クリスチャンが今真剣に考えるべき重要なテーマがあります。それは「権威」、特に神の権威についてです。すべての人は、「自分の人生を神の支配にゆだねるかどうか」という根本的な問いに向き合わなくてはなりません。ときどきクリスチャンは、世の人々が神の基準や戒めを尊重しないことに驚くようですが、それは本当に驚くべきことなのでしょうか。
ローマ8:7にはこう書かれています。
ローマ8:7
「肉の思いは神に敵対し、神の律法に従わない。それどころか従うこともできない。」
コロサイ1:21でも、パウロは私たちが神と和解する前、「悪い行いによって心において神に敵対していた」と言っています。
神の権威を拒む姿勢には非常にはっきりとしたものがあります。ダビデは詩篇2:2–3でこう言っています。
詩篇2:2–3
「地の王たちは立ち構え、支配者たちは結束して主とその油そそがれた者に逆らって言う。『彼らのかせを断ち、彼らの綱を解き捨てよう。』」
NLT訳では3節を「『束縛を断ち切って、神から自由になろう!』と彼らは叫ぶ。」と訳されています。
神の御心に従うこと、神の働きかけに身をゆだねることを、奴隷のようなものと誤解してしまう。大きな勘違いですね。サタンと罪の支配のほうが、宇宙の創造主である神とのいのちに満ちた自由な関係よりも良いと思うとは、どれほど大きな勘違いでしょうか。
イエスはルカ19:12-14の例えの中で、神の権威を拒む者について語られました。
ルカ19:12-14
「ある貴族が王位を受けるために遠くへ行くことになった…しかし、彼の国民は彼を憎み、『この人を私たちの王にしたくない』と使者を送った。」
イエスは、歴史を通して、そして今も人々が神の権威を拒み続けていることを示していました。同じようににペテロも、「高慢で横柄な者は、権威を侮る」(2ペテロ2:10)と言っています。
士師記の時代、ミカ(後の預言者とは別)は、自分のための聖所やエポデや家の偶像を作り、息子を祭司にしました。聖書ではその背景をこう書いています。
士師記17:5–6
「そのころ、イスラエルには王がなく、だれもが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」
ミカの姿は、現代社会にもよく当てはまるように感じます。
今日、多くの人が自分の好みに合わせた“神”をつくり、本当の神を拒もうとしています。悔い改めを求めず、罪を戒めない“神像”を求めるのです。MSG訳は、「人々はただ自分が好きなように行動していた」と訳しています。
箴言には、神の権威を拒む者の行く末が描かれています。
- 「愚かな者は罪をあざける。」(14:9)
- 「人にはまっすぐに見える道がある。その終わりは死に至る道である。」(14:12)
- 「幻(神の示し)がなければ民はほしいままにふるまう。律法を守る者は幸いである。」(29:18)
ノンクリスチャンが神の御心に従わないことは当然ですが、ではクリスチャンはどうでしょうか。自分で基準を決め、自分の感情や思いつきに支配されて生きるとしたら? 救いを受けることはゴールではなく、イエスの主権に自分を明け渡すことが求められているのです。
イエスを受け入れたと言いながら、その主権には従わない。そんな人がいるでしょうか? パウロはピリピ3:18-19でこのように強く警告しています。
ピリピ3:18-19
「彼らの行いは、実際にはキリストの十字架の敵なのです。彼らの神は自分の欲望であり、恥ずべきことを誇り、地上のことだけを考えているのです。」
ヤコブはさらに厳しい態度を示します。
「あなたがたは神に対して不誠実です…自分の欲を追い求めているなら、神の敵になります。」(ヤコブ4:4–5)
「救い主としてのイエスは受け入れるが、主としては拒む」そのようなキリスト教は新約聖書には存在しません。イエスはこう言われました。
「なぜわたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか。」(ルカ6:46)
アブラハム・カイパーはこう述べています。
「イエス・キリストが『これは私のものだ』と言われない人生の領域は一つもない。」
では、人生のどの部分なら神を無視できるのでしょうか?
財政? 道徳? 倫理? 行動? 人への接し方?どれも自分勝手に決めもいい領域ではありません。
歴史の中で、多くのクリスチャンリーダーが同じことを警告してきました。
D.L.ムーディー
「神は分裂した心を受け入れない。心に二つの王座を置くことはできない。」
A.W.トーザー
「聖霊の導きを再び求める時が来た。人間の支配は代償を払いすぎた。」
エイドリアン・ロジャース
「キリスト教はビュッフェではない。救いだけ選んで主権を拒むことはできない。」
エリザベス・エリオット
「意志と感情がキリストの権威のもとに置かれて初めて、本当の主権が理解できる。」
A.W.トーザー(別の引用)
「キリストの主権は賛美歌だけの理論ではない。教会と信者の生活の細部にまで及ぶ真理である。」
W.T.リチャードソン
「聖人を特徴づけるのは“完璧さ”ではなく“献身”である。」
F.B.マイヤー
「キリストは私たちのすべての代価を血で払われたが、私たちはその価値に見合う献身を返していない。」
しかし、これらすべてを言った上で、忘れてはならない大切な点があります。
それは、神は愛をもって、私たちを神の主権へと招かれるということです。
神は力づくで支配するのではなく、愛で呼び寄せてくださいます。
若い信仰者が全身を献げても、その献身は信仰生活の歩みの中で何度も深められ、確認されていくものです。クリスチャンは、主権への献身を定期的に思い起こし、自分の心をチェックする必要があります。
使徒ヨハネは第一の手紙の最後をこう結んでいます。
「子どもたちよ、自分を偶像から守りなさい。」(1ヨハネ5:21)
アイザック・ウォッツは1707年に「栄えの主イエスの」を書き、その最後にこう歌いました。
「ああ主の恵みに、報ゆる術なし ただわが身と魂とを献げてぬかずく」
主の祈りの中の
「御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように」(マタイ6:10)
これは、神の支配が自分の心に実現するよう求める祈りです。
トミー・テニーは「『御国が来ますように』と本気で祈る前に、『私の王国が去りますように』と祈らなければならない。」と言いました
どうか、神があなたに与えたご計画のすべてを実現し、人生のすべてを神にゆだね、献身し、降服し、完全に信頼する中で、最大の満たしを見いだすことができますように。