質問:ある病気と診断され、その治療薬を服用していました。最近、神の癒しを学んでいました。私はこの話を聞いてとても勇気づけられ、私の癒しを神に信頼しています。私が持っている疑問は飲んでいる薬に関係があります。信仰の行動として薬を中止したほうがいいのでしょうか?薬を飲むことは、私の信仰と矛盾しているのでしょうか?この点についてどうしたらいいのか、少し迷っています。 回答:とてもいい内容の質問ですね。このような問題に対して、多くの人が疑問を持ち、迷っています。どんな問題でも、人はどちらかに極端に傾く傾向があるようです。それは、道路の両側にある溝に車を入れないようにするのが難しいドライバーのようなものです。 信仰と医療について、ある人達は「神はもはや癒してくれない」「癒してくれるとしてもごくまれだ」と教えます。彼らは、奇跡の時代は終わったと言います。また、他の人はその逆で、神は今も癒してくれるだけでなく、クリスチャンが癒しを求めて医者に相談したり、薬を飲んだりすることは罪であると主張する人もいます。 最初の教えの問題点は明白です。それは、イエスキリストが昨日も今日も永遠に同じであるという聖書の真理を無視しています(ヘブル13:8)聖書は、神の力が歴史の中のある時に追いやられたとは教えていません。私たちは、約2000年前に生き、癒したイエスに仕えています。イエスがすばらしい業を行うために油を注がれた聖霊を私たちも持っています。主の慈しみと憐れみは変わらず、御言葉も変わりません。 2つ目の極面の危険性も明らかです。クリスチャンが病院や医療を利用することに反対の説教をする人々によって、人々に多くの害がもたらされ、キリストの体に多くの批難がもたらされたのです。このようなやり方によって、無駄に苦しんだり、死んだりした人たちの記事が、この数年、マスコミに溢れかえっています。 宗教上の理由で親が子供の医療を拒否するという痛ましいケースもあります。公の場を超えて、不必要な苦痛や死が発生しています。また、この誤ったイデオロギーを広める人々によって、罪悪感や恥ずかしさ、非難を浴びせられ、精神的にも苦しんでいる人が大勢います。 残念なことに、医学と信仰を敵対視するような言い方をする人がいます。この2つの力は、矛盾するものではなく、補い合うものであると考えるべきです。結局のところ、あなたの信仰も医療も、あなたの癒しと健康で完全であることという同じゴールを目指しているのです。私の考えは、医療と信仰は統合され、補い合うことができるということです。それらは敵対するものである必要はなく、また互いに孤立する必要もありません。 この問題をご自身の考えで解決するために、次のことを検討してみてください。 1. ルカによる福音書10章30-37節で、イエス様は、私たちが “良きサマリア人 “と呼ぶ人物の話をされました。この物語でサマリア人は、殴られ、大怪我をしている人に出会いました。彼は、その当時、最高の薬であった油とぶどう酒でその人の傷を治療し、包帯を巻きました。さらに、男性が怪我から回復するまでの時間を確保するようにしました。イエスはこの男の慈悲深い態度を褒め称え、それは真似するに値すると言われました。ここでわかるのは、イエスは必要な時に薬を使うことに反対はしていなかったということです。 2. ルカは医者で、パウロとともに旅をし、自分の名がついている福音書や使徒言行録を書きました。実際、パウロはルカを「愛する医者」(コロサイ4:14)と呼んでいる。パウロが鞭打ち、殴打、投獄などの虐待を受けたとき、ルカはパウロに軟膏をぬり、包帯を巻くなど傷の手当てをしていたと考えるのが妥当でしょう。パウロが彼を「愛すべき」医師と呼んだのは、このためだったかもしれません。 3. […]