私達は仕える前に神様の子供です。 私達クリスチャンは教会での奉仕があります。教会の中では五職のミニストリーで奉仕をする人、ワーシッパー、子供達の先生や他にも奉仕がいっぱいあります。奉仕をすることはいいことです。しかしながらそれだけにフォーカスを向けるのは良くないことです。聖書ではその例があります。 ルカ10:38-42 38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 私達が教会で奉仕をすることは神様への行いです。神様の働きは彼のためにあります。神様はそれが成就するのを最も期待しています。 しかし、残念ながら多くのクリスチャンが忘れていることがあります。神様は私たちの奉仕、行い、忙しさよりも、私たちとの交わりをもっと望んでいるということです。神様の望みは私達との時間です。彼は私達クリスチャン一人一人との交わりを大切にします。 神様の喜びは彼を求める人であり、奉仕がありすぎて忙しいことではありません。 しかし、神様の行いを何もしないで、ただぼーっとすることを言ってるのではありません。 神様の奉仕、働きがなければ前進できないからです。 しかし、多くのクリスチャンが働きだけを見るのはとても悲しいことです。 また、自分のタイトルに気をかけている人もいます。牧師、預言者、偉大なメッセンジャーなどのビッグネームにフォーカスしています。 しかし、そこに目を留めるのではなく、最も重要なのは神様の息子、娘であることです。 マルタとマリアのこの聖書箇所では、 40節で「マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず」と書かれています。マルタはイエスを自分の家に招きました。イエスのために最高なおもてなしをしたかったと思います。 マリアはどうだったでしょうか? […]