あなたは、イエスがすでにあなたのために祈ったことがあると知っていますか? 聖書のヨハネ17:21以降には、イエスが父に祈り求めていると書かれています。 つまり、イエスは神に強くお願いしています。「彼らが皆ひとつとなるためです。父よ、あなたが私の内におられ、私があなたの内にいるように、彼らも私たちの内にいるようにしてください。そうすれば、世があなたが私をお遣わしになったことを信じるようになります。私は、あなたが私に与えてくださった栄光を彼らに与えました。それは、私たちがひとつであるように、彼らもひとつとなるためです。」 この祈りにおいて、イエスは世界の救い、つまり、彼がメシアであり、私たちの救い主であることの認識を、キリストの体としての私たちの行動にかけています。 これは、キリスト自身からのお願いでありながら、残念なことに、教会によって無視されていることが多いのです。私は、キリストの体の一部である者たちが、裏で他の人たちの悪口を言ったり、時には公然と批判したりしているのを目にしています。分裂やスキャンダルがあまりにも一般的になり、もはや驚きですらなくなっています。 私たちは、聖書がすでに警告しているように、終わりの日には、ますます多くの人々が悪に満ち、サタンの影響を受ける時代に生きていることを知っています。感情や欲望に支配され、肉的な生活を送るようになるのです。しかし、私たちに対する主なる神の期待はそれではありません。1テモテ2:3にはこう書かれています。 1テモテ2:3 「これは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、すべての人が救われ、真理を十分に知るに至ることを望んでおられるのです。」 この聖句を通して、すでに救われた者たちが、真理の十分な知識に至ることが神の御心であることを理解します。ヘブル書の5章と6章では、聖書は私たちに正義の言葉の中でますます成長するよう励ましています。 ゴシップや誰かの悪口について指摘されたとき、多くの人は「ただのコメントだった」と言い、その人の名誉を傷つける意図はなかったと弁解します。私たちの創設者であるバッド牧師はよくこう言いました。「牛が飛ぶことは信じられても、信者が嘘をついたとは信じられません」と。新しい創造物として、兄弟姉妹よ、信者が意図的に誰かを誹謗するためにコメントをすることはめったにありません。しかし、だからこそ、何を話すか、誰に話すかに注意を払うべきなのです。 箴言19:2には「知識なしに熱心であるのは良くない。また、足早に事をなす者は過ちを犯す。」と書かれています。また、箴言18:13「聞く前に答えるのは愚かであり、恥である。」とあります。 最近、インスタグラムで見た動画を通して思索することに導かれました。ある人が英語で「聖霊は異言で祈ることを助けてくれるけど、英語で謝罪することは助けてくれないの?」と言っていました。新しい創造物として、私たちには助け主がいます。 信者が、キリストにある兄弟姉妹や失われた者たちと愛を持って歩むことが、死者をよみがえらせることと同じくらい超自然的なことだと理解するようになれば、私たちの行動は変わります。 これを忘れないでください。神はロバに愛の中を歩むように命じませんでした。ロバは聖霊の力を体験しました。しかし、神はご自分の子どもたちに、愛の中、すなわち霊の実の中を歩むようにと命じました。
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聖霊様
シャローム、今回のブログはいつものとは、すこし形式が異なります。 クリスチャンライフにとって必要不可欠な存在である、聖霊様にについて学びます。もし私たちが神と生きた関係を持ちたいのであれば、新たな誕生後に私たちの内に住まわれた聖霊の方、すなわち聖霊の方を知る必要があります。 聖霊は単なる力や影響ではありません。彼は交わりと親密さを持つことを望む人格です。 私たちが本当に神を知りたいのであれば、父と子だけでなく、聖霊も実際的、かつ個人的な方法で知る必要があります。神は本質的には 3 つの異なる個別の人物として特定されますが、神性の各人は神の属性をすべて共有し、明確な機能と個性を持っています。 祈りを通じて神の父またはイエスとだけ関係を築くことは、キリスト教徒には一般的ですが、私たちは聖霊の恵みの時代にいます。聖霊は教会の指揮者であり、神の手の働きを地上で果たします。 パウロは第2コリント人への手紙13章14節で私たちにこの交わりを促しています。この節で引用されたギリシャ語の言葉は「koinonia」であり、パートナーシップ、仲間意識、共同体、連帯を意味します。 私たちは聖霊が三位一体の中で三番目で最も重要でない人物ではなく、イエスや父と同様に神であることを忘れてはなりません。聖書のさまざまな箇所では、聖霊が個人的な存在に関連付けられる動作を行っていることが示されています。彼は悲しむ、話す、教える、思い出させる、決断する、怒るなど、個人にのみ関連付けられる動詞を使用しています。 聖書はまた、私たちが彼に対して嘘をつくことが可能であること、彼が人間の言葉や計画を禁じたり回避したりできること、彼がすべてを知っていること、霊的な賜物を分配し、私たちを助け、私たちのためにとりなしていること、彼が思考を持っていること、私たちが子供であることを私たちに証しします。 聖霊を神の父やイエスから分離することはできません。彼らは異なる現れを持つ一つです。• 彼は全知です(すべてを知っています) コリント人への手紙一書 2:9-10 「しかし、聖書にあるとおり、『目は見ず、耳は聞かず、人の心にも思い浮かばないような、神が愛する者たちのために用意されているものは、何一つ人には明らかにならなかった。しかし、神は聖霊によってそれを私たちに啓示してくださった。なぜなら、聖霊はすべてのことを探り、神の深みも見通すからです』」 • 彼は普遍的に存在します(すべての場所にいます) 詩篇 139:7-10 「私はあなたの霊がいない所に逃げられません。あなたの前からどこへ逃げることができましょうか?もし天に上っても、あなたの前にいます。もし深淵に寝床を作っても、あなたもそこにいます。もし夜明けの翼をとり、海の果てにとどまっても、あなたの手が私を導き、あなたの右手が私をつかまえるでしょう」 […]
神を知る
本当に私達は神を知ることができるのでしょうか。 私達は霊によって神を知ることができます。 霊的なものは霊によって識別されます。 人間は自然な考えや五感で神を知るのは不可能です。 わたしたちには、神が “霊” によってそのことを明らかに示してくださいました。 神の霊以外に神のことを知る者はいません。 わたしたちは、この世の霊ではなく、神からの霊を受けました。 それでわたしたちは神から恵みとして 与えられたものを知るようになったのです。 神は無限大であり、どんな生き物であっても神を完全に知ることは不可能です。 しかし、彼自身が自ら自分を表しているのです。彼の御言葉によって私たちは神を可能な限り知ることができます。 しかし、どうして神を知ることが重要なのでしょうか。 神様ご自身が全ての人に知ってもらいたいからです!歴史を通して神様は様々無方法で人間に自分を明らかにしようしました。(使徒14:17、ローマ1:19−20をご参照ください) 神は皆が彼を知ることができるように意図的に御言葉を残しました。神は私たちとかくれんぼで遊んでいるのではなく、彼の目的は自分の存在、性質、力を私たちが理解してほしいのです。 私達が神を知るとき、過ちに誘導する論証や言葉に惑わされ なくなります。真実を知ると、偽りの道から反れて正しい教えに 留まることができます。 しかしながら、御言葉の真理を知らな […]
休む力
イザヤ書 32:17―18 正義は平和を生じ、正義の結ぶ実はとこしえの平安と信頼である。 わが民は平和の家におり、安らかなすみかにおり、静かな休み所におる。 私たちは平安が溢れている生活を送っていますか? 聖書では、私たちがが平和に生きることが可能であることを教えてくれています。 では、平和とは何でしょうか。 小さい頃から私は「日本は平和を大切にする国だよ」ということを聞いていました。戦争に負けた日本は、戦争の恐怖を覚え、軍隊を持たない国となりました。 学校で「戦争がないイコール平和ではなく、みなさんがご飯を食べ、学校へ通い、安全が保障されている社会も平和なのですよ」と繰り返して言っているのを聞きました。 では神様がイザヤ書で言っている『平和』とは果たしてどうのような平和なのでしょうか。 そのためには、まず、神の平和は、すでに私たちのものであることを理解する必要があります。 ヨハネ14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。 「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。」この箇所の前半部分では、平安を理解するためのとても大切な鍵を残しています。 イエスにはどのような平安があったのでしょうか。 マルコ4:35-39 さてその日、夕方になると、イエスは弟子たちに、「向こう岸へ渡ろう」と言われた。 そこで、彼らは群衆をあとに残し、イエスが舟に乗っておられるまま、乗り出した。ほかの舟も一緒に行った。 すると、激しい突風が起り、波が舟の中に打ち込んできて、舟に満ちそうになった。 ところが、イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた。そこで、弟子たちはイエスをおこして、「先生、わたしどもがおぼれ死んでも、おかまいにならないのですか」と言った。 イエスは起きあがって風をしかり、海にむかって、「静まれ、黙れ」と言われると、風はやんで、大なぎになった。 これはとても有名な聖書箇所です。弟子たちは大変恐れていましたが、イエスは、嵐の中でも何事もなかったかのように寝ていました。私たちは、どんな状況に陥っても、休むことが可能なのです。そのような平安をイエスは残してくれました。弟子たちも、その平安の力を知っていました。 […]
成功する
「成功する」大学に入った今、よく耳にする言葉となっています。ビジネスで成功する、スポーツで成功する、人生で成功するなど大変よく耳にします。さて、「成功」とは!?ってなりませんか?成功の定義は何なのか?成功するにはどうしたら良いのか?クリスチャンにとっての成功とはどんな事なのか?というような様々な疑問が湧きます。これらの質問に対する答えはあるのか?「成功とは失敗から失敗へと情熱を失う事なしに渡り歩む事である。」イギリスの元首相、戦争英雄 ウインストン・チャーチルの名言私が最初にこの名言読んだ時に思ったことは、成功と失敗って同じ文章に使えるか?でした。成功に失敗はない、もちろん『失敗から学べ』の表現は何回も耳にしたことがあります。しかし、自分はその言葉は嘘だと言わないが、達成するには大変難しいと思っています。文字が発明された時代から、人間の失敗は記録されてきました。現代ではインターネットに何かを投稿すると、永遠に消えないものとなります。周りの人はあなとの失敗を言いつけます。あなたの家族、友人、または、仕事の同僚などはあなたが犯した失敗を覚えています。そこで終わるかもしれないが、このような事は決して嬉しい事とは言えません。。。だが、実際は最もあなたの失敗を覚えているのはあなた自身なのです。失敗から学ぶどころか逆に泥沼に嵌められる事になってしまうのです。この泥沼から立ち上がって飛び跳ねることこそが成功するという事なのです。残念ながらクリスチャンの多くには罪の意識がまだ強く残っています。自分はまだ罪人だと思っているのです。イエスを救い主として告白した者が救われ、また、義人とされた事を把握する事はとても重要なことである。私はダビデがとても好きです。彼について考えたことはありますか?イスラエルの最も有名な王様、巨人ゴリアテを倒した男です。そんな彼には信じられないほどの重罪を犯しました。そして父親としても何回も大きな失敗をしました。それでも私たちは彼を尊敬し、また目標にもしているのです。なぜでしょう?彼には、『跳ねる力』がありました。神の赦しを求め、そして自分を許したからです。神から愛されて、また義人とされたことを頭だけではなく心に入れるようにしましょう。あなたの成功を最も願っている方は神様なのです。