賛美の人生

エペソ人への手紙1章3節~6節

3主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、天上のあらゆる祝福をもって、私たちを祝福してくださいました。それは、私たちがキリストのものとなっているからです。

4神はこの世界をお造りになる前から、私たちを、ご自分のものとして選んでくださいました。そして、神は私たちを、ご自分の目から見て、何一つ欠点のない、きよい者にしようとお定めになりました。

5神の御心は、イエス・キリストを遣わし、その死によって、私たちを神の家族の一員として迎えることでした。

6神こそ、いっさいの賞賛を受けるべきお方です。神は、驚くばかりの恵みと愛とを豊かに注いでくださいました。それは、私たちが、神の最愛のひとり子につながる者となったからです。

エペソ人への手紙1章11節~13節

11そればかりでなく、神のご計画のままに、神のものとなるように最初から選ばれていた私たちは、神が喜んでくださる存在となっています。

12なぜ神は、このようになさったのでしょう。それは、最初からキリストを信じ、望みをおいていた私たちが、こんなにもすばらしい恵みを見て、神をほめたたえるためなのです。

13このキリストによって、あなたがたも救いを約束する福音を聞き、キリストを信じるようになりました。そして、キリストに属する者であるという証印を、聖霊によって押していただきました。

このエペソ人への手紙の中で、パウロは贖いの業、つまりイエス様が何をするためにこの地に来られたのかについて話しています。

まず私たちが理解しないといけないのは、イエス様はただ何かを与えるためにこの地に来たのではないことです。

イエス様は私たちが神の子としてどんな存在であるべきか、クリスチャンとしてどんな人になるべきかを教えるためにこの地へ来ました。

そして、イエス様は、その犠牲と贖いの御業によって、私たちを神の子とされました。

かつて、私たちの命は、罪の中にありました。

しかし今、私たちは新しい心を受け取りました。そして、新しい心とともに、私たちは召命をも受けました。それは、神に仕えること、つまり、神の栄光をたたえる人となることなのです。

ですから、私たちの人生は、神への賛美、神を敬う人生、霊において神に仕える人生であるべきなのです。

賛美のある人生と聞くと、多くの人は歌について語るのだろうと思いがちです。

どうしたらうまく歌えるか、美しい声を出せるか。

しかし、賛美の人生とは、単に声がきれいだとか、歌がうまいだけではないことを理解しなければなりません。

それはまさに御言葉にあるとおりで、救われた人生を歩むこと、神の子どもとなること、神を敬う人生、神の栄光を讃えるために仕え、生きる人生なのです。

音楽そのものが賛美の道具であり、愛を表現し、主への感謝を表すものです。

しかし、賛美の人生は音楽以上のものであり、

それは神を第一に歩む人生であり、私たちの内に住んでいる神の性質を表すために捧げられた人生です。

では、創世記のエデンの園で、神が人(アダム)を創造した時のことを思い出してください。

神が人を創造したとき、聖書は創世記1章26節で「さあ、人間を造ろう。地と空と海のあらゆる生き物を治めさせるために、われわれに最も近い、われわれのかたちに似せて人間を造ろう。」と言い、人は完璧に創造され、神と交わりを持つと言われました。

創世記を見ると、神は毎日アダムに会いに来て、会話をして親密になり、アダムも創造主を崇める時間がありました。

アダムの行ったことはすべて神のために行われたのです。

賛美をし、崇めていました。

しかし創世記3章8節に書いてあるように、アダムが罪を犯したとき、彼はエデンの園から追い出されました。

そして、アダム自身だけでなく、全人類を震撼させる事態が起こり、それから人類は苦しみ、アダムが行ったような方法で神を崇めることは、もはや不可能になってしまったのです。

そして、エデンの園で失われた礼拝を回復するために、旧約聖書の至るところに道を築いているのを見ることになるわけです。

そして、その瞬間から悪魔は自分の働きを宣伝し始めるのですが、悪魔は知的で、音楽という強力な道具を使うのです。

悪魔は初めから音楽を偶像崇拝の道具として、また、闇のすべてを表す道具として使ってきました。

聖書には、悪魔が自分を崇めるように人々を誘惑する様子が、さまざまな場面で描かれています。

イエス様もそうでしたよね。

悪魔はイエス様をとても高い山に連れて行き、「ひざまずいて私を拝めば、すべてを与えよう」と言ったのを覚えていますか?

ダニエル書でも見ることができます。

ダニエル書3章を見ると、王が金の像を造り、人々が地にひれ伏して、王が立てた金の像を拝む場面が書かれています。

ダニエル書3章5節~6節

5楽隊の奏楽と同時に、地にひれ伏して、王が立てた金の像を拝みなさい。

6命令に従わない者は、直ちに火の燃える炉に投げ込まれます。

ここでは、王が楽器奏者を呼んで偶像崇拝的な雰囲気を出しているのがわかりますね。

(角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、その他もろもろの楽器)。

「楽器の音が聞こえたら、ひれ伏し、崇めなさい。」と王は言いました。

しかし、シャデラク、メシャク、アベデネゴの3人はひざまずきませんでした。

彼らは炉の中に投げ込まれましたが、その中で彼らは一人ではありませんでした。

炉から出たときは、体に火傷がなく、煙の臭いすらしませんでした。

それはなぜかというと、神様が一緒にいてくださったからです。

みなさんに伝えたいことがあります。

この時代、悪魔は多くの歌を偶像崇拝のために使い、歌を広めていました。

一見楽しい歌、良い歌に見えますが、それは悪魔のメッセージであり、それが広められているのです。

そして、多くの場合、人々は気づかないうちに、悪魔が演奏している曲を踊り、歌っているのです。

だから皆さん、悪魔の奏でる音楽に合わせて踊るのはもうやめましょう。

悪魔のボリュームを下げて、あなたの中にある賛美を大きくしてください!

今こそ、私たちは正しいことに感化する時なのです。

なぜなら、最初から神の命であり、命の木であり、交わりによって、神様が人間を鼓舞させたからです。

だからこそ、アダムは神の栄光のためにすべてを行うことができたのです。

神様に感化されることによって私たちは神の栄光のためにすべて行うことができます。

そして私たちが聖書を、賛美する人生、崇める人生、主を讃える人生へと感化する本として見ることが最も重要なことです。

私たちの体(肉体)は主を崇めることを望んでいません。

しかし、私たちの霊は神を崇めることを常に望んでいます。

私たちが新しく生まれ変わったときに、自分の中に神の霊を受けます。

イエス様が持っていた御父との交わりを求める願いと同じものを受け、それが私たちの中に植えつけられたのです。

なので、私たちの霊は神との交わりを望んでいるので、心を新たにし、神様とより親密な関係を築くことが大切です。

神への賛美を恥じることなく表現してください。

悪魔があなたの耳元で話かけますが、主を崇めることだけに集中してください。

不満や文句、泣き言を言う代わりに、すべてにおいて主に感謝しましょう。

私たちは神を崇めるために召されています。

私たちは、神との交わりの中で生きるよう召されています。

そして私たちは、神の栄光を讃えるために召されているのです。

心をこめて神をほめたたえ、主があなたの人生になしてくださったすべてのことに感謝しましょう。

主はあなたのために偉大なことを用意しておられます。