生きている間はすべてのものは、通り過ぎます。
あなたは今どんな境遇にあっているかはわかりませんが、あなたに伝えたいことがあります。
あなたは独りではない!
イエスはあなたと共にいて、すべて通り過ぎます。
季節が変わるとより実感できるのではないでしょうか?
寒い冬が終わり、暖かくなっていくにつれ、花が咲き、私たちの気分も違ってきますね。桜を見ていると私はそう思います。
神様はどんなに些細なことでも見ている御方です。
何度見ても、毎年桜は違うし、花びらも色もすべて新しくされています。
どんなにつらい冬が来ようとも、私たちの目ではどんなにその木が枯れていようとも、耐えて、正しい時期になれば実が実り、私たちに喜びを与えます。
「暖かくなってきたからお散歩しよう」「桜の下で写真を撮ろう」「空はなんてきれいなんだ」と思うのではないでしょうか?
なので、心配せず、不安がらずに信仰をもって前進してください。そして、どんな境遇であろうと確信してください。それはとどまることも永遠でもありません!
どんな逆風が吹こうと、私たちはただ通っているだけです!すべて通り過ぎます!!
ですが、季節が変わったからこれを書いてるわけではありません。
4月は私たちクリスチャンは復活祭をお祝いします。
原本をみると復活祭という言葉ではなく、「パスハ」であり、「過越(すぎこし)」の意味を持ちます。これは天からのメッセージであり、私たちを慰めてくれる言葉です。
過ぎ去るという意味です。
痛みも、苦しみも、不安も、恐れも、病気も、辛いことも。。すべては過ぎ去ります。
過越のメッセージはヘブライの民が奴隷から自由にされたことです。
私たちクリスチャンはイエス・キリストは私たちの過越であり、私たちを死から救ってくれ、命を与えてくれたことです。なので、復活祭と呼びます。
主は私たちを見捨ててはいない、独りにされていない!復活祭は十字架のメッセージを伝えます。
十字架で働いた力があってこそ、今日私たちがいます。十字架で起こった業があるからこそ、今日、キリストを生きることができるのです。
ヨハネの福音書19章28~30節
この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って、聖書が成就するために、「わたしは渇く」と言われた。そこには酸いぶどう酒がいっぱい入った入れ物が置いてあった。そこで彼らは、酸いぶどう酒を含んだ海綿をヒソプの枝につけて、それをイエスの口もとに差し出した。イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
これをみると、「完了した」という言葉はこの世でのミッションは終わったという解釈をする人もいれば、他の人は、「やるべきことはすべてやった!もう私にできることはない」と解釈する人もいます。だが、このことばには深い意味があり、力強い意味です。
ガラテヤ人の手紙3章13~14節
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。
十字架で何か起こったのかを見ることができますか?贖いとは死んだ後の行き先を言っているだけではなく、この地で生きている限りどんなものからも自由にされたということです。
律法ののろいを理解しなければ、この贖いの偉大さを見ることができません。
(呪いに関して触れないので、各自読んでみてください。。 申命記28章1節からは祝福をいい、15節から呪いについて語っています。どんな呪いからでも自由にされました。死からだけではなく、病気や霊的死からも自由にされました!なので、どんなことが来ようと、私たちの人生に何の権利もありません!!)
イエスが死んだ日はヘブライの民が自由にされた日です。
詩編105章37節
主は銀と金とを持たせて御民を連れ出された。その部族の中でよろける者はひとりもなかった。
出エジプト記3章21節
わたしは、エジプトがこの民に好意を持つようにする。あなたがたは出て行くとき、何も持たずに出て行ってはならない。
出エジプト記12章35~37節
イスラエル人はモーセのことばどおりに行い、エジプトから銀の飾り、金の飾り、それに着物を求めた。主がエジプトがこの民に好意を持つようにされたので、エジプトは彼らの願いを聞き入れた。こうして、彼らはエジプトからはぎ取った。イスラエル人はラメセスから、ステコに向かって旅立った。幼子を除いて、徒歩の壮年の男子は約六十万人。
これらの聖書箇所をみると、私たちは好意をもつようにされたとあります。
経験したことありますか?行くところどこでも、子どもから微笑まれ、窓口の方がすごく優しかったり、仕事や他のあらゆる場面でも助けられたりします。私たちが相応しいからではなく、イエスが十字架で贖いの業を働いたからです。
まわりがどんな不況であろうと、神様を信じる者には栄えがあるのです。
「完了された」→「シャローム」という言葉です。シャロームの意味は単なる「平和」・「戦争がない」だけではありません。とても深い意味を持っているのです。クリスチャンの間のただの挨拶だけではなく、シャロームの意味は簡単に言うと、「完全な状態」を意味します。精神的、物質的、人格的、対人的な場面で、何かが欠けておらず完結している様子です。
兄弟にその言葉で挨拶するとあなたにこのすべてがありますように願うということです。
(聖書に使われているシャロームという言葉を調べてみてください!!あらゆる場面に対して書かれています。経済的場面も、健康的場面もすべて含まれています。)
このメッセージを理解すれば、十字架を見てイエスの「完了した」の意味がわかります。「家族が完全な状態であるためにすべて果たした」と言っているのです。「あなたたちが通らなくてもいいように、あなたの代わりにその道を過越した」と語っているのです。あなたたちが調和を持ち生きるために、十字架ですべてが成就されました。
この十字架であなたが充実でき、健康、繁栄があり、喜びがあります。私たちには、主の贖いがあるので、私たちに欠けているものがあるとは言えないのです。
なぜなら、イエスによって私たちは完全となっているからです。「完了した」・「シャローム」これが私たちの過越しです。
ヘブライの民の初めの過越しもイエスとの初めの復活祭も困難の時期を生きていました。
当たり前に聞こえるかもしれませんが、(先ほど読んだヨハネ)19章のあとに20章が来ます。
十字架にかけられた章の後に復活の章が来ます。困難のあとには必ず過越の道、通り抜けられる道があるのです。私たちの神様はあらゆる場面に対して逆転を起こす御方です。
私自身も、魂が状況に対して「もう無理だ!」「もう何も出来ない」といいますが、主はこういう場面で、「あなたの力ではなく、私の力を見ることになる」というのです。
人々が聞いたイエスの「完了した」は「もうおしまい、すべては滅んだ」と思っていましたが、その終わりではなくて、神は「これは終わりじゃない。新しい始まりなのだ!」と語ります。
私たちの過越は既に果たされたのです。なので、聖書は保証してくれます。すべては通り過ぎるのです。
ヨハネの福音書20章11節で、マリアは泣いていました。復活の際に、その前に泣くことが起こるのかもしれない、もしかしたらあなたはその時期に遭遇しているのかもしれません。続けて読むと、主は「どうして泣くのか」と聞きました。多くの人はイエスを見ていますが、イエスであると認識していません。
どうして世の中を見ているのでしょうか?あなたの問題の解決はそこにはありません!イエスは復活しました!主は生きているのです!!この事実を受け入れ、生きてください!!
20章22節では、「シャローム」と言って神の御霊を弟子たちに息を吹きかけてくれたのです。なので、あらゆる場面に対して備えてくれたのです!
悪の支配から自由にされ、古い自分から解放されました。もう自分ではなくイエスが用意された道を生きることができるのです。どんなものであろうと通り過ぎることができます。主が既に勝ち取ってくれたからです。
ですから、私たちの人生に20章があることを宣言します。
復活の章、これがあなたにとって、新しい始まりであり、栄えますように!