聖書では私たちがイエスを信じて、口で告白した時に私達は救われて、私達の霊は新しくされました。と書かれています 2コリ 5:17 “だれでもクリスチャンになると、内側が全く新しくされます。もはや今までと同じ人間ではありません。新しい人生が始まったのです。 私たちの本当の自分は霊です。霊的なものです。私達には考えがあり、感情があり、この体に宿っています。私達の霊は救われていますが、私の体はまだ救われていません。常に魂と体を神様の御言葉によって一新される必要があります。 ローマ 12:2 “この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。” どれだけ熱心なクリスチャンであったとしても誘惑がくるかもしれません。しかし私達は罪の奴隷ではなくなりました。今は義の奴隷となりました。 ローマ6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。 私たちはもう罪に支配されることはありません。それは律法にいるのではなく、恵みにいるからです。 イエスを受け入れた時に私たちは暗闇の支配から、神様の愛のみ国に救い出されました。もし罪が支配しているなら、その許可を与えているためです。 残念ながら多くのクリスチャンの中でも、悪い考えや、悪い感情でいっぱいで居続けますが、その理由はその考えや思いに許可を与えているからです。私達は今は罪の下にいるのではなく、神様の命の中にいます。 私たちの霊が私達を支配しています。 ローマ6:17 神に感謝すべきことには、あなたがたは、もとは罪の奴隷でしたが、伝えられた教えの規準に心から服従し、18 罪から解放されて、義の奴隷となったのです。 しかし、この世の中に影響があります。 一つの声があります。その声にフォーカスし続けていると、神様の御心から離れてしまいます。人間関係がうまくいっていないのかもしれません。家庭内の問題、嫁と姑の関係、仕事場の人との関係、上司、同僚、教会の中でもありえることです。気難しい人がいたり、気が合わない、そういう感情は本当の自分からはきません。しかし聖書ではこのように言っています。 […]
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神の臨在
私達クリスチャンは一つの重要な事に対しておろそかになってしまう時があります。それは神様の命が私達の内側に住んでいることです。 旧約聖書では人間が罪を犯したことによって人間は神様との交わりがなくなりました。そして、神様の臨在の中で生活することがなくなりました。しかし、神様は常に人の間に現れたかったのです。神様の臨在は箱の中にあった時もありました。 1サムエル 7:1-2: “キルヤテ‧エアリムの人々は来て、丘の中腹にあるアビナダブの家に神の箱を運び込みました。そして、アビナダブの子エルアザルに管理を任せました。その箱は二十年間、そこに置かれたままでした。その間、イスラエルの全家は主に見放されたような悲しみの中にありました。” 2サムエル 6:11: “こうして主の箱は、三か月間オベデ‧エドムの家に置かれました。主は彼の家を祝福しました。” 契約の箱、神様の臨在がある箱は色々な場所に置かれていました。そしてその約束の箱は20年間アビナダブという男性の家に置かれていました。そのあと約束の箱は3ヶ月間オベデエドムという男性の家に移動しました。この違う2人の家に置かれましたが、約束の箱が来た後の影響は違いました。 アビナダブの家に20年間も置かれていましたがイスラエルの全家は悲しみにいたと先ほどの聖書箇所で見ることができます。もう1の家であるオベデエドムの家には3ヶ月間置かれていましたが神様は彼の人生を祝福したと聖書で言っています。なぜでしょうか? その違いは主の箱、契約の箱に対して敬いがあったか、またはそうではなかったかです。オベデエドムは朝起きて、このようにしてたでしょう。主の臨在です。主の臨在がここにあります。私の家に主の箱があるなんて、なんと光栄なことか!その喜びがありました。尊敬していたんです。敬いがありました。そしてその理解を持っていたのでそれが影響をもたらしたのです。 祝福されていきました。もしアビナダブも彼のように主の臨在を敬意を払っていたならアビナダブは20年間もの間祝福を受けていたでしょう。皆さんはアビナダブかオベデエドムどちらですか? ガラテヤ 2:20: “私はキリストと共に十字架につけられました。もはや、私自身が生きているのではありません。キリストが、私のうちに生きておられるのです。私のためにご自身をささげてくださった神の御子を信じた結果、今、私のうちにはほんとうのいのちが与えられています。” キリストは私達の内に生きておられます!それは感情で知るのではなく信仰によって受け取ってください。主の臨在が働いている場所では敬意を示す必要があります。教会での礼拝に対しても敬意を示すことが大事です。ただのクリスチャンの集まりの時間だし、皆でワイワイできたらそれで満足は間違いです。一緒に集まり、イエスを礼拝する時、その場所には神様の栄光が現れます。 アビナダブの家とオベデ・エドムの家は何が違ったのでしょうか?主の箱がオベド・エドムの家に到着すると、彼は神の臨在を尊重しました。どの家庭でも、私たちは主を第一に考える必要があることを理解する必要があります。私たちは時々、私たちの人生に神の臨在がないかのように行動してしまうことがあります。多くの人は特定の礼拝での神の動きを見逃していますが、各集会を大切にすることが大事です。 アビナダブの家の人々は、神の臨在の箱に何の尊重もありませんでした。約束の箱があって当たり前のように生活していました。そして、オベデエドムの家に主の箱が置いてあった期間は3ヶ月でした。その後ダビデ王が約束の箱を取りに来たときに、オベデエドムは言いました。この契約の箱、臨在の箱は王様のものです。どうぞ持ち帰ってください。しかし彼はその主の箱の臨在の虜になっていました。その主の臨在なしでは生きてはいられなくなったのです。なので主の箱はエルサレムに持っていかれたので、彼はエルサレムに引っ越しました。 そして彼は主の箱が置かれている建物の門の見張り役としてそこにいました。そして他の機会では約束の箱の近くで演奏をするチャンスがあったので、オベデエドムは主の箱の前で演奏しました。彼は主の臨在の近くに居たかったんです。旧約の契約では主の臨在に触れるためには、主の存在の近くに行くためには、主の箱に行く必要がありました。しかし今は違います。新契約は主の臨在が私たちの中に住むようになったのです。 エペソ […]
信仰x疑い
私たちは告白した以上のものを受け取ることはありません。信仰は告白によって成長しますが、それを超えることはありません。 正しいことを告白することは、御言葉によって新たにされた心から来る正しい考えの結果です。疑いは信仰の最大の敵で、ギリシャ語には「疑い」と訳されている言葉があります。 Diakrinoです。それは信仰が不足していること。疑いと恐れは一緒になって私たちの信仰を奪います。 聖書のペテロは水の上を歩きました。イエスは群衆にパンと魚の奇跡を起こしたあと、弟子たちに船で向こう岸に行かせました。 マタイ14:28-34 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ、助けてください」と言った。31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。34 彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。 ペテロが風の方を見て、その状況をフォーカスした時に恐れ、疑いを生じさせたことを見ることができます。 恐れと疑いはセットであり、信仰を盗みます。そして疑いは不信仰を生みます。 また、1人の人が自分の息子のために祈ってほしいと弟子たちに頼みましたが弟子たちは直すことが出来ませんでした。そこでその人はイエスの助けを求めました。 マタイ17:18-20 そして、イエスがその子をおしかりになると、悪霊は彼から出て行き、その子はその時から直った。19 そのとき、弟子たちはそっとイエスのもとに来て、言った。「なぜ。私たちには悪霊を追い出せなかったのですか。」20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ』と言えば移るのです。どんなことでもあなたがたにできないことはありません。 マタイ […]
私達の舌を制御する重要性
乾燥な時期になるとよく山火事が発生することがあります。その火事はおそらくゆっくりと小さい火から発生しましたが、短時間のうちに全体に広がり、広い面積を焼き尽くします。私たちの口から出る言葉は、隣人や自分自身を生き返らせることも殺すこともあるのに、私たちはそれに気づいていないことが多いのです。 ヤコブ3:5-6 同様に、舌も小さな器官ですが、大きなことを言って誇るのです。ご覧なさい。あのように小さい火があのような大きい森を燃やします。舌は火であり、不義の世界です。舌は私たちの器官の一つですが、からだ全体を汚し、人生の車輪を焼き、そしてゲヘナの火によって焼かれます。 私たちは自分の言葉をコントロールすることの重要性を毎日心に留めておく必要があります。私たちの口は人々を祝福するために使われなければなりません。 癒し、救い、そして神さまの愛の宣言の源として使われなければなりません。私たちの言葉を通して、夢は殺されるのではなく、復活する必要があります。以下の聖句を通して、舌を守ると決心した人は心も守ることがわかります。 詩篇37:30-31 正しい者の口は知恵を語り、その舌は公義を告げる。心に神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけない 箴言18:21 死と生は舌に支配される。/どちらかを愛して、人はその実を食べる。 多くの場合、私達自身に対して、また他の人に対してこのように言ってませんか? そしてその言ったことが悪い影響を与えていることに気づかない時があります。うまくいかないよ!私が結婚?無理無理!あの病気は治らないよ! 私達が忘れているのは、私達が話す言葉は霊的な世界に種を蒔いていることです。 あなたの人生の中で何回このようなことを言われたことがありますか?あなたの将来が心配だよ!馬鹿だな!この出来損ない!もしかしたらあなたの心の中で、思い出の中で、その言われたことに対する傷だったり、悲しさがあったかもしれませんが、もうあなたイエスによって救われて神様の愛があなたの中に入って、あなたはイエスによって癒しを受け取りました。 それは精神的な癒やし、体の癒し、全部です! 問題の根本を認識する必要性があります。 私たちの舌の問題は心にあります。 ルカ 6:43-45 悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。 良い木から悪い実は出てこないです。愛によって歩んでいないのなら愛を与えることはできないです。心が憎しみでいっぱいなら赦しに歩むことはできません。 […]
聖書は私達の人生の取扱説明書です。
私は何回か取扱説明書を読まないで家具を組み立てようとしたことがあります。しかし思うようにうまくいきませんでした。 取扱説明書にはその家具がどのように設計されていて、組み立てるかが書かれています。もし取扱説明書がなければどうだったでしょうか?取扱説明書にはその商品の良さ、必要性、様々トラブルについても書かれてます。 聖書は私たちの人生の取扱説明書です。新しく生まれ変わったクリスチャンは全てを理解しているわけではありません。そのために神様は聖書を私たちに与えてくださいました。私たちが日常生活の中で大きな決断やほんの小さな決断でさえも御言葉を通して私たちを導きます。 詩篇 119:105 あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。 多くの人は聖書は神様が人にこれをしてはいけない法律が山程あるといいますがそれは違います。 聖書は私達の性質、ポテンシャルを知ることができ、私達を創造した人が与えてくれたマニュアルです。創造主である神様は私たちにとって何が良くて何が悪いかを知っています。 そして、私たちが知らず知らずのうちに惑わされて生きてしまわないように、彼は私たちに御言葉を残してくれました。聖書が私たちに提案していることとは違う生き方をするのは愚かなことです。 ヨシュア記1;8にはこのように書かれています。 ヨシュア記 1:8 人々に、律法をいつも思い出させなさい。まずあなたが、昼も夜も律法を忘れず、それを完全に守るよう心がけなさい。模範を示し、どんなことも律法どおりきちんと行わなければならない。成功するもしないも、すべてその一点にかかっている。 私達がこの世で成功する方法は神様の言葉を受け入れそれを実行することです。 私達は神様によって造られました。 神様が与えてくださったマニュアルを読んで、行うことによって私達は正しいことを行い、人生も楽しくなり、この人生で成功することができます。
効果的な祈り
私たちクリスチャンの人生は祈りの人生です。 効果的な祈りができます。ケネスヘーゲン氏の本の中で、彼は、祈りの人生の中で祈りを受け取ったと書かれています。 イエス様がこの地にいる時に、彼は12人弟子と一緒に3年半行動を共にしていました。弟子達は常にイエスの人生を見ていました。 聖書ではこのように書かれています。 ルカ11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」 弟子たちはイエスに祈り方を教えてくださいと聞きました。 それはなぜかというと、イエスの祈りは全て答えられて、結果をもたらしていたからです。あなたの人生で祈ったことが起こることをどれだけ期待していますか? 私たちが効果的な祈りを得るための最初のポイント ① 私たちの祈りは聖書に基づいているべきです。 私たちの祈りが聖書に基づいているとき、聖書に書いてあることを祈る時、私たちの祈りの答えを早く受け取ることができます。 聖書に基づいて祈ることはどういうことでしょう?聖書を自分の祈りの土台の基礎にすることです。もしあなたに癒しが必要なら、御言葉に書いてある癒しを読み、その聖書箇所に基づいて祈ります。 もし経済的な繁栄が必要なら、そのことについて書かれてる御言葉を読み、それに基づいて祈って下さい。 しかし、神様は私たちの絶望的な祈りには答えることはできません。神様はただ泣いている状態の祈りに答えません。神様は御言葉を土台としている祈りに答えられます。あなたがどんな状況にいたとしても、暗闇にいて、もう自分では限界だとしても、あなたが御言葉にそって祈る時、あなたは神様が答えてくださるための道を作っています。不可能であったことが可能になる道を作っています。神様には全てが可能です。ケネスヘーゲン氏の人生を見てみましょう。彼は15歳の時に難病の病気で寝たきりの状態となり、普通の生活が出来ませんでした。しかし彼は神様の癒しを受け取ることが出来ました。彼はどうして癒しを受け取ることができたのでしょうか?彼はマルコ11:23、24節を16ヶ月もの間この二箇所を思い巡らしていました。 マルコ11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。 これは彼の証ですが、私はこの証が好きです。彼の状況は最悪でした。暗い状態 世間からは何も得ることは出来ませんでした。その状況の中でも彼は神様の御言葉にある力を見つけました。効果的な祈りの方法は神様の御言葉を土台として祈ることでした。 […]
イエスによる贖い
私達はイエスキリストを受け入れた時、様々なプレゼントをもらいました。その中の1つに解放があります。では、今日は私達が実際に何から解放されたのかを見ていきたいと思います。 ガラテヤ人への手紙 3:13-14, 29 「キリストは、わたしたちのためにのろいとなって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった。聖書に、「木にかけられる者は、すべてのろわれる」と書いてある。 それは、アブラハムの受けた祝福が、イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり、約束された御霊を、わたしたちが信仰によって受けるためである。 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。」 キリストは私達を律法の呪いから贖ってくださいました! では、ここで言っている律法の呪いとは何でしょうか。 律法の呪いは三つ存在します。 惨め、病気、死です。それぞれ1つずつ見ていきましょう。 ➀ 惨め 第一テモテへの手紙 4:8 「からだの訓練は少しは益するところがあるが、信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので、万事に益となる。」 残念ながら、あるクリスチャンは何の約束も、祝福も、繁栄も持っていないと信じています。しかしながら、上の聖書箇所は、約束があるといっています。 パウロはピリピの教会に宛てた手紙にこう書きました。 ピリピ人への手紙 4:19 「わたしの神は、ご自身の栄光の富の中から、あなたがたのいっさいの必要を、キリスト・イエスにあって満たして下さるであろう。」 […]
平安に生きる
あなたにとって平安とはなんでしょうか。考えたことがありますか? 平安が欲しいと願っている人も多いと思います。 このブログでは本当の平安について見ていきたいと思います。 聖書には平安について以下のように言っています。 ヨハネの福音書 14:27 あなたがたに贈り物をあげましょう。あなたがたの思いと心を安らかにすること、それがわたしの贈り物です。わたしが与える平安は、この世のはかない平安とは比べものになりません。だから、どんな時にもおろおろしたり、恐れたりしてはいけません。 クリスチャンはイエスが言った彼からくる平安に生きるべきです。この聖書箇所ではイエスの平安について書かれています。この世の平安とは異なります。 この世の平安はどのような平安でしょうか? この世では感情が平安を提供します。人生の中で全てが順調に行っているならその平安が来ますが、自分が想定していなかったことが起こったり、難しい状況に直面する時にはその平安はすぐ何処かへ行ってしまいます。 このヨハネで書かれているイエスの平安は最高です!なぜなら人生の状況が良くても悪くても、イエスの平安はどちらにも働くからです。 ヨハネの福音書 14:27の最後に「だから、どんな時にもおろおろしたり、恐れたりしてはいけません。」と言っています。 ここでイエスは私達が様々な問題に直面したとしても、おろおろするのではなく、また恐れたりするのではありませんと言っています。心配や、恐れを心の中に入れさせないように気をつけなければなりません。 ヨハネの福音書 14:27の最初に「あなたがたに贈り物をあげましょう。あなたがたの思いと心を安らかにすること、」と書かれています。 ここでイエスは私達にギフトを与えてくださいました。それが平安です。イエスが与えてくれた平安だけが、私達の思いと心を安らかにすることが出来るのです。 この平安は私達に対するイエス様の御心です。もし私達に問題が起こったとき、悪魔は私達を脅して、落ち着かせないようにします。 しかし私達がイエスから与えられた平安に満たされてるとき、悪魔は私達に働くことはできません。問題に直面した時は、この世の平安ではなく、イエスの平安が私の中に既にあると信じて、安らぎましょう。 しかし、残念ながら多くの人が悪魔の誘惑に負けて、心配しすぎて、感情的になって不信仰の言葉を言ってしまいます。 […]
神様との交わり
私達は仕える前に神様の子供です。 私達クリスチャンは教会での奉仕があります。教会の中では五職のミニストリーで奉仕をする人、ワーシッパー、子供達の先生や他にも奉仕がいっぱいあります。奉仕をすることはいいことです。しかしながらそれだけにフォーカスを向けるのは良くないことです。聖書ではその例があります。 ルカ10:38-42 38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」 私達が教会で奉仕をすることは神様への行いです。神様の働きは彼のためにあります。神様はそれが成就するのを最も期待しています。 しかし、残念ながら多くのクリスチャンが忘れていることがあります。神様は私たちの奉仕、行い、忙しさよりも、私たちとの交わりをもっと望んでいるということです。神様の望みは私達との時間です。彼は私達クリスチャン一人一人との交わりを大切にします。 神様の喜びは彼を求める人であり、奉仕がありすぎて忙しいことではありません。 しかし、神様の行いを何もしないで、ただぼーっとすることを言ってるのではありません。 神様の奉仕、働きがなければ前進できないからです。 しかし、多くのクリスチャンが働きだけを見るのはとても悲しいことです。 また、自分のタイトルに気をかけている人もいます。牧師、預言者、偉大なメッセンジャーなどのビッグネームにフォーカスしています。 しかし、そこに目を留めるのではなく、最も重要なのは神様の息子、娘であることです。 マルタとマリアのこの聖書箇所では、 40節で「マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず」と書かれています。マルタはイエスを自分の家に招きました。イエスのために最高なおもてなしをしたかったと思います。 マリアはどうだったでしょうか? […]