イザヤ書 32:17―18
正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である。
わが民は平和の家におり、安らかなすみかにおり、静かな休み所におる。
私たちは平安が溢れている生活を送っていますか?
聖書では、私たちがが平和に生きることが可能であることを教えてくれています。
では、平和とは何でしょうか。
小さい頃から私は「日本は平和を大切にする国だよ」ということを聞いていました。戦争に負けた日本は、戦争の恐怖を覚え、軍隊を持たない国となりました。
学校で「戦争がないイコール平和ではなく、みなさんがご飯を食べ、学校へ通い、安全が保障されている社会も平和なのですよ」と繰り返して言っているのを聞きました。
では神様がイザヤ書で言っている『平和』とは果たしてどうのような平和なのでしょうか。
そのためには、まず、神の平和は、すでに私たちのものであることを理解する必要があります。
ヨハネ14:27
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。」この箇所の前半部分では、平安を理解するためのとても大切な鍵を残しています。
イエスにはどのような平安があったのでしょうか。
マルコ4:35-39
さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。 ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。
これはとても有名な聖書箇所です。弟子たちは大変恐れていましたが、イエスは、嵐の中でも何事もなかったかのように寝ていました。私たちは、どんな状況に陥っても、休むことが可能なのです。そのような平安をイエスは残してくれました。弟子たちも、その平安の力を知っていました。
聖書の他の箇所で、使徒ペテロがヘロデス王の命令で牢屋に入れられ、死刑の判決が下った話があります。その翌日に、ペテロは殺される運命でした。それでも、彼は眠っていました。翌日には死ぬという事実が待ち構えていたにも関わらず、彼は眠っていました。なんて素晴らしいいことでしょう。イエスの平安は私たちに休む力を与えるのです。