優柔不断な人はどこにも行かない

最近、教会で今の世代の気になる点をいくつか説教で分かち合っています。もちろん、私の目的は人を責めているわけではありません。むしろ、今の世代はどこでうまくいっていないのをみことばの時点から探っていくことにより、私たちが反省し、聖書の原則どおりに行き、神様に喜ばせる人生を送ることができるからです。

まず、私たちが理解しなければならないのは、信仰なしで神様を喜ばすことができないということです。

へブル 11:6

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

つまり、信仰は、クリスチャンのライフスタイルということです。そして、信仰に歩む人は、神様に信頼する人であり、当然、超自然的な現れをも信じる人です。なので、信仰のライフスタイルとして、多くの場合、私たちは、何も見えなく、また、何も起きていないように感じるかもしれませんが、私たちが信じていることが必ず、実現される確信を持つでしょう。

私たちは、自然の目で神様を見ることができませんが、心の中で神様が存在していることを確信することはできます。同じように、神様のみことばに書いてある全ての約束に対しても、同じ信仰をもち、神様が約束してくださったことを全て守ってくださる確信を持つことができます。

また、私たちは与えられた信仰で、救いを得るだけではなく、人生で必要としていること、また、望んでいることを手に入れることができます。要するに、私が行うどのようなことでも、信仰によるものでなければならないということです。さらに、もし、私たちが行うことが信仰によるものではない場合、それは罪とされると聖書に書かれています。

ローマ 14:23

信仰から出ていないことは、みな罪です。

しかし、自身の信仰を放つには、一つ重要なポイントがあります。信仰は適当なものではありません。何でもいいわけではありません。自身の信仰が十分に働くにははっきりした目的地が必要です。たとえば、マルコ5章24節以降には12年の間で長血でわずらっていた女性の話が記録されています。その女性ははっきり何を望んでいるか言葉で表していました。

マルコ 5:28

「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と言っていたからである。

原本を確認すれば、その女性はそれを一回だけ言ったのではないことに気付きます。むしろ、常に自分にそれを口で言っていたのを聖書に記されています。ここで注目してほしいのは、その女性は何を望んでいたかがはっきりしていたことです。そして、その目的地に自身の信仰を放ちました。体の症状がどうであろうと、悪化していようとも、その女性の信仰は変わらず、自分の癒しを獲得しました。

たまに、クリスチャンの祈りを聞くときに、彼らはこう祈っているのを聞きます。「主よ。全ての人類が救われるように祈ります」。もちろん、その信徒は、最善な動機で祈っていると思いますが、その祈りは聖書的ではなく、信仰による祈りではありません。まず、救いに関して、神様は既に全人類の救いを、イエスの十字架によってはぎ取ってくださいました。次に、人が救われるように、私たちが福音を伝える必要があることです。いくら祈っていても、福音を伝えなければ、救いを受ける信仰は人の心に生じしません(参照:ローマ10:13以降)しかし、私たちは、自分の周りの特定した人のためにとりなし祈りすることができます。

もっと分かりやすくするために、こう考えたいと思います。あなたは神様に携帯電話を祈り求めるとします。しかし、現在、携帯には様々な種類があります。もし、あなたは自分が望んでいる携帯を特定しないまま祈り、どの携帯がきても満足するでしょうか。あいにく、多くのクリスチャンの祈りが聞かれないのは、彼らは幅広く祈りますが、正直に考えたら、彼らが祈っている課題が現実となるとは信じていません。また、彼らはいつも自分の祈りの目的を変更したりし、自分の祈りが聞かれるかどうか測定することができません。しかし、本当の信仰は必ず自分が求めたことが現実となることを信じ、状況によって動揺や変わることがありません。

ヤコブ 1:5-8

あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。疑う人は、風に吹かれて揺れ動く、海の大波のようです。そういう人は、主から何かをいただけると思ってはなりません。そういうのは、二心のある人で、その歩む道のすべてに安定を欠いた人です。

ところが、今の世代は優柔不断な世代になってきています。根本から自分自身のアイデンティティーに対してすら確信も失っています。自分が男か女なのか、定義することもできなくなってきており、そのせいで、自殺している人も多くいます。また、何が真実なのかが分からなくなってきており、自分が成長するためのしっかりした土台がなく、この世の動きによって吹かれて揺れ動いています。しかし、私たちが必要としているのは、しっかりした信仰の土台です。私たちが安定できる生き生きした信仰です。ですから、私たちはこの世の流行りに合わせようとしてはいけないと思います。この世の人はどこへ向かっているのかすら、分からないからです。そして、自分のアクションでどういう結果をもたらすかも全く分かりません。何でも推測ばかりです。なので、彼らは毎日将来のことで心配したり、周りの人にどう評価されるのか悩みます。

幸いに、神様のみことばに信頼を置いている私たちは、自分の将来は何なのかを知り、安息することができます。また、私たちはキリストにあってどのアイデンティティーを持っているかをも知ることができ、私たちが創造された目的のために生き、時間を一切無駄にしません。なので、優柔不断な人にならず、みことばの中にあなたはだれなのかを知ってください。そして、超自然的な現れをもたらす、楽しい信仰のライフスタイルを生きてください。あなたは、この世界における人生だけを生きるために創造されていません。あなたは永遠のために生きています。

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