れるのです。わたしを受け入れる者は、わたしを遣わした方を受け入れるのです。 なので、牧師に反抗することは神様に反抗することなので、気を付ける必要があります。そして、神様は、牧師も人間なので、完璧ではなく、失敗する者だと分かっていますが、それでもあなたの牧師は神様に選ばれた者であり、あなたが通っている教会に責任があります。 へブル 13:17 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。 牧師に正され、教えを受けることは良いことです。しかし、肉体的な習慣を捨てたくない人は矯正を軽蔑し、それを拒むでしょう。なのでパウロはそういう人について警戒しなさいと命じました。 最後に、山梨県の姉妹の発言に関して、どこが正しくないのを一緒に考えたいです。 […]
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主の家に行こう!
私は、イエスキリストを受け入れた時にPaul Wilburという歌手の賛美をよく聞いていました。当時私は高校生であり、毎週日曜日に教会に行く時にUp To Jerusalemという賛美を家族で歌いました。その賛美は詩篇122章に基づいて作曲された賛美です。その詩篇はこう言っています。 詩篇 122:1 人々が私に、「さあ、主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。 父が教会に行くことを楽しみにし、この賛美を歌っている姿が、私の記憶にまだはっきりあります。なぜなら、私たちにとって教会に行くことは楽しいことだからです。教会に行き、兄弟姉妹と賛美を歌い、メッセージの時に、みことばに完全に集中し、霊的に養われ、礼拝が終わったら、良いレスランで食事することにとても満足を感じられました。そして、礼拝後に少し兄弟姉妹と交わりを持ち、みことばの話や普通の話をしたりなど、嬉しかったです。 今、大人になり、また、聖職者にもなって、私の注目を引いたのは、なぜ、クリスチャンの家族の間で、多くの子供が教会に来ることを楽しくないと思うようになり、教会に行かないことを決断したのでしょうか。それは親の影響もあるかもしれません。小さい子供は親が教会に通うことに関してどういう姿勢と態度を取っているかを常に見ており、影響されていると思います。なので自分の娘が教会に対して興味を失わないように、妻といくつかのことを決めました。 まず、教会に行く日に、私たちは週の中で、その日を最も大切にすることを決めました。なので、それも娘に私たちの態度と姿勢で伝えようとしています。遊園地よりも、教会に行くことは楽しいというメッセージを娘に伝えたいからです。また、私たちも教会に行くことを楽しんでいることを娘に表したいです。なぜなら、もし娘は、私たちが教会に行くことを辛いとか大変とかと思ったら、娘も教会に行くことが大変だと思い始め、なぜ、わざわざ毎週、教会に行く必要があるのかと思うでしょう。なので、私たち親は自分の姿勢と態度にきちんと気を付けなければなりません また、毎週日曜日になるべく他の用事などをその日に入れないように努力しています。それは、「日曜日は教会に行く日だ」と娘にはっきり伝えたいからです。それに、バタバタし、感情的にならないようにするためです。旧約時代にユダヤ教の人は安息日として土曜日を完全に神様に捧げる習慣がありました。その日に、他の仕事をせず、家族と過ごし、みことばを思い巡らしました。別に律法のように私たちは土曜日を守る必要がないと思いますが、その原則を大切にしなければならないと思います。そのために、私たちは日曜日に教会に行く前に、自分自身の準備のために祈りが必要があり、その時間を持つことを大事にしています。その時に、礼拝のために、その日に会う兄弟姉妹と牧師のためにお祈りします。日曜日はゆっくり神様と過ごすからです。娘は私たちが親としてそういう時間を大切にしていることを見る必要があります。そもそも親は子供の模範だからです。 最後に、娘をわくわくさせるために、その日にだれに会うか、また何をするかを伝えます。なので、とても仲の良い友達や教会の大好きなお兄さんたちとお姉さんに会うことを伝えます。それから期待をもたせるために、一緒にわいわい喜びます!もちろん、友達と一緒にみことばを学び、一緒に賛美し、遊ぶことを伝えます。それは教会が楽しいからです。娘に教会が葬儀のような所だという印象を与えたくないです。また、聖職者として私は教会で様々なトラブルを対処する必要があります。それは、簡単なものでもなく、時にはとても疲れることもあります。しかし、娘はそれを理解できる段階になっていないため、私は聖職者の仕事が重いものだという印象を与えないように、知恵をもって伝える方法を学ばなければなりません。また、クリスチャンとして信仰をもって、いつも喜んでいる姿と愛をもって、誰でも我慢し、耐え忍ぶ模範を私は娘に与えなければなりません。なぜかというと、多くの子供が教会に行くを諦めるのは、親がいつも牧師に関しての不満を言い、また兄弟姉妹の悪口を言っているからです。そうすると、子供は親の悪い手本を見、教会に行きたがらなくなります。 キリストにあって愛する兄弟、教会に行こうと聞いたら詩篇のダビデのように喜んでください!教会が大変なことのように思っているなら、見直してください。教会は楽しいからです。そして、教会で楽しい生活を送るために、まず自分自身が喜ぶ必要があることを忘れないでください。また、あなたは教会生活で取っている姿勢と態度があなたの周りに影響を与えることを常に思い出してください。それは周りの人も自分の大切な家族も救いに導くチャンスです。人の救いの邪魔にならないように気を付けましょう!