あわれみは行動する愛

私たちは、誰かが苦しんでいる姿を見たとき、「かわいそうだな」「大変そうだな」と感じることがあります。しかし、聖書が教える「あわれみ」とは、ただ相手をかわいそうに思うことではありません。

本当のあわれみとは、相手の痛みを知り、その人が苦しみの中にとどまり続けることを望まず、何かをすることです。

あわれみは、ただ感じるものではありません。あわれみは行動するのです。

イエスは、地上での働きを通して、このあわれみがどのようなものなのかを私たちに示してくださいました。

マタイ9:35〜38 

それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをいやされた。また、群衆を見て、羊飼いのない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。そのとき、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。

ここで、イエスが町や村を巡り、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気やわずらいを癒しておられたことが書かれています。

イエスは群衆をご覧になったとき、彼らを深くあわれまれました。なぜなら、人々は羊飼いのいない羊のように、弱り果て、疲れ切っていたからです。イエスは、人々が病気や悪霊に苦しめられ、御国が自分たちに何を与えているのかを知らないままでいることを望まれませんでした。また、人々が貧困の中にとどまり続けることも望まれませんでした。

イエスは、人々の苦しみをただ見ていただけではありません。人々に教え、福音を伝え、病気を癒されました。そして、収穫は多いのに働き手が少ないことを語り、働き手が送られるように祈ることを弟子たちに教えられました。

「あわれみ」という言葉には、心の奥深くから動かされるという意味があります。当時の人は、内臓が愛や慈悲の宿る場所だと考えていました。つまり、イエスは人々の苦しみをご覧になったとき、心の奥底から強く動かされていたのです。そして、そのあわれみは、いつも行動となって表れていました。

マタイ20:29〜34

彼らがエリコを出て行くと、大ぜいの群衆がイエスについて行った。すると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」そこで、群衆は彼らを黙らせようとして、たしなめたが、彼らはますます、「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ」と叫び立てた。すると、イエスは立ち止まって、彼らを呼んで言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」彼らはイエスに言った。「主よ。この目をあけていただきたいのです。」イエスはかわいそうに思って、彼らの目にさわられた。すると、すぐさま彼らは見えるようになり、イエスについて行った。

目の見えない二人の人がイエスに助けを求めました。イエスは彼らを深くあわれみ、その目に触れられました。すると、すぐに彼らの目は見えるようになり、彼らはイエスについて行きました。

また、マタイ14:14 でイエスは大勢の群衆をご覧になり、深くあわれまれ、病気の人々を癒されました。

ルカ7:11〜15には、ナインの町に住むやもめの話があります。この女性は、一人息子を亡くしていました。イエスは彼女をご覧になり、その苦しみを深くあわれまれました。そして、息子に起きるように命じられると、死んでいた青年が起き上がり、話し始めたのです。

さらに、マルコ8:1〜9では、3日間イエスと一緒にいた群衆のことが書かれています。人々には食べる物がありませんでした。イエスは彼らをあわれみ、パンを取り、感謝をささげ、人々に分け与えられました。その結果、人々は食べて満腹しました。

これらの箇所を見ると、イエスのあわれみは、ただ人々の苦しみに心を痛めるだけではなかったことが分かります。目の見えない人には、見えるようにしてくださいました。病気の人には癒しを、悲しんでいる母親には息子を、空腹の人々には食べ物を与えてくださいました。

イエスは、人々の必要を見て、その必要に応えて行動されました。

あわれみを持つ人は、相手の苦しみを知り、その人が同じ状態にとどまり続けることを望みません。だからこそ、何かをするのです。

そして、あわれみは、目に見える行動だけではありません。人々のために祈ることも、あわれみを表す大切な行動です。

ローマ15:30〜33

兄弟たち。私たちの主イエス・キリストによって、また、御霊の愛によって切にお願いします。私のために、私とともに力を尽くして神に祈ってください。私がユダヤにいる不信仰な人々から救い出され、またエルサレムに対する私の奉仕が聖徒たちに受け入れられるものとなりますように。その結果として、神のみこころにより、喜びをもってあなたがたのところへ行き、あなたがたの中で、ともにいこいを得ることができますように。どうか、平和の神が、あなたがたすべてとともにいてくださいますように。アーメン。

ここで、使徒パウロは兄弟姉妹に、自分のために神に祈り、ともに戦うようお願いしました。パウロは、神の働きを行う中で、さまざまな危険に直面していました。そのような状況の中で、自分のために祈ってほしいと人々に呼びかけたのです。

ここから、私たちは大切なことを学ぶことができるのは、誰かのために祈ることは、その人の人生のために戦うことでもあるということです。

私たちは、何のために神の御前にひざまずいているでしょうか。自分の必要のためだけでしょうか。それとも、苦しんでいる兄弟姉妹や、助けを必要としている人々のためにも祈っているでしょうか。

私たちクリスチャンには、選択する力があります。人々の苦しみを見て終わることもできますし、その人のために信仰を働かせ、祈ることもできます。

私たちは、信仰のメッセージを失ってはいけません。信仰を働かせることによって、私たちは何も失いません。むしろ、信仰は私たちに力を与えます。

ローマ1:16で、パウロは福音を恥としないこと、そして福音が信じるすべての人に救いをもたらす神の力であることを語っています。私たちはキリストの教会です。そして、聖書こそが私たちの人生における最高の権威です。だからこそ、私たちは状況だけを見るのではなく、御言葉が何を語っているのかに目を向け、信仰に立ち続ける必要があります。

しかし、ここで忘れてはいけないことがあります。それは、私たちには、聖霊の助けと力が必要だというこたです。

使徒10:38には、神がイエスに聖霊と力を注がれたこと、そしてイエスが巡り歩いて良いわざを行い、悪魔に虐げられている人々を癒されたことが書かれています。イエスは、あらゆる場所を巡りながら、人々に良いことを行われました。そして、イエスと出会った人々の人生は変えられていきました。

ここで、最高なのはそれが今、私たちの内あることです!!

私たちは時々、何か問題が起こると、自分の知識や経験、自分の力で解決しようとしてしまいます。しかし、私たちが頼るべきなのは、自分の力ではなく、聖霊の力です。

神様に心を向け、聖霊の導きに従うとき、神様が私たちに与えてくださった働きを行うことができます。そして、人々をあわれむ心は、私たちを祈りへと導き、聖霊の力によって人々を助ける行動へとつながっていくのです。

また、あわれみのある人生とは、兄弟姉妹の成長を喜び、競争やねたみではなく、互いに助け合う人生でもあります。ローマ5:5には、神の愛が聖霊によって私たちの心に注がれていることが書かれています。

その愛が、私たちの中を流れています!神様も愛によって行動され、私たちを救うためにイエスを遣わされました。そしてイエスは、十字架の死に至るまで従順でいました。

私たちも、誰かが苦しんでいるとき、ただ「かわいそうだな」と思うだけでなく、その人のために祈り、励まし、必要な助けを差し伸べましょう。

あわれみとは、神の愛によって動かされ、人々のために行動することです。愛は動きます。愛は行動があります!

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