あなたは真の礼拝者ですか?礼拝の参加者ですか?

あなたにとって礼拝するとは何ですか?

ある人は、毎週教会に行くことが礼拝すること、教会で賛美をすることが礼拝をすることと言います。それは決して間違ってはいません。

教会に行くことも、賛美をすることも、座ってメッセージを聞くことも大切です。

しかし、「礼拝をする」とはそれ以上の意味があります。

ヨハネ 4:23

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

この文章は非常に興味深いものです イエスが言っているのをよく見ると、神を礼拝する方法に大きな変化があることを確認することができます。

イエスは「真の礼拝者が霊とまことをもって父を礼拝する時が来ます」(未来)と「今がその時です」(現在)と言っています。

ここでは現在と未来の二つの時制が使われており、過去の時制は一切使われていないことがわかります。イエスは、過去の人物を示していません。

なぜでしょうか?

それは、霊とまことに父を礼拝する真の礼拝者は、キリストの死と復活と昇天の後にのみ約束されるからです。つまり、恵みの時代、新生の時代です。

神を礼拝することは、キリストにあって新しく生まれた者が成し遂げるすべてのことにおいて、主にインスピレーションされた生き方です。

ヨハネの4章でイエスがサマリヤの女と出会った話を知っていますか?

その女がイエスにあった時、正しい礼拝場所は山ですか?エルサレムですか?と聞きました。イエスは、こうお答えになりました。

ヨハネ 4:21

イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。

それは、新しい時代、新しい礼拝の時代が来ます。聖徒が霊とまことをもって神を礼拝できるようになる時であり、それは神の霊が彼らのうちに宿っているからです。という意味になります。

旧約聖書では、人は霊とまことをもって神を礼拝することができませんでした。その理由は、誰も新生しておらず、神の御霊が自分のうちに宿っていなかったからです。人は誠実で、力と知恵を尽くして神を愛していましたが、新しい霊をもって神に仕えることができませんでした。

旧約聖書の聖徒の救いは、イエスの死と埋葬と復活をしない限り完成しません。イエスはこの地上での目的を終えられた後、栄光を帯びて天に昇られ、神の右の座に座られました。これで人は救われたのです。

新生によって礼拝が変わりました。

私たちは、今、霊において礼拝をします。それは、キリストを受け入れた時に新しいものとされたからです。

2コリント 5:17

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

イエスは、「しかし、真の礼拝者が来る時が来ます」(ヨハネ4:23)と言われました。真の音楽家や歌手とは言っていません。イエスは「真の礼拝者」と言われたのです。御霊によって新生した人はみな、真の礼拝者となるのです。それは急に、歌や演奏が上手になることではありません。

歌や演奏がとても上手でも、残念ながら、霊とまことをもって神を礼拝するという真の礼拝者の意味を理解していない人また、牧師先生に注意されたくないから、とりあえず教会に行って座る。でも、メッセージ中はうわの空、もしくは聞いたけどすぐにメッセージをわすれてしまう。そんな人は大勢います。その人達は、礼拝の参加者に過ぎません。

もし、賛美チームにいるならもちろん、技術を磨くことは大切です。しかし、その前に、キリストにある私たちが何者であるか、何ができて、何を所有しているかを理解することが必要です。

賛美と礼拝は、聖書的な行動をすることであり、キリストのライフスタイルを日々実践することです。私たちがすること、話すこと、私たちの行動のすべては、みことばの中を歩んでいるときには神に構成されるものなのです。

つまり、神の子はみな、音楽があってもなくても、毎日、霊とまことをもって父なる神を礼拝すべきなのです。

イエス様が「今がその時です」と言われた時とは、キリスト自身だったのです。なので、私たちも彼が歩んだように歩き、彼が生きたように生き、彼が礼拝したように礼拝すべきです。

神様はそのような人を求めていますし、私たちは、真の礼拝をするために生まれました。

ルカ 1:74-75

私たちを敵の手から解放し、恐れず主に仕える者としてくださった。私たちはきよい者、神の前に立つにふさわしい者とされた。

私たちは、神様の前に堂々と大胆さを持って立つことにふさわしい者にされました。これはキリストを受け入れた者の特権です。

ヘブル 13:15

ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。

礼拝とは何よりも神を愛することです。そのために生まれた事を知り、そのために生きていく事です。

それにより、目に見えない霊的な力が、信仰の言葉や行動を通して目に見える物になります!ハレルヤ!それはとってもパワフルな事です。

私たちの全てを神様に差し出して、霊に導かれることを毎日選択する時、私たちは真の礼拝者、神の子供となります。

ローマ 8:14

神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

是非、礼拝の参加者ではなく、真の礼拝者になる選択をしましょう!

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