私は 「前向きな説教」に大賛成です。人々は常に打ちのめされ、引きずり降ろされる世界を歩んでいるので、元気づけられて励まされる必要があると信じています。しかし、肯定的で励ましのメッセージを伝えるということは、「否定的」と見なされるようなことに決して触れてはいけないということなのでしょうか?
私たちは、人々を愛している神を指し示し、親切に励ますべきですが、もし、私たちが説教する内容全体の一部として、裁きと地獄の現実に関する聖書の真理を取り上げないのであれば、私たちは大きな過ちを犯していると思います。
イエスのように宣教したいですか?
チャールズ・スポルジョン(1834-1892)は、「私たちの主イエスキリストほど、失われた者の運命についてこれほど恐ろしい言葉を語った霊感を受けた説教者がいないということは、非常に驚くべき事実である 」と述べています。
尊敬すべき福音派の神学者であるJ.I.パッカー(1926-2020)は、聖書が神の怒りについて述べていることに現代教会が消極的であることを指摘しています。
キリスト教会の現代の習慣は、このテーマの重要性を最小限に抑えることです。今でも神の怒りを信じている人たちは(すべての人がそうではないが)、それについてほとんど語りません。貪欲、プライド、セックス、そして自己の意志という神に恥ずかしげもなく媚を売る時代に対して、教会は神の優しさについては話しますが、神の裁きについては事実上何も語りません……事実、神の怒りというタイトルは現代社会ではタブーとなっており、クリスチャンは、たいていそのタブーを受け入れ、それを決して口にしないように自らを律しています。
パッカーよりも前に、リチャード・ニーバー(1894-1962)は、リベラルな神学によってキリスト教信仰の本質的なテーマがキリスト教から取り除かれつつあることを指摘しました。彼は(1937年)貧弱で中和された「福音」を次の言葉で要約しています
「怒りのない神は、十字架のないキリストの働きによって、罪のない人々を裁きのない王国へと導きました」
万人受けを狙うなら、省略すべき4つの領域がニーバーの言葉に要約されていると思います。つまり、怒り、罪です、裁き、十字架について言及しないことです。
世間は、説教者が「神は愛である」と言っても何の問題も抱かないでしょう(それは真実です。第1ヨハネ4:8、16は、神は愛であると喜びをもって宣言しています) 実のところ、彼らはこの素晴らしい事実に拍手さえ送るかもしれません。神の愛が基礎であり、命令であり、不可欠であるように、新約聖書が教えていることはそれだけではありません。次のことを考えてみましょう:
・ヨハネ3:36 御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
・ローマ2:5は「神の怒りと正しい裁きの現れる日」について書かれています。
・コロサイ3:6このようなことのために、神の怒りが下るのです。
パウロは、イエスが再臨されるとき、「燃え盛る炎の中に」来られると書いている。「そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とそのとき御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。」(2テサロニケ1:8-9)
上記の聖句を読んでも神の怒りの現実が確信できないのであれば、黙示録の「怒り」について学ぶことをお勧めします。
福音のメッセージは、神が怒りを持てない、あるいは持たないということではなく、「あわれみは裁きに向かって勝ち誇る」(ヤコブ2:13)ということです。
イエスのおかげで私たちが得た福音は、以下の聖句で表現されています:
•「ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。」(ローマ5:9)
•「また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子は…天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。」(第1テサロニケ1:10)
•「神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。」(第1テサロニケ5:9)。
ヨハネによる福音書3章16節で、イエスはこう宣言しています。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためでますある。」
しかし、その2節後のヨハネによる福音書3章18節で、イエスが言われたことを引用することがどれほどあるでしょうか。「御子を信じる者はさばかれない。信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている。」と。
A. B.シンプソン(1843-1919)は、聖書を本当に信じていないクリスチャンについて語りました。「異教徒は結局のところ、本当に大きな危険にさらされているわけではなく、神はあまりにも憐れみ深いお方なので、福音を伝えることを他の人々が怠ったために彼らが滅びるのを見過ごすことはできず、キリストの十字架と神の贖いの計画とは別に、彼らには何か他の希望があるだろう」と信じています。これは、イエスキリストの尊い血と愛に満ちた心に対する侮辱です。もし人を救うのに、これほど高価でない方法で十分であったのなら、神は独り子を十字架につけることをお許しにならなかったでしょう。私たちが救われるために人に与えられた名は天の下の他にはありません。」
他の偉大な牧師からの洞察
ジョージ・ホワイトフィールド (1714-1717)
「あなたがたは、私が嘆き悲しんでいることを非難するが、あなたがたの不滅の魂が破滅の危機にあるにもかかわらず、あなたがた自身のために嘆かないのであれば、私にはどうすることもできない。」
ジェームズ・マグレディ(1763-1817)
「聖職者たちは、キリストを信じない罪人たちに警告を発し、安全な状態から目覚めさせるために、世間から軽蔑されようとも、あらゆる手段を用いなければならない。そうしなければ、罪人たちの血が私たちの手に要求されることになる。」
ハドソン・テイラー(1832-1905)
「中国人が迷い、キリストを必要としていると信じていなければ、私は中国に行こうとは思わなかったでしょう。」
「神は、私たちにとって地獄を、休むことができないほど現実のものとし、天国を、そこに人を行かせなければならないほど現実のものとし、多くの人をキリストに帰依させることによって、悲しみの人を喜はびの人とすることを私たちの最高の動機と目標とするようにされることを望んでいます。」
ウィリアム・ブース(1829-1912)
「ほとんどのクリスチャンは、弟子たちを聖書学校に5年間通わせたいと思うでしょう。私は彼らを5分間地獄に送りたいです。そうすれば、生涯、慈愛に満ちたミニストリーを行うための準備として何よりも役立つでしょう。」
エリザベート・エリオット(1926-2015)
「キリストを知る私たちが、キリストのいない夜に向かってひたすら突っ走っていく呪われた者たちの叫びを聞くことができますように……。暗闇から救い出すことができなかった人々のために、私たちが悔い改めの涙を流すことができますように」
しかし、私は伝道者ではありません
失われた人々に対する心を持つために、五職の伝道者の働きをする必要はありません。パウロは牧師であるテモテに「伝道者の働きをしなさい」と言いました。(2テモテ4:5)
F. F.ボズワースは癒しを教え、病人のために祈った牧師として覚えられていますが、彼の息子が彼について語った言葉を考えてみましょう。
「魂の救いが最優先され、身体の癒しを含む他のあらゆる配慮は二の次でした。父の宣教が始まった時に、彼は福音の癒しの面が、教会の最大の伝道活動として教会に与えられていることを発見しました。この発見が、50年以上にわたる宣教の道しるべとなったのです。」
ボズワース自身は、人の魂における神の内的な働きは、しばしば目撃する外的な癒しよりもはるかに重要であると語りました。
「私たちはこれらの奇跡を喜びますが、それは魂の内なる神聖な部屋で起こった何千倍も偉大で尊い奇跡の外的な現れにすぎないことを忘れてはなりません。内なる原因は、外なる結果よりもはるかに尊いものです。祈りによる外的な結果は、銀行にお金が預けられていることを示す預金通帳の数字のようなものです。お金は数字よりも価値があります。」
誰も改心させずに説教する方法
チャールズ・フィニーは、”How to Preach Without Converting Nobody“(誰も改心させることなく説教する方法)と題された記事の中で、素晴らしい洞察を語っています。彼のポイントのいくつかを紹介しましょう:
・イエスよりも人に注意を向けるような教義を説教しなさい。神を人間の献身の中心とするのではなく、人間を神の関心の中心とするような教義を教えなさい。神が自分たちのためにしてくださることだけを人々に伝えなさい。
・聖霊の働きによって心に啓示された真理によって、心を根本的に変える必要性について説くことは避けなさい。
・あなたの最高の動機は、誰からも好かれることにしなさい。そうすれば、あなたの説教は当然その目的に適したものになり、魂をキリストに改心させるためのものにはならない。
・聴衆の良心ではなく、感情に訴えなさい。
・恵みによる救いを説きなさい。しかし、罪人の断罪され失われた状態を無視しなさい。そうすれば、罪人はあなたの言う恵みの意味を理解し、恵みが必要であることを知ることはありません。
・キリストを、限りなく友好的で気さくな存在として説きなさい。罪人や偽善者に対する鋭い叱責は無視し、聴衆を震え上がらせてはならない。
・地獄についてあまり語らないことで、あなた自身が地獄の存在を信じていないと思わせなさい。
最後に
ジョージ・ホワイトフィールドは、「悪魔は、神を憐れみだけ、あるいはすべての正義だけとして表現するのが好きである」と言いました。この言葉は、私たちが聖書の描く全体像を提示しなければならないことを思い起こさせます。私は、自分の人生とミニストリーの責任を果たすために主の前に立つとき、パウロが言ったようなことが言えるように祈っています。パウロはエペソの長老たちにこう言いました。「私は、すべての人たちが受けるさばきについて責任がありません。神のご計画の全体を、余すところなくあなたがたに知らせておいたからです。」(使徒20:26-27)