イエスのいのちに生きる

こんにちは!今週もブログを読んでくださりありがとうございます。

聖書のヨハネの福音書10章を読んでいるときに、目に留まった御言葉がありました。

強盗は、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするために来ます。しかしわたしが来たのは、いのちをあふれるほど豊かに与えるためです。

ヨハネの福音書 10:10 

この聖書箇所はとても有名だと思います。

今日は、後半の「わたしが来たのは、いのちをあふれるほど豊かに与えるためです。」という部分に注目していきたいと思います。

イエス様は私たちが豊かないのちを持つために来てくれました。それは、私たちが喜びに溢れた人生を生きるためです。

ここで、突然なのですが、質問したいことがあります。

「あなたは、イエス様が与えてくれたいのちに十分に生きていますか?」

なぜこの質問をしたかというと、多くの人は目の前にあるやるべきことに集中しすぎてしまって、神様の言っていることが聞こえなくなってしまっていたり、また、何でも自分の力でやろうとして結局失敗して、いつもイライラしてしまったり、やる気を失っているからです。

例えば、あなたの前に壁があるとします。実際にはそんなに高くない壁でも、もしいつも目の前でその壁ばかりを見ていたら、高くて乗り越えるのが難しいように思えてきます。

しかし、私たちにとってどんなに乗り越えるのが不可能だと思えても、イエス様にとってはちっぽけなものです。なぜなら、彼が全ての答えを知っているからです。

なので、私たちがやるべきことは、全ての答えを知っているイエス様についていくことです。イエス様を知らずに生きるのは、ある目的地にマップを持たずに行き、同じところで迷っているのと同じです。また、イエス様を知っているのに、自分の力で生きようとするのは、ナビが行くべき方向を示してくれているのに、それに自ら反対に行って何度も方向転換をしないと行けなくなって余計に訳がわからなくなっているのと同じです。

イエス様についていくと、いつどこで止まるべきか、どの道が最善かがわかります。それによって、私たちの人生はもっと軽やかなものになり、喜びで溢れます。例え、どんなに険しい道になったとしても一番いい対処法を教えてくれます。

イエス様のいのちに生きることは、彼に委ねて休むことです。ここでいう休むというのは何もしないことではなく、自分の考えや心配事をイエス様の言っていることに変えることです。なので、休むことは信仰の態度を取ることです。

「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。 すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」

‭‭箴言‬ ‭3:5-6‬ ‭

もし、イエス様をどこかで信頼しきれていないのなら、それは彼のことを良く知らないからです。 私たちが救われたのは、信仰と恵みによるもので、それに生きるためです。

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。 決して行いによるのではない。それは、だれも誇ることがないためなのである。」

‭‭エペソ人への手紙‬ ‭2:8-9‬ 

信仰と恵みによって、私たちはイエス様に一切のことを委ねるべきです。全てです!そして、どうすべきかのガイダンスを彼からもらいます。自分の頭や体が何を言おうがイエス様に信頼を置きます。そのとき、豊かないのちを十分に生きることができます。

覚えておいてください!

世の中が自然にあなたのために良くなるのは難しいかもしれません。しかし、どんなに難しい状況だとしても、あなたには解決策があります。

それを大いに使っていきましょう。