私は、以前の記事で危機が来た時、私たちは機会を生み出すことができるという話をしていました。前回言ったように、危機が来るのは不可避です。しかしながら、挫折して絶望するより危機から機会を生み出す方が良いと思います。 残念ながら、多くの人は特に、自分の仕事のことを心配し、どのように請求書や、家賃などを払うかを恐れてたまりません。ただ嘆いてばかりでは、状況に何の変化ももたらしません。それより、危機を乗り越える方法に焦点を当てる方がもっと効果的です。 あなたは危機の中をポジティブな考え方で通ると決断するとき、成功の道に近づいていると言っても良いでしょう。危機からいくつかの利益を見ることもできます。 まず、危機はあなたを考えさせます。あなたは今まで快適な場所にいて、自分の人生に不都合なことがなく、安定していましたが、はたして自分の人生の目的を果たすことができていたでしょうか。 次に、危機は自分の持っている能力を磨き、改善するチャンスを与えます。さらに、古い考え方を新しい考え方に改善するチャンスも与えます。 また、危機の中で本当のリーダーシップが現れます。多くの人は自分の快適な場所から取り出され、今までの生活のパターンも壊されることで、自分の中にある眠っていた賜物を呼び起こされます。 危機は新しい生活様式を生きる機会を与えます。よく考えてみると、危機からあなたの人生の目的を果たす機会が生み出されます。もしかしたら、あなたは今まで平凡な人生を送り、現在の仕事に慣れ、満足をしていると自分に偽りを言っていたかもしれません。危機は神様から与えられたものではないと確信していますが、危機から学べることも多いと思います。また、それは自分が成長する機会です。 ヤコ 1:2-3 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上ない喜びと思いなさい。信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。 逆境に直面するとあなたの頭も体も心も解決する方法に対して敏感になり、危機はあなたのビジョンの情熱に火をつけます。そして、厳しい挑戦の中であなたの心は普通より鋭くなります。なので、次のことを考えてほしいです。周りの人は、あなたが克服し、勝つと言うことをあてにするのではなく、あなたが、すでに生き抜き、克服したことに信頼を置くのです。危機を通った後は、あなたは今より強くなります。 あなたの人生に起こるものは全て一時的なもので、永遠には留まりません。現在の状況も過ぎ去ります。それで、厳しい時からこそ、自分の考えのパターンを変えるチャンスです。古い考え方は解決を生み出しません。今まで通りに生きていればあなたはその状況に飲み込まれます。しかも、あなたの仕事は危機に覆われている社会に必要とされないかもしれません。なので、あなたは仕事に希望を置いてはいけません。あなたの仕事は、人から与えられ、あなたはその仕事をすることによって報酬が支給されます。また、あなたが仕事で得た能力は今、必要とされないかもれません。しかし、神様があなたに与えた働きはあなたの人生の最後まで必要とされます。 聖書には退職について書かれていません。仕事であれば時期が来れば退職しますが、聖書で教えるあなたの働きはあなたが果たすまで終わりません。つまり、聖書に書かれている人たちは自分の働きが終わった時に、この地上を去って天国に行きました。イエスキリストの人生をはじめ、パウロやペテロなど、他の弟子たちも同じでした。彼らは自分の人生の目的を果たし、終わった時、退職したのではなく、天国に連れて行かれました。 私が言いたいのは、おそらくあなたは、今まで仕事に頼り、ひとまず安定した生活をしていたでしょう。しかし、そこに危機がやってきて、状況が全て自分の手に負えなくなったと思っているでしょうが、神様はその状況に少しも震えていません。むしろ、神様はあなたに託した賜物が働くならあなたが全て状況を乗り越えることを知っています。それは神様があなたを創った時、あなたが直面する状況やあなたが持っている賜物、能力などを知っており、キリストにあってあなたを圧倒的な勝利者にしたからです。 最後にこれを思い巡らせてほしいと思います。あなたの仕事とあなたの働きは違うものです。もちろん、仕事は大事だと思います。イエスキリストさえ大工の仕事をしていた期間がありましたが、人生の最後まで召された働きをしました。また、このことも理解すべきだと思います。それは、仕事をすることで給料が出ますが、あなたの働きは繁栄をもたらしますことです。危機は快適ではないけれど、あなたが創作力を持つようになる機会を与えます。また、それよりも、あなたが本当の人生の目的を探し求めることを促します。それは、あなたの仕事が必要とされなくなったとしても、神様から与えられた働きはあなたの人生の目的でいつも必要とされるからです。 起き上がって!神様の御国のために働いていきましょう!
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危機の機会
働く」ということを聞くと、あまり良いイメージを持たない傾向が高いと思います。一般的に、「働く」ことは面倒くさいと思われ、職場のことを考えれば、鳥肌がたつ人もいるでしょう。しかし、仕事がどれほど大変であっても、毎月の家賃などを支払うために、しなければなりません。また、特に危機の時に仕事がなくなると、さらに苦しくなるので、無職より仕事があるだけましです。 危機と言えば、多くの危機は仕事と直接関連があると思います。よく考えると、多くの人は仕事を通じて自分の価値を決めつける傾向があり、生きるために仕事をします。仕事が好きでもそうでなくても、関係がありません。とにかく仕事をしなければならないと思っています。しかし仕事がないと、絶望的になります。金銭的に困り、家族が崩壊し、平安を失い、何もうまくいかなくなります。 ところが、危機は不可避です。自分の損失を嘆いても、あなたの状況に何の変化をもたらさないし、逆にさらに酷い状態になる可能性が高いです。なぜなら、重要なのはあなたがどういう目で危機を見ているかということだからです。あなたの見方によってあなたが成功するか否か決まります。 「危機」の言葉をよく見ると、その熟語の終わりは「機会」の言葉の始まりと考えられます。つまり、危機を終わりにしたいなら、まず危機から機会を作ることが重要なのです。 危機を乗り越える方法に深く入る前に、「働く」ことについてもう少し考えたいです。多くの人は働くことに対して悪いイメージを持っているのは、自分の人生の目的が明らかではないからです。なので、面倒くさいと思いがちです。 自分の人生の目的を理解するためには、その創造主のことを知る必要があります。なぜかというと、私たちを造った神様は、ある目的を持って私たちを造ったはずだからです。例えにするとしたら、誰かある電気製品を作る時、利用者が適切に使えるように、製品と共に説明書も送ります。私たちも自分の人生の説明書である聖書を持っています。なので、聖書が私たちについて何を書いているのか見てみましょう。 創 1:26-28 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 人間は神様と同じ性質を持って造られた被造物です。しかしながら、それだけでなく、この世を支配するために造られ、ある使命も任されました。それは、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」簡単に言えば、それは私たちの人生の目的です。別の言葉を使って言うと、神様は私たちを働くために造られました。私たちは自分の使命を果たすと達成感もでき、全てを意味します。 次に、もう一つの重要な点は、あなたの仕事とあなたの働きには違いがあることです。それらは同じことではありません。あなたが午前9時に会社に入り、午後6時に会社を出て、毎月給料を受け取り、仕事に人生をかけ、65歳以上になったら退職するのは、あなたの仕事です。しかし、それはあなたの働きではありません。なぜなら、あなたの働きはあなたの人生の目的と繋がっているからです。 神様はあなたが働くために、あなたを造りました。なので、働くことによって自分の人生の目的を果たすことができるのです。あなたが働くことで充実した人生を送ることができる上に、あなたの周り、この世の人たち、また、神様の国も祝福されます。 仕事をすることで様々な経験を得ることができ、スキルも身につけられます。また、仕事もあなたの働きを貢献することがあります。しかし、仕事がなくてもあなたから働きがなくなることはありません。それは、働きはあなたの内にあるからです。要するに、仕事がなくてもあなたは働くことができます。それで、どのような危機に直面してもあなたは栄える機会を生み出すことができます。あなたはそのために造られたからです。そしてあなたが働くことによって、神様の祝福が放たれます。仕事をすることによってあなたは支給を受け取りますが、働くことによって神様があなたに繁栄をもたらします。 今回のブログは前半だけです。今度改めてこの課題について一緒に考えたいので、見逃さないでください。
コロナに負けるな
全世界は今、非常に大変な状況に直面しています。テレビをつけるとコロナに関するニュースばかり放送しています。今のイタリアやスペインの状況を見る度に心が痛みます。結局、頭が恐ろしいニュースでいっぱいになり、自分も伝染病に移ってしまうのではないかと恐れてしまいます。 そんな状況を見るとき、昔、イスラエルの民に起こった話を思い出しました。それは、十の災いという実話です。当時、エジプトで奴隷とされたイスラエルの民は神様の選ばれた国で、自由にされる直前、エジプトの不従順のせいで、十の災いにあいました。神様はエジプトのパロに神様の民であるイスラエル人を自由にしなさいという命令を出しました。十の災いはなんて恐ろしい体験だったでしょう。しかし、イスラエルは神の選ばれた民なので、神様に守られ、災いに影響されませんでした。しかし、このような状況下にいたので、恐ろしい光景を生で見ていました。 最後の災いとして、神様はイスラエルの民にある指示を与えました。この時代、いけにえの習慣は普通だったので、子羊の血を取り、「その血を家々の戸口の両わきの柱とかもいに塗る。血は、その家で食べる子羊のものを使うこと。」(出エジプト12:7‐リビングバイブル)それから、家で家族全員が子羊を焼いて食べました。その夜はとても怖い夜で、家族全員が自粛をし、恐れに囲まれていた状態だったが、まだ見えない自由を宣言しました。 家の両わきの柱と、かもいに血が塗られた家は、その夜神様に守られましたが、血が塗られていなかった家々には死が入り、その家族たちの長男を殺しました。その後で、やっと当時エジプトを収めたパロが悔い改め、神様の民を奴隷制度から解放し自由にさせました。 これは、ユダヤ教の中で過越し祭として知られており、神様が自分の民を守って解放されたという記念日です。 今月、過越祭がお祝いされますが、現在、過越祭はさらに深い意味を持たれていると思います。ちなみに過越祭は現在、イースターとしてよく知られています。西洋の方では、よくお祝いされていますが、日本ではほとんど知られていない祭りです。 先程のお話に出てきた、羊の血は、神様との契約と意味があり、子羊の血を塗られた家にいる家族は、「私たちは神様の者です」と宣言していることになり、彼らが神様を信じて信頼していたことの証です。神様はそれを見て、彼らが信頼し、全てをささげているので、神様は自分の民を守って解放しました。 それを理解するとき、過越しの意味をさらに深く理解できると思います。イエスキリストがユダヤ人であり、ちょうど過越祭の時に、十字架につけられました。聖書にはこのように書かれています。 1コリ 5:7 私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。 要するに、イエスキリストが十字架で死んだのは私たちのためです。 これを聞いて、「えっ!?これらの話は、最初に挙げた今日のニュースやコロナと何の関係があるの?」と疑問に思うかもしれませんが、私にとって全てが関連していると思います。恐ろしいことが起こっている今だからこそ、あなたに励ましたいです。あなたの信仰を奪われてはいけません! イエスキリストの血を自分の心に塗っている人たちは全員救われます。今年の過越祭、つまり、イースターは4月12日にお祝いされます。イスラエルの民のように、私たちも大変な状況の中にいますが、先程の話を思い出してください、自分の家を羊の血を塗った人たちは、家族全員が守られ、無事食事をしていました。 なので、神様と契約を持っている人、すなわち、神の羊であるイエスキリストを受け入れた人たちは、守られています。聖書にある全ての守りの約束は私たちにも当てはまるのです。安心してください。もうすぐイースターが来ます。私たちの神の子羊であるイエスキリストは自分の民を迎えに来ます。 もしあなたがまだ、自分の心に神の子羊の血を塗っていなくて、これからは神様との関係を持っていきたいと思うなら、今、自分の口でこの簡単な祈りをすれば、イエス様はあなたと食事することができます。イエスキリストはそう約束したからです。 一緒に祈りましょう。 イエス様、 あなたは、神様の民を救うために来た神の羊であること信じます。 私の心に入ってきてください。 私の主と救い主となってください。 […]
怠け者のクリスチャン
私たちは、クリスチャンとして、信仰に生きるために召されました。 ロマ 1:16-17 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 「福音は神の力」と、読むと心が踊り、楽しくてたまりません。しかも、それは、日本人であってもなくても、あなたが福音を信じるなら、神様のみことばの力を体験することができます。もちろん、救いだけでなく、日常生活で、信仰によって神の力を燃え立たせることができます。聖書では「福音のうちには神様の義が啓示されている」と書かれています。それは、あなたが信仰を実行しながら霊的に成長して進んで行くからです。 信仰なしでは、私たちは神様を喜ばせることすらできません(へブ11:6)。信仰は私たちのライフスタイルなので、聖書では「義人は信仰によって生きる」と4回も堅く提示されています。(ハバ2:4;ロマ1:17;ガラ3:11;へブ10:38) では、どうすれば信仰によって生きられるのかという疑問が出てくるかもしれません。その答えを、簡単に言うと、ロマ1:16が教えている通り、福音を信じれば良いのです。つまり、神様のみことばを信じれば信仰によって生きることになります。 しかし、残念ながら、多くのクリスチャンは信仰によって歩んでいるどころか、ほとんどが肉体的に歩んでいます。 要するに、この世の人のように普通に生きていて、自分は霊的な者だという認識さえもしていません。責めるような表現に聞こえるかもしれませんが、私はそのようなクリスチャンを「怠け者のクリスチャン」と呼びます。なぜそう呼ぶかというと、彼らは信仰を実行する努力したくないからです。 イエスキリストの弟子たちも同じように、たまに怠け者のような態度をとったのでイエスキリストに強く叱られました。 マルコ 4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」 この話の背景をさらに詳しく理解するために、マコ4:35から5:1まで読むことを勧めますが、今回はある部分だけを深く分析したいと思います。 主イエスは、聖霊様に動かされ、弟子たちに「船で向こう岸に渡ろう」と指示を与えました。しかしながら、主イエスが群衆にたくさんのみことばを教えていたため、途中で疲れて船尾で寝てしまいました。 すると、急に天気が悪くなり、恐ろしい嵐や、大波が起きたため、弟子たちは死にそうだと思って絶望していました。彼らは主イエスを起こすと、主イエスは激しい大雨に強く命じて天気を落ち着かせました。その後、上に挙げたように、弟子たちを叱りました。 その場面から、私たちが理解できるのは、主イエスは、弟子たちがあの激しい状況下で、何かしらの態度をとることを期待していましたが、その期待が満たされなかったことです。 なので、主イエスは不満に思い、弟子たちに「信仰がないのは、どうしたことです」とはっきり話しました。 弟子たちはいつも主イエスの教えを受けて、模範であるイエスの姿勢や振る舞いを見ていたので、信仰が使えるはずなのに、信仰の行動をとらなかったのです。 むしろ、弟子たちは、厚かましく、主イエスがなんとかしてくださるはずだと考えて、主イエスに責められるほど、怠けていました。 […]
金持ちの青年
聖書の中で私にとって心強い聖書箇所があります。マタイ19に金持ちの青年の話が記載されています。その青年はイエスと話して去った後、弟子たちはイエスのところに近づいて興味深い質問をしました。 マタ 19:25 このことばに、弟子たちはすっかり面食らってしまいました。「それなら、この世の中で、救われる人などいるでしょうか。」 それに対して、イエスキリストの返事は心に安らぎをもたらします。 マタ 19:26 イエスは、弟子たちをじっと見つめて言われました。「人間にはできません。だが、神には何でもできます。」 それはとても喜ばしい良いニュースです。私たちは神様を信頼すれば、神様は何でもできるお方なので、神様に救われることを信じることができます。しかし、弟子たちは深く考えていた。一体何があって心配させたのだろうか。そこに注目を弾き寄せます。主イエスとあの青年はどんなことを話したのでしょうか。二人の間に何があったのでしょうか。 マタイ19章16節から30節までその話は記載されています。ある金持ちの青年はイエスに近づいて、永遠の命を得るには、どんな良い行いをすれば良いのかと訪ねていました。質問に対して、イエスは、ユダヤ教に属している人にとって、とても簡単な質問しました。それは、「あなたが十戒を守るのか」ということです。ユダヤ教というと、モーセの立法である十戒は最も有名だと言っても過言ではありません。ですからイエスキリストはいくつかの一般的な法則を引用して、青年は全て肯定的で、自信満々で「はい」と答えました。ところが、十戒の中で、イエスは一つの法則を隠し青年に聞きませんでした。どういう法則だったのでしょうか。 その前に、話を続くと、イエスは青年に全ての財産を売って、その代金を貧しい人に分けて与えなさい。そしてイエス様についてきなさいと命じました。そうすれば、青年は永遠の命を得ることができると、イエス様は明らかにしました。残念ながら、青年はそれを聞くと、大変金持ちだったのでとても落ち込んで主イエスのところを去りました。 それで、主イエスは弟子たちに向かって、金持ちが天国に入るのは、非常に難しいと教え始めました。ですから、それに対して弟子たちが驚いたのです。「それなら、この世の中で、救われる人などいるでしょうか。」と疑問しました。一方で、現代である私たちは、なぜ弟子たちがそんなに驚くのかと不思議だと思うかもしれません。それは、私たちは宗教的に金が悪いなどと教わったため、イエスの教えが当然だと決めつけてしまうからです。 この背景をよく理解するためには、ユダヤ教の持つ考え方の弟子たちがなぜ驚いたのか知る必要があります。まず、理解するべきなところは、イエスキリストが別に金持ちに反対して天国に入るための制限があると教えていないということです。他の聖書箇所を見ると、金持ちでもキリスト教に属し、神様は豊富に対して逆らっていないとわかります。 1テモ 6:17 テモテよ。富んでいる人には、高慢にならないように、そして、すぐになくなるお金に望みをかけないように教えなさい。また、必要なものをいっさい備えて、私たちの人生を楽しませてくださる生ける神を誇りとし、この方だけを信頼するように忠告しなさい。 そして、主イエスについて行くためには、全ての財産を捨てる必要があるという教えは全てのクリスチャンに当てはまるものではありません。なぜかというと、主イエスがそのように命じたのはその青年だけに向けた言葉です。それは、十戒の話の中で隠れていた法則と関係があります。 それから、弟子たちが驚いた理由を理解するためには、こういう風に考えてみましょう。あなたの教会に、ある青年がくるとします。その青年は、働き者で、良い家庭に育てられました。自分の宗教に対して優秀でした。彼を見て、誰でも、その青年は力を尽くして、心から教会の教えを従おうとして、勉強する努力も見られました。それに、とても祝福された人生を送っていました。それは、必ず彼が神様のみこころに従っていた証拠だったので、大変富む人になったと思われていました。ですから、教会の奥さんたちも「もし彼は、私の娘と結婚していればなんて幸せなんだろうか」と夢中になり出来るだけ自分の娘をその青年に紹介しようとしました。 もしかしたら弟子たちもこのような考え方を持っていた可能性があります。特にユダヤ教徒にとって、富むということは神様のみこころにかなっている証拠でした。その青年は、十戒を守ろうという姿勢も見えたし、永遠の命に興味もあったし、とても繁栄な人生を送っていたのに、なぜ天国に入らないのかとびっくりしたでしょう。それだったら、誰が、救われますか。無理でしょう。 人間は努力しても、心の底では悪い気持ちを養うこともあります。ある人は誰かに対して恨みを持つかもしれません。ある人は、誰にも言えない、不品行な思いを持っています。主イエスに出会った青年は、貪欲を隠そうとしました。十戒の中で最後の法則は、貪るなという法則です。ですから聖書はこのように記載されています。 […]